第5話
総てを失ってからについて語る。まだ、記憶に新しい。
私にはすぐに新たな職に就こうという気力が希薄だった。職に就くことに付随する新たなコミュニティの形成を思うと気が遅れ、当面の貯蓄は生活の救いではなく、無意味なモラトリアムとして消費されることになった。仕事も何もしない日々の無為な時間を使って、私は父の死から断続的に降りかかってきた災禍の一つ一つをゆっくりと整理していった。
思えば、それらはどこから始まっていたのだろうか。両親の離婚は、子どもとしては一つの不幸と呼べるのだろうか。離婚が無ければ、父が宗教に盲信してしまうことも無かっただろうか。
最初は頭の中で繰り返すだけ済んでいた。私は空想との境目が曖昧なそれらを、ノートブックに書き留めるようになった。
後悔も愚痴も不満も嫉妬も羨望も劣等も、溢れてくる言葉と感情の総てを一纏めにして書き連ねた。ノート数ページに渡った不幸は、どうにも私に偏り過ぎている気がして嫌気がさすこともあった。記憶をたどって呼び起こした同級生や同僚と比較すると、私の虚しさは増した。劣等感に身を捩らせ、虚しさを敵意へと変貌させながら、それでも私は書き続けた。
どう足掻いても私は不幸から抜け出せないと知って、思考は苛烈さを極めていった。私は、幸福を否定することで不幸を和らげることが出来ると考えるようになった。幸せに生きている人間が嫌いになった。誰かが承認欲求を満たそうとする幸福のアピールには吐き気を催した。街を歩く笑顔の親子連れを見る度に殺したくなった。知人に子どもが生まれたという話に中指を立てた。
幸せそうに生きている人間が憎かった。全員が不幸になって欲しかった。全員は無理でも、身の回りの狭い世界だけでもそうなって欲しかった。
だからこそ、距離近い人間の幸福が何より憎らしかった。海の向こうの大きな幸せよりも、目の前の小さな幸せの方が私には疎ましかった。誰もが私と同じ土俵に立って欲しかった。私が幸せになれなくても、せめて周りが不幸になって欲しかった。
そんな類の歪みに次第に生活も侵された。私はどんどん醜い人間になっていった。人の不幸を願うようになって、幸せそうな周囲の人間たちはみな敵に思えた。そんな歪んだ人間がまともな社会コミュニティに属せるはずは無かった。ただ、私がどんな人間になろうとも、日々の生活は流れて、それに伴う支出も変わることは無かった。確実に通帳の残高は一桁ずつ減っていって、生きるためには労働を余儀なくされる状況になった。
私はアパートの近くの居酒屋と、駅の近くのスーパーでアルバイトを始めた。どちらも時給900円前後の低賃金労働で、前職と比較すれば大きく劣る給与体系だった。それでも生活を切り詰めれば最低限の暮らしを保障できる程度の稼ぎにはなった。労働に従事している時間は気が楽で、一時間に明確な値段が付くことで、時間がお金に変わっていることを強く実感できた。時給という考え方は妙に私に合っているように思えた。無為な時間が一日から減っていくことで、苛烈な思考に囚われる事も少なくなっていった。
時折、私の中で渦巻く感情は行き場を失うことがあった。感情は些細な羨望から強い嫉妬へ変わり、嫉妬から深い憎悪へ変わり、次から次へと巡るように変化を繰り返した。変貌に変貌を重ねて、決まって行きつく先は破壊願望だった。自身を苦しめる余計な感情も、劣等感や醜い思考も、目につく他者の幸福も、全てを壊してしまいたい。そんな風に乱れる日が月に一度か二度はあった。その衝動を外部に向けて放出することは恐ろしかった。気の向くままに他者を攻撃出来るほど私は強くなかった。そうして、破壊の衝動は内部へと流されて行った。最も身近で壊しても構わないモノは自分を置いて他に無かった。それが最も単純で簡単な選択だった。
居酒屋のアルバイトは、近くに地元の国立大学があるからか、従業員の大半が学生だった。その学生たちの雰囲気に流されてか、社員も比較的に温和な人たちばかりで労働環境というのは良好だった。しかし、二十代後半のフリーターというのは私しか居らず、学生たちのエネルギーに気圧されて肩身の狭さを感じたし、幸せそうな学生たちとの間に感じるギャップに居た堪れなくなることもあった。しかし、彼らは一様に優しくできた人間であった。私との間にある年齢差を上手に使い分けながら、心地よい距離感で接してくれた。手慣れた対応とコミュニケーションの幅の広さから、彼らが私なんかよりも随分と大人に思えた。多くを知り得ているようには振舞わず、無知や無学を甘んじて受け入れる。そんな姿こそ大人の余裕であるように見えた。彼らの中には敵意なんてどこにも存在していないのに、彼らが幸せそうに見えるからという理由だけで、敵に感じてしまう自分が恥ずかしかった。
