#1.10. Specter [Luna]
わたしを不安にさせている一つの要素に、親父の上司だった男のことがある。
その人はお母さんの葬式に来ていたから、16年前に会ったきりになる。すごく構ってくるようなおじさんだったから、顔は覚えているのだけれど、名前をはっきりと覚えていない。
でも今日取材しないといけない
いかにも瑞穂の都会というコンクリートジャングルに、モダンなデザインの建物がそびえ立つ。
正面玄関側の窓がハニカム模様に並んでいるけど、清掃業者はどう思うのだろうか。
でも記憶に残るこの出で立ちは、まさしく親父のいた研究所だ。
懐かしさも少しはある。でもそれよりも気になるのは、心臓をテグスで縛られるようなこの不快感だ。
鼠捕りを踏んだ後みたいな、ぎこちない歩調の自分が情けない。
おいルナ! お前はプライドだろ!!
自分の中に巣食う恐怖心を殺し、根性で研究所に突入した。
「ルンちゃん! 久しぶりだなぁ、おい。こんなに大きくなってわたしのところに訪問してくれるなんてなあ。今いくつだ?」
緊急事態発生! 撤退を具申する! 帰りたい!!
「内海所長、今日はよろしくお願い――」
「いいんだよそんなに固くならなくても。この研究所で事務方には逆らうなよ? だがわたしのことは気にするな! 昔みたいに接してくれればいいさ」
加減が難しいことを言うな!
昔からお菓子をもらったりしたけど、こんなにテンションが高い人だったっけ。
記憶より髪も髭も白くなったけど、しっかり刈り込んでいるから清潔感がある。紳士的な教授、といった人物像が近いけど、性格はお節介なおじさんだ。
「えっと、もう事前に聞いているかもしれないけど、GeM-Huが研究開発されているかもしれないという情報があって、今対策チームとして調べているんだ。GeM-Huという言葉の定義は分かったのだけど、わたしたちにとって未知の領域だから、リスクについてとか教えて欲しいってこと」
「ルンちゃんの頼みなら断れないな!」
何がそんなに嬉しいのか。
「順を追って話そう。
まずゲノム編集という行為は、そもそもが倫理的な問題を抱えている。例の論文も、分子生物学会での受けが悪かったんだ。
進化論的に考えれば、今まで適者生存、自然選択で進化してきた生態系に、人間が手を加えることになる。大いなる自然が捨てた選択肢を人類学が拾ったとして、生態系が狂ったとすれば、誰が責任を取るのか。
創造論的に言えば、神の業への挑戦ということになる。ヒトゲノムは解読が完了しているとはいえ、それぞれの遺伝子の表現型にはまだ謎が多い。
例えるならば、素人が自動車を改造しようとするような話だ。少し考えてみれば、車の構造をよく知っている整備士に任せるべきところなんだが、そもそもこの車の仕組みを解明している人間がいない世界なんだ。
結局のところ、生物学は神秘的過ぎてほかの科学分野より遅れているんだよ。
レオ君はどちらかというと創――」
「父の話は結構」
話の腰を折ってしまい、所長が渋い顔をする。でもこの人は親父を高く買っていた。親父のことを「自分を越える天才だ」と、お母さんによく言っていた。
早めに止めておかないと、弟子の自慢話が始まる。
所長は少し寂しげだったが、話を本筋に戻した。
「じゃあ別の視点からリスクを評価しよう。
君たちなら、
「本来生物兵器と言えば、感染症の病原体になる微生物のことを指す。この研究所でも危険なウイルスを扱うからね。気を遣うよ。
しかし、ゲノム編集の技術は微生物に限らずとも、大型の多細胞生物にも適用できる。
軍事利用されてきた生物は結構いるからね。ウマ、イヌはよく知られているが、ネズミやイルカも利用した歴史があるらしい。そして何より、ヒトだ」
「――遺伝子を組み換えたヒトを兵器として用いる可能性があるってこと?」
「兵器という言葉がどこまでを指すかによるが、GeM-Huを兵士として生み出すことは可能だ」
「GeM-Huを兵力にする……」
軍事利用できる技術だとすれば、連合帝国が介入する理由として十分だ。
「軍事力だけじゃない。様々な分野の労働力にも応用できる。問題は、人権だ」
「新しい奴隷階級ができるという訳?」
「まあ、人間扱いするかは持ち主の判断だろう。
