第8話 融解
その日はいつものように、お風呂の後にセレスに髪を梳かしてもらっていた。
セレスの細長い指が私の髪をすり抜ける。
気持ちよさに目を細めながら考えていた。
セレスは私の過去を知っている。
あえてそれを訊かずにいてくれている。
――甘えている。
セレスは――たぶん、待ってくれている。
私が話す、その時を。
彼女に打ち明けるその時を。
私は――このままでいいのか。
そこまで考えていると、セレスがふふ、と笑った。
――ユーリの髪は美しいな。何と艶やかな黒だろう――
愛でるようにセレスは私の髪を掬い上げては眺めている。
初めて言われたことに対処できない。
ただ顔が熱くなっているのに気が付いた。
それを言うなら、と私も反論した。
セレスの光に透けるような金色の髪こそ美しいと。
そう言うと青い瞳以外すべてが赤くなるセレス。
慌てふためく様子に、やはりこの人はどこか可愛らしいと思った。
――む?な、なにがおかしいのだユーリ!――
照れ隠しに怒り始めるセレス。
そんな彼女と過ごすことが、私の心を軽くしていた。
その夜。
閨(ねや)に入ったまま、セレスの言葉に胸の鼓動が高鳴り、なかなか寝付けないでいた。
そっと自分の髪に手をやる。
『美しい』と形容された髪――
セレスの声が反芻される。
初めて、私自身を見てもらえた気がした。
誰かの代わりをずっと演じてきた『私』。
そこから救い出してくれた、まさしく騎士のようなセレス。
セレスの指が私の黒髪の間を通る感触を思い出すと――
顔が火照り、鼓動が速くなる。
妙に熱っぽいため息が出てしまう理由が分からず、
窓の外を眺めていた。
すると。
バリン!!
と大きな音を立てて窓が破られる。
何が起こったのか。
呆然としていると後ろから羽交い絞めにされ、口を塞がれた。
心臓が縮むのが分かる。
ドクドクと脈打つ。
物凄い力で締め付けられ、振り返ることもできなかった。
恐怖が襲い掛かる。
何を、されるのだ。
すると背後から恐ろしく低い声が聞こえた。
――領主様を……我々を陥れた者。やっと……やっと抜け出したぞ!
許さぬ……決してお前たちを許さぬ!――
――!!
戦慄した。
領主の、手のものだった。
セレスに訊いても詳しく教えてはくれなかった。
ただ、ユーリは心配するな、とだけ言われた。
だから安心していた。
もう二度と、『あんなこと』を求められることはない。
そう思っていたから。
だが。
私を――追ってきた。
身体が、動かなかった。
恐怖が私を支配し、思考を蝕みはじめていた。
背後の男の声が響く。
――我々を陥れた報いを受けさせてくれる!『肉壺』の分際で、よくも――
その言葉で蘇る、あの日々。
欲望のままに私を犯し続ける男たち。
それを見て、嘲笑する声。
ガタガタと震えはじめる。
ダメだ――『また』、始まってしまう。
力任せに寝巻を破られる。
露わになる素肌。
それを見て背後から舌なめずりが聞こえた。
――殺す前にもう一度お前の立場を分からせてやろう――
ニヤつく男の手が、私の身体を這う。
びくん、と大きく身体をくねらせる。
必死に堪える私に、男が耳元で囁く。
――そんなにあの女侯爵が心配か?ははは、無駄なことだ!今頃もう一人の刺客に殺されているところだろうよ!――
――!!!
目を見開き、硬直してしまう。
まさか――そんな、そんな……
停止した思考の中でセレスの姿が思い浮かぶ。
私に向けられる、あの笑顔。
それが――失われた、のか?
