すべてを失った英雄は、霧を切り裂く

@boiju

第1話 動き出した世界

「人間……こうして……責任を……」


突然の声が、深い闇の中で響いた。カロスは目を開けた。全身が汗にまみれ、心臓は激しく鼓動を打っている。夢の中で聞いた言葉が、頭から離れない。まるで誰かに囁かれたかのように。


「またか……」


彼はベッドの端に座り込み、両手で顔を覆った。


過去を思い出そうとしてみたが、聞いた瞬間には全く記憶が蘇らない。それどころか、幼い頃の記憶も失っていて、自分の出身や年齢さえもわからない。唯一覚えているのは、ダークソードを握り、悪魔を討った時からだ。


「まあ、こうなることは予想してたけど……どうして過去の記憶がまったくないんだろうな」


自嘲気味に、そう呟いた。


鬱々とした気持ちを振り払うように、窓の外に目を向ける。空はまだ真っ暗だった。


「さて、仕事を始めるか」


彼はお手洗いでさっと顔を整え、黒いヘルメットをかぶって机に向かった。


今は深夜だが、カロスはろうそくを灯すことなく、書類を処理していた。ダークソードで悪魔を討ち、その瞬間から、自分が人間を超える存在となったことに気づいていた。夜の闇も、昼間のように鮮明に見える。睡眠も、食事も必要としない。体は頑丈さを保ち、力と速度は悪魔さえも凌駕している。


しかし、その力は祝福ではなく、むしろ呪いのように感じられた。


「俺は……まだ人間なんだろうか?」


カロスは手元の書類に目を移し、都市の防備強化案を読み進めた。だが、彼の思考は別の疑念に囚われていた。自分はもう、人の皮をまとった悪魔に過ぎないのではないか? だからこそ、睡眠や食事を取るようにしている。それを怠れば、確実に人間であるという感覚を失ってしまう気がしていた。


「防備を強化するか……それも必要だろう。」


彼はそう呟いたが、その言葉にはどこか虚しさが漂っていた。


三年前、この都市――ガイニン城は、突如現れた悪魔たちに襲われ、多くの被害を受けた。教会に支援を求めたものの、無視され、孤立させられた。もしカロスがいなければ、ガイニン城は間違いなく悪魔の手に落ちていただろう。あの時の光景は、彼の記憶から決して消えることはない。千匹にも及ぶ悪魔が城内で暴れ回り、人々の悲鳴が響き、街道はどす黒い血で染まり、切断された手足や死体があちこちに散乱していた。まさに地獄絵図だった。彼は悪魔を殲滅するために、一週間休むことなく戦い続け、最後の悪魔が逃げ去るまでその剣を振るい続けた。その結果、彼はガイニン城の救世主と崇拝され、城の実質的な支配者となった。


兵士の訓練を強化しても、悪魔に勝つのは難しいだろう。市民からも兵士を募り、数で悪魔を圧倒するしかない。それから、悪魔に致命的な傷を負わせられる武器の研究を学院に依頼する必要がある。


そうした計画を記録しながら、カロスは教会について考えた。


教会は完全に腐りきっている。今回は悪魔が聖域を越えて侵入したという事実さえ隠蔽し、本当に何を考えているのか。彼らにとって、人々の命は何の価値もないのか?


カロスはかつて、旅の途中で教会の騎士たちと出会ったことがあった。教会の円卓第三騎士バルーと彼に従う三十人ほどの騎士たちは、無名の村で婦女子を誘拐しようとしていた。カロスは彼女たちを救い出し、騎士たちと戦った。彼は囲まれながらも、ダークソードで次々と敵を倒したが、自身も満身創痍となった。その時、新たな教会の騎士団が現れたが、彼らの狙いはカロスではなくバルーだった。第五騎士マヌスは自らの騎士団を率い、バルーとその部下を殲滅した。そして、戦いの後、マヌスはカロスに気づいた。ガイニン城の戦いでは、マヌスは部下を傭兵に偽装させ、カロスを陰から助けたのだ。


