第6話
「結局、シュカ来なかったわね...。」
結局、本日来栖シュカが登校してくることはなかった。奴が来た時、私のモーニングコールを無視した腹いせにどのように辱めてやろうかと思考を巡らせ、首をろくろもかくやと長くして待てど、実際に伸びたのは校舎の陰及び私の鼻の下のみであった。なんとも儚く惨めな惨状か。更にシュカからチャットにて連絡が来たのも今日の午後3時ほどであり、「ごめん、見てなかった。」とのことだった。酒や女におぼれた若者はそのような生活習慣になるとは聞いたことがあるが、お前はいったい何におぼれるというのだ。未成年だろうが。
私は窓の外をじっとりとした視線で睨めつけながら、気だるそうに頬杖を突く。その姿のまま、窓にふうっと息を吹きかけても、窓は曇る様子すら見せず、爛々とまだ高い日差しを浴びせ続ける。そんな太陽からの熱いラブコールを全身に受け止め続ければ、一心不乱な超火力によっていかに頑強な私の肌と言えど、その城壁は哀れにも崩れ落ちていくだろう。
私は手元に置いたカバンからポシェットを取り出し、薄ら笑みを浮かべる。人類がいまだに克服することが出来ない、その崩壊から逃れる術こそ日焼け止めである。なんともこれはあの来栖シュカの一押しであり、ブランドや化粧品に疎い私に対する施しのようなものである。おかげで今日も今日とて体調良好優良少女を醸し出せることは間違いない。
しかし品行方正とまではいかないのが、なんとも私らしいと言えば私らしい。今日の朝、学校の寮で大きすぎる声を出したため、出入り禁止を言い渡されるところであった。これは寝起きのシュカの拝謁が不可能になることを示しているため、どうにかこうにか取り消してもらったのだが、そのせいで奴に大きな貸しを作ってしまうことになるとは、いやはや些か苦労に耐えない。
そんなことを考えながらまた大きなため息を一つ。
「昨日といい今日といい、とんだ厄日が続くわね。お払いにでも行こうかしら。」
「やあ、溜息少女。どうしたんだいそんなにハアハアして。もしかして発情期ってやつなのかな?」
「この現状見て動物の発情期と捉えるのなら、今すぐ生物部は退部するべきよ。絶望的に向いていないわ。」
「そんなひどいこと言うなよ~。朝の寮の件でかばってあげたでしょ~。」
にへらにへらと歪に笑い、飄々な態度を表しながら春風美空ははにかんだ。年から年中制服の上に白衣を着続けるその姿勢に私は尊敬を当の昔の通り越し、今では辟易の域に達している。
私が朝の件で、迷惑行為を働く寮外の生徒として理路整然とした手続きを経て職員会議にて決議されようとしていたところ、その一手に待ったをかけたのが春風である。正直、こいつに貸しを作りたくはないというのが本音ではあるが、シュカの部屋に行けなくなることのとこれを天秤にかけたとき、わずかに傾く心があったのは否定の使用がない。
「それはそれ、これはこれよ。あとどんな手を使ったのよ、あんな無茶苦茶な言い文が通るなんて。」
そう、こいつと私が当事者として職員会議に同席したとき言ったのは非常にシンプルである。「そうやる必要があったから、彼女はそうしたに過ぎない。それは私が保証する。あの声は私の提案で行ったものだ。」という言葉を伝えたのみである。その言を最後に私たちは教室に押し戻され、気が付いた時には私の寮に対する勧告は霧散していた。
「さてね、これが生物部部長の特権ってじゃないのかい?」
「んな訳ないでしょ。あんた別に生物部で息してるだけじゃない。特に部活動報告とか出てないし、そんな権力ありえないわよ。」
「厳しい、なかなかに厳しいな。いいんだぞ、私はここで大声で泣いても。周りの目など気にもせず、鼻水まき散らしながら暴れる女子高生がお望みかい?」
「やめなさい、私が悪かったから絶対にやめなさい。」
ふふーん、と両の鼻の穴から大きく風を吐き出せば、そこには彼女の深い満足が感じられる。