がくん、と力が入らず床に倒れてしまう。
呆然としている私をよそに、男が私の身体をまさぐりつづける。
――セレス、本当に…?――
しかし、心とは裏腹に、反応してしまう自分の身体を呪う。
どれだけ嫌がっても。
どれだけ逃げても。
どれだけ消そうとしても。
私は、どこまで行っても、やはり『肉の人形』のまま。
絶望しかけていると。
突如轟音が響き、部屋のドアが破壊される。
――ユーリ!!――
すると、私を見つけるなり、剣を構えたまま、俊敏な動きで駆け寄ってくるセレスの姿が見えた。
――ちぃ!しくじりやがったな!――
男が剣を取り私から離れる。
力が入らず伏せているとガキン!!と剣と剣がぶつかる金属音。
――ユーリ!に、逃げろ!!こいつは私が――
――は!男の俺に勝てるとでも思ってんのか!?馬鹿め!――
すさまじい剣の攻防に一歩も動けない。
セレスは、よく見ると方から血が滲んでいる。
けがをしている――!
徐々に押され始めるセレス。
それを見てにやつく男。
しかし一瞬の男の油断のスキを突き、セレスが男に一撃を入れた。
――ぐぅ!!し、しまった!――
がくん、と膝をつく男。
距離を取り身構えたままのセレス。
しかし。
再度剣を構えとどめを刺そうとすると、
男が急に私に向き直り剣を振り上げた。
――あ――!
剣先が私に向かってくるのが見えた。
セレスが大声を上げて逃げろ、といっているのも聞こえた。
男の血走った目が私を見据えている。
何をするつもりか、理解できた。
でも。
もういいよ、セレス。
私は、『また』汚れた。
ううん。汚れたまま、変わってなんかいなかった。
相変わらず、卑しい男娼で
どんなに私が嫌がっても
私の身体は知ってしまっているもの。
身体が勝手に期待してしまうもの。
私に、その目を向けられるのを。
だから、もう、いい。
いいんだ、これで。
それならいっそ、このまま――
目を閉じてその瞬間を、待った。
――ぐ、ぐぅ……!!!――
男が呻き声を上げて倒れる音がした。
肩で息をするセレスの呼吸音。
ビッ、と血を切り、剣をしまう音がする。
――助かった、のか――
顔を上げて部屋を見回す。
倒れ、血を流したまま動かない男。
絶命しているのだろう。
その傍らで膝をつき、血を流しながら荒い呼吸をしているセレス。
セレス、と呼びかけようとする。
すると。
セレスがものすごい形相でせまり
私を平手で殴りつけた。
パン!
乾いた音が響く。
ぐい、と両肩を掴まれ、その青い瞳で私を見てセレスが言った。
ひどく、哀しそうに。
――怒りを込めて。
――お前は、なぜさっき諦めた!逃げようとしなかった!躱そうとしなかった!
お前がいなくなると、悲しむ者がいることがなぜ分からない!――
肩の傷口を押え、苦しそうにしながらも私に話しかける。
肩を震わせ――その青い瞳から、大粒の、宝石のような涙がこぼれていく。
――助けが遅れて、すまなかった!もう少し、もう少し早ければ、お前がまた蹂躙されることも防げたかもしれぬ。だが――
嗚咽が混じり声に詰まる。
私の頬に落ちるその涙が、とても美しい――
――剣を振り下ろされる瞬間、お前は生きることを諦めたのだ!何故だユーリ!――
セレスの力が弱まり、泣き崩れる形になる。
――せっかく、お前とともに生きてきたのに……私とともに歩んでくれる者を見つけられたと思ったのに……お前自らが死を望むなど――
泣きながら私を見上げ、抱きしめられる。
ぎゅ、っと、力いっぱい抱きしめられる。
――いいか。ユーリ、そなたがどんな過去を背負っていようとも。どんな傷を負っていようとも。私は、他の誰でもない、ユーリという人間と共に、この人生を歩みたいと!そう思っていたのに!――
――でも……私は―
きれいじゃない。
そう言いかけると口を手で塞がれた。
――いいかユーリ。もう一度言う。よく聞け。『私は、どんなそなたでも関係なく、傍にいて欲しい』。ユーリでなければダメなんだ。ユーリがいなくなるなど、私は、私は――
