(2)避難民の少女

「何だ、誰もいないのか」

 ザイラフ副隊長は、顎の無精ひげを撫でつつ居住棟の広間を見渡した。元はログラムの大商人が別荘として建てさせた領主館風の建物が、マリト達パランディル隊の私生活の場だ。

「昨夜当直だった私と副隊長、フルグ以外は全員避難民の移送の手伝いです。非番だった馬鹿兄弟が来ているはずですが、奴らのことですから街道をひとっ走りすれば間に合うと多寡をくくって朝までログラムで遊び惚け、避難民と護送の帝国兵で埋め尽くされた街道を見て絶望しているでしょう……例の少女は暖炉のそばの長椅子で寝ていますから、起こさないようにしてください」

 マリトに言われて、副隊長は視線をマリトから謎の少女に向けた。長椅子の上に設えた臨時の寝台の上で、昨夜魔族軍の指揮官を見事な太刀筋で斬り伏せた少女が、静かに寝息を立てて横たわっている。マリトは彼女の寝顔を見下ろしつつ、独り言のように上官に感想を述べた。

「実を言うと、私も昨夜見たことが信じられません」

 マリトは、暖炉のそばに立てかけた剣――少女が手にしていた剣であり、昨夜魔族軍の指揮官を斬り倒した凶器――を横目で見た。

「リブルデインの指揮官の多くは剣の遣い手です。それを討ち倒すとなると、なまなかな腕では無理です……が、彼女はそれをやった。あれは素人が剣を振りまわして偶然生じた結果ではありません。狙い澄まされた恐るべき剣です」

 ザイラフ副隊長は、顎の無精ひげを指先でつまんで引き抜くと、視線を少女に向けたままマリトに尋ねた。「剣の腕については俺も同意見だ。しかし結局、この子は何者なんだ?」

「皆目不明です。分かっているのは、ノルダーレントの避難民の中にいたこと、服装は比較的裕福な身分の子女が身に付ける衣服だということくらいです。おそらくは商人の子だと思われますが、動き回ることを想定した身なりではないし、避難する間着替えていないらしく、服はところどころ破れて汚れています。そして何より――」

 マリトは暖炉に歩み寄ると、少女が持っていた東方剣を手に取った。「この剣です。ただの剣ではありません」

 マリトは剣を手にすると、東方剣への作法通り一礼してから鞘を払い、刀身を暖炉の火にかざした。副隊長も魅入られたように近づき、緩やかな曲線を描く刀身に目を細める。

「お前さんのと同じ東方剣か」

「はい。それも、相当な業物わざものです」

 マリトも目を細めて、炎に煌めく白銀の曲線を慎重に眺めた。二人とも、しばし無言で剣に見入っていたが、やがてザイラフ副隊長が長々と息を吐いた。どうやら呼吸するのも忘れていたらしい。

「見事な出来なのは俺でも分かるが、東方剣ってのはたいてい金持ちが物珍しさで集めるもんだって印象があるな。こいつは見た目だけじゃなくって、切れ味も抜群ってことか?」

「ええ、それは昨夜証明済みです。それに、単に鋭利というだけではありません。比較的肉厚の造りなのに、手にした時の落ち着きの良さが尋常ではありません。正しく持って構えれば、重みを全く感じさせない完璧な作りですよ」

 マリトは剣を構えると、軽く刃鳴りの音を立てて宙を斬って見せた。ほう、とザイラフは嘆声を放った。

「お前さんがそんなに褒めるとはな。で、そんな凄い剣を持ってリブルデインの指揮官を倒したこの娘さんは一体誰なんだ? その剣は手がかりになりそうか?」

 副隊長の質問に、マリトは剣を鞘に収めながら答えた。

「いいえ。むしろかえって謎が深まっただけですよ。彼女の手はご覧になりましたか?」

 ザイラフ副隊長がかぶりを振ると、マリトはそっと少女の白い手を取り、その掌を上官に見せた。

「マメができて潰れています。剣の修練を初めてまだ間もないのでしょうね」

「成程な。達人とも言える剣の遣い手なら、手に立派な剣ダコが出来てるはずだが……この子はとても剣客とは言えなそうだな」

 ザイラフ副隊長の言葉に、マリトは無言でうなずいた。副隊長は少し考えてから、いつものとおり思い切りよく指示を発した。

「よし分かった。マリト、お前さんは今日はここにいてその子を見ていてくれ。もし意識が戻ったら、無理のない範囲でいろいろ聞き出してくれねえか」

「それは構いませんが、副隊長に同行しなくて良いのですか?」マリトは形のいい眉を上げて上官を見た。「隊長代行と、昨夜の交戦の跡を検分する予定ですが」

「構わねえさ。フルグはもう寝てるし、お前さんが残らねえとその子を一人でここに残すことになっちまう。それにこれから馬鹿兄弟も来る――いや、もうとっくに来ていなきゃならねえはずなんだがな。あいつら馬鹿共がこの子をみたら、どんな反応をすると思う?」

「分かりました。この子をあの兄弟から守りますよ」

 マリトの言葉に苦笑した副隊長は、「午後には戻る。もし魔族の襲撃でもあったら信号火矢で知らせろ」と言い残して広間を出ていった。



 副隊長の馬の足音が遠ざかると、マリトは改めて長椅子に横たわるノルダーレントの少女を見下ろした。外傷はなく、おそらく疲労で寝ているだけだとは分かってはいたが、それでも昨夜彼女が見せた美麗にして凄絶な剣技と、今の無防備であどけない寝顔の落差がマリトの好奇心を刺激している。そしてそれ以上に惹かれるのは、彼女の剣だった。