先のあられもない姿を私の前で披露しようものなら、私の遡行に問題ありと判断され、今朝霧散した出禁勧告がまたしても形を以てしまうかもしれない。しかも今回は春風の手助けナシとみては、これを覆すのはなかなかに絶望的になる。
本日三度目のため息をこれ見よがしに吐き出せば、にやにやとした面で彼女は語りかけてくる。
「またまたそんなため息ついて、幸せが逃げちゃうよ。」
「そういう都市伝説とか、名前だけだけだろそれは。事象に関連した類の言葉があるだけで意味はないわよ。」
「ん?いやいや。」
そんな私のどうでもよい持論を、春風美空は反論してきた。おや、と思いあ彼女の方を向きなおしてみれば、先ほどまでののらりくらりとした態度ではなくいたって真摯である印象を受ける。まるで世界大会開催の狼煙を上げる最初のランナーの宣誓の如きその態度である。黒縁の眼鏡の奥からこっちを覗く眼差しに、確かな熱を帯びている。
「意味はある、意味はあるんだよ、神木哀。事象と名称は一本の糸でつながれているんだ。それがどれだけか細く手も確かにね。」
「ふーん......」
私は彼女の熱意に押され、何も反論することが出来ないままうなずくことしかできない。我が憐憫のくせっけの前髪を、右手でくるくると回しながら横顔でその言を流しつつ。
「私はこの名称と事象のつながりに運命的なものを感じているんだ。こと特に生物の営みに関するそれにね。だから私は生物部の部長を務めているんだよ。この興味の果てに何があるのかを知りたいからね。」
「結構な熱意ね。なんでそんなに熱量あるのに報告会とかに出ないのよ。部員も一人もいないし。」
「いないんじゃなくて、必要がないんだよ。おそらく、理解されないからね。......そうだ、せっかくお話してボルテージが上がってきたんだ。せっかくだし生物部おいでよ。歓迎するよ。まあ、私一人だけどね。」
「ええ~、そのテンションで行くなら帰りたいんだけど...絶対に面倒くさそうな予感がするわ。もはや確信ね。」
けだるそうに机に突っ伏した私に、春風は上ずった声で問いかける。顔は見えないが、おそらくニタニタと趣味の悪いそれを顔に張り付け、勝ち誇っているに違いない。
「おいおい、朝の職員会議の件、忘れたわけではなかろうねえ。」
事実、このカードが場に出てしまえば、私はこれ以上コールなどできない。どこからでも盤上におけるクイーンがあれば、早めに自分のキングを倒しておくべきだ。これ以上の抗争は意味をなさないのだから。
「わかった、わかったわよ。付き合うわよ。生物部見学。」
ふはは、と目を細めながら彼女は朗らかに笑う。その瞳には深い満足がまじまじと見て取れた。
突拍子もないこのようなイベントが発生するから、彼女に貸しはあまり作りたくなかったのだ。まあ、今に始まったことではなかったのだが。
「さて、善は急げと言うし、早速我が生物部へ案内しようじゃないか。」
そのまま踵を返し、美空はルンルンと歩き出した。その跡を追うように私も彼女の足跡をたどって生物部の部室を目指す。
教室を出てすぐ右に曲がり、突き当りを右へ。そのまままっすぐ進むと右手側に1階と3回に続く階段が姿を現す。生物室は1階にあるため、のそのそと階段を下る。その際1階と2階の間の踊り場の窓から、まだこれでもかと多様の光が肌を刺す。10月といえどまだこの時期はつらいものがあるな、そう感じながら瞼を細めると、前を進む美空の胸の輪郭がぼんやりと地面に影を落としているのがわかる。彼女の亀の如き動きと連動して揺れる影を足蹴にしながら目的の部屋に向かう。
目指したそこは生物部部室、というか生物助手室である。隣にはもういつ使われていたかわからない生物室が沈黙を貫き通している。
部員がいないために新しく部室を用意されなかったのであろう、と私は看破する。それでもなお部員にこだわらず、かつ生物部の存続を是が非でも押し通すのは彼女なりの信念なのだろうか。それとも――
よいしょ、と言いながら鍵を差し込み、そのまま鍵の柄を掴んでガチャガチャと回す。建付けの問題か、ガタガタと音を出しながら苦闘する彼女を見れば、自ずと回答が出てきた気がした。
