春休み
一年の中で、どの季節が好きかと聞かれたら、間違いなく春と答える。
穏やかで、暖かくて、心地良い…
それなのに、変わりゆく季節を感じれないまま通り過ぎようとしている。
…なんだか心許ない。
日常は変わっていない筈なのに、今この一瞬がやけに早く感じた。
「どうしたの?」
母に声をかけられ、自分はどうかしたのかと思い至る。
「何かあった?」
朝食を囲むテーブルに向かい、再び声をかけられた。
あたし達の朝は早い。
「何もないんだけど…」
本当に何もなかった。
「そう?」
母が不思議そうに聞き返す。
本当に何もない。
ただ、変わりゆく日々の過ごし方がわからない。
「春休みはいつもどうしてたの?」
母が不思議そうに聞いてくる。
「夜は、バイトしてたし…」
「昼間は?」
「何をしてたのか記憶にない」
「えっ?」
「それぐらい、つまらない生き方をしてたんだろうね…」
言った後で気づく。
言わなきゃ良かった…
相手が言葉を返せないような話しは、無情だ。
「あ…ごめん、こんな話…」
「ううん」
母は気にしないでと微笑む。
「どこかへ出かけてみたら?」
「どこかへ…?」
「行ってみたいところや、行けなかったところ、ある?」
…全く思いつかない。
「ごめんね…あたしが仕事だから」
「そんな…そんな事ないよ」
否定の意を込めて、顔の前で思い切り手を振って見せた。
「春は…」
次の言葉を発しない母の、言いたい事は分かっていた。
休日に過ごす相手は居ないのかと、聞きたかったのだろう。
母は静かに箸を置いた。
「ねぇ、」
そう言って口元に笑みを作る。
「あたしの話をするね?」
「うん」
「例えば明日、明後日、急に自由な時間が出来て、何しようかな…って、思う時があるの」
「うん」
「片付けや掃除をして、時間を持て余す時もあれば、無性に外へ出かけたくなる事もある。時間を持て余してるなって感じる時に、一人ではなく、この時間を共有できる相手が居ればなって考える。持て余せば持て余すほどね」
「…それは」
思わず声が出た。
「暇ってことじゃなくて?」
「そう、暇を持て余してる。何がしたい訳じゃない。何かする予定もない。ただただ暇を持て余してる。この歳になると、それが日常になるの。今日何をしてたんだろうって…家事や仕事に終われてる内はまだ良い。不意に出来た自由な時間の使い方が分からない」
仕事をしながら家の事もする母は、何でも卒なくこなしている様に見えた。
「そんな時に、会おうよって言えて、会えれるのは学生の特権でしょ?」
「そうなの?」
「そうだよ。今から会える?って聞いて、うん会えるよって言われて。どこ行く?って聞いて、うち来る?って話して…そんな事が出来るのは友達でしょ」
「そうなの?」
「そうだよ。大人になると、家族ができると、時間に縛られるのは否めない。だからって、あたしも学生時代に時間を持て余してるとは思ってなかったかもしれない。それはそれで、色々あったから…でも、大人になると、見え方や感じ方は当然変わってくる。変わるよ、春」
「え?」
「大人に成れば成る程、友達がいかに必要か感じるよ。だから子供の内に学ぶの。大人になって友達の作り方なんて教えて貰えない。小さい頃に無意識に学んで来てるんだよ」
じゃああたしは、学びきれていない…とゆう事か。
「まずは連絡先を交換してごらん?話をするの。話題ができる。楽しいことを知れる。気が合うか合わないか段々分かってくるよ」
「連絡先なんて、いきなり聞けないでしょ…」
「どうして?あなたには話し相手が居るんじゃないの?」
「え?」
「まずはその子から聞けば良いじゃない」
「だれ?」
「春と同じクラスの…」
「え…?」
「三者懇談の日に、挨拶してくれた子、居たじゃない?」