 マリトは再び少女の剣を手にすると、仔細に観察し始めた。鞘は目立たない黒塗りで装飾の類は一切なく、彼女が帯びている東方剣とほぼ同じだ。柄には滑り止めの黒紐が丁寧に巻かれており、地味な中にも気品のようなものが見て取れる。

 だがやはり、マリトが最も魅了されたのは刀身だった。明るい場所で刀身を見たのはさっき副隊長の前で抜いた時だが、あの刃に浮き出た模様の美しさは武器ではなく芸術品のそれだ。マリトは鞘に収まった剣を手にしてしばらくその快い重みを味わっていたが、意を決して再び抜こうとした。

「んっ……」

 その時、長椅子の上の少女が小さく体をよじって吐息を漏らした。マリトはすぐに剣を元の場所に戻すと、寝台の脇の椅子に腰を下ろして少女の顔をそっと覗き込んだ。

「大丈夫か?」

 マリトの呼びかけに、少女のまぶたがわずかに反応した。暖炉の火と、窓から差し込んできた陽光が、薄く開きかけた目の上を照らして少女の意識を引き戻す。

「……あ、え……?」

マリトは少女の琥珀色の瞳をのぞき込みながら、静かに声を掛けた。「ここはファーレイン帝国領だ。君は魔族軍から逃げてきたのだが、ここなら安全だ」

少女はマリトの言葉を夢うつつといった表情で聞いていたが、徐々にその眼に意識が戻ってきた。マリトは枕元に用意していた水の入った錫のカップを彼女に差し出す。少女は両手でそれを受け取り、口に運ぶ前にマリトに向かって頭を下げた。

「助けていただいて、感謝いたします」

「大したことはしていない。まずは水を飲んで落ち着くといい」

 きちんと礼をしつけられた娘だ、とマリトは思いながら、少女が控えめな挙措で水を喉に流し込む様子を見守った。彼女が静かに、しかし一息に水を飲み干し終えるのを見計らって、マリトは最も基本的な情報を収集することにした。

「ここは帝国領の北端の小さな砦だ。『中立地帯』の南端、帝国自治都市のログラム市の北にある。私はこの砦に駐屯しているログラム市自警団のマリティア・パルナスという者だ。水をもう一杯いかがか?」

「お言葉に甘えて、もう一杯いただきます。私は……ノルダーレント王国の南にあるトルンロット市から逃げてまいりました、リリエラ・オルネットと申します」

「トルンロットから?」マリトは陶器の水差しからカップに水を注ぎ、リリエラと名乗る少女に手渡した。少女は水を数口飲むと、再びマリトに顔を向けたが、その表情はやや曇っている。

「はい。ご存知かもしれませんが、あの街は……」

「知っている。辛い記憶もあるだろうから、今は話さなくていい」

 トルンロットは、ノルダーレント王国の最南端にある商業都市で、三方を山に囲まれた同国の南の玄関口であり、この砦とは「中立地帯」を挟んでほぼ向かい合う位置にある都市だった。だった、というのは、同国のさらに北方にある魔族の国・リブルデインのノルダーレント侵攻により、つい五日前に魔族の手に落ちたからだ。

「あの街の住人の多くは、先月ノルダーレントの王都が陥落した時に避難したと思っていたが」

「はい。ですが父は……私の父は、逃げませんでした。王都から撤退してくる王国軍と共に魔族軍と戦うと言って……私は逃げるよう父に命じられましたが、私も父の役に立ちたいと言って、街に残りました。結局、王国軍が守りを固める前に街は魔族軍に襲撃され……」

 マリトは慰めの言葉を口に出しかかったが、必死に感情があふれそうになるのをこらえている少女の表情を見て、とっさに代わりの言葉を口にした。「お父君の役に立つ、というのは」マリトは視線を例の剣に移した。「その剣で?」

 リリエラはマリトの視線を追って、自身が帯びていた剣を目にしたが、その瞬間、はっと目を見開いた。今までその存在を忘れていて、突然思い出したような驚きの表情だ。

「見事な剣だが、あなたの剣か?」

「あ、はい」

 マリトの声に、我に返ったような表情で少女は答える。どうやら長年苦楽を共にしてきた愛刀というわけではないらしいと感じたマリトは、剣に伸ばしかけた手を引っ込めた。

「失礼とは思ったが、先程拝見させてもらった。私も東方剣を使うので、この剣が相当な業物わざものだということは分かる」ちらりとその剣を一瞥してから、リリエラに目を向けた。「どちらでこれを?」

「私の家に、昔からあったものです。トルンロットから逃げる時、この剣を手にして……」

 リリエラは言葉を切って、しばらく虚空を見つめていた。何かを思い出そうとしている様子だったが、続きの言葉は出てこない。少し心配になったマリトは、長椅子の端に腰を下ろして彼女の顔をのぞき込んだ。

「さっきも言ったが、無理に話さなくても……」

「あ、あの、パルナスさん!」

 突然、弾かれたように顔を上げたリリエラの目と、マリトの藍色の目が合った。

「マリトでいい。どうした?」

「あ、はい……あの、先ほどマリトさんは、東方剣を使うとおっしゃいましたか?」

「ああ。あれが私の差料だ」マリトは小さくうなずいて、広間のテーブルに立てかけていた自分の剣を目で指し示したが、内心警戒した。この少女は一体何を言おうとしているのか? リリエラは一瞬躊躇うように視線を落とし、すぐにまた顔を上げてマリトの目を見つめ返した。琥珀色の瞳に、決然とした光が宿っている。

「お願いです。私に、剣を……東方剣の遣い方を、教えてください!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る