「......美空、あなた単純に腫れものとして扱われてたりしない?」
「え、何がだい?」
「ここ生物の授業で使ってた教室でしょ。しかも今理科の選択科目から生物ってほとんどだれも取ってないじゃない。変わり者の集まりって気がしてるけど。」
「腫物的な扱いをされてるってことはないと思うけど...そもそも人工知能AIが教育の管理をしているこの学校で格差を与えてるってなったら、今の教育情勢を覆す大問題になるよ。平等さの前提が覆っちゃうからね。AIは絶対的な平等さを以て権力が担保されているんだから。」
「それは本当にそうね。でも生物選択者は変わり者ってことだけは本当だと思ってるわよ。少なくとも私はね。」
「まあ、今は他の生物の体研究するよりも、人工知能やそれを形成する物理現象や化学現象を学んだ方がいいとは思うよ、私もね。」
ここ「その他の土地」については、理科の選択科目が”一応”存在する。それは「物理」「化学」「生物」そして「AI」である。かつての選択科目については「AI」は存在しなかったが、人工知能が発達してからの昨今では需要が高まり、AIの基本的な作り方をはじめ、どのようにして作られているか、またそれらの持つ道徳的基準や倫理観の育成にはどのようなことを用いて判断しているかなど人工知能についての包括的な教育カリキュラムが更新されている。このAIのカリキュラムは「その他の土地」にはなかったものだが、未来機関がこちら側の教育に介入した際に組み込まれたものである。
人工知能に対する様々な面からの知識を体系的に会得することで、私たちが子供を持つようになった時に、AIに児童管理を任せることへの懸念や否定的な意見を封じ込める狙いがあるのではないかと考える。私たち子供目線では、試験管で作られているため親というものへの興味はないが、これが逆でも真であるという保証はないのだ。事実、過去児童養護施設にAIの全面導入が決まった際には反対意見ももちろん散見された。それこそデモの行進などもあったとかなかったとか。
そういった背景もあって選択科目ではこの「AI」ともう一科目を選択することになっているのだが、物理、化学そして生物をとる人の割合は、物理6割、化学3割9分、生物1分といったところだろう。つまるところ、非常にごくわずかであり、学校の一学年に一人か二人位ということになる。よっぽど生物というものに興味があったり、飽くなき探求心がある場合を除いて生物を科目として修める人はほんの一握りだけだ。
「ああなんだ、美空もそうは思ってはいたんだ。安心したわよ。...あといつまでやってんのよ、それ貸してみなさい。」
ガチャガチャと未だに金属のこすれる音を吐き鳴らす彼女の手から鍵をするりとwが手中に収めると、美空はなんとも情けない声で「ああっ」っと呟きながら私の後ろに一歩下がる。
私はそのまま鍵を刺し直し、反時計回りに一回転させる。すると「カチャン」という施錠が外れる音がしてドアが開いた。
「なんだ、普通に開くじゃないの。何に苦戦してたのあなたは。」
呆れ口調で美空の方をちらりと覗けば、彼女はばつの悪そうな顔をして唇を尖らせていた。
「いや、私も普通に開くもんだと思ってたよ。でも意外と固くってね比較的。まあ、私の筋力がないともいえるし、君の握力が想定以上ともいえるんじゃないかい?」
「閉めていい?ここ。」
そう笑いながら問いかければ、美空は手をバタバタさせて必死に抵抗の意思を示そうとしていた。「ああ~、え~、そうだな...」とあわただしく言葉を探している。それくらいならば初めから言わなければいいのに、なんともあわただしい奴だ。
「まあ、まあともかくせっかく来てくれてせっかく扉も開いたんだ。ゆっくり見ていってほしいんだ。私の可愛い子たちを。」
「...はあ...わかったわよ。見たら帰るからね。」