「あぁ…」
…岡本だ。
「春は形に拘りすぎてるのかもしれないね」
「友達とゆう概念が分からない」
「気が合えば友達だよ」
母はそう言って、「さぁ支度をしなきゃ」と立ち上がった。
「あ、ごめんね…!」
「大丈夫。春はゆっくり食べてね」
母が自分の食器を持ってキッチンへと向かう。
「陽生くんが居なくても、急に会える様な子が春にも出来ると良いな」
キッチンから声が聞こえる。
まだ話を続けるみたいだ。
「陽生くんにだって、自分から連絡してみたら良いのに」
「んぅー…」
「春が思ってるより、周りは気にしてないよ」
「…でも、忙しいと思う」
「陽生くんが忙しいって言ったの?」
「…言われた訳じゃないけど」
藤本陽生は、卒業式の三日後に明和さんの家を出た。春休みの間に、大学の入学準備をする為、もうこの町には居ない。
「それこそ入学したら会う時間が限られてしまうんじゃない?」
「そうだね…」
まだ始まっていない新生活の事は、あたしには分かりにくい。
「そろそろ電話かかって来る時間でしょ?」
母の言葉にリビングの時計へ目をやる。
藤本陽生は毎日「変わりないか?」と電話をして来てくれた。
「毎朝毎晩、変わらず連絡をしてくれるのは、春の為でしょ?あなたの代わりに、あなたの不安を無くそうとしてくれてる。温かい子ね」
母の言う通りだ。
会いたいのに会わない。気になるのに気にしない。聴きたいのに聴かない。
自分の欲を上手く求められない。
「ご馳走様でした」
食器を片付け、母と入れ替わりにキッチンへ向かう。
「この春休みは、あなたがあなたと向き合う時間にしたら?」
その言葉には、曖昧に頷き返した。
母が仕事へ行き、部屋へ戻ると、タイミング良く電話が鳴った。
着信相手は…
「え、だれ…?」
見知らぬ番号が表示されている。
鳴り続ける着信音を不審に思いながらも、通話ボタンに手をかけた。
「はい…」
自分でも分かるぐらい、警戒心いっぱいの声が言葉になる。
「俺だ」
第一声で俺だと名乗る相手は一人しか知らない。
「電話忘れて、兄貴に借りた」
「……」
「…春?」
「あ、はい、聞いてます」
「変わりないか?」
「はい」
警戒心が緩やかに薄れて行く。
「今日会えるか?」
「え?」
「帰って来た」
「え?」
「会えるか?」
「はい、はい。会います」
「迎えに行く」
「え?」
「家だろ?」
「あ、はい。家に居ます」
「わかった、じゃあな」
「はい、じゃあ」
通話終了の画面へ切り替わる。
「え…待って…え?これから?」
寝起きのまま寝巻きのまま…
「えっ?これから?」
何時に来るのか確認してなかった!
今さっき朝ごはん食べたばかりで…
いやいやまさか、これから来るなんて事は流石にないだろう…
「…電話」
かけ直そうと思って、着信番号が藤本陽生のじゃない事を思い出した。
兄貴に借りたと言った…明和さんと一緒に居るんだろうか…情報過多で状況が整理できない。
「あ、もしもし?春ちゃん?」
「あ、はい、すみません…」
とりあえず、着信履歴からかけ直したら、思った通り明和さんが電話に出た。
「陽生ならさっき出たよ」
「えっ!」
「春ちゃんを迎えに行ったんじゃないの?」
「…はい」
やっぱり聞いて良かった。もうこっちに向かっている。急いで支度しないと…
「あの、明和さん、ありがとうございました」
「あ、春ちゃん」
「はい?」
「急に連絡して来て困ってるよな。ごめんな…」
「あ、いえ」
「昨日、もう今日か…俺が店終わってから車で連れて帰って来たんだ」
「あ…そうだったんですね」
「住所変更してねぇから、俺んちに陽生の荷物が届いてて、宅配で送ってくれって言われたんだけど、俺も陽生の新居見ときたくて。急遽荷物持って行ったんだよね」
「はい」
