第5話 転機
その人は――セレスは私の手を強く握り返すと、踵を返して私の部屋の前から離れていく。
慌てて後を追う領主。
その様子を見ながら、まだ残るあの人の手のぬくもりを思い出していた。
やがてあの人が馬車で館をあとにし、姿が見えなくなる。
寂しさを覚えてしまう。
――だめだ。忘れなければ。期待など、してはいけない。
そう思いながらも、あの人の――セレスの声が、瞳が――温もりが、私から消えていくことはなかった。
しばらくすると領主が戻ってきた。
――冷や汗をかいたが何とか誤魔化せた。全く女だてらに侯爵など――
ぶつぶつと何事かを言いながら、私をベッドに押し倒し、覆いかぶさってくる。
ぎらついた瞳で見つめる領主。
――再びやってきた『日常』に、歯を食いしばるしかなかった。
私にとっての非日常。セレスとの出会い。
一度出会ってしまい、次があるかもしれない、と思ってしまった。
やっと、気づかないふりをしていられるようになっていたのに。
何をされても、要求されても。
当たり前のようにそれを受け入れることが、苦痛ではなくなっていたのに。
それが――あの人と出会ったことで、期待するようになってしまった。
再び会えたところで、おそらく何かが変わるわけでもない。
私は籠の中の鳥のまま。
いや、蜘蛛の巣に捉えられた蝶か。
身動きすら取れず、捕食されるのを待つだけ。
それでも、あの人ともう一度会えたら。
そう思いながら、日々を耐えていった。
あの人との出会いから数か月。
――また会おう――
あの人はそう言ってくれた。
たとえこの身は汚れた男娼であっても――あの人は、それでも会おうと言ってくれた。
あれほど恋い焦がれた父からの愛を求めていた日々。
そして目の前で父を失い――そして誰あろう、父自身から聞かされた、私との関係への懺悔。
私は、父に愛してほしかった。
あなたが求めているのは、母ではなく私なのだ、と。
そしてあなたを求めているのは、母ではなく私なのだ、と。
それを分かってほしかった。
道を外れていることは分かっていた。
およそ、「息子」としては抱いてはならぬ感情であることも。
それでも――父から愛を向けて欲しい。それさえあれば、生きていける。
そう、思っていた。
そして、それが失われ――代わりにやってきたのは、ただの道具としての、私の役割。
そして今もなお、父への想いを捨てきれずに生きている。
この身に隠された、その事実を知ってもなお――
あの人は、私に会ってくれるだろうか。
男たちにいつものように犯されていると、突然、ドン、とドアが無理やり開かれ、黒ずくめで武装した男たちが乱入してくる。
全員が帯剣していて、私を囲んでいる男たちを次々に拘束していく。
なにが、起きているんだ。
男たちは、何が起きているのか理解できていない様子だった。
私は男たちから引き離され、毛布でくるまれる。
抵抗する者もいたが、剣の柄でしたたかにぶたれ、やがて誰も抵抗しなくなった。
領主は特に厳重に拘束された。
罵詈雑言をまきちらす領主。
それを一切無視し、武装集団のまとめ役と思われる男が何事かを後ろに向かって言っている。
すると――
流れるような金色の髪。美しい、青い瞳。
そう。あの人が、私を見つけ――微笑んでくれた。
浴室まで連れていってくれたセレスは、そでを捲りあげたまま、私の身体を洗ってくれた。
あらゆる場所を洗おうとするセレスに思わず反応してしまう私。
しかしセレスの表情は硬かった。
そのままセレスはゆっくり入れ、とだけ言い残し出ていった。
湯船の中で、起こったことが信じられず、反芻していた。
湯船を出るとセレスが椅子に腰を掛けて待っていた。
――すまん、どれを着せればいいか分からなくて適当に持ってきた。
とりあえず……服を着てもらっていいか?――
若干顔を赤くしたセレスが、目を反らして私に言う。
手には、私の衣装棚に入っていた下着と白いローブ。
人前で裸になることに、もはや羞恥心などなくなっていた私は改めて気が付いた。
そうか、そういえばセレスは女の人か。