そうぼやきながら扉を開ければ、暗闇の最中でなんとも生暖かい風が肌を揺さぶり、微量な悪習が鼻腔を震わせる。顔をしかめるにはまだ遠いが、それでもはっきりと得体のしれない不気味な香りに身震いする。そんな中で後から入ってきた美空が電気のスイッチを探しているのが気配で感じ取れた。
「電気いきなりつけるとびっくりしちゃうから、光量をかなり落として豆電球タイプのをつけるよ。それとあんまり大きな声をいきなり出さないでね。」
「...なんか、まあまあ想像できて来たわ。なんにせよ、早く電気つけてちょうだい。」
はいはい、というやる気を感じられない返事とともに、暗闇の中パチンという小さなスイッチの弾く音が響く。その後、ゆっくりと部屋全体が豆電球で照らし出される。
「うへぇ~。シュカが見たら卒倒するような部屋ね、ここは。」
今やだれからも忘れ去られた科目の、さらに影が薄まる準備室。その正体は正に「生物部」の名前に恥じない姿へと魔改造を施されていた。
生物準備室いっぱいにケージやガラスケースが所狭しと陳列されている。否、その数は凡そ生物準備室だけの内包と外延に収まらないほどである。その数に文字通り舌を巻く。おそらく、隣の生物室の壁を貫き、横型に吹き抜けるような形をすることで部屋の大きさを担保していたのだろう。生物室はその役割を終え、静かに眠っていたと考えていたが、その実彼女のためだけに無様な形で生かされていたとなれば、多少の憐れみを感じなくもない。
「どうだ、流石に驚いただろう?改めてようこそ我が生物部へ。」
「生物部ってこうだったっけ...」
大きな胸を張る彼女を尻目に、羅列されている飼育ケースを順番に眺めていく。ケースの中は入っている生き物によってさまざまな工夫が施されており、彼女なりの生物に対する顕著な姿勢が見て取れるようである。特にそれぞれのケース左上にはわかりやすいように名前と飼育観察日記のメモのようなものが張り付いていたのが目に入る。私は人差し指と中指で髪を掴んで自分の目の前に手繰り寄せる。
「軽く読んでみていいの?こういうのって。」
「ああ、いいとも。とはいっても、そんな大層なことは書いていないよ。経過観察だけさ。直近のね。」
ふーん、と鼻で返事をしたのち、再び紙に目を落とす。そこには「ヒロクチミズヘビ」「ここ一週間の平均水温」「6月12日 交尾確認」などが細かく記載されていた。
「...いや交尾の経過観察まで事細かく書かなくてもいいんじゃない?」
そう言いながら美空の方を見れば、彼女は「いやいや」と指を左右に振って近づき、ケースの中を覗き込んだ。ぼさぼさの前髪が黒縁の眼鏡に引っかかるのを鬱陶しそうに避けながらミズ蛇を見る彼女の目は、まるで綺麗な洋服を見る少女のそれである。
「そういうわけにはいかないよ。だって、その交尾の観察こそ私の研究対象なんだからね。」
「研究対象?この蛇の?」
そう言って私はもう一度彼女と同じくケースの中を覗き込む。ゆらゆらと水中の中でうねるミズ蛇は、こちらのことなどお構いなしにケースの中に入れたボトルウッドにその身を隠してしまった。
「いや、蛇だけじゃないよ。ここにいるほかの動物が研究対象さ。というか、ここには爬虫類が多いけど、もっと哺乳類も増やしたいんだよね。広義的な解釈をすれば、ある特徴を持つ生き物全般への疑問と言えるんだ。私の興味ってやつは。」
「ある特徴って何よ。もったいぶった言い方して。」
隠れてしまったミズ蛇から目を離し、改めて鬱蒼とした部屋全体を見渡す。
「ここにいる子たちはね、みんな有性生殖なんだ。つまりみんな交尾を以て生殖する。誰か新しい他者と自分でね。これ自体は、方法や過程はどうあれ人間と変わらない。」
「あ、特徴ってそういうこと。だからあの横のメモ帳みたいなやつに交尾の記録がしっかり記載されてたのね。」
「そういうことだ。あれの様子を観察しなきゃ意味がないからね。」
あっちの方にはもっと他の子たちがいるよ、と言って無機質なケースで彩られた花道を歩む。その先には、小さめの飼育ケースが何個かおいてあることろに出る。ケースを見てみれば、その左上には「マウス(ハツカネズミ)」と記載されており、雄や雌の個体がそれぞれ別のケースに入っていた。