「とりあえず部屋も片付いたから、一回帰ろうと思うって言うし。じゃあこのまま一緒に帰ろうぜって、流れで連れて帰って来て…電話がない事に気づいたのがこっちに着いた時で、俺が急に帰ろうって言い出したもんだから。春ちゃんに連絡できなかったのそうゆう理由なんだよ」
事の経緯を説明してくれた明和さんは、弟思いで、あたしにまで気を遣ってくれる優しい人だ。
「あの、ありがとうございます。大丈夫です」
これから会うのは急だけど、まさか帰って来てるとは驚きだけど。それはそれで藤本陽生だから、どうって事はない。
「あいつさ、春ちゃんの番号覚えてんのな?」
「え?」
「いやぁ、春ちゃんに連絡したいから電話貸してくれって言われて。いやいや番号わかんねぇじゃんって言う前にかけてたわ」
明和さんが電話越しに笑っているのが、その口調で分かった。
「あいつが人の番号覚える筈がねぇよな」
また笑っている。
「自分の番号すら覚えてねぇんじゃねぇの」
「あの、明和さん…そろそろあたし、支度します」
「あ、ごめんごめん!そうだよな」
「あの、本当にありがとうございました」
「あ、春ちゃん!春ちゃんの番号さ、登録しといていい?」
「はい、はい勿論です。よろしくお願いします」
「良かったら俺のも登録しといてよ。何かあったらいつでも連絡して」
「はい、ありがとうございます。登録します」
「うん。じゃあね、またね」
「はい。また」
電話を終えて、慌てて時刻を確認する。
支度しなきゃ…
連絡手段を持ち合わせていない藤本陽生の現在地は分からない。
服を選ぶ時間や、ヘアメイクにかける時間がない事だけは分かる。
久しぶりに会うんだから可愛くしたかった。久しぶりに会うんだから可愛いって思われたかった。もっと準備に時間をかけたかった。
そんな乙女心が男達には分からない…
どこかに出かけるのか。会いに来るだけなのか…
もっときちんと確認しておけば良かった…と、後になって気づくあたしもあたしだ。
どうせ自己満足。
藤本陽生はあたしの変化になんて一々気づかない。夜のバイトをしていた時のメイクや髪型、服装が派手になっても、顔色一つ変えない。
スカートを履いたって、靴を変えたってあの男は興味を示さない。
どうせ自己満足。
可愛く見られたいあたしの自己満足。
だけどこの自己満足がないと気分が上がらないのも事実で…急いで服を選んだ。
やればできる自分が急に誇らしい。
伸びていた前髪のセットがし辛く、鏡に映る前髪を睨みつけた。
春休みの間に切ろうと、一つ目標を立てて。
トイレへ行こうと部屋を出たら、玄関のチャイムが鳴り響く。
来た…!
勢い良く階段を駆け降り、着地寸前で思わず壁に突撃した。肩がジンジン痛むけど、胸の鼓動の方が気になって労わる余裕はない。
履き物を靴箱から取り出す時間を惜しみ、三和土に置かれた母のサンダルを踏みつけ、今度は玄関のドアに勢い良くぶつかる。
ちょっと痛かったけど、気にしている暇はない。
鍵を開けたと同時にドアを開いたら、
「…何かすげぇ音したろ」
藤本陽生が立っていた。
「陽生先輩…」
その存在に、全神経細胞が逆立っている。
「…大丈夫か?」
母のサンダルを踏みつけたままドアを開けた状態で、体の筋に変な力が入り、ドアを押さえていた手が震えて来た。
「入って下さい…」
藤本陽生がドアに手をかけたのを見て、自分の手を離し、玄関の中へ招き入れる。
藤本陽生の後ろ背に、ドアがガチャンと音を立てて閉まった。
あぁ…知っている。この感情をあたしは知っている…
思わず藤本陽生の両腕を握り、その表情を見上げていた。
「どうした?」
かけられた言葉に返事が出来ない。
会ったら一番になんて言うんだろ…
お帰りなさい? 久しぶり? 元気でしたか?
