第2話 歪んだ愛
私は、私の腕の中で動かなくなった父を抱きしめ、大声を上げて泣いた。
母が亡くなった時。
優しかった母は、どんなに苦しいときでも、私や父のことを優先してくれた。
私が身体を売り、手に入れたパンとチーズ。
今思えば、きっとそれすらも、母は私と父に分け与えようとしたかもしれない。
それとも、身体を売ってまで手に入れたそれを、母は食べてくれただろうか。
汚れた私を、優しく抱きしめてくれただろうか。
母が死んだ時も――こんなことがあっていいのか、と泣いた。
不条理を感じた。母を追い詰めたこの世界に憤りを感じた。
しかし、これは――今、私のココを流れる……胸の中にある「この気持ち」は――それとも違う。
父の顔を見る。穏やかな表情のまま……逝ってしまった。わずかにゆがむのは……最後に吐露した、私への懺悔。その瞳は閉じられたまま――もう父の口は何も語ることはない。
この悲しみは-母も父も失ったことへの悲しみだろうか。この世に、もう私が頼るべき人は残されていないことへの。それとも-
父は私を、母の代わりに抱いた。最初は父が私を「そういう目」で――学校の連中が私を見るのと同じ目で私を見ていることに、言いようもない感情を抱いた。
しかし、父が「母への愛」を――「親子愛とは違う愛」を――この私に向けていることに、何時しか、心のどこかが満たされるようになっていった。
母が亡くなった後の、「からっぽになった私」と「父の空虚な心」。
残された私たちは、お互いに空白を埋めていたのかもしれない。
酒に溺れた父と、禁忌を犯していることは分かっていた。
だからこそ、父との関係を、いつか清算するときが来ると覚悟していた。
それが――まさか、こんな形になるなんて――!!
最期の父の言葉――それは、私との関係を清算するための言葉だった。
父と息子という、本来の形をゆがめてしまったことへの、後悔の言葉だった。
もちろん、父を憎む気持ちもあった。私に母の代わりを強要していたのだから。
でも、父の後悔の言葉を聞き、安堵した自分自身もいる一方で……確かに、心の隅ではこう思っていたのだ。
最後まで私と一緒に堕ちて欲しかった、と。
そう。
私を、「母の代わり」ではなく、「私」として見てほしかった。
そう思う自分自身もいたのだ。
正しい男女関係とはどんなものなのか、それを理解する前に、同性の級友たちから乱暴される日々を送ってきた私にとって、「そんな感情」の正体は理解できなかった。
そんな私が、本来、その感情は異性に対して向けられるもので――そして言うまでもなく、血縁者に対して抱く感情ではない、など、そんなことを理解しているはずがなかった。
父と仮初めの愛を結び、身体を重ねる――その行為は、やがて私を甘く蕩けさせ、そして――この気持ちが何なのかに気づかせた。
なぜ私がそう思うようになってしまったのか。
父が求めるのは「母の身代わりとしての自分」。
それなのに、私がなぜ「それ以上」を父に求めてしまうのか。
父が自分自身の腕の中で死んでしまって初めて、それが『愛』だったと気が付いた。
自分の気持ちに気が付いた途端――何かがぷつん、と切れてしまった。
壊れてしまった人形のように、父の亡骸から離れようとせず、ただひたすら、父の名を――気づいてしまった、私自身の気持ちを乗せて――呼び続けた。
謝ってなど欲しくなかった。耳に残る父の声が、いつか、私を見ているという印を――私への愛を囁くのを、夢見ていたのかもしれない。しかし――その機会は、もう永遠にくることはない。
狂ったように泣きわめく私の横で、徴収官は容赦なく父の亡骸を足蹴にし、私を無理やり引き離し、顔を自分に向けさせこう言い放った。
――本来年貢を納めないものは死罪すらありえる。この家はこのところずっと納めていなかったのを、ここまで待ってやった。お前の父が死のうが、我々の知ったことではない。あと1週間だけ待ってやるから、その時までにきっちりと用意しておけ――
冷徹にそう言い放ち、徴収官は去っていった。
私はその言葉を聞きながら……母も――そして、「愛する父」も喪った悲しみで、ただ泣き続けることしかできなかった-。