「こっちが哺乳類側ってことね。」
「見てほしいのはそっちじゃないんだ。ついてきてくれ。」
「あ、そうなの。」
美空に言われるがまま狭い通路を体をひねりながら歩いていく。特段距離があるわけではないのだが、足の踏み場が少ないと移動に苦労し若干長く煩わしい。私に倫理や道徳がなければ振り返ることなくどしどしと歩いているところだが、蟻も潰さぬような可憐な乙女心を持つ私には少々難しい。
道中生物室を横断した際には、やたら本格的な顕微鏡やら金属箱やら、鉄板のトレーに乗った本格的な道具の数々などが散見された。いかにもインテリな生物部の風体を醸し出しているそれに、彼女は目もくれなかった。
「ちょっと外に出るよ。ま、今日はいるかどうかわからないけど。」
「あ、外出るの。さっき生物室にあったなんかの機会とかの講釈を垂れる気なのかって思ってたけど。」
「あれはもう使わないよ。というより、私の腕では使えなかったが正しいかな。」
頑張って道具をそろえたんだけどね、と彼女は悲しそうに自嘲した。珍しく人っぽい表情をしたもんだな、と心の中でぼやく。
ガチャリと扉を開けると、右手側以外が後者に囲まれた3メートル四方ほどの中にはが見える。右手側は軽いガードレールに阻まれており、その先は学校への通学路となっている。
「お、いたいた。おーい、猫Ⅱー。」
そう呼ぶ美空の視線の先には、黒いまだらの猫が悠々と日向ぼっこをしているのが目に入ってきた。周りには大きな木が生い茂っており、何かと神々しくも見える。
「ちょっとまって。あなた猫のことを猫Ⅱって呼んでるの?」
「そうだね。奴の名前は猫Ⅱだ。私が名付けた。」
「もう名前つけなくてもいいわよ、本当に。名付けられた方がかわいそうだから。」
「それを目の前で言われる私もかわいそうだろ、だいぶ。」
そんなくだらない話をしていると、どこからともなく飛んできた小鳥が猫Ⅱの周りに根を張った大木の枝木にとまる。その瞬間、猫Ⅱの瞳が変わったのを直感で感じ取る。
「お、そろそろかな。」
その声を美空が呟くや否や、猫Ⅱはありえないほどの跳躍を見せ、小鳥にその凶刃を振り下ろした。まさに一瞬の出来事。目で追うのがやっとのほどであり、人間に当てられたらと思うとぞっとするものである。
「あの猫Ⅱはね、人間と同じ試験管方式で生まれてきた奴らしい。それをさっきの生物室で再現したかったんだけどね。私ではまだ無理だったんだ。かなり難しい。」
「人と同じ試験管方式か...それがあそこまで超人的...いや超猫的な力を得る原因って何なのよ。話がつながってこないわ。」
「まあ、1つの仮説なんだけどね。猫Ⅱの身体能力は、必要だったからそれに適応する形で進化を遂げたんじゃないかなって考えてる。もともとあった素質が必要に応じて開花する、なにかのトリガーによってね。猫Ⅱの場合、超猫的な体である必要があったっていうことだね。」
「えー、なにそれ...そんなものが仮説になるの?」
猫Ⅱは何かの理由を以てあのような力を手に入れた。奴は試験管育ちであり、それは人間と一緒。だったら――
「あ、猫Ⅱが...」
その声でふと現実世界に引き戻され、奴の方を見れば、猫Ⅱは取りを口にくわえたまま走り去っていくところであった。そのスピードもまた猫離れしているのではないかと思う速度である。
「まあ、いいやそろそろ戻るか。」
「ええ、そうね。」
足裏についた土を払いながら生物室のドアを開ける。中に足を踏み入れると再び彼女が口を開いた。
「さっきの話だけど、そんなものが仮説になるんだよ。必要に応じて変化、基い進化するてことは歴史が証明しているだろう。収斂進化とか聞いたことないかい?もともと同じ素質のあったものが、環境に合わせて枝分かれしていく進化。あれは長い時間が必要になるけど、こっちは如何せんちょっと早すぎる。これに何かしらの理由が付けれれば理論としてのある程度の形にはなるだろう?」