「会いたかった…」
そのどれでもなく、呟くように出た言葉がやけに小さい。
その胸に頬を寄せたら、好きな人の匂いがした。
「帰るの連絡しなくて悪かった」
寄り掛かるあたしの、背中を撫でるように腕が回る。
そんなの、全く気にしていない。
「大丈夫です」
好きが爆発しそうだ…
「一人か?」
「あ、はい上がって下さい」
藤本陽生の余韻に浸っていた所為で、玄関で足止めをしている事にようやく気づく。
「あ、」
そして、トイレへ行く途中だった事も思い出した。
腕を引き、今度は家の中へ招き入れる。
藤本陽生の入室許可については、以前より母から貰っていて、この無口な男のどこに信頼を置いているのか…とりあえず好かれているのは間違いない。
トイレへ行く事を伝え、あたしの部屋で待つように促した。
用を足して部屋へ戻ると、藤本陽生が立ったまま振り返る。
律儀な男は、言われないと座ろうとしない。
そうゆうとこも一々好きなのだけど、好きを数え出したらキリがない…
「ここに座ってください」
ベッドへ腰掛けるよう促す。
「何か飲み物持ってきます」
「いや、いい」
「え、でも」
「春」
「はい」
「大丈夫なのか?」
座ろうとせずに、表情を伺う様に視線を向けられた。
「え?」
何について問われているのか心当たりがない。
「おかしかったろ」
「え?」
「さっき電話した時」
「え?」
全然何もない…そう言おうとしても言葉にならない。
「泣いてんのかと思った」
「え?泣いてないです」
驚いてすぐに否定した。
「あたし変でした?」
だとしたら、突然の事に戸惑ってしまい、通話中に言葉に詰まった時があったのかもしれない。
「全然大丈夫です」
「春…」
「多分、朝だし、寝起きのままだったんで…頭がちゃんと働いてない…」
言いながら、声が詰まる。
「悪かった…」
どうして藤本陽生が謝るのか不思議でならない。
「俺にどうして欲しい?」
「え?」
「大丈夫じゃねぇだろ」
「…え?」
「声の違いなんてすぐわかる。何の為に毎日電話してると思ってんだ」
何のため…
「もっと早く帰れば良かったな…悪かった」
どうしてそんな事を言うのか…
「そんなつもりは…」
早く帰って来いと思わせてしまったのだろうか…
「春…」
「あたし…何か、感じ悪かったですか…?」
言葉にすると、視線が下がる。
「そんなこと言ってねぇし思ってない」
藤本陽生の声が近くに感じる。
上手く立ち振る舞えない自分が情けなく、欲求を上手く扱えない事に苛立ちが芽生える。
「春は、春が思うより、もっと自分の気持ちを言葉にして大丈夫だからな」
「……」
「ごめんな、会いに来るの遅くなって」
見上げた先、好きな人があたしの頭を撫でる。
その瞬間、息が上手く出来ないと悟る。
あ、泣きそうだ…
そう感じた時には遅かった。
会いたいのに会わない。気になるのに気にしない。聴きたいのに聴かない。
自分の欲を上手く求められない。
そんな自分が嫌で、そんな自分だと思われたくなくて、何でもないふりをしていたつもりが、何でもないと思い込んでしまった。
「陽生先輩…」
言葉にすると、溢れる気持ちが止められない。
「困らせてごめんなさい…」
「何も困らせてねぇし、そんなこと思ってない」
「でも…」
「春、おまえが思ってるより、俺はおまえが好きだろ」
好きだろって…
「おまえが思ってるよりもっと甘えて良いし、おまえが我儘だと思ってる事は大抵我儘じゃねぇから安心しろ」
「そんなこと…」
「俺にどうしてほしい?」
その言葉に、首を横に振った。
だって、これ以上何かを求めたら…
「春」
気持ちが止まらなくなってしまう。
「春、」
あたしの名前を、優しい言葉にしてくれる人…
これ以上、この人に…
「学校に行けば会えるって思ってた安心感が無くなって、ただ声を聴ける事が一日の寄り添い方になってしまって…今までどんな風にして、この気持ちを吐き出していたのか思い出せなくなって…」
寄りかかってばかりで良いのかと…不安になる。
「一日の過ごし方すら、思い出せない」
「春…」
「何でもない…こんな事、何でもない…」
