第2話
転機は私が二十三歳を迎えた年の冬に訪れた。その頃の私は身に余るほどに思えていた幸福にもすっかりと慣れ切ってしまい、あさましくもその先を求めるようになっていた。幸福の浴槽に肩まで使ったうえで、更なる幸福を望んだのだ。進さんとの付き合いは続いていて、彼がどう考えていたのかは分かりようもないが、私はより深い関係への発展を空想するようになっていた。つまりは結婚であり、そしてその先で授かる新しい命のイメージをぼんやりと夢想していた。思い描く未来は煌びやかであると同時に、空想の世界でさえも自分が母親になるという事にイメージが湧かず、不安を感じることもあった。
私にとって母親という像の輪郭は酷くぼやけていた。私の中で生きる母親とは記憶の中の生物だった。その記憶さえも大部分は曖昧なままで、なぞるような形すらはっきりとつかみ取ることはできなかった。
加えて、私には結婚に際しての懸念もあった。私は避けては通れないであろう両家への挨拶を思い描いては、頭を抱えていた。進さんには両親が離婚していることは伝えていた。ただ、父親が宗教に深い信仰を抱いていることは話題に出したことも無かった。
この頃の私は、父の存在を疎ましく思い、ふとした夜には、消してしまいたいと願ったことさえあった。
進さんと二人で街を歩いている時に、怪しげな集団に声をかけられたことがあった。私は一目で、それが宗教の勧誘なのだと分かった。集団は一様に、経典なのか冊子なのか分からない本のようなモノを胸の前あたりで大事そうに抱え、道行く人にティッシュ配りの要領で怪しげなチラシのようなモノを配っていた。そのプログラムされているかのような動きは、私に集団行動を思わせた。本来、統率の取れた動きというのは綺麗に見えるはずであるのに、集団の動きからは不気味さしか感じ取れなかった。目の前に立ち並ぶ、張り付いたような笑顔が薄気味の悪さに拍車をかけていた。
集団の中には父と同じくらいの年齢に見える人もいれば、私と同じくらいに見える人もいた。老若男女を問わない多様性の尊重と言えば聞こえはいいが、その実態は老若男女を問わず飲み込み、腐らせかねない深淵の一端だった。
ふと父もどこかでこんなことをしているのだろうかと想像してみると、その画が鮮明に思い描けてしまって堪らなかった。
そんな私の焦燥を他所に進さんの対応は怖い程に淡々としていた。
「申し訳ありませんが、大丈夫です」
爽やかな笑みを浮かべ、穏やかな口調でありながら、それでもきっぱりと拒絶の意思を示すと私の手を引いて歩き出した。屹然とした態度が、両者の間に生じた権威差のようなものを一瞬で明確にしていた。進さんに声をかけてきた男もすっかり怯んでしまったようで、それ以上何も言ってこなかった。
私は手を引かれながら、ゆっくりと進さんの目を盗み見た。彼の目に宿っていたのは怒りだとか不満だとか、そんなモノではなかった。
侮蔑や呆れ、憐れみ。そんな風に形容することが出来る種類の感情よりも先行して、何よりも明確に相手を見下しているのが伝わってきた。
(あんな胡散臭いモノに熱中できる人間というのは、暇で馬鹿なんだろうな)
それは私が頭の中で勝手に作り出し、進さんに吐かせた科白だった。実際には誰が口に出したわけでもないが、私には進さんの目がそう私に語り掛けているように思えた。それは爆弾に触れるようで、もし少しでも私が彼らを批判する方向に刺激すれば、進さんは嬉々として賛同するのだろうというのが感覚で分かった。私は世にも恐ろしい経験をしてしまって、あたかも萎縮したかのように振舞い押し黙った。進さんは私の態度に気づくと気を利かせて、握った手に込める力を強め、話題の転換を図ってくれた。握られた手の温かさが、彼の冷めた目とあべこべで、背筋を貫かれたように悪寒が走った。