彼らと同じ空間にいるだけでどうしようもない程に劣等感が膨れ上がった。優しくされる度に劣等感を見出して、敵意に変えてしまう自分が愚かしくて、涙が出そうなくらいに情けなかった。誤魔化しのためのアルコールは、苦痛の程度に比例して増えていった。どれだけアルコールの刺激が喉を伝っても、それが満たされていく感覚はどこにも無かった。穴の開いた容器に延々と注ぎ続けているだけかのような無意さを感じた。
身体の調子と精神の調子がちょうど最底辺で重なる日には死を思った。どの作品だかで生きてさえいればいいのだと太宰は書いていたが、その太宰ですら、最期には死を選んだ。そんな太宰に倣う訳でもないが、いっそ私も死んでしまおうかと、何度も死が頭を過った。ただ、思考は決まって頭を過るだけで、その選択さえも自分の責任と罪科から逃れようとするだけの、稚気に塗れた子供のような癇癪に思えて虚しくなった。
自分が乱れていくのが手に取るように分かって、とにかく人と距離を取りたかった。相手を好ましく思い、距離感が近づくほどに、相手が私の負の感情の対象になった。暗い部屋の片隅で呼吸と共に霞を吸い込んでいる間だけ、ほんの少しの安心感があった。
仕事を辞めたことを聞きつけた旧い友人たちが幾人か電話をくれた。アルバイトに顔を出せば学生たちは私を一人の大人として敬ってくれた。そんな純粋な優しさすらも、私は正しく受け取れなくなっていた。いつからか私の目には、優しさが恐怖に映るようになった。
優しさを受け止めるには、強さがいる。私は彼らに優しくしないで欲しいと、そんな傲慢な願いを抱くようになった。
それでも、人々は私に優しくあろうとし続けてくれた。ただのアルバイト仲間や従業員、昔の友人というだけなのに。それらは上辺だけの優しさかもしれなかった。それでもそんな人たちの優しさが、私には刺さるように痛かった。大切にしたい相手だからこそ距離を取りたかった。私の目が彼らの幸せを捉えてしまう前に、私の毒牙が及ばぬうちに、私の毒牙が届かぬ所へ押しのけたかった。優しくしてくれる人たちに嫌われたかった。疎まれて距離を置かれたかった。
そんな理由で私は好きでもない煙草を始めた。私は望んで毒虫になりたかった。タールの重さも何も分からず、父が吸っていたのと同じ銘柄を選んだ。苦い煙で肺を満たしてみても、やはり私が満たされることは無かった。ただ肺が真っ黒に煤けていく他に、得るものなど何もなかった。
彼らは煙草を吸う私さえ否定しなかった。拒絶してもくれなかった。あろうことか、心配という優しさで包んでくれた。温かい言葉を向けられると、自分の惨めさが目に余って、私は哀しくてやりきれなかった。
生活の総てが怠惰に思えるような一日があって、そんな日は身体の重さを強く感じた。およそ四十数キロの鉛を動かしているような倦怠感に、私はその重さを抱えていることすら億劫で、どこかに委ねたいと思った。
浴びるように酒を呑んで、咳き込むほどに煙草を吸って、そういう何かに自分の重さを預けていると幾分か楽になった。寝食を忘れて不健康な生活に溺れる事に、充実のようなモノを感じていた。
私に優しくしてくれる人たちが嫌いだった。私に構おうとしてくる人たちが疎ましかった。私に知った顔で口出ししてくる声たちが不快だった。私を一人にはしてくれない人たちが憎かった。
そんな人たちの事を思うと身体の重さは増した。鈍重な身体に鞭を打つことすら億劫で、動くのはくだらない思考を繰り返す頭だけだった。そんな日の夜にはベランダで煙草を吸いながら、私は幸福と不幸について考えた。
幸福と不幸は対極なのだ。幸福になることというのは不幸を知り、それを考える事であり、不幸とは幸福を羨みそれを望む状態に等しい。それは、光と影の関係性によく似ていて、不幸の災禍に苛まれる者は強く幸福を願い、幸福の豊穣に満たされる者は何より不幸への転落を恐れる。両者とも、その状態にあって考えているのは真逆の事なのだ。手の内に幸福を捕まえても先の不幸に怯え、先の幸福に期待を抱いても、目の前の不幸に囚われる。幸福と不幸がそんなモノであるのなら、幸福になることも不幸になることも望みたくはない。そのいずれでもないところに、私は在りたい。
私は肺一杯に吸い込んだ煙を薄く引き伸ばしながらゆっくりと吐いた。合わせて思考もゆっくりと煙に溶けていった。