言い聞かせて来たのに…
「どうしてあたしを一人にするの…?」
ほら、馬鹿な事を口走ってしまう…
「会いたくなったらどうしたら良いの…」
「ごめん」
ほら、困らせる事しか言えない。
「春」
「やだ…」
「何が」
「どうしてあんな事言うの…」
「春」
「言わなくていい事だったのに…」
ほら、こんな自分を曝け出すことになる。
「こんな事言いたくなかったのに…」
最悪だ…
藤本陽生の手があたしの肩を支える。
「やだ…触らないで」
こうなってしまったら、もう止め方が分からない。
「春に触れなくなったら、俺なんて生きる意味がない」
大好きな声が、言葉と当時に更に低くなる。
「この場所を離れる事にしたのは、おまえと居ると俺はダメなんだ…」
大好きな話し方が、言葉と同時に揺れ動く。
「今だってずっと、触りたくてしょうがない…一緒に居たら離れ難くなる。もっと欲しくなる。それで目的を見失ったら元も子もねぇだろ」
大好きな視線が、言葉と同時に鋭く刺さった。
「俺は器用じゃない。あっちもこっちも天秤にかけらんねぇ。どっちも諦めたくねぇからその為にここを離れた。向こうでの生活なんていくらでも抑制できる。でもおまえの事は違う。欲のままに抗えなくなる。ずっと傍に置いときたくなる」
本当にあたしって人間は…
「悪かった」
我儘で身勝手で…
「俺にどうして欲しい?」
どうしようもない。
「…会いたかったか?って聞いて。寂しかったか?って聞いて。会いたかったって言うから…寂しかったって言うから…」
「わかった…ごめんな」
藤本陽生は何も悪くない。そんな事は馬鹿なあたしが一番よく分かっている。
「触らないでって言ったのは…触って欲しくなくて言ったんじゃなくて、これ以上感情を乱されたくなくて…踏み込まれたくなくて出た言葉だから、精神的な部分の…感覚的な言葉で…」
「わかった」
「…酷い事言ってごめんなさい」
「そんな事思ってねぇから気にするな」
あたしの好きな声と、話し方。
「…本当にごめんなさい。触ってください」
藤本陽生の手を取り、握り締めた。
「触ってくださいじゃねんだよ…」
言葉とは裏腹に、手は握らせてくれている。
「陽生先輩…」
握った手を持ち上げ、自分の肩に回し、その腕の中へ収まるように身体を寄せた。
背中に腕を回したら、硬く筋肉質な体付きで…
そうだ。一番好きな抱き締め方だと思い出した。
いくら力を込めてきつく抱き締めても、藤本陽生の体幹はぶれない。
寧ろこちらが簡単に引き離されてしまう。
両腕を握られ、徐に見上げる。
何も話してはくれず、ゆっくりと腕を持ち上げられた。同時に屈むように姿勢を下げてくる。
手を首に回され、視線が重なりそうで重ならない。
藤本陽生の腕が腰に回されると、勢い良く担がれた。
抱っこされたまま、ベッドへゆっくり腰掛ける。
少し見下ろすあたしの目線と、少し見上げてくる藤本陽生の目線がようやく重なり、どちらからともなく唇が触れた。
肩に手を起き、腰に回された腕。
もどかしく感じるこの距離に、遠慮がちに触れてくる唇が、お互いの精一杯だと感じる。
こんな事で離れ難くなっていたら、これから先、身が持たない。
「おまえ飯食ってるか…」
「え?」
「また細くなった」
「いやいや…」
「なんだこの腕」
肩に置いていた手を持ち上げられる。
「いや見えないでしょ…」
服に隠れて腕の太さなんて分からない。
「握ったら分かる」
「いやいや…」
「飯食いに行くぞ」
「はい?」
「引き籠ってんじゃねぇよ」
この状況で、人を引き籠り扱い出来るのはこの男しかいない…
まだ離れたくないし、まだ触れていたい。まだ感じていたいし、まだ感じて欲しい。
…男と女だからなのか、あたしと藤本陽生だからなのか…この温度差を時々もどかしく感じる事がある。
触りたいって言ったくせに全然触って来ないし。
「…何だ?」
不満が顔に出ていたのか、眉間に皺を寄せられた。何だとは何だ。
「何怒ってんだ…?」
「どうしてすぐに離れようとするの?」
「は?」
「もっといっぱいぎゅってしっ…」
