第3話
帰省から幾年か経った頃に話は飛ぶ。思い出す事には痛みを伴うが、それでも私は思い出し、誰の為でもなく語る。
土曜日の昼下がりで、陽光がカーテンの隙間から漏れだす程に快晴の日だった。リビングからスマートフォンの着信音が聞こえてきて、私は水栓を閉めた。仕事の連絡か、あるいは進さんからの連絡か。キッチンからリビングに向かうまでの足取りは重かった。そのどちらかならば、仕事の方がまだいい。そんな期待と願望を入り混じらせながら歩いた。
進さんとの関係は進展したと言えば進展し、停滞したと言えば停滞していた。私が自身の中で父との関係を完全に絶った翌年から、私たちは共に住み始めた。半同棲に近い暮らしの中で、私たちは結婚についての話題を挙げることもしばしばあった。一歩ずつ幸福に近づいていくのを感じられるような暮らしの中で、私は再び父の存在を薄れさせていくことも出来ていた。
私が二十六になり、進さんが二十八を迎えた年に彼の出張が決まった。進さんが言うには栄転のための研修期間のようなモノらしかった。半年という長くはない期間であったが、その間、二人の時間が止まってしまうのは致し方なく、当然の事だった。進さんは最初の一カ月こそ毎日のように連絡をくれていた。しかし、それが三日に一度、週に一度になっていき、今では月に一度の定期連絡に成り下がった。それさえも、会話のほとんどが進さんの仕事の愚痴を聞き、私が慰めながらご機嫌を取るためだけの時間であって、二人の会話と呼ぶには乏しかった。
スマートフォンの画面に表示されていた番号は見覚えのないモノだった。私は二つのどちらでもない連絡を訝しみながら、スマートフォンを手に取った。
「…もしもし。こちら、高峰美沙様のお電話で間違いないでしょうか」
電話口から聞こえてきたのは女性の声で、やはり聞き覚えは無かった。
「はい、高峰です」
私がそう答えると「高峰様、ご連絡取れました」と電話の向こうで女性が誰かに伝達する声が微かに聞こえた。
「申し遅れました。こちら、大学病院の井本と申します。…色々とお話しなければならないことがあるのですが、お時間が無いので用件のみになります事をご容赦ください」
そこでようやく、私は電話口の相手が看護師であることを知った。彼女は焦っているのか、新人なのか。大学病院と名乗るだけで、どこの病院かは告げなかった。私は後者ではないかと推測をしながら次の言葉を待った。看護師が続けて発した言葉は、言葉にすれば至極単純だった。
「美沙様のお父さま。昭雄様が現在、危篤状態にあります」
看護師が口にしたのは、久しく聞く父の名前だった。
「このような状況になるまでご連絡をしなかったことをお詫び申し上げます。本人の強い意向がありまして、自分が死ぬまでは娘には連絡しないで欲しいと頼まれておりました」
淡々と話を進める看護師に反して、私の頭では幾重にも情報が錯綜した。
「父は今、どんな状況なんですか?」
困惑の中から出てきた言葉はそれだった。病状より先に病名を尋ねるべきだったか。危篤というのは死ぬ可能性があるという事か。そもそも、危篤と言っているからには危険な状況に決まっている。重複する質問をして何になる。
私は自分の発言を省みた。言葉にした後でもっと良い質問の選択があったと思えても、頭の中を堂々巡りする選択肢はもう何の価値も持たなかった。
「…今夜が峠でもおかしくない状況です」
看護師は質問の重複を指摘することも無くそう答えた。落ち着いていて、冷静な声は不思議と冷たさを感じさせなかった。喉先まで出かかった、なぜ。という言葉を私は飲み込んだ。その、なぜ。は何処に向けようとした言葉なのか、その後にどんな言葉を続けようとしたのか。私には、はっきりと分からなかった。
「詳しいお話は後ほどこちらで致します。何よりもまずは、可能であれば病院に向かわれてください」
そう言うと看護師は早口で病院の住所と病室の番号を口にし、エントランスでの受付の手続きを簡潔に説明して電話を切った。
私はほんの寸刻の放心の後、財布とスマートフォンだけを放り込むように鞄に詰めて、着の身着のままで飛び出した。
電車に揺られる数時間が、長く引き伸ばされているように感じた。時折、大きく揺れる車体が私の焦燥を煽った。幾度かの乗り換えを経て、大きな駅から小さな駅へと向かっていく。地元に近づけば近づくほどに車内の人影はまばらになっていった。大きなリュックを抱えた部活帰りと思しき学生集団が目について、その朗らかさに息が詰まりそうになった。私は逸らした視線を車窓に移した。鈍行の列車は緩やかな速度で走っていて、移り変わる景色の一つ一つが鮮明に目についた。見知った駅や、ファストフード店の看板といった景色が目につき始めると、否応でも記憶の奥底を刺激された。やがて、目を開いていることすら億劫になり、私は暗闇へと逃避した。
病院に到着したのは夕方過ぎになった。エントランスの受付で名前を告げると受付室から一人の看護師が出てきた。彼女の胸の辺りに提げられたネームプレートに井本と書いてあるのが見えた。電話をくれた看護師だという事に気づき、私は小さく頭を下げた。井本さんはそれに対して、深く一礼を返した。
「お電話いたしました、井本です。私が病室までご案内します」
彼女はそれだけ言って踵を返した。私は足早に目の前を歩き出した彼女の背中について歩いた。
