3の倍数と3のつく日にバカになる上司

まさかミケ猫

3の倍数と3のつく日にバカになる上司

 いい大人がネズミ耳のカチューシャを着用しても許されるのは、例のテーマパークから三駅程度がせいぜいだ。


 掛井かけい舞子まいこの目の前には、その浮かれた姿を全力で晒している男がいた。双葉システム社のシステム企画部、部長の東郷とうごうである。

 執務机に積まれたレゴブロック。東郷は頭にネズミのカチューシャをつけ、口には何やらを咥えたまま、呑気に鼻歌を歌っている。


「……東郷部長。執務室は禁煙ですが」

 掛井は戸惑いながら話しかける。この会社に転職して三日目。職場の人間関係も構築しきれていない段階で、余計な口出しをするのは憚られたが、さすがに目の前のこれは無反応ではいられない。ひとまず一番当たり障りのない部分から切り込んでみることにしたのだ。


「これ、タバコじゃないよ。チュッパチャプス」

 東郷は口からチュポンとそれを取り出して、掛井に見せびらかしてくる。羨ましいかい? あげないよ? とでも言いたげな様子だが、掛井だって定年手前の部長の舐めかけチュッパチャプスなど不要だ。


 二十代半ば、前職のブラックさや人間関係に嫌気が差してこの会社に転職してきたが、掛井は三日目にして早くも心が折れそうだった。


「掛井くんは、もううちの会社には慣れたかい?」

「いえ、まだ目の前の現実をどう受け止めるべきか態度を決めかねています」

 掛井の返答に、東郷はお気楽な顔のまま頷く。

「ゆっくり慣れていくといいよ。それよりどうだい、ボクと一緒にレゴでロボットを作ろう」

「結構です」

「今なら透明なブロックを全部譲ってあげるよ。本当はボクが使いたいんだけど、特別だ」

 これはドッキリか何かだろうか。掛井は周囲にカメラでも仕掛けられているんじゃないかと、あちこちに視線を向けるが、そういった類のものは見当たらない。


「掛井さん」

 朝の挨拶をしながら現れたのは、先輩社員の鈴森すずもりだった。

「早速洗礼を受けてるみたいだね」

「洗礼? 私を小馬鹿にして楽しむのが?」

「違う違う。初日にも一応説明はしたんだけど、やっぱり信じてなかったか。まぁ、普通は信じられないと思うから仕方ないけど」

 そして鈴森は、近くにあった卓上カレンダーを手に取る。


「部長は、3の倍数と3のつく日はバカになるんだ」

 転職先を間違えたか、と掛井は後悔し始めた。


「いきなりのことで、驚いたろう」

 執務室脇の小さな会議スペース。鈴森は掛井に缶コーヒーを差し出す。

「東郷部長はとても優秀な人だ」

「優秀なレゴ職人ですか?」

「いや、レゴの腕前は微妙かな」

 鈴森は小さく笑い、自分のコーヒーの蓋を開ける。

「普段の部長。つまり、3がつかず、3の倍数でもない日の部長のことだけど。あの人は非の打ち所のない完璧な上司なんだ。物腰が柔らかくて、他部署との調整が大得意。部下の仕事もしっかりフォローしてくれる」

「それ以外の日は?」

「部下仕事をしっかりフォローしてるよ」

 掛井はうーんと唸る。たしかに、昨日と一昨日の部長は、転職してきたばかりの掛井にも理解できるほど優秀な上司に見えた。だからこそ、今朝の様子には驚愕してしまったのである。

「たぶん、来週なんかは大変になる」

「来週?」

「カレンダーを見てくれ」

 差し出された卓上カレンダーに視線を落とす。

 月曜日が十二日、火曜日が十三日、木曜日が十五日。なるほど、平日のうち三日も東郷が使い物にならないのだと、掛井はすぐさま理解した。

「東郷部長は、どうしてクビにならないんです?」

 そんな疑問がつい口をつく。

「あれで、みんなから愛されてるんだよ」

 鈴森の回答はシンプルだ。

「東郷部長は元々子煩悩な人だったらしい。仕事はバリバリにできるけれど、家に帰るとスイッチが切り替わって、子どもと一緒になって遊ぶような」

 それがどうしてあんなことに。掛井の疑問に、鈴森は少し間をおいてから、ゆっくりと答える。


「なんでも、お子さんが亡くなったみたいでね。詳しいことは僕も知らない。ただ、それから数年は、仕事スイッチを入れっぱなしで走り続けたらしいんだ。当時で言う猛烈社員ってやつかな」

 それがある時、フッと糸が切れたようにバカになってしまった。当時の社長が心配して、一時は東郷を休職させて心療内科に通わせていたらしい。

「3の倍数と3のつく日だけバカになる。そうして強制的にスイッチを切り替えることで、東郷部長はどうにか心のバランスを保っているんだ」

 掛井は静かに頷いて、缶コーヒーを一口飲んだ。

「事情は理解しました。受け入れるにはまだ少し時間がかかりそうですが」

「そうだろうね。僕も新人の時は、馬鹿にしてるのかと憤ったものだよ。まぁ、掛井さんもそのうち慣れるだろう」

 鈴森は椅子から立ち上がり、ふと何か思い出したような顔をして、掛井の顔を覗き込む。

「それと、来月は忙しくなるから覚悟しておいてね」

「来月?」

 掛井の問いに、鈴森はため息で答える。


「うちの部署、は特に地獄だから」

 そう聞いて、掛井は気が遠くなった。

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