話してる途中に抱き寄せられ、あたしの体を抱えたままベッドに倒れ込んだ。
藤本陽生の上に寝そべっている状態で、体を拘束され身動きが出来ない。頭を抱き抱える様に腕を回されているから表情も見えない。
「おまえ匂いが凄い」
「え?匂い…?」
「この部屋といい、この布団といい、おまえの匂いが凄くて興奮してくる」
言葉だけ聞くと変態っぽいけど、至って真面目に言ってるんだろうなこの人…
「手ぇ出しそうになる…」
出た…藤本陽生の自制心。
出したいなら出せば良いのに。あたしが良いって言っても藤本陽生は自制する。
「ダメなの?」
「ダメだろ」
「どこまでなら良いの?どこで止めたら良い?」
「止めれねぇわ…そんなもん最後までするだろうが…」
「えぇ…」
「寸止めなんかできねぇわ」
「じゃあ最後まですれば良いじゃん…」
小さく声を出したつもりだった。
「…おまえいい加減にしろよ。俺が出禁になるだろうが」
…聞こえていたらしい。
藤本陽生の生真面目なところが好きなところでもある。だけど、好き同士なんだから、無性に求め合っても良いじゃないかと思う時もある。
だけどこの生真面目な男は、あたしの部屋では絶対にヤらない。とゆうより、藤本陽生の部屋でしかシた事がない。
ゴムなんて持ち歩いてないし、この部屋にも用意なんてないから藤本陽生の部屋でする事になってしまうんだろうけど…
スキンシップをとるぐらいなら、ここでも良いじゃないかと思ってしまう。
「ダメだ」
ダメだダメだと言われると、ダメな事をしたくなるのを分かっていない。
「腕、離して…」
押さえ付けられていた腕を押し退けると、ようやく顔を上げる事ができた。
起き上がると、どうしたって上へ跨って座ってしまう。
「春…」
溜め息混じりに呼ばれる名前。
藤本陽生の手を掴み上げたら、勢い良く状態を起こして来た。
「おまえ人の話聞いてねぇだろ…」
低い声で凄まれてる筈なのに、近づいた距離に胸がきゅんとする。
「触りたいって言った…」
「触りたくてしょうがねぇって言った」
「同じじゃん…」
「同じじゃない」
「どうして」
「春…」
「触りたいでしょ」
「勘弁してくれ…」
「触ってほしい」
「正常な判断ができん…」
「大丈夫、触れ合うだけ」
「……」
「触るだけで良いから」
「…俺に暗示をかけるな」
暗示って…
真面目な声で冗談みたいな事を言うから、思わず笑ってしまった。
「春…ほんとにダメだ」
「どうして」
「彼女の部屋で、親の留守中に…こんな事したらもうここに来れなくなる」
「大丈夫。本当にするんじゃないもん。キスして、触れ合って、抱き合って」
「セックスじゃねぇか」
「えぇ…全然違うよ…」
「違わねぇわ、何言ってんだおまえ」
あたかもあたしが頭おかしいみたいな言い草で睨まれる。
何をそんなに過剰に反応してるのか不思議でしょうがない。
「春…」
そんな風に切なく名前を呼ばれると、余計に体がうずうずしてくる。
「一回だけ」
「何の一回だ…」
「一回だけこのまま抱き締めて」
「……」
ダメだ。全然らちが明かない。
小さく息を吐いた。
服の裾を掴み、そのまま脱ごうとしたら咄嗟に抱き締められた。
「おまえほんとに…まじで行動力…」
耳元で溜め息を吐かれ、呆れてるような、感心すらしてるような声を出す。
「ありがとう」
「なんの礼だ…」
「抱き締めてくれた」
「不本意にな…」
「でも嬉しい」
中途半端に捲れてしまった服が煩わしく、腕の中で体を捩らせた。
「春…」
「はい」
「もういいか?」
どう転んでも、ここにいる限り藤本陽生の理性が勝ってしまう。
「あ、」
「は?」
「…ホックが外れた」
「は?」
胸の締め付けが無くなり、胸元の開放感が急にやってくる。
一度ブラを外して前でホックを留め直し、またブラを着け直さないといけないこの状況。
服の袖から腕を抜こうとしたら、藤本陽生にその手を止められた。
「何してんだ」
「服脱がないとホックが留めれない」
返事の代わりに溜め息を吐かれた。
「できますか?」
「…今やってる」
抱き締めたままの体勢で、あたしの背中に手を回し、ホックを留めようとしてくれている。
