第4話
父の死と、それからについて語る。
父の葬儀から三日と経たない内に、親戚一同による実家の遺品整理が行われ始めた。私は有給を消化してそれに参加した。家主を失った実家は抜け殻の様だった。所々に生活の痕跡が残っていたが、それも古ぼけているように思えた。
数刻の間中作業を続け、お昼時になると親戚一同は数人が昼食の買い出しに出かけ、残った数人はリビングで談笑を始めた。話題は生前の父についてのようで、私は廊下の方で作業を続けているフリをしながら盗み聞きした。
最初の方こそ思い出話に花を咲かせているという感じだったが、次第に晩年の父について話題が移ると流れが変わった。親戚一同は口々に愚痴を零し始め、また、父が信仰していた宗教についての噂話を交えた。過熱した会話は父の再婚相手の話題にまで及んだ。私は知り得ない事ばかりだったが、再婚相手は碌な人間ではなかったらしく、一同からは彼女を褒める言葉は一つも出てこなかった。また、親戚一同も私と同様に再婚の話に際して反発したようで、父の再婚は頓挫していたらしかった。次第に愚痴という表現で済んでいた会話には、音も匂いもなく悪意が潜み始めた。
親戚一同は揃って父を疎んでいたようだった。互いが互いに共感できる事が嬉しいようで、嬉々として父の否定を繰り返した。以前の自分を見ているようで虫唾が走った。同族嫌悪に近しい感情は諸刃の剣に等しかった。一同を否定することは自身を否定することであり、その会話に覚える嫌悪はそっくり自分に跳ね返ってきた。次第にその会話を聞いていることが不快になり、私は逃げるように二階の父の部屋へと向かった。
父の部屋は元々が物の少ない部屋だったこともあってか、他の部屋と比べると整理されているように見えた。小さな本棚と作業机の上の工具に、年季の入ったシングルベッド。それら以外に目につくようなモノは無く、六畳程度の部屋はやけに広く思えた。目当てのモノがあるわけでもなかったが、私が何かを探すように本棚を覗き見ると太宰や芥川といった著名な作家たちの本に並んで、幾冊か教本と思しきモノが並べられていた。
そのうちの一冊を手に取り、流し見するようにページを捲った。そこに記されていた大聖人の教えとやらは、私には目が滑るような言葉の羅列に思えた。次第に私の思考は文章から抜け出して、また室内へと広がった。
私は父を突き放した。それが、父にとっていつの日か良薬となると思っていたのだと、自身の行いを正当化するのは容易で安直で楽な考えだった。
ただ、そうではない。自分がそんなに優しくも無ければ、思慮深い人間でもない事を何より自分が一番よく知っていた。私はただ、厄介な父を遠ざけたのだ。それが父の叫びであったかもしれないのに、面倒ごとだと判断して、自分の幸福のためだけに見捨てたのだ。
私は自分が何を後悔しているのかさえよく分からなかった。後悔という言葉を使うほどに父と向き合うことをしなかったからだ。悔やめるほどに何かをしたわけでもなかった。考えたわけでもなかった。それなのに、時が来たら悔やんでいるというのは都合の良い話の様に思えた。そんな曖昧さを抱えていることが、私の中でどうしようもない程に気持ち悪かった。
父は確かに宗教に狂っていた。信仰と愛情は境界線が曖昧で、父が私に深い愛情を抱いていたのかは分からなかった。
しかし、父は確かに私を育てた。母がいない家庭で、男手一つでソレをこなすことがどれほどの苦労であったのか。私はそれを省みたことがあっただろうか。自身の不幸を嘆いて、ただの一度でも父の不幸を考えてみたことがあっただろうか。自分の痛みでなく、父の痛みに寄り添おうとしたことがあっただろうか。そんな自問自答を繰り返すほどに、自分が身勝手な人間であることが浮き彫りになっていくのを感じた。
父の幸せを阻害していたのは、宗教では無く私だったのではないか。私がいなければ、父はもっと早く再婚という道を選べていたかもしれない。仕事や住居を変えて、心機一転の人生を歩めていたかもしれない。自分の事だけを考えて、心を休める時間だって作れたかもしれない。そうすれば、宗教に傾倒する事も、重い病気を患うことも無かったかもしれない。それを許さなかったのは、私の存在だったのではないか。父にとって、私が足枷になっていたのではないか。
足枷という言葉が私の身体にすっと浸透していくのが分かった。それは緩やかに流れていって、私の罪科を明らかにした。
私は手の上で開いていた教本を閉じると、本棚に戻した。その際に、本棚の上に小さな写真立てが伏せられているのに気づいた。写真立ては少しばかり埃を被っていた。私は指先で軽くその埃を払い、写真立てを起こした。そこには幼い私と父の写真が飾られていた。私の記憶には無い光景だったが、写真の中の二人は眩い程の笑顔をこちらに向けていた。それが、私への当てつけの様に思えた。