私は――なんということをしたのか。
知っていたのに。
『残される』とはどういうことなのかを。
分かっていたはずなのに。
セレスが、私を大切に思っていてくれることは。
私自身の闇を――本性を見せたくなくて。
知られたくなくて。
知られると、見られると幻滅されると思ったから。
でも、違った。
セレスは、ちゃんと『私』だけを見てくれていた。
男娼だったこととか
そんなことは一切抜きにして
いつも、私を見てくれていたのに。
そんなセレスだから、
私ももっと傍にいたいと
ずっとこの時が続けばいいのに、と思ったはずなのに。
気付くと私も涙が溢れ、セレスにしがみつきながら謝っていた。
ぽん、と頭を撫でられ、ぎゅっと抱きしめられた。
どれほどの時間がたったか。
セレスが静かに語り始めた。
――私は、侯爵だ。生まれながらにして、人の上に立つものとして生きるすべを教え込まれた。
命を狙われることも日常茶飯事だ。だから私は、身の回りの世話をする者をもたない。巻き込まれるからだ。
しかし、お前を初めて見かけたとき――なんて危ういんだろうと思った。消えてしまいそうな、そんな雰囲気があった。
部下に命じて、領主がお前を攫い……人道を外れた所業を繰り返していたことを知り、私は――なんとしても、お前を助けたかった。私の手元で、保護してやりたいと感じた。
初めて――人をそばに置いておきたいと感じたのだ――
――セレス――
少し、セレスが言いづらそうに――声が苦しそうになる。
――最初は同情もあったかもしれない。お前の境遇のことは――調べさせたから。
父親を失い、お前が心に闇を抱えていることも、共に過ごして分かってきた。
だが――最初は頑なだったお前が、だんだんと私に心を開いてくれた。それが……とても嬉しかったのだ。
文字を教えている時も。紅茶を入れてくれる時も。食事を用意してくれている時も。どの時間も、ユーリがいてくれるこの時間が、私には至福の時だ。だんだんとたわいない話もできるようになって、笑うようになって……。ユーリ、そなたのことを思うと、この胸が締め付けられそうなのだ。目を覚ませば会えるのに、寝静まった後もそなたの顔を見たくなる……何度か寝顔を見に行ったこともあるのだ――
視界が霞んでいく――
だんだんと涙が溢れてくるのが分かった。
――だが!そのお前が死ぬかもしれない――そう思うと、怖かった。無我夢中だった。
今までは、こんな気持ちになったことはなかった。
ユーリ。二度と、こんな真似をしないでくれ。ずっと、私の傍にいて欲しいんだ。お前が淹れてくれる紅茶を……一緒に飲みたい。一緒に……風呂にも入ってみたい――
最後は少し顔を赤くしていたが、恥じらう姿がとても可愛いと思った。
父が自分を母の代わりとしてしか見ていなかった過去が蘇る。
それに囚われ、動けなかった自分に気づく。
父を愛していた気持ちは事実だ。
なかったことになどできないし、したくない。
でも、父は最期に、なぜ謝ったのか。
ひょっとすると。
疑似的な男女関係ではなく、父と息子の関係に戻りたかったのか。
父に囚われて欲しくなかったのか。
そうか――
父は……私に、『私自身の幸せ』を見つけて欲しい、と願っていたのだ。
そう気づいた。
セレスに言われたことを反芻する。
私も、まさに同じ気持ちだった。
セレスと話し、過ごすことに心が満たされた。
そう。
この気持ち。
私、セレスのことを――
窓の外を見る。
父が見ている気がして、問いかける。
――いいのかな、お父さん――私、他の人のことを……この人のことを――
そう胸の中で思うと、
父が、真っ直ぐ私を見て――笑いかけてくれた気がした。
……!!
ぶわっ!とあふれる涙。
抱きしめるセレス。
――セレス……いえ、セレスさま……私も、貴方と共に……ずっと一緒に、いたいです――
私の中の、止まったままの『時』が――動き出した気がした。
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