背中を覗き込む度に、藤本陽生に抱き寄せられている感覚になって気持ち良かった。
「早く服を着ろ」
ホックを留め終わり、体が離れる。
ブラの中の胸の位置を整える為、ブラジャーの中へ手を差し込み、胸の位置が安定したのを確認する為、ブラの上から左右の胸を交互に持ち上げた。
「何を見せられてんだ俺は…」
「え?」
「服着てからやれ…何なら下りてからしろ」
上に跨ったままのあたしの腰を、藤本陽生が支えて持ち上げようとする。
「えっ?」
体が揺れ動き、ベッドの上に座り込んだ。
「服を着ろ服を」
「着てます…」
脱いでいる訳じゃない。ホックを留めやすい様に裾を持ち上げていただけだ。
なのに着ろ着ろ煩い…ほんとに。
目の前で脱がれるぐらいなら、自分が背中に周ろうと思っていたんだろうけど、あたしがあーだこーだ言うもんだから膝に抱えたまま留め直してくれた。
そうゆうところが本当に一々好きで困る。
頑張って理性と戦っている所為か、不機嫌には違いない。
でもその不機嫌さは愛しいだけだから気にしない。
「腹が減った」
藤本陽生が向き合って視線を合わせて来た。
「どっか行きたいとこあるか」
「え?」
急に言われても思いつかない。
「あたし、ご飯はもう食べました」
「いや、昼飯な」
「え?」
部屋の時計に目を向けると、時刻は11時を回っている。
いつの間に…
「いつ向こうに戻るんですか?」
「さぁ、決めてない。適当に」
てっきりすぐにでも戻ってしまうかと…
「今日は何時まで一緒に居れますか?」
「今日?」
言ったあとで、しまった…と思った。
勝手に期待してしまった。藤本陽生はあたしと違って、他にも交友関係がある。夜はまた別の予定が入ってるのかもしれない。
「母に連絡できるか?」
あたしの前でだけ、母の事を母と呼ぶ藤本陽生は、多分あたしが母の事を母と言い表すからだと思う。
「はい」
「じゃあ今日うちに来るか?」
「え?」
「うちって言うか、夜は兄貴の店に行く事になってる」
「…良いんですか?」
「いや、春が良いなら」
「全然大丈夫です」
「ちゃんと母に連絡しとけよ」
「はい」
自分でも分かるくらい、声が少し弾んでいた。
「多分、シゲも来ると思う」
「そうなんですか?」
「いや知らねぇけど、最近店に入り浸ってるって兄貴が言ってた」
シゲさん、まさかあたしと同じで季節の変わり目に迷子になってしまったのか…
「シゲの場合、今に始まった事じゃねぇだろって思うけどな」
あたしと同じ訳がないな…と考え直す。
「春」
「はい」
「髪伸びたな」
不意に手が伸びて、長い指が前髪を掻き分ける。
瞬きを繰り返したら、藤本陽生の顔が近づいて来る。
思わぬ近距離に、体が思うように動かない。
流石にキスをされるんだと身構えた。
唇が触れそうになり、
…触れない。
「しないんですか?」
「今意識が飛んだ」
「はい?」
「この部屋は危ない」
言葉だけ聞くと様子おかしいけど、至って真面目に言ってますこの人。
あたしの部屋に入るのは初めてじゃないのに、こんな感じになってるのは初めて見た。
「飯食いに行くぞ」
急に話を戻される。
「腹が減ってイライラする」
性的欲求を食欲と勘違いしてるんだろうか…
「陽生先輩」
離れようとする体を引き留めたら、また距離が近づいた。
耳元で、囁くように手を添える。
「キスくらいしても大丈夫」
「は?」
「キスがしたくなってくる」
「…俺に暗示をかけるな」
「こっち向いて」
耳元に添えていた手を頬へ移動し、顔を向き合わせる。
「キスしたくなった?」
「…とっくにな」
言葉と同時に腕が首に回され、引き寄せられた瞬間に唇が重なる。
最初のキスがどれだけ遠慮がちだったのか思い返せる余裕があるぐらいには、深くなる口付けに反して思考は意外とクリアだった。
家を出る時には正午前になっていて——、
どこに行く宛もなく、とりあえず飲食店がある場所まで出向くしかない。
電車で一駅もすれば、街並みは一変し、住宅街から離れ賑やかな雰囲気となる。
人の多さはやむ得ないけど、改札を抜けてそこそこ歩けば、お店は選び放題。