「だったら、普通に回答出てるじゃないの。人間と同じく試験管で作られた子供に偶に能力が発現するみたいな道理と同じで、猫にも同じような効果が生まれた。それだけでしょうに。」
「まあ、それが一番手っ取り早い結論なんだよね。後、例えば試験管にいるときに未来機関の謎の超技術によって能力の遺伝子が発現するようになってる、とかね。」
暗闇を滲んだ蛍光が照らし出す中、にやりと意地の悪そうな顔を覗かせる。眼鏡の奥の興味に歪んだ双眸は、先ほど猫Ⅱが見せたそれであるかのようだった。
「陰謀論すぎるけど、それが一番ありそうなの怖すぎるわね。」
「ははは、完全に陰謀論もとい難癖に外ならないと表現するほかないね。しかも、そんな用意されたつまらないオチなんて、私は見たくないんだよ。だから忘れてくれて構わない。」
ははは、と乾いた笑いを浮かした美空の言葉尻に含みを感じる。細い目で彼女の方を伺ってみれば、何か冷めたような、または達観のそれをしている様子がうかがえる。
「私はね、人間だけに能力が発現していることに違和感を感じているんだ。例えばさっきの猫Ⅱなんかは、人間と同じ未来機関の試験管方式で育てていたら超猫的な身体を手に入れているけど、人間と同じ魔法のような能力は手に入れてないだろう?この差について研究したいんだ。」
「なるほどね。だからさっきのケースにはあんなつぶさに交尾の記録残していたんだ。」
「まあ、それだけじゃないけどね。取り置き、昨今の人間の中で変化したことは、受精方法が試験管方式になっていたことと、能力の発現にある。だから、おそらく受精方法が関係しているんじゃないかって思ってね。」
正直、私としては「へえ~、なんかすごそう。がんばってね。」くらいの浅い感想しかないというところが本音である。話のスケールと反比例して、私の興味は萎んでいくのを実感する。
おそらく、美空はこの能力の発現の差についての研究を他の動物でも試すことで、逆説的に能力が発現しないことへの疑念を解消しようとしているのではないだろうか。「その他の土地」には能力が発現していない、シュカ曰く「スカ」の人間が多く集まっている。
そんなことを考えれば、否が応でも彼女の顔が浮かんだ。そしてそのまま、率直なある疑念を美空に向けて問いかけることを決めた。
「なに、美空もあっちの土地に移住でもしたいの?シュカみたいに。」
「ん?いや、別にそういうわけじゃないんだ。現に...」
そう言うと彼女は振り返り、右手人差し指と親指で作った輪っかを私に向ける。すると――
「お、光った光った。なんかぼんやりとしてるけど、これが私の能力だよ。」
美空の作った指の円の中に、凝縮された光が熱を以てその存在を示しているのがわかる。懐中電灯や作業に用いるライトとはまるで仕様が異なっているのだろう。彼女は人差し指から中指、薬指、小指と変えるごとに映し出される風景画色を変える。まるでチャンネルを変えるように。
輝く球体の中からいつも歩いている風景、学校の寮の中、猫Ⅱ、教室の中など次々に作っては、その姿を消していく。その容姿は正に幻想と表現するほかなく、彼女が能力者であることが見て取れた。
「....驚いたわね。あんたも能力持ってたんだ。」
「まあ、こんなもの役に立ったためしはないけどね。あまりにも実用的とはいいがたいからさ。」
彼女は指の中で作った小さな世界を、そっと机の上に置く。すると、淡い光がその風景を固定し、古ぼけた写真のようにゆらゆらと揺れながらホログラムのように映し出す。その残光を黒いテーブルが引き寄せていく様子は、まるでブラックホールのようだ。光もまた逃げられないのである。
「まあ、そんなわけで私は現代技術を以てこの謎の解明に迫りたいんだ。その暁には、きっちりと名称を付けて教科書に乗せるよ。道の現象に新たな名前を載せることが私の研究の果てだ。」
