第6話 助けて、ニーニ
腹が減りすぎると、感覚が麻痺するんだと初めて知った。でも、喉の渇きはどうにもならない。ネズミのせいで水差しを倒してしまい、飲み水が無くなってしまった。
リオネルは固いベッドに寝転んで、蜘蛛の巣が這った石造りの天井を眺めていた。小さな格子窓からは、夕焼けの暗い光が差し込んでいる。このまま、僕はここで惨めったらしく死ぬのだろう。
呪ってやる。王子である僕をこんな目に遭わせた民を、ヴァルクを。この国が滅びるまで永遠に呪ってやる。
足音が石段を登ってくる気配に気づいて、リオネルはハッとベッドから飛び起きた。鉄扉がノックされる。ここに閉じ込められて誰かにノックされるのは、初めてのことだ。
「殿下。入りますよ」
ヴァルクの声。王家を裏切った諸悪の根源。
リオネルはベッドから降りると、扉へ向かった。よくもぬけぬけと自分のところに顔を出せたものだ。扉を開けたが最後、突き飛ばして殴って、ここから逃げてやる。
カチャカチャと鍵が外される音がして、キィ…と小さく扉が開く。
今だ!
「うわああっ」
リオネルは気合いの声を張り上げ、ヴァルクに突進した。ヴァルクにみっともなく尻餅を突かせ、その隙に馬乗りになって殴る――はずが、元騎士の男はビクともしなかった。ぶつかった反動でみっともなく尻餅をついたのは、リオネルのほうだった。
「大丈夫ですか」
「い……痛い、背中とお尻を打った」
「いきなり走るからです」
ヴァルクは部屋の中に入ってくると、オイルランプを机に置いた。水差しの注ぎ口のような細長い先端に油を吸い上げる紐状の芯が通され、そこから小さな炎が静かに揺れている。それから数冊の本を起こうとして、濡れた机に目をやった。
「水差しを倒したんですか?」
「ネズミが倒したんだ。看守に、この部屋を掃除をして紅茶と菓子を持ってくるよう何度も命じたのに……無視される」
リオネルは水差しが倒れたのは自分のせいじゃないこと、この部屋はネズミが出るような悪い環境だということ、命令を無視する兵士の態度の悪さを強調したつもりだった。しかしヴァルクは何も気にした様子もなくハンカチで軽く机を拭き、その上に本を置いた。
「退屈でしょうから、書庫から適当な本を持って来ました。読書がお好きだったでしょう」
「本なんかより、飲み物と食事だ。空腹で死にそうなんだ」
「食事が出ていない?」
「そうだよ! 朝からずっとだ!」
不当な扱いをことさらに訴える。ヴァルクはようやく「そうですか」と考えるように相槌を打った。
「出すように言っておいたんですが……。わかりました。あとで水と一緒に持って来ます」
「本当かっ?」
餓死させられるのかもと思っていたので、そうじゃないとわかってリオネルは安堵し、喜んだ。打った腰を擦りながら起き上がり、ベッドに腰掛ける。
「あの失礼な看守も、よく罰しておいてくれ。あれは平民だろう? もといた近衛兵達はどうした?」
「いますよ。一般兵はほぼ俺達側に寝返ってます。彼らは平民ですからね。他は騎士達も含め、剣を放り出して逃げました」
「嘘をつくな。誇り高き騎士が、無法者達相手に逃げ出すもんか」
「守りたい主君がいなかったんでしょう」
「でも、父上がいるのに……っ」
思わず呟くと、ヴァルクは「へえ」と関心したように呟いた。
「自分がいるのに、とは言わないんですね」
「う……うるさいっ、黙れ! 身の程を知らない平民がっ」
「身の程を知らないのは、あなたでしょう。あなたは国の秩序を乱した国家反逆罪により幽閉されている身です。民は死刑を望んでいますが、そうしてほしいですか?」
「僕は普通に暮らしていただけだ。それに、王族を裁く法なんかない」
別に民を虐殺したわけでも、異国に領土を売っぱらったわけでもない。そもそもレア王国はアイゼン一族が創り上げた国であり、住まわせてやっている民に殺される理由なんかないはずだった。
「僕には建国者たる初代王の血が流れている。何人にも侵されることのない高貴な血だ。そして僕は王太子だ。僕がいる場所が国になるというのに、死刑にするなんてどうかしている」
「本気でそう思ってるんですか?」
ヴァルクの物腰は穏やかだったが、目は鋭かった。リオネルはたじろいだ。
「きょ……脅迫されても、僕は折れないぞ。僕には王家としての誇りがある。僕は何も悪くないし、おまえ達のような下賤の者達に僕を罰する権利はない! それが世の理だ」
ヴァルクは不遜にも腕を組み、気怠そうに石壁にもたれた。しばらく考えるように黙り込んでいたが、やがて「いつから…」と呟いた。
「あなたがそうも平民を見下すようになったのは、いつからですか」
「いつからも何もない。生まれた時から血が違うのだからな」
「支配層を世襲制にすることで、社会の混乱を避ける。その考えは理解できます。しかし陛下は、平民でも能力のある者は新たに取り立てて来られました。平民だからと馬鹿にしたり、下賤と罵ることもなかった。あなたもそうだったはずでは?」
確かに父は、そういうところが甘かった。身分が低い者でも平気で高位の役職に就けたりするから、貴族達からの反感を買うことも多かった。だから、リオネルはそんな間違いを避けてきた。政治の要となる人材は、名家出身の貴族だけで構成した。