父の死と向き合うことは私に多くの変化をもたらした。私にとって、その時間はようやく気付いた自分の罪科に向き合う事と等しかった。
しばらくの間、無気力な日が続いた。それは父の死が直接的に招いた事象ではなく、それによって白日の下に晒された私の醜さに嫌気がさしたが故の無気力だった。
会社は数日の休みを私に与え、その数日が過ぎると出勤を求めた。上司から一言だけお悔みの言葉があり、それ以外は今までと同じように通常通りの業務をこなすように求められた。絶えることのない無気力感の中でどうにか仕事をこなすだけの日々が続いた。朝に目を覚ますというよりも、数時間瞑っていた目を開いただけというような日が増え始め、身体を起こすことすら億劫に感じた。それでも身体に鞭を打ち、すし詰めの電車に揺られて出勤した。
父の死は葬儀だとか納骨だとかそういった段取りを経て、社会通念上は過ぎた事になった。いつまでもそれが残っているのは私の中だけの事であって、社会の日々の形は、何一つ変わりはしなかった。私が抱える苦悩も罪悪感も、大きな流れの中では芥にすらならない。大きな流れは、たとえ私一人が欠落したところで淀むことすらないのだ。
だとすれば、私は今この瞬間、一体何をしているのだろうか。パソコン画面に向き合って、延々と数字の羅列を眺めていると、そんなことが幾度となく頭をよぎった。
さも当然のように正常な人間のフリをして仕事をこなす自分が気持ち悪く思えた。本当は愚図で愚かで醜くて汚い人間で、だからこそ父を見放したどうしようもない人間なのだ。私は、父よりも遥かに弱い人間なのだ。罰せられなくてはならないのだ。しかし、誰もそれに気づかないまま、誰も罰を与えてくれない。私の意思とは関係なく物事は過ぎていった。
私の生活は水面下でゆっくりと狂い始めていた。無気力はやがて仕事にも影響を及ぼすようになり、問題が問題を引き起こし、ストレスがストレスの呼び水となった。満足に眠れない夜が増え、体調不良による欠勤や早退、慢性的な頭痛を抱えたままで仕事をこなすことも増えた。逃れることのできない罪科はどこまでも私に纏わりつき、何処かを彷徨うような感覚だけが日々に残るようになった。私は、もう物事が良い方向に好転することなど無いのだという漠然とした予感だけを抱えて、無為な日々を過ごした。
進さんから別れ話を切り出された時、涙を流すこともなければ怒りを露わにすることも無かった。物事に無感情だったことに加え、概ねの予想が出来ていたこと、彼の言わんとすることが全て正論であったことが大きかった。既に、私は壊れかけていたのだと思う。
私は進さんに父の死を伝えると同時に、宗教に纏わる全ての事柄を告白した。私が自発的にそうすることが無くても、進さんがそれを知るのは時間の問題であった。その頃には父の死と宗教の噂は社内の話題の一つになっていて、私が選べたのは、知られるか、話すかの二択だけだったのだ。
私がそれを告げた瞬間に、彼の目の温度が変わったのがはっきりと分かった。進さんはいつぞやの集団に向けていたのと同じ目で私を睨みつけていた。はっきりとした冷たい感情を隠す気も無く、視線はむしろ清々しかった。
私たちの関係の終焉は社内での噂に拍車をかけた。噂の中では破局の原因は宗教絡みという事で確定しており、いつの間にか私も入信者に仕立て上げられていた。弁明しようにも、誰に何を弁明すべきなのかも分からなかった。加えて事実と嘘が半々で入り乱れた噂を一つずつ紐解いていくような気力は、私にはもう残っていなかった。人々は好き好きに憶測を口にして、中にはそれが私の耳に届くのを厭わない人もいた。時には、そんな噂を批判するような口ぶりで、その詳細の一から十に至るまでを丁寧に私に教えようとする人もいた。純粋な正義感か親切心か、腹心の腐った嫌がらせなのか判別がつかなかった。
誰かが明確に私を攻撃してきたわけでも、職場に敵がいるわけでもなかった。ただ、心強い味方がいるわけでもなく、自分に無理を強いてまで居心地の悪い場所に居続ける意味があるわけでもなかった。私は、もうすべてがどうでもよかった。一身上の都合という言葉はとても便利で、私が思い立つと同時に即日で書き上げた辞表は何の滞りもなく受理された。特に惜しまれるような様子もなく、会社にとっても私は厄介者になっていたのかもしれないと思えた。
仕事と恋人を同時に失い、鮮明に未来予想図を描くことは叶わず、先行きの見えない不安だけが手中には残った。結婚資金の確保として努めていた日々の倹約が幸いして、当面の生活における貯金の心配がない事だけが、唯一の救いだった。
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