とはいえ、教会はもう信じられない。結局、ガイニン城は自分で悪魔に対抗するしかない。この状況は絶望的だ。もし霧が聖域を超えて広がれば、この都市は確実に滅びる。このままでは、ガイニン城に未来はない。教会は頼りにならず、悪魔の侵入を防ぐ術もない。残された道はただ一つ――自ら霧の中に入り、悪魔の侵入経路を突き止めるしかない。それを見つけなければ、この都市は必ず滅びる。


霧に突入するための準備もしなければならない。それから、俺が不在の間、城を運営するのは豪族たちに任せればいいだろう。昼間に彼らを集めて会議を開こう。


突然、廊下から足音が聞こえた。


こんな時間に誰かが来るのは珍しい。それに、この音は急を要する事態だろう。しかし、訪問者は城の住人ではない。外部の者だ。この城の問題であれば、既に周囲が騒ぎになっているはずだからだ。悪魔の襲撃以来、教会との連絡も途絶え、周囲の都市との繋がりも断たれている。この訪問者は、マヌスの部下に違いない。


トントン。軽くドアがノックされた。


「カロス様、あの…」


「お客様を通せ、ナタリー。」


片手で手燭を持ち、ドアを開けたのは、メイド服を着たナタリーだ。彼女の赤い瞳は、まるで炎が宿っているかのように輝き、白いロングヘアがそれを際立たせている。幼い顔立ちに、細い唇。か弱そうな体つきだが、その体には豊かな胸があり、男の保護欲と支配欲をかき立てるような魅力を持つ。彼女の隣には、一人の少女が立っていた。鎧をまとい、片手にヘルメットを抱えた金髪碧眼の典型的な美少女だが、身長は一般的な男性を少し上回る。


カリンの胸鎧には、一つのユリの紋章が刻まれていた。それは教会の階級を示す証だ。ユリの紋章が一つなら見習い騎士、二つで初級騎士、三つで中級騎士、四つで上級騎士。そして、五つともなれば、円卓の騎士に入る領域だ。


見習い騎士を俺に送ってくるとは……しかも少女か。マヌスの方も色々と苦労しているようだな。


カロスは何も言わず、頬杖をつきながらその少女をじっと見つめ、彼女の動揺や根気を観察していた。


少女は何か言いたそうにしているが、何かに怯えているようで、言葉がなかなか出てこない。


「カロス様、カリン様が……」


ナタリーが少女を助けようとしたが、カロスは軽く手を振り、彼女を制止した。


「お前はカリンというのか。俺に渡すべきものがあるのだろう?」


「あ、はいっ!」


カリンは緊張しながら胸鎧から、封蝋が施された手紙を取り出し、カロスに差し出した。


拝啓


 ガイニン城から東北に位置するボナ領にて、悪魔が姿を現したという噂が広がっております。当地の領主、ニコラ・デ・ルノーは私の長年の友人であり、彼から助力を求められました。しかし、私自身、現在の事情により、残念ながら彼に直接の支援を送ることができません。ニコラは非常に誠実で、領民からも厚い信頼を寄せられている方です。彼がこのような依頼をしてくるのは、ただならぬ事態に違いありません。


 この問題がガイニン城にも波及する可能性は否めません。つきましては、私の部下に代わり、貴殿に力を貸していただけないでしょうか。何卒、この困難な状況にご助力をお願い申し上げます。


                                    敬具

                                   マヌス


「カリン・デ・ルノー。それがお前の本当の名前だな?」


カリンは驚愕した表情でカロスを見上げた。


「え、どうしてそれを……?」


「お前もマヌスがなぜお前を俺のもとに送ったのか分かっているだろう。こんな重要な任務を、ただの見習い騎士に任せるはずがない。」


カリンは一瞬息を呑んだが、すぐに深く腰を折り、声を震わせながら必死に訴えかけた。


「それでもどうか、私たちをお助けください、カロス様!」


カロスは無言で彼女を見下ろし、しばらくの沈黙の後、冷淡な声で言った。


「ほぉ……なぜ俺が、お前の父親を助けなければならんのだ?」


「え……?」


「お前の父親は、このガイニン城が悪魔に襲われたとき、援助どころか何の手も差し伸べなかった。見殺しにしたも同然だ。そんな男を、どうして俺が助ける必要がある?」


カリンの顔から血の気が引き、彼女は視線を落とした。彼女は何も言い返せず、拳を握りしめたまま、沈黙した。


「……それは……父は……」


彼女の声はかすかで、震えていた。彼女自身、父の行いを否定できない。カロスの冷徹な言葉が、彼女の心に重くのしかかる。それでも、カリンは何とか気持ちを立て直そうとした。彼女の手は震えていたが、やがて決意がその顔に浮かんだ。