「国を統治するべき者は神によって選ばれ、ふさわしい者が王族や貴族に生まれるんだ。平民に生まれたということは、それが運命ということだ。父上が病に倒れたのは、神が定められた運命を歪めようとしてしまったせいだよ。僕はああはなりたくない」
「バカな……! 陛下の病は天罰だとでも言うんですかっ。民を公平に扱ったからだと!?」
いきなりヴァルクが怒鳴ったので、リオネルは竦み上がった。「だって」と弱々しい声が漏れる。
「だって……ニーニがそう言ってたんだもん……」
「ニーニ?」
「ディオニーだよ。そう呼んでるんだ。父上が倒れてから、ずっと親代わりだったから」
「……王女殿下は、そう呼んでいませんでしたが」
「妹はニーニのことが苦手なんだ。怖いんだって。あんなに優しいのに」
人見知りが強く臆病な妹は、父と兄以外の男性を怖がるところがあった。ともあれ、ディオニーは捕まっていないと聞いている。きっとすぐにでも兵を率いて、自分達を救出しに来てくれるに違いない。
ヴァルクは小さく失笑した。
「優しい? 家族みたいなあなたを、置いて逃げるような男が?」
「きっとそうするしかなかったんだ。あまりに突然だったから」
「暴動そのものは、何日も前から激化していました」
「そうなのか? でも、王城にいたらわからないから……」
きっとディオニーも、暴動に気づいていなかったに違いない。高い城壁の向こうの世界は、リオネルにとって未知そのものだった。もちろん民が貧困に怒っているという話は貴族達から耳にしていたけど、民が文句をいうのはいつの世でもあることで、気にするほどのことじゃないと思っていた。
「……呆れますね。無関心にも程がある」
ヴァルクが、冷たく怒りを孕んだ声で言った。
「俺が騎士をやめたのは、貴族の屋敷からパンを盗んだ老人を殺せと――上官に命じられたからです。その老人は二日も何も食べていなかった。俺は逆らい、その人を抱えて逃げました。指名手配されて一週間後に、両親は見せしめのために処刑されました。ほんの三年前です」
想像もしていなかった悲惨な話に、リオネルは狼狽えた。いくら相手が平民だからといって、食べ物がなければ死んでしまう。それを処刑するなんて、しかも命令に逆らったからといって関係のない人まで殺すなんて、あってはならないことだ。
「そ、そんなの知らない。知ってたら僕だって」
「あなたは知ろうとしなかったんだ。俺に起こったことなんて、この国ではよくあることの一つだ。街にはあなたに不満を抱く者は山ほどいたし、すでに反乱を企む大きなグループがいくつかできていた。俺はその一つに加わって、すべてのグループをまとめただけに過ぎません。俺がいなくったって、必ず革命は起こったでしょう」
ヴァルクは苛立ったように言うと、鉄扉へ足を向けた。
「死なれては困るので水は持ってきますが、食事は二日後で構いませんよね。少しでも飢えに苦しんだ民の気持ちを味わってください。……大丈夫、あなたほど脂肪を蓄えていれば、一週間は元気に過ごせますよ」
「ちょ、ちょっと待ってくれ。僕は――」
何もしてない。悪くない。けれどそう訴える前に、ヴァルクが鳶色の双眸で睨んできた。殺気すら感じる鋭さに、言葉が喉の奥で引っ込んだ。
「民は皆、あなたに助けを求めていたのに」
バァンッと荒々しく鉄扉が閉められ、施錠される。リオネルは呆然と扉を眺めた。
「……そんなこと言われたって」
知らなかったんだから、しょうがないじゃないか。
そう言いたかったが、自分でも言い訳がましく思えた。知ろうとしなかったのは、事実だ。何もかもがうまくいっていると信じていた。自分が幸せなら、皆も幸せなように思っていた。
ふと、机に置かれた本が目に入る。子供の頃に何度も読み返した“クリストバルの航海日記”だ。半世紀前に実在した探検家であり航海士で、彼が身一つであちこちの海を渡った冒険記は、スリルと驚きに満ちており、とてもわくわくしたものだ。
でも子供向けの伝記だ。適当に選んだと言っていたけど、適当すぎるだろうと思う。それから聖書。読んで心を入れ替えろとでも言いたいのだろうか。それからもう一冊は、レア王国の歴史書だった。こんなもの、十歳の時に暗記している。父上がご健在だった時は後継者教育が厳しくて、毎日勉強ばかりだったからだ。
「はーぁ……」
結局、リオネルは“クリストバルの航海日記”を手に取って、ベッドに寝転がった。
「ニーニ、早く助けに来て……」
僕がどんなワガママを言っても、怒ったりしなかった優しいニーニ。父上の側近で、物心ついた頃からずっと傍にいてくれていた。灰色の髪を一つに束ね、目を細めて笑うディオニーを思い浮かべる。「大丈夫ですよ、殿下。すべてこのニーニにお任せください」――彼がそう言えば、安心して任せることができた。今頃、僕のことをとても心配しているに違いない。きっと、すぐに助けに来てくれる。
そう信じていた。
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