第7話 新しい日々、停滞する心
翌日はセレスに伴われ、『家』の中を案内された。
侯爵というだけあって、家というよりは城に近い。
大きな食堂、書庫、応接間、中庭。
しっかりしていなければ迷子になりそうだった。
ひととおり案内が終わると、セレスが休憩にしよう、と言ってくれた。
セレスの部屋に通され、自分で紅茶を淹れてきた。
それに少し疑問を持ったが、紅茶のいい香りに、久しぶりに心が安らぐのを感じた。
それからセレスは私に文字を教えてくれた。
書き方、読み方を丁寧に、根気強く教えてくれた。
なかなか上手くいかない。
しかし、熱心に教えてくれるセレスを、嬉しく感じた。
そんな毎日を送り始めて、数週間が経ったころだったか。
私も、セレスに何もかもをしてもらってばかりではなく、身の回りの仕事をしてあげたいと思うようになった。
セレスはいつも私の傍にいてくれて、世話をしてくれた。
来客の対応がある時も、先方を待たせたまま私に文字を教えてくれた時もあった。
――とても、大切にされていた。
だから、セレスにしてもらうだけでなく、私がセレスにできることをしてあげたい。
そう思うようになった。
それをセレスに言うと、最初は渋っていたが、それを押し切り、私はメイドとして働くことになった。
この城は広いわりに、セレス以外の人というのを見たことがない。
最初に私が引っかかった点だった。
侯爵なのだから、この城で働く者くらいはいてもおかしくなかった。
だが、セレスは身の回りのことはすべて自分でこなしている。
あまつさえ、私の世話までしてくれていたのだ。
ならば。
読み書きもできない、特別な能力を持っているわけでもない私にできること。
セレスを支えられること。
それが、この城のメイドとして働くことだった。
とはいえ、メイドの仕事の何たるかなどは知る由もなかった。
そんな私に、セレスは「それでは」と言った後で
――紅茶の淹れ方を覚えてもらおうか。あと、食事の用意も。誰かが作ってくれたものを、食べたいんだ――
私の、仕事内容が決まった。
最初は、とんでもない失敗ばかりだった。
茶葉の淹れ方も知らず、温度や時間なども、正しく覚えるのは難しいことだった。
セレスは苦い顔をしていたが、そんな私が淹れた紅茶を飲んでくれた。
――いつか、美味しいと思ってもらいたい――
そう思った私は、少しだけ前に進んだ気がした。
色んな失敗をしながらも、徐々に仕事を覚えていった。
料理も作れるようになった。
セレスが隣で手伝いながらではあったが、レシピも増やしていった。
やがて少しずつだが、私にも周りを見るゆとりができた。
セレスと二人で、紅茶を飲む時間。
文字を教えてくれる時間。
夕食を一緒に作り、そして私の見知らぬ国の話をしてくれる時間。
一日が終わり、セレスが私の部屋を後にすると、
いつからか、翌朝から始まる、セレスとの時間を考えると、心が温かくなっているのに気付いた。
――だが。
その一方で、いつも前向きに考えることができたわけではなかった。
どうしようもなく、沈んでしまう時も多かった。
しかしセレスは、そんな私に、必要以上に探ることはしなかった。
――ありがたかった。
いろいろ訊かれたくはない。
胸の奥にくすぶるこの想い――
それを、まだ触れられたくは、なかった。
ある時、セレスに尋ねられた。
この、髪飾りのことだ。
――そういえば初めて会った時もその髪飾りをしていたな。
贈り物なのか?――
その時、私はどんな表情をセレスに向けたのか、覚えていない。
ただ、私はこう答えた。
――「大切な人」との……思い出です――
セレスははっとした表情を浮かべた気がする。
きっと、それが誰のことなのか推測できたのだろう。
目を伏せたまま――「そうか」と言って、セレスはそれから二度とそのことを話題にすることはなかった。
ただ、「似合っている」と言ってくれたことは
私にとって、救いだった。
父が本当は母しか見ていたかったとしても。
私の向こうに、母を重ねていたのだとしても。
父が、この髪飾りを付けた私を、
きれいだと誉めてくれたことだけは――
事実だったから。
未だにそのことから離れられず――
父が綺麗だと言ってくれたこの髪飾りを付け続ける。
――未練、なのか。
あの男たちから解放され、
セレスと共に暮らし始めてからも、
ずっと私は、この髪飾りを着けつづけた。
着る服も常に女性用のメイド服だった。
髪型も、母そっくりの
腰まであるロングヘアになっていた。
本当はそうする必要などないのに。
セレスから、そうするように求められたわけでもないのに。
私は男に戻ることをしなかった。
男性の服を着ようとは思わなかった。
髪を切ってしまうなどもってのほかだった。
この「髪飾り」が似合う私自身でいたかった。
父に愛された私は
もう、「この私」以外の誰かになることなんて
考えられなかったのだ。
夜になるとどうしても考え込んでしまった。
父に想いを馳せた。
あの声を、ささやきを、息遣いを。
身体を求められなくなって、安堵していた。
だが、父のことを思い出すことが多くなるにつれ
自らの身体を触ることが多くなった。
そして、後になっていつも気付く。
もう、最愛の人はいないのだと。
この私を――仮初めの愛の対象だったとしても――
もう、愛してくれるべき人がいないのだ、と。
胸が張り裂けそうだった。
囚われていることなど分かっていた。
前に進めないことも分かっていた。
それでも、私は父とのことを思い出しては、
過去に想いを馳せていた。
セレスはそんな私に、温かく接してくれた。
あえていつも通りに接しようとしてくれた。
好きな紅茶の種類や、それに合うお菓子の作り方。
文字の練習。
食事の準備。
お風呂の後の、髪の手入れ。
私が沈んでいても、
いつものように接してくれた。
やがて私は思うようになった。
このままで、いいのか。
止まったままで、いいのか。
セレスが、待っていてくれている気がした。
そして突然。
ある出来事が、起きた。
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