カリンは、ゆっくりと鎧に手をかけた。


「ナタリー様、ヘルメットと胸鎧をお預けしてもよろしいでしょうか?」


ナタリーは一瞬驚いたが、すぐに落ち着きを取り戻し、静かに頷いた。


「お客様であるカリン様、どうぞ私のことは『ナタリー』とお呼びください。私が責任を持ってお預かりします。」


カリンはナタリーにヘルメットを手渡し、慎重に胸当てを外し始めた。彼女は無言のまま鎧を脱ぎ、その動作には強い決意が感じられた。鎧を外すと、彼女の体があらわになり、豊かな胸がわずかに上下に揺れた。その発育の良さはナタリーを凌ぐものであり、彼女の若さと成長ぶりを際立たせていた。


カリンは鎧を脱ぎ終えると、カロスの前にひざまずいた。


「私の体を、カロス様に捧げます。どうか、どうか、私の家族と領民に慈悲を……!」


カリンの声は震えていたが、その中には必死さと覚悟が感じられた。しかし、その言葉に込められた恐怖も隠しきれない。彼女の体はわずかに震えており、彼女がその場に立つことすら恐れていることが見て取れた。


ナタリーは、その様子を見て驚きを隠せなかった。カリンがここまでの行動を取るとは思いもしなかったのだ。彼女はカリンの隣にひざまずき、静かに言葉を発した。


「カロス様、カリン様は、家族と領民を深く愛しておられます。こんなにも必死にお願いするのは、きっと彼女たちが危険にさらされているからに違いありません。どうか、彼女の願いをお聞きいただけないでしょうか……」


カロスはしばらくの間、無表情のままカリンを見つめていた。そして、唐突に笑い声が部屋に響き渡った。


「ははは……やっと面白いところを見せてくれたな、カリン。だが……」


カロスは立ち上がり、ゆっくりと彼女たちの前に歩み寄った。


「俺はお前の体を欲しているわけじゃない。」


カロスは冷ややかな笑みを浮かべ、カリンを見下ろした。


「立て。二人とも。」


カリンとナタリーは顔を上げ、驚きを隠せないままゆっくりと立ち上がった。カリンはカロスの言葉に戸惑いながらも、その冷たい視線に圧倒されていた。


「お前が本当に差し出すべきものは……覚悟だ。それを見せろ。」


カロスの言葉に、カリンの体は再び震えたが、彼女はしっかりとカロスを見つめ返した。その瞳には、今度こそ決意が宿っていた。


「マヌスはこのガイニン城に恩を返すつもりだ。俺も、この恩を無視するわけにはいかない。だから、この依頼を引き受けることにする。カリン、お前の目の下に酷い隈ができている。休まずにここまで来たのだろう。ナタリー、お前は彼女を寝室へ案内してやれ。それから俺の部屋に戻れ。今回の件について話がある。」


「あの……カロス様。」


「どうした、カリン?」


「ボナ領への出発時間を、もっと早めることはできませんか?」


「お前が心配しているのはわかる。しかし、『急がば回れ』という言葉を知っているだろう。今の状態で到着しても、役には立たない。それに、俺はこの城の管理も整えなければならない。」


「……はい、わかりました。」


「俺はできる限り早く準備を整えて、ボナ領へ向かうつもりだ。それまでは、俺を信じて、しっかり休め。」


「……はい。」


「ナタリー、彼女を連れていけ。」


「かしこまりました、カロス様。」


ナタリーは礼儀正しく一礼し、カリンを連れて部屋を出た。


「停滞していた世界も、これで動き出すか……」


カロスは、空になった部屋で独りごちた。


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