「あー、確かに性交に代わる名前も出てくるのかしらね。そういう場合には。...というか、名前とか名称にこだわりがあったりなかったりするのがすごい気になるんだけど。名前にこだわりのある人は猫に猫Ⅱって絶対につけないわよ。」
ふっふっふ、とまたしてもべたなセリフとはにかだ表情。何かを言いたくてしょうがない人のそれを、本日美空の顔だけで何度見ればよいのだろうか、と辟易している間に彼女は続ける。
「名称というものはね、単純がゆえに最も尊ぶべきことなんだよ。その名称を口にしたら、全員がイメージするものが一致する。これは言語の差こそあれど、全世界で相違ない事実だ。」
「まあ、そうね。とりあえず言葉は大事よね。」
我ながらなんと浅い言葉でしか会話が出来ない事であろうか。自分の貧弱極まる語彙に心の中で雨を降らす。
「そう、言葉は大事なんだ。意味と連想するものさえ同じなら、たいてい言語の壁はまかり通る。単語帳がいつの時代も優先されていた理由もそれにあるんだよ。」
彼女は両彫人差し指の先端どうしをぶつける形をとる。そして先ほどと同じようにその先端どうしの間には、彼女の発動した能力によってぼんやりと照らし出される影があった。しかし、彼女は突然右手の光を消して、私の目を見て問うてきた。
「でもね、この現象にあまりにも一致しない単語があるんだ。何かわかるかい?」
「え、いきなりね。...うーん......人?」
その答えを聞くと、彼女は目を爛々とさせる。お気に召す回答ではあったようだ。
「うんうん、私の思ってた怪盗とは違うけど、その側面もちゃんとある。だから点数をつけるとしたら、まあ50点かな。」
「だいぶ渋めね、その反応にしては。」
ははは、と笑いながら彼女は真剣なまなざしで続ける。
「みんなが知っているのに、あまりにも現象が一致しないこと、それはね、愛なんだよ、愛。」
「哀?私?」
「ふはは、そうじゃないそうじゃない。愛ってのはラブのことだよ。君も面白いことを言うじゃないか。」
「しょうがないでしょ、そう聞こえたんだから。...いいから早く続きを話しなさいよ。」
いやー、ごめんごめん、と心のこもっていない謝罪を華麗に受け流す。その言はもはや遠くに描き消えゆく運命なのだろう。緩やかに鼓膜の震えを収まらせていった。
「愛って一言にいっても、その用途は多岐にわたっているんだ。例えば恋人同士が相手にそれを伝える時ももちろん愛という言葉で形容できるし、友人間でも友のことを思って走ったメロスのそれももちろん愛と言って差し支えない。」
友愛ってやつだな、と軽く彼女は顎を引く。その様子は留まることを知らず、言葉は濁流のように流れてきた。
「恋人間同士で子供を授かることも愛を育むともいうし、さらにかつて親から子供に授けていた様々な利権を無償の愛とも言っていたよな。」
「なんだかよくわからないけど、愛って言葉の持つ意味がありすぎるってことよね。」
「正に。私はこれが気に食わないんだ。自称名称愛好家としてね。」
「それは初めて聞いたし、明日には忘れているだろうけどね。」
そもそもそんなに「愛」が多様な意味を持つことに何か不都合や不満があるのか、と心の中でぼやく。何がそこまで美空を動かしているのだろう。そんなことを考えているうちに、私の携帯が鳴った。画面を見ると、シュカからのチャットであった。
話の腰を折ってごめん、っと軽く彼女に目を合わせると、彼女はどうぞと言わんばかりに掌を上に向けながら私に差し出した。彼女から許可をもらい再び画面に焦点を合わす。
「は?」
そんな間の抜けた声を出したのは、本当に私だったのだろうかと疑いたくなるほどシュカからの申し出は突拍子もないものであった。まるで太陽が東から上るように、ベートーヴェン交響曲をピアノの上の猫が弾くように。
SNSのチャット欄に映りこむそれが雄弁に語りかけてきたその刹那。来栖シュカの絵空事が輪郭を帯び始めた瞬間であった。
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