進さんは父にも同じ目を向けるのだろうかという事を考えると、次第にその目が自分に向けられているモノに思えた。そして、私は自分が父をどんな目で見ていたのかという事も考えざるを得なかった。ただ、私の目は外側しか向いておらず、そんなことは分かりようも無かった。
それでもなお、私には物事を楽観的に考えている節があった。あるいは楽観的に考えることで無意識の内に、ヘドロのような本質のどす黒さを和らげようとしていたのかもしれない。早い話が、臭い物に蓋をしていたのだ。
自分が説得すれば宗教なんて止めるはずだ。少し腹を割って話す時間をつくればいい。話さえすれば父もきっと分かってくれると、私はそんな風に甘く考えていた。父から逃げた分際で、父を遠ざけておきながら、そんな淡い期待を抱いて、問題を傍観するのも解決するのも自身の手の内に在って、気持ち一つでどうにでもできるものだと思っていたのだ。
そんな心持で私は近況報告と説得を兼ねて、数年ぶりに帰省することを決めた。比較的気候が温暖な地元には珍しく雪が降っていて、記憶の中の風景とは移り変わった街並みを彩る白銀は、私を知らない街に連れてきたかと惑わせた。
シャリシャリと音を立てながら雪面に靴跡をつけ、学生時代に友人たちと屯していたコンビニが跡形も無くなっていたことに侘しさを覚えた。最寄駅から家までの道中は記憶のすり合わせをしているようだった。銀世界の景色がその解像度を朧気にしていたが、失われたモノと遺ったモノはよく目についた。そしてそれらは一様に、時間の経過という現実を私に思わせた。
私は真っ白な歩道を歩きながら指を折って数えた。丁度片手で足りる年月は、長いのか短いのか分からなかった。
インターホンの前に立ち、深呼吸を一度した。細く、長く吐き出した息は色を纏って、煙草の様に目の前で燻った。
意を決し、インターホンに手をかけると、その音と重なるようにドアの向こうから足音が聞こえてきた。
「…おかえり」
半開きになったドアから姿を見せた父が言った。
「…ただいま」
私は何の気なく言葉を返すことが出来た。脊髄反射にも似た返答だったが、それでもひとつ胸のつかえがとれるような安心感があった。
父の顔をよく眺めてみると、昔よりも皺が深くなっているのが分かった。変化は一度目につくと、目元のたるみや、髪に混じった白髪の一本一本までもが気になり出した。心なしか全身がやせ細っているようにも見えた。
「ちょっと老けた?」
「もう五年も経ってる。そりゃ、老けもする」
そう言うと父は私を家の中へと招き入れた。間取りも内装も何一つ変わってない実家は、街並みと比較するとその空間だけ時間が止まっているかのようにも思えた。
「今日は泊まってくのか?」
「ううん、決めてない。夜には帰るかも」
「そう、晩飯は?」
「それは食べようかな」
フローリングの廊下を踏み鳴らす足音がゆっくりと私の耳にまで届いてきた。それは父の出す音ではなく、私の足音だった。父は摺り足のように足を動かしながら独特な歩き方で歩いていて、足音をほとんどさせなかった。
「私、先に仏壇にお参りしてくる」
「そうか。ライターは線香が入ってる箱の中にある」
そう答えると父はリビングの方へと足を向かわせ、私は仏壇のある座敷部屋の方に向かった。
座敷部屋には仄かに線香の匂いが染みついていた。私は仏壇の前に腰を下ろし、箱から一本の線香とライターを取り出して燭台の蝋燭に火を点けた。
香炉に線香をあげ、両手を合わせて仏壇と向き合った時に小さな違和感を覚えた。意識しながらよくよく観察してみると、位牌やら湯呑やらの位置が記憶の中とは違っていた。
そして何より、覚えのない仏具や装飾が増えていた。街の変化よりも、その変化は明瞭だった。嫌な予感がして、私は仏壇付近の小さな木箱に収納されている父の数珠を確認した。父の数珠はまるで宝石のような綺麗な翡翠色をしていて、子供ながらにその色を綺麗だと感じた記憶があった。
しかし今、私の目の前にある数珠は深い茶色をしていて、見覚えのない梵天のようなふわふわの塊がくっついていた。数珠をそっと木箱の中に戻し、見なかったことにするかのように蓋をした。鼓動が徐々にはやまっていって、悪い予感というのが血液中に溶けて全身を巡っているようにも思えた。父の顔に刻まれた皺と同じように、ここにも私の知らない生活や時間が流れているのだと思うと、それを知る怖さに襲われた。
「…ちょっと散歩してくる」
リビングの父にそう告げて、私は足早に家を出た。雪面の上に一歩二歩と足跡をつけ、徐々にその間隔を広げ、焦燥感に駆られるままに走りだした。不穏で得体の知れない何かが私のすぐ後ろをついてきているような気がした。振り払おうと足に力を込めて、力強く雪を蹴りあげながら走った。視界を揺らして、私がどんな速度で走ろうとも、それは背中にぴったりとくっついてきているのが分かった。五分もしない内に走ることの無意味さに気づいて、私は歩を緩めた。足跡の間隔がまた短くなって、そうしていると飲み込まれてしまうような感覚に駆られた。逃れるように私はまた少しだけ走って、脳内を空にしようとした。乱れる呼吸は、私に一時的な安楽をもたらしてくれた。それでも、脳がその無意味さを知覚する頃に、私は再び歩を緩めた。
幾度かそんなことを繰り返していると、断続的な刺激が足の裏に痛みと温かさを与え始めていた。それを皮切りに全身が疲れを認識し始めて、私は深く息を吐いて帰路を歩き出した。
玄関のドアを開くと夕食の香りが鼻をくすぐった。リビングには二人分の食器が運ばれている最中で、私は何か手伝う訳でも声をかけるわけでもなく、洗面所で手を洗って席についた。
「少し早いが、今日帰るかもしれないと言ってたからな」
父はそう言いながら私の対面の席に腰を下ろした。私には聞きたいことが山ほどあって、どれから切り出すべきなのか見当が付かなかった。胃の奥の辺りからせりあがってきた言葉は胸のあたりを圧迫して、喉元を過ぎる頃には掠れた呼吸になった。深い沈黙が場に浸透して、小さな食器の音だけが鳴った。無機質な音は、更に私の喉を締め上げるようだった。緊張を誤魔化そうと飲み込んだ味噌汁と一緒に、言葉もまた奥深くへと沈んでいった。
「…あのな、俺、再婚しようと思うんだけどな」
沈黙を破ったのは父の言葉だった。咀嚼の合間からぬるりと吐き出されたその科白はあまりにも自然に流れて、思わず聞き逃してしまいそうだった。
「えっ。…どういうこと?」
「実はな、少し前からお付き合いしてる人がいて。二人で話し合って、これからの色々な事を考えた時に、一緒になるのがいいんじゃないかって」
父の突然の告白に、私の理解も思考も追いついていなかった。頭の中で再婚という言葉だけが独り歩きしていて、それが意味する事というのは、赤子が四つ足で歩くようにゆっくりと伝わってきた。
ようやくそれが脳に到達するころに、全てが臨界点に達する感覚があった。ここまで秘匿にされていたことに対する怒りが生まれ、仏壇の変化に対する疑問や、宗教に関する猜疑心と混ざった。身体の至る所が熱くなって、沸々と煮えたぎるモノが今か今かと排出の瞬間を待っていた。
感情と言葉は堰を切ったように溢れ出してきて、脳での取捨選択を待たずして口を衝いて出た。
「二人で話し合ったって…二人って何? それって、私には全く関係のない事なの? 私、相手の名前も顔も知らないんだけど」
「すまん、何も隠してたわけじゃない。ただ、上手く話せるようなタイミングっていうのが中々無くて。もちろん、いつかちゃんと紹介しようとは思ってたんだけどな」
「…紹介? 何、紹介って? 私の新しい母親ですって紹介でもするの?」
私は完全に冷静さを失っていた。言葉よりも先に感情が顕現してしまっていて、口から出る科白はそれに付随しているに過ぎなかった。
「別に、無理してそんな風に呼ばせるつもりなんてない。向こうもそうじゃなくて、お前とは一定の距離を保って関係を築けたらと言ってる」
「一定の距離? 今、一方的に私の存在だけ知られてることが一定なの?」
「それは…これから追々知っていけば良いだろう?」
父はその表情にほんの少しだけ申し訳なさを滲ませ、僅かに眉を下げた。困惑しているようにも見える表情が、私に悪を押し付けているように思えた。
「何でそっちが困ったような顔できるの? 私が悪いの? なんの説明もなく勝手に話進めて、理解してくれなんて通る訳ないでしょ」
「お前が悪いなんて言ってない。話すのが遅れたのは、全面的に俺が悪い。だから、その分をこれからで埋め合わせたいと思っている」
「…これから、これからって。不確定な未来の話で誤魔化さないでよ」
私は感情の赴くままに食卓を殴打した。控えめに加減したつもりだったが、想像よりも鈍くて強い音が鳴って、椀の中で味噌汁に波紋が広がった。憤りの中でも視界だけは良好で、衝撃に父が小さく肩をあげ萎縮したのが見えた。
「…大丈夫、咲子さんは優しい人だから。初めて会った時も、会場で困っていた俺を助けてくれて。それからも何かと助けてくれている。…だからきっと、美沙とも上手くやれると思う」
「…会場?」
そう尋ねる私の声は、怯えを孕んだ父の声よりも幾段と震えていた。そこには悪い想像が形になってしまう事への恐怖があった。
「そうだ。彼女に初めて会ったのは総会の時でな。それから、住んでる地域が近い事が分かって集会でも話をするようになって。あぁ、総会と集会の違いというのは、厳密には難しいんだが…。とにかく、それも含めて三人でゆっくり話をしよう」
父は水を得た魚の様に急に饒舌になった。宗教の成り立ちや意義。崇めている神の教えなど、私が聞いてもいないことを嬉々として語った。そもそも、という語り出しから説明口調で口々に飛び出してくる知らない単語の意味を、私は知りたいとも思わなかった。
私の中で、完全に糸は切れてしまっていた。その理解を放棄することは父に対する理解や期待の放棄に等しかった。その瞬間に初めて、自分が手の中に握っていると思っていた選択がいつの間にか霧散していたことに気づいた。私は空を握っていることにも気づかずに、ただ拳を握りしめているだけだったのだ。
「分かった。…もういい」
硬く握りこんだ拳からふっと力が抜けて、全身の熱が急速に引いていくのが分かった。諦念が血液の何倍もの速さで私の中を駆け巡った。
「宗教も、再婚も、全部好きにすればいい。…その代わり何があっても、もう私には関係のない事だから」
「…元々、お前に何かして貰うつもりはない。入会を強制するつもりもない」
私の言わんとしている意図が父に正しく伝わっているのかどうか分からなかった。けれども、それすらもはや関係の無い事だった。もう、関わり合わない。親子でなくなることも厭わない。その決断を下すことに迷いは無かった。
私は空になった食器類を重ねてシンクまで運んだ。一番上に重ねた小さな茶碗には米の一粒も残っていなかった。
「じゃあ、帰るね。…多分、もう帰って来ることは無い」
「…あぁ、そうか。悪かったな」
父は呟くように言った。その言葉は何に対しての謝罪なのか分からなかった。
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