#1.09. Nymph [Kasumi]

 かなり日が昇ってきたな。腕時計を見てみると、短針が9を過ぎている。事情は説明してあるが、側近たちにわたしの仕事が回っているかもしれない。後で連絡を入れよう。


「あの、アルバーンさん、どうか着替えていただけませんか?」

「えぇー。お腹空いた」

「お料理はすぐご用意いたしますので、せめて何か羽織っていただけませんか?」


 信濃さんがお客様と揉めているのが聞こえる。振り返ってみるとルナさんが信濃さんに押し留められているのが見えた。


「信濃さん、別に大丈夫ですよ。ルナさんにとって落ち着くのならば、わたしは留めません」


 お腹が見えるようなタンクトップとショートパンツという薄着で来た女性に、信濃さんは面食らったようだ。寝巻きのままで食堂に来たそうだが、ほかに客がいないのならば、特段問題にならない。

 ルナさんは、大切なお客様だ。


「おはようございます。よく休めましたか?」

「……おはようございます猊下」


 大方、わたしがもう家を出ていると思っていたのだろう。それはそうだ、予定通りなら登庁している時間だ。


「今日はどうされたのですか?」

「あなたさえよろしければ、朝食をご一緒しようかと思いまして。いかがでしょう?」

「猊下がそう仰るのでしたら……」


 ご本人は困惑されている様子だが、了承はもらえた。

 わたしがかけている小ぶりなテーブルの上座にルナさんを座らせる。


「お忙しいでしょうに、ゆっくりされていてよろしいのですか?」

「ルナさんとは一度、話してみたかったので」


 信濃さんたちがわたしたちの前にお膳を用意してくださる。


 今朝の料理は、わたしから加賀料理長に頼んで魚などを多くしてもらった。宗派によっては殺生を嫌がることもあるが、ネヴィシオンの食文化は海産物に馴染みがある。生食を嫌う点だけ注意さえすれば、瑞穂の魚料理も楽しんでくれるかと思う。


 わたしが合掌し祈祷するのは、ルナさんにとっては新鮮に見えたようだ。


「……

「本当に食べる前に祈るのですね」

「恵みへの感謝ですから。実は、聖典には祈りの規程などは書かれていません。でも先人たちの自然への感謝が、こうして受け継がれているのです」


 目を瞑って祈祷している間に、ルナさんは納豆と漬物を膳の外に避けていた。

 なるほど、南国は発酵食品を嫌がる傾向があったな。味噌汁は見たところ遠慮していないが、料理長に相談してみよう。ルナさんはしばらくここに滞在されるのだから。


 小鉢の法蓮草は、利休和えだ。胡麻が好きなわたしに料理長が気を遣ったのかもしれないが、法蓮草の青臭さを消すにはちょうどいいかもしれない。

 外国人に受けのよくない青物も多いが、誇り高い加賀料理長は、瑞穂の食文化に妥協しない。野菜嫌いの方にも食べてもらえるよう、よく工夫されるのだ。



「ところで、ルナさんは何歳頃まで瑞穂に?」

「8歳の時です。以降はネヴィシオンです」


 彼女は自然に箸を持てる。子どもの頃からの癖がまだ染み付いているようだ。

 鯛の塩焼きを箸でほぐすことなく、大きく頬張るのは見ていて豪快だ。お気に召したようだ。


「8歳ということは……、お母様が亡くなられた頃ですね」


 ルナさんにとって、わたしがダニエルDanielleさんを知っていたことが衝撃的だったのだろう。箸が止まった。


「母を知っているのですか?」

「ええ。お父様の研究所とは長い付き合いなのでね。ご両親ともお会いしています。ルナさんはお母様似ですが、その目元はお父様譲りかと」


 味噌汁を飲み終えたので、茶碗を元の位置に置き、絵柄をずらすように蓋をする。


 正直なところ、探りを入れるためレオナルドさんのことに触れたのだが、やはりルナさんは嫌悪感を示した。眉をひそめられた。


「ご飯が不味くなります。父の話はやめてください」

「無神経なことを申しました。大変失礼いたしました」


 この反応を見る限り、ルナさんにとってレオナルドさんの死は大きすぎる事件だったのだろう。


 気分を害したお詫びとして焼き魚をもう一皿お出しすると、機嫌を取り戻してくれた。

 「食卓外交」というくらいだ。外務大臣として、料理が人の心を動かすこともあると心得ている。


 特にルナさんとは、親密な関係を築きたい。



「こんなにゆっくりしていていいのですか?」


 食後に緑茶を淹れていると、ルナさんがわたしを気遣って追い立てるようになった。


「ええ。いつも以上に腰を入れて政務をこなせば、なんとかなるでしょう」

「多分ゆっくりしている場合じゃないですよね?」


 優先度の高い仕事から片付けていけば、日付が変わるまでには帰ってこられるだろう。後はLibertaリベルタ合衆国との打ち合わせがあるが、訪問の日程調整だから副大臣たちに任せても問題ないだろう。


 佐渡さんがお茶を出し終わり、下がったのを見計らいルナさんに話を切り出す。


「今回の秘匿作戦の概要は、貴国の皇女殿下から伺っています。まさか国内で、そのような冒涜的な実験をされているとは思ってもみませんでした」


 彼女の顔色を伺うと、少し警戒心を見せていた。またレオナルドの話が出ると思ったのか、無表情に湯呑みを飲み干した。

 わたしとしてもルナさんの心を乱したくはない。できるだけ彼の話題は避けて、話を続ける。


「当然、研究ですから、実験を繰り返しているのでしょう。その中には、弄ばれている命もあるかもしれない。そのことが、いたたまれないのです」


 ルナさんは、わたしと目を合わせない代わりに、窓の外を眺めておられる。

 雲の切れ間から日が差し、クロスのかかるテーブルに窓の格子模様が浮かび上がる。


「未熟な人類が神のわざに挑み、人の心を捨て、神にも人にもなれないようでは、本末転倒かと思っております。

 ……命とは何か、今、問われているのかもしれません」

「いわゆる、生命倫理ですよね」


 そう、レオナルドさんが晩年に危惧していた問題だ。


「わたしには、黒百合会が命の神秘に挑戦していることが、どうしようもなく許せないのです。

 でも同時に、わたしには手に負えない問題でもあります。

 ……ルナさんが作戦Iに参加されると聞いて、少し嬉しかったですよ」


 ルナさんの目が、わたしを見据える。

 その青い目は、お父様の真剣な眼差しを思い出させる。


「あなたはこの作戦で冒涜を止める権限が与えられました。わたしも全力でお支えいたします。

 瑞穂外務大臣として、枢機卿として、若葉霞として、すべてをもってあなたを支援しますので、どうか! 黒百合会の計画を阻止してください!!」


 わたしが頭を下げたことに、ルナさんは困惑しているようだ。

 それでも、彼女には大袈裟に見えるとしても、わたしが見せられる誠意は見せないといけない。


 人の命を軽々しく犠牲にする研究を、わたし個人としても止めて欲しい。

 その研究をやめさせるために、彼女は身の危険を犯す。

 腹を括っている彼女には、わたしも最大限の敬意をもって応えたい。


 でも彼女は、意外な返事をする。


「何か勘違いしています?」


 見上げると、ルナさんがお父様譲りの挑発的な笑みを浮かべる。


「わたし、これくらいの作戦で死なないですから」


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然り――アーメンにあたる言葉。祈りに対し、その通りになるようにという願いを込めた言葉。

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