何が食べたい訳でもなく、足を踏み入れた店内はイタリアンのレストランだった。
高校生が入って大丈夫ですか?みたいな雰囲気に、思わず藤本陽生を見やる。
その視線に気づいた藤本陽生が目を合わせる。
は?って顔をされたから、意図が伝わってないと分かり諦めた。
ウェイターに声をかけられ、奥のテーブルへ案内される。
辺りを見渡す様に席へ着くと、藤本陽生が視線を合わせて来た。
「ここ知ってるか?」
「このお店ですか?」
聞き返したと同時に、ウェイターがメニューとお水を持って来た。
ランチメニューの説明が始まり、高校生でも払える金額に安心する。
決まった頃にまた注文を聞きに来ると言われ、とりあえず今日のランチに決めた。
「このお店って…」
さっき藤本陽生が言おうとした事を今更蒸し返してみる。
「は?」
当の本人は何の事だと言わんばかりの反応。
「このお店、知ってるか?って…」
「あぁ…」
思い出してくれたらしい。
「陽生さん」
会話に被せて、聞き慣れない呼び方…
「偶然ですね」
続けて聞こえた声に、藤本陽生の視線があたしの後ろへ移る。
「こんにちは」
その声に振り返ると、見知らぬ美女が立っていた。
振り返ったあたしに、美女が視線を合わせる。
「ごめんなさい、急に声をかけてしまって…」
あたしに言ってるんだろうと解釈し、控えめに会釈した。
トレンチコートを羽織ったまま、肩に大きめのバックをかけ、髪を後ろで一つに結っている。
綺麗な人…
声をかけて来たのだから、藤本陽生の知り合いに違いはない。だけど藤本陽生に声をかける女性なんて…風雪さんと間違えているんだろうか…いやいや、でもさっき「陽生さん」って呼んでいた。
「もしかして、春ちゃんさん?」
誰だろこの人…
振り返ったままだった姿勢を藤本陽生へ向き直し、助けを求めるべく視線を向けた。
急に向き直したからか、余程困惑しているように見えたのか…藤本陽生が立ち上がり、あたしの前まで来て腕を引かれた。
立てと言われている気がして、立ち上がる。
美女と目線の高さが同じになった。
「ナツ兄の奥さん」
「え…?」
小さく驚いた自分を褒めてあげたい。
「園村みのりです」
美女が柔らかく微笑む。
「あ、津島…春です」
慌てて自分の名前を口にした。
「初めまして。お会いできて光栄です。陽生さんが居らしてるの見えたので、お相手の方は春ちゃんさんだと思いました」
さっきから呼び方が気になるけど、指摘できない…
「今日は偶然こちらに?」
「はい」
返事をした後で、え?偶然ですよね?と藤本陽生を見る。
視線に気づいた藤本陽生が眉間に皺を寄せた。
伝わってない…
「春ちゃんさんは、ここへ来るのは初めてかしら?」
「あの、春って呼んでください…」
呼び方が気になり過ぎて、内容が入って来ないという弊害が生まれる。
「あら、」
あら…?
「ナツ君がいつも春ちゃんって呼んでるから、ついおかしな敬称になってしまってたみたい」
「ナツくん…」
「あ、主人です」
「あ、はい…」
園村さんにこんな美人妻が居るなんて聞いていない。
「ごめんなさい…デートをお邪魔して」
「いえ…」
「あたしも仕事に戻らないと…」
「あ、お仕事中で…」
「はい。お二人の大切な時間を、当店で過ごして頂き、ありがとうございます」
「え?」
「じゃあ、陽生さんまた」
藤本陽生へ声をかけ、
「春ちゃんもまた」
こちらへ微笑みかける。
「はい」
何と言って言葉を返せば良いか分からず、小さくお辞儀をした。
園村みのりさんはお店の出入り口へ颯爽と歩いて行く。
自分がいつ席に着いたのかすら記憶にない。
「ナツ兄の会社が出してる店」
藤本陽生もいつの間にか向かい合って座っている。
「園村さんの会社が出してるお店?」
思考が付いていかないから、オウム返しになった。
「ほぼ全国展開してるって聞いた」
「こ、このお店ですか?」
「あぁ」
「全国展開…」
「ほぼ」
「ほぼ…」
「まだない所もある」
園村さんは奥さんの親が経営している会社に勤めていて…
「あの人も同じ会社で働いてる」
藤本陽生が確信をついてくれた。
「奥さんも一