病室に入ると経験したことが無いような重苦しい雰囲気が流れていた。部屋の中央辺りに大きなベッドが置かれていて、そこに父がいた。その脇に白衣を着た男性が立っていて、私を見るなり頭頂部が見える程に深く頭を下げた。
「申し訳ございません、力及ばず…」
男性の胸のネームプレートには吉田という名前の他に、医師であるからか看護師のモノとは違った記載が幾つかあった。吉田医師は下げた頭を一向に上げようとせず、幾度も私に謝罪を繰り返した。
「いえ、私が間に合わなかっただけですから。どうか、頭を上げてください」
放っておくと、いつまでも頭を下げ続けているような気がして、私はそう声をかけた。吉田医師はゆっくりと頭を上げ、私を見つめた。
「…本来であれば、美沙さんにはもっと早くご連絡を差し上げるべきでした。しかし本人の御意向が強く、死ぬまでは娘には連絡をするなという風に幾度も言われておりました。生前、娘には縁を切られているという風にもお話されておりましたので、ご家族に何か事情があることも分かっておりました。そのうえで、危篤などの場合のみご連絡を行うというように私が判断を取りました。昭雄さんは、最期の瞬間まで懸命にご自身の病状と戦っておられました。総て、私の落ち度です」
だんだんと声は尻すぼみになっていき、言葉が途切れると吉田医師は再び深く頭を下げた。その態度から、医師と患者としてではあるが、彼の方がよっぽど父と真摯に向き合っていたのが分かった。私よりも一回り大きな身体が、私に責められることを覚悟してか、小さく震えていた。
親と子としての向き合いをしなかった私に、彼を非難する権利などあるはずも無かった。下げられた頭が只々虚しく、自身の愚かさを晒され、胸が焼け落ちてしまいそうだった。父と向き合わずに逃げ続けて、誰に迷惑をかけるわけでもないと高を括っていた。浅はかな考えだけをもって、むしろ迷惑を被っているのは自分だと、私はどこか被害者面さえしていた。父の死をもってして気づいた。私には何も見えていなかった。私は何も見ようとしていなかったのだ。
いつからか自分はいっぱしの大人になったと錯覚して、正しい人間であるかの様に振舞ってきた。私が描いた青写真はまだ青いままだというのに、もう色づいていると思い込んでいた。父が死んで、初めて私にはそれが見え始めた。
「…ごめん、なさい。ごめんなさい」
口にして安っぽい謝罪だと思った。それは自分の重荷を少しでも軽くするための自己満足の謝罪であって、何を悔やんで、誰に向けて発したのかさえ分からなかった。しかし、取り消そうにも一度発した言葉は既に霧散して、私の手の内には戻ってこなかった。
「…どうか、顔だけでも見てあげてください」
後方から私にそう促したのは井本さんだった。彼女は動揺を見せることなく、穏やかな雰囲気を保っていた。温かな眼差しと柔らかな声が自分に向けられていることが申し訳なかった。自分の心持ち一つで、他人の真摯さや親切さがこんなにも尖って見える事があることさえ、私は知らなかった。私は何か知っている風に振舞うのが得意でも、本当は知らない事ばかりだった。
伝えると受け取るの間に生じる大きな乖離について考えてみると、ふと私と父の間にもそういう事があったのではないかと思えた。けれど、その問いに答えを出せるほど私は父を知りはしなかった。そして、もう答え合わせすらできないのだ。
私は固まってしまった足を地面から引きはがすように、鈍重な足取りでベッドの方へと近づいた。父の姿は数年前に見た時よりも更に老いているように見えた。刻まれた皺や、瘦せこけた頬や、枯れた肌が、私の知らない父が生きた時間そのものに思えた。
「…様々な事情があられたのでしょうが、おひとりで入院の準備から院内での生活に至るまでをこなされていて、本当に強いお方だったと思います」
吉田医師は父の顔を眺めるようにしながら言った。その言葉からは、私に対しての社交辞令じみた意味合いを孕んでいるようには感じとれなかった。
私にとっての父は弱い人間だった。弱いからこそ宗教に流され、見苦しい程にそれに縋り、醜い程に落ちていったのだと思っていた。しかし、吉田医師は父を強い人間だと評した。それは宗教関連の事情をよく知らないからこその意見であるかもしれない。彼が知っていたのは、患者としての父で、一部に過ぎない。それでも、吉田医師にとっての父は強い人だったのだ。彼の中では父は強い人間として生きていた。父を弱い人間に仕立て上げたのは、他でもない私自身だったのではないか。
その問いは核心とともに私の胸を衝いた。私は濁った色眼鏡を通してしか父を見てこなかった。見えるままでなく、見たいがままを見てきたのだ。
それに気づいてしまうと、自分の意思すら何一つ分からなくなった。父に対して抱いていた感情のどれが正しくて、どれが偽りのないモノであったのか分からなかった。いつかの日に父に向けた憎悪や怒りという単純明快に思えた感情さえも、不明確な答えを一時的に委ねるためだけのモノだったのかもしれないと思えた。だとしたら、私はなんて滑稽で愚かだったのだろうか。
私は父の顔を眺めながら涙を流した。自分にその資格があるとは思えなかったが、感情とは別の次元でそれは流れていた。悲しみとは違う場所にある涙の意味を知る者は、私を含めて誰一人いなかった。
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