私自身は、もはや自分をいわゆる「男」として認識できなくなっているのに、セレスからはやはり「男」として見られていることに、少し戸惑いながらも-なんだか可笑しくて、クスリ、と笑ってしまった。
む?と睨むセレス。
――早く着ないと風邪をひく。ほら!――
と言って私に被せてくる。どうやら、見かけ以上に可愛らしい人のようだ。
無理やり下着をつけられ、ローブを着せられながら、そう思った。
さて、と切り出したセレスから聞かされたのは、事の顛末だった。
初めて私に会ったとき、私が異様だった、とセレスは言った。
まるでこの館に溶け込んでおらず、「時が止まっているかのように」感じた、と言った。
また、私がしゃべるのを聞いて初めて男だと気づいた時に、裏に何かあると確信したようだった。
セレスは部下に領主についてあらゆることを調べ上げ、そして――知った。領主の所業を。
高利で年貢を巻き上げていたこと。
私の父親を殺し、年貢の代わりにさらってきたこと。
私を調教し――性処理道具として住まわせていること。
密かに来客を集めては、私を男娼として交わらせていたこと。
私がそういうことを毎日のようにさせられていた事に触れるときは、とても辛そうな表情でそう言った。
そして、現場を確実に押えるために――時間をかけて行動しなければならかったのだ、と言い、すぐに駆けつけることができず済まなかった、と頭を下げられた。
沈黙が流れた。
ふと私の口からでたのは――父とのことだった。
私は訊いた――父と私のことは知っているか、と。
瞳を大きく開き――少しだけ、セレスが動揺した気がした。
そして視線を外したセレスは――小さく、頷いた。
セレスの表情は硬い。
すべてを知った上で、私を助けに来てくれたのだろう。
おそらく、衝撃を受けたはずだ。
あまりにも異様な、私の愛に。
あまりにも異様な、私の日常に。
それでも、この人は駆けつけてきてくれた。
約束通りに。
信じても、いいのだろうか。
セレスを。
セレスに呼び掛けると、硬い表情のままだが、私を見てくれる。
吸い込まれそうな青い瞳。
口を開くと――言葉が紡ぎだされた。
――私は、父と、関係を持ちました。
父にとって――私は、死んだ母の代わりでした。
私を、見て欲しかった。
私と、ともに堕ちて欲しかった。
でも、それは叶いませんでした。
ここに連れてこられ、女の代わりに毎日、場所や時間は関係なく、あんなことをされました。
どんなに嫌でも、身体だけは反応することが嫌でした。
何も考えないようにしました。
父との思い出だけが、私を支えてくれました。
今この瞬間も、父への気持ちを捨てきれていません。
それでも、あなたは私を――
そこまで言うと、続きをいうことができなかった。
セレスが私を抱きしめ、肩を震わせていた。
――もういい。もういいんだ。私は、そなたを助けたいと思った。
全てを知った今でも……それは同じだ――
息をのんだ。
鼓動が高まる。耳元でセレスの声が続く。
――そなたのことを知り、そなたを、私の傍に置きたいと思った。
私の傍で、私を支えてくれる存在として――
身体を離し、セレスを見つめる。
真っ直ぐ、私に向けられている。
――そなたを、もっと知りたい。そなたの、名を――
今、何といわれたのか。
理解できなかった。
名を、訊かれたのか。
今まで、不要だった、私という人間の名を。
誰かの代役ではない、私の名を。
震える唇で、言葉を伝えた。
――ユーリ――
その瞬間、セレスの瞳が柔らかくなった。
――そうか。ユーリ。優しい名だ――
すっと、その手がのばされる。
柔らかい、小さめの手。
――改めて自己紹介しよう。セレス=ティアノート。侯爵だ。よろしく、ユーリ――
そう言ったセレスの――セレスさまの笑顔はとても眩しくて――
いつ以来だろうか。久しぶりに呼ばれた、私の本当の名の響き。
彼女に呼ばれるその名は、私の心の底まで響いてきた。
私も、手を差し出して、握り返す。
柔らかい、思ったより小さめの手。
セレスさまの笑顔を、とても美しいと思った。
これが――私と「あの人」との出会いだった。
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