駅のホームを歩くときに線路脇で足を滑らせてしまいたいと妄想をするようになった。時速数百キロの鉄の塊と正面から衝突する様を想像すると、そこには確かな終点があると思えた。長い階段を下っている時に足を踏み外してしまう妄想をした。信号待ちの交差点に大型トラックが突っ込んできてくれる妄想をした。街を歩いて、至る所でそんな妄想を繰り返した。
すれ違う人々の幸福から目を遠ざけたかった。顔を上げてみてもだだっ広い空は文字通り空っぽで、延々と続く青色の虚しさが映るだけだった。
私の中には何が残っているのか、それすらももう分かりはしなかった。
ある時を境に、生活は一定のリズムをもって私の中に形づいてしまったのだと気づいた。違うモノを食べて、違う時間に起きて、違う人と会話をして、違う時間に眠っている。それでも、違う一日を生きているという感覚が無かった。それはいつか感じた社会と学校の違いと同じで、要素が異なるだけで本質は変わらないように思えた。一日の厚みが薄くなっていって、日々という名前がついて形骸化していった。
ゆっくりと何かが崩れていくのを確かに感じながら、私は誰かに救いを求めるように本を読んだ。芥川も太宰も漱石も、カフカもカミュもヘッセも誰も、私の救いにはならなかった。ただそれは当然のことで、誰も私のための物語を書いているわけではなかったのだ。
文学に明るいわけでは無かったが、私には彼らは彼らのための文章を綴っているように思えた。もしかすると、彼らも何かからの救いを求めて文字を綴っていたのではないか。彼らは自身を救いたくて、何かを綴っていたのではないか。
疑問は私の脳を揺らして、身体を動かした。なぜだか私もそうするべきだという確信めいた意志が芽生えた。日々という時間を消化しながら、夜な夜な暗がりの部屋でノートパソコンと向かい合った。文字を綴ることは自身と向き合うことに等しかった。私が不幸と呼んできたモノの総てを、一つ一つ言語化していくことは容易ではなかった。幾度も手は止まり、昂る感情の抑えが効かなくなり、思い出すことも書くことも拒否しようとした。上手く言葉に乗せられない感情がもどかしくて、書くことで新たなストレスを抱えた。
それでも私は書き続けた。かつて自身の不幸を書きつけたノートブックは思わぬ所で役に立った。時には寝食を忘れ、綴ることで呼び起こされる他人への憎悪を強く孕ませながら、自分の考えの総てを綴った。煤けた目と腫れた瞼で、長くなった前髪の間から、文字と向き合い続けた。
物語が終盤に差し掛かり、私はその終わりを考えることになった。私の赴くままに書き上げたモノは、物語の様相を呈していないのかもしれなかった。それは物語よりも怪文書やあるいは告発文に近く、私でない誰かにとっては唾棄すべき駄文に過ぎない。
それでも、文章という世界で自分と向き合う事で、初めて自分を客観的に観察できたような気がした。私は随分と気障な言葉や表現を弄してきた。慣れない言葉で取り繕うように自分を綴ってきた。私は私を気取ってきたのだ。
いつまで恰好つけた言葉を綴るのか、気取った台詞を使うのか。感情にさえもそれらしい理由をつけて飾るのか。綴りながらに私は気づいていた。
本当の言葉はもっと陳腐に思えるくらいに簡単で単純だった。だからこそ、物語の最期に、その単純な言葉を私は文体も語尾も気にせずにただ書き連ねる。
抱きしめてくれ。手を握ってくれ。助けてくれ。一人は寂しいから側にいてくれ。嫌いにならないでくれ。一生好きでいてくれ。忘れないでくれ。優しくしてくれ。背中をさすってくれ。頬を撫でてくれ。涙を止めてくれ。つまらない話に花を咲かせてくれ。心配してくれ。気に留めててくれ。一緒に笑ってくれ。
ただ、愛してくれ。
物語を書き終えて、私は私を知った。私が私のために書いた私だけの物語が出来上がった。この物語で私は私を救えたのだろうか。それは分かりもしない事だったが、少なくとも私は綴った文章と書いたことに満足していた。
長いのか短いのか分からない私の物語に私は名前を付けることにした。私が書き上げた文章は一体何だったのか。それは誰に向けたかと言われれば、全てが私に向けた言葉だった。あるいはすべてはただの独り言だったのかもしれない。
その考えが妙にしっくりと当てはまるように思え、私はゆっくりとキーボードを叩き、二文字の名前を打ち込んだ。
独白 糸屋いと @itoyaito
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます