独白
糸屋いと
第1話
今思えば、それが若気の至りであったと回顧することが出来る。高校を卒業すると同時に社会に出た私は、右も左も分からぬままに社会を構成する一員となり、分不相応なその身に社会人と言う名前を付けられた。たったそれだけのことで、私は社会や人生を知った気になっていたのだ。
父は弱い人だったのだと思う。だった。と断定することが出来ないのが、私の弱さであり、父との距離感をそのまま映し出している鏡のようである。私が父について断定できることは少ない。それは、私が父という人間を理解できてなどいなかったからだ。だから、私が父について語る時は、そこに多くの憶測を含む。
私が父の弱さを認め始めた頃、私は青く痛い時期に在った。まだ、私は学生服に身を包んでいた。
私たちは各々が抱える問題を衝突という形でしか向かい合わせることが出来なかったのだと思う。また、当時の私はそれに気づくことすら叶わなかった。責任の一端を受け入れることすら拒み、一から十に至るまでの総てを父に押し付けた。それに正しさを覚え、自身の真っ当さを疑おうともしなかった。
思い返せば、思い返したくもない事ばかりだ。
私が高校生であった頃について語る。
学校という閉鎖的な空間で、絶対的権威者であるかのように振舞う横暴な教師たちは、勉強以外には何も教えてはくれなかった。
「先生たちは生徒の一人ひとりを見ているぞ」
彼らが度々口にしたそんな戯言を私は腹心で笑っていた。彼らは少し伸びた前髪だとか、ほんの少し折り込んで短くなったスカートだとか、薄い色付きのリップだとか、仄かな香水の残り香だとか。そういったモノにはとかく敏感であったが、心内に問題を抱える人間の孤独や苦難というものにはひどく鈍感であった。彼らがそろって口にした「見ている」というのは、保護観察の意味合いではなく、監視の意味合いでしかなかった。救いの言葉のように投げかけられたそれは、ただの脅し文句だった。
それに気が付いたのは入学して間もない頃で、私の三年間の高校生活は苦痛を極めた。大人に対して募らせた不信感を、思春期の一言で片づけられることすら不快だった。理解の姿勢を投げかけられさえしない状況に、諦念と哀しささえ覚えた。
どれだけ複雑な数式や化学式を覚えても、その式を用いて私と父の問題に解を導き出すことはできなかった。私は、ただ一般的に必要とされるという理由だけでそれらの知識を頭に詰め込んだ。黒板に記された内容をノートに書き写す。私にとって、日々繰り返すそれは単なる作業に等しかった。
進路選択の時期になって私は進学を拒んだ。成績は中の上程度であったが、大学という場で今以上に必要としない知識を得て、意味もなく頭を満たすことが馬鹿らしくさえ思えたからだ。
自身の家庭が片親であること、父にこれ以上の苦労や負担を強いたくない事、いち早く自立して恩返しがしたい事。私がそんな口から出まかせを並べるだけで、教師たちは私の事を立派だと褒め称えてくれた。
私には一刻も早く家を出たいという心算があった。それが実質的には問題の解決に繋がらないことは理解していたが、父から遠ざかることが出来るのであればそれで良いと思っていた。
高校生活において、私は外面だけは良かった。私が就職を希望していることと嘘で塗り固められた事情を知ると、進路指導の教師たちはこぞって手厚いサポートを施してくれた。学校や個人のコネで多様な就職先を斡旋してもらい、その中から給与や待遇を考慮に加えたうえで、出来るだけ勤務地が遠い会社に候補を絞っていった。
父は私の進路選択に口出しをしなかった。というよりも、正確にはしてもらえなかったという方が正しかった。父は、私の選択に異論が無いというよりも関心が無いようであった。私が就職先の話を持ち掛けた時も、新聞に目を向けたままで、私に向けられているのか、どこか虚ろな空間に向けられているのか分からない空返事をうわ言のように口から零すだけであった。
多感な時期にある女子高生という生物は、度々彼女らの母親に対する愚痴を零す。そこに例外はなく、多くない私の友人たちもそうであった。私はただ一人その話題についてゆけないことに、常に一抹の寂しさを覚えていた。
彼女らは母親が如何に嫌いかという事について、あるいは母親という人間が如何に煩わしいかという事について、ファミリーレストランのドリンクバーを片手に携えては、一時間も二時間も語った。誰かが誰かの愚痴に共感しては、また新たな愚痴やエピソードが繰り返される。恨みつらみを語っているようで、そこには私が父に抱えるのと同じ感情は見受けられなかった。
彼女たちが母親に抱いている感情。それはもはや深い愛情の裏返しではないのかと常々私は思っていたのだが、結局ただの一度も、友人たちにそう口にすることは無かった。
私は可も不可もない相槌だけが上手くなり、ただ会話の流れと空気を壊さない歯車になることに努めた。
時折、私の家庭の現状を突拍子もなく告白してしまえば、彼女らはどんな反応を見せるのだろうか。というような好奇心とも似つかない欲求が芽生えることがあった。どこかで、私は曝け出してしまいたかったのかもしれない。
しかし、押し黙った後の淀んだ空気も、猜疑心に満ち溢れた目を向けられることも、歯車としての役割と居場所すら失ってしまうことも。どれも容易に想像できた。私がその話をすることは無かった。
私は他人の優しさや無償の愛というのを信じることが、まるで出来ていなかったのだろう。例えば、相手の発言の真意であったり、言動の裏と表を考えてみたりすること。皆が当たり前にやっているそんなことが、私には煩わしくて仕方なかった。感謝の裏でいつのまにか針を刺され、謝罪の裏でひそやかに嘲笑を向けられる。いつどこで誰の侮蔑の対象になっているのかさえも分かりようがない。私は、世界はそういうモノだと思っていて、それを誰もがごく自然に取り扱っているというのが恐ろしくて仕方無かった。そんな後ろ指の指し合いのような関係下で苦悩を抱えてしまう私にこそ、何らかの重大な欠陥があるのではないかという考えが、より私を疑心暗鬼の沼に引き摺り込んだ。
そして何より、最も身近で、誰よりも強くそれを求めた相手からの愛情が希薄だった。あるいは、私の中でそれを感じ取るためのアンテナが馬鹿になっていたのかもしれない。ただ、当時の私にはそれすらどうでも良い事になっていた。
果たしていつからそうであったかを、私ははっきりとは覚えていない。
しかし、気づいた時には父の興味や関心、もっと言えば愛情を含む感情の総ては信仰という形に名前を変えて、私ではない所に向けられるようになっていたのだと思う。信仰に対しての父の傾倒が顕著になっていたのか、あるいは成長の過程で私が聡さを身に着け、それに気づけてしまうようになったのか。あるいはそのどちらもなのか。そういった総ての事柄が重なったのが、私にとっての高校生という時期であった。
そんな中で私は高校生活というのを上手くこなした方だった。未成年飲酒や喫煙というような分かりやすい非行に走ることも無く、部活動にも勉学にも意欲的に取り組んだ。まさに模範に近しい学生であったと思う。
仮に私が非行に走っていれば、誰しもが家庭環境に口を出しては不幸のレッテルを貼り付けていただろう。それこそが、私にとっては耐え難い苦痛だった。私の不幸に勝手に意味をつけられて、挙句の果てにはそこに同情を投げかけられる。両親に愛され、家庭環境に難を抱えておらず、温かな家庭ですくすくと育ち、疑いも苦難も無いような純粋な幸福を享受する者たちにとっては、それは手を差し伸べるかのような感覚なのかも知れない。ただ、想像してみると、私にとっては石を投げられているのと大差が無かった。
それは周囲から、私はなるべくして不幸になったのだと決めつけられることと同義に思えた。私にとって、強く、幸福を目指して生きることは一種の抵抗であったのかもしれない。今になって、ようやくそう思える。
話は、私が社会人になった頃に移る。
高校を卒業し、私は地方都市の大きくも小さくもないデザイン会社に就職した。教師たちに勧められて取得した幾つかの資格が評価されたのか、会計や経理を扱う部門に配属された。社会に出て真っ先に気づいたのは、その変化の少なさだった。学校と会社、クラスと部署、クラスメイトと同期。それらの要素はただ名前が変わっただけで、本質は何も変化してないように思えた。
故に、私は新しく特別な振る舞いを覚える必要も無かった。環境や場所が変わっただけで、私そのものに変化は何一つとして無かった。同期との会話に相槌を打ち、外面が良く見えるよう礼儀正しく振舞い、与えられる仕事を真面目にこなしながら、どこかで指される後ろ指が私に向けられないことを願う。
繰り返す時間が日々として私に定着し始め、そうして経験と年齢だけを重ね、成人と呼ばれる年齢も越え、徐々に若さを失い、後輩を指導するような新たな立場が与えられ、酸いも甘いも嚙み分けられるようになっていった。
一つ大きく変わったのは生活の基盤であった。就職に際して、私は家を出て会社が借り上げている社宅アパートの一室に住むことになった。狭いワンルームではあったが、父のいない暮らしという念願を叶えたのだ。
最初の一年こそ、どこかに違和感を覚えるような暮らしが続いたが、一年すればそれが私の暮らしになった。その時に、私は父のいない暮らしという夢のような空間にようやく順応できたのだと思った。あるいは、呪いから解放されたような気分だった。
私の生活は仕事一色という訳でもなかった。二十一歳の夏に、会社の二つ上の先輩と付き合い始めた。彼は宮野進といい、私は彼を進さんと呼んだ。爽やかな短髪で細身の長身。学生時代は厳しめの運動部に所属していたらしく、時折、喋り方や言葉遣いであったり、物事の考え方だったりにその名残を覗かせた。
進さんとの関係は、誰かの話に聞くようなありふれて普通のモノだった。休日に予定を合わせてデートというのを幾度か済ませ、お互いそれが手慣れてきた頃に身体を重ねた。ごく自然に築かれていく恋人という関係値を、私は普遍的なモノだと捉えることができた。また、頭の内のどこかしらで、それは私自身の普遍性を示す様にも感じていた。疎外感を覚えていたファミリーレストランと、受容感を覚える高級レストランには明確な違いがあった。その変化こそが、私の望んでいたことのような気がした。
進さんからの愛情を受け取っている時間は、父の存在を薄れさせた。それは、私の不幸が薄れていくことに等しく思えた。加えて、私は自分が一般的な社会人になれているという自覚を持てることに、少なからずの嬉しさがあった。
平日は真面目に仕事をこなし、上司に怒鳴られることもあれば褒められることもあり、自身の至らなさに嫌気がさすようなこともある。後輩が指導の意図をくみ取ってくれないことに怒りを覚えることもあれば、感謝の言葉を受けて穏やかな気持ちになれることもある。金曜の夜には同期と飲みに出かけて愚痴を零し合うこともあり、休日には恋人と予定を合わせてどこかに出かける。身体を重ねて互いの体温を分け合い、自身に向けられる愛情を全身で感じ取る。
そんな物語にはならないような普通の日々が、私にとってはこのうえのない幸福だった。比較すれば不幸とも呼べる日々を振り返れば、私には、それを確かに掴み取ったという実感があった。そう、掴み取ったのだ。
幸福がそこにあったと気づける人間は恵まれている。私は、それを掴み取らなければならなかった。身の回りに、溢れてなどはいなかったのだから。
簡単にそれを得てきた人には理解しがたいことかもしれないが、私はその小さな幸福を、アイスキャンディーを舐めるように、ゆっくりと少しずつ身体に溶かしていって、その身に染みわたるように味わった。繰り返す日々の中で、その幸福すらもゆっくりと当たり前へと変わり、私を構成する一部になった。
私は幸福が継続していくことに何の疑いも覚えてはいなかった。
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