だが生殖能力があるかどうかも関わってくるな。
NBC兵器の問題の一つは、影響が後世にまで残ることだが、GeM-Huも後世に影響を残す。
例えばGeM-Huとそうでないヒトに子どもができれば、遺伝子汚染や複雑な社会問題を起こすだろう。だからといって子どもを作らないよう制限するのは、生殖能力を持っている限り現実的に難しいし、人道的にも問題だ。避妊するにしても、やはり人道に反する」
所長は科学者として、重大なリスクにしっかりと目を向けている。懸念している点ももっともだ。
だけど、胸糞悪い話だ。
「GeM-Huって、嫌な技術だね」
「本来は、遺伝子疾患を治療するために提唱したんだがな」
いくら治療のためとはいえ、問題が大きすぎるように聞こえる。
親父は、本当にこのリスクを考えたうえで論文を書いていたのだろうか。
「とりあえず、レオ君が危惧していたリスクは知っている限り伝えたよ」
「……親父はリスクを理解していたのにGeM-Huを提唱したの?」
「そうだな、論文を発表するまでにこの問題点をわたしに相談していたし、論文にも考えられる限りのリスクを載せていたね。多少犠牲を出してでもGeM-Huの研究を始めるべきだという論調だったし、学会から強い反発も、ほとんどが人道的な視点からだったよ」
やっぱり親父は、こういう悪魔的な思考ができる科学者だったんだ。人道的なリスクを承知のうえで研究を推し進める。
わたしはそんな男の遺伝子を半分も継いでいるのか。
「まあ君が生まれてから、GeM-Huプロジェクトも凍結する決心がついたみたいだがな。相当思い入れがあったプロジェクトだったから、諦めるのはかなり覚悟がいっただろうな」
「いくら言ったところで、誰かが研究を再開していたら意味がないじゃん」
どんなに無理矢理美談にしたところで、親父がまいた種がまた芽吹いている。元凶がいるのが問題だ。
「君の気持ちも分からない訳ではないよ。突然置いていかれたら、驚くはずさ。
でも、ショックを受けたのは君だけじゃない。レオ君が死んだすぐ後に、彼と近しかった研究員が退所しているんだ。当然わたしにも自死したなんて信じられなかったし――」
「でも死んだ。お母さんを道連れにして」
親父はわたしたちの家に火をつけ、拳銃で自らの頭を撃った。わたしとお母さんのもとには何も遺らなかった。
数年としないうちに、次はお母さんが倒れた。幼いわたしには、元気だったお母さんが衰弱して痩せていくのが辛かった。
独り遺されたわたしは、連合帝国にいた伯母のもとに引き取られた。でも、瑞穂育ちのわたしにとって連合帝国での生活も易しいものではなかった。
親父は、わたしに何も遺さなかったどころか、孤独な弱者に試練を課した。
どう許せと言うのか。
「すまん、辛い話だったな」
所長は部屋に備え付けられているコーヒーマシンに立ち寄ると、そのマシンにカップをセットする。
「濃いほうが好きかい? ここも頭脳労働者しかいないから、コーヒー好きが多いんだ。大通りの反対側にカフェがあるんだが、あそこも繁盛しているよ」
「薄めが好き。お気遣いありがとう」
コーヒー豆がマシンに砕かれる合間に、所長が思い出したように告げる。
「GeM-Huが実用化されるのは、当分先だろう。そもそもヒトを受精卵の状態から育てるなんて、かなり難しい。特に、自然な環境じゃないからね。成長を記録する過程を考えると、かなり気の長い話なんだ」
カップを差し出した所長が、孫を見守るような目で見てくることに、少し身構える。
「それにしても、大きくなったな」
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ヘルウィーク――5日間で体力を極限まで追い込む訓練。期間中はずっとずぶ濡れ状態で睡眠時間は4時間。限界に追い込まれた状況に置くことで訓練生の本性を炙り出す。
尋問耐久訓練――敵に捕縛され拷問を受ける想定で、苦痛に耐える訓練。
遺伝子汚染――人工的な遺伝子を持つ生物が、繁殖していくうちに自然界にその遺伝子を持ち込むリスクのこと。外部からの生物が持ち込まれると生態系が破壊されるのと似ている。
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