どれほどの時間がたったのだろうか。あたりは既に明るくなり、鳥の鳴き声も聞こえ始めた。一晩中、父を胸に抱き、泣き続けた。父を喪った悲しみは消えることはなく、ずっと私は、これから孤独に生きていかなければならないのだ。もう二度と、父のあの声を聞くこともできない。そう思うと、とめどなく涙があふれた。
しかし、それでも父をこのままにはできない。きちんと弔ってあげたい。
そう思い、水汲み場で私の体についている血をきれいに流し、そして次に父の傷口も丁寧に拭いていく。
もうすでに硬直してしまった父の体。
父の手に、胸に触れると、どうしても私を抱きしめたあの温もりを思い出した。
涙は、決して枯れることがなかった。
時間をかけ、血をきれいに拭いた。私は父を外へ運び、母の眠る裏庭の墓地まで連れてきた。
愛していた母のとなりで眠らせてあげたい。
私自身の気持ちに気付いた今、父が母を愛していたことに、胸の痛みを感じる。
それでも、私は――私にできる精一杯を、父にしてやりたかった。だから、やはり父が眠る場所は、母の隣以外には考えられない。
母が眠る場所の横に、穴を掘ってやる。棺桶など用意できない。教会で弔ってもらうお金など、どこにもない。だから、母が亡くなった時も、こうやって裏庭に埋葬した。
そうして十分な大きさの穴を掘った後、父の亡骸を埋めていく。
だんだんと見えなくなる父の身体。嗚咽しながら、私は土をかけ続けた。そして、顔だけを残して土をかけ終わった時。
――最期に、もう一度だけ――
そう思い……冷たくなった父と――最期の口づけを交わし、私は最後の土を、父の上にかけた。
――さようならお父さん……愛していました――
父と母が仲良く手をつないで歩く姿を思い出し、私は――この胸の複雑な痛みを感じながら、涙を流して冥福を祈った。
その後数日、私は何もできなかった。母を喪ったときは、悲しみにくれながらも、父と2人で生きていかなければならないと思った。しかしそれは、父がいたからそう思えたのだ。
しかし母も、そして父も喪った私には、もうここから立ちあがることもできそうになかった。
ひたすら父のことだけを考えていると、ふと、
父の形見を身につけておきたい。何か、父を思い出せるものを。
そう思った。何か父を思い出せるものがあれば――その一心で遺品を整理していく。だが、酒におぼれていた父の遺品など、何も残っている様子もない。
父が着ていた服を出してやる。父の匂いに、また涙が止まらなくなった。
ふとポケットに手をやると、そこあったのは――いつの日か父が私に身に着けさせた、小さな髪飾りだった。父は、母の名で私を呼び、美しいと言ってくれた。
その髪飾りが-ポケットから出てきた。
私はそれを手に取り――震えながら髪に止める。
鏡にはやつれた私が写る。しかし髪飾りをした姿は、まぎれもなく、父が美しいと言ってくれた私自身。
目を閉じると、父が髪を手で梳いてくれる感触がよみがえる。
父との思い出は、この髪飾りだけでいい。そう思い、もう一度頭に着けた髪飾りに手を触れた。
徴収官が言っていた期限の日。同じ徴収官が家にやってきた。
年貢を用意できたかと聞いてくる。
私は首を横に振り、父をあなたに殺されたばかりで、とてもそんなことに気を回せない。なにも用意することができないから、どうか帰ってほしい。そう答えた。
その答えに激怒する徴収官。剣を抜き、私の眼前に突きつけ訊いてくる。
――ならばどうする。俺を殺すか!――
しかしその時私はもう、どうなろうと気にならなかった。たとえ殺されても、ひょっとすると父の傍に行くことができるかもしれない。
そして――たとえこの徴収官を殺せたところで、父が蘇るわけではない。もう――父は、二度と帰らないのだ。
だから、剣などで私が恐怖することなどなかった。ただ静かに首を横に振り、徴収官を見つめた。
その様子を見た徴収官は、ふん、と面白くなさそうに剣をしまった。
そして私の手を無理やり引っ張り、馬車に入れられた。
徴収官の掛け声で出発する馬車。
状況を理解できず、徴収官の方を見ると、彼が事情を説明し始めた。
私は、「年貢」代わりとして連れ去られ……領主館で「使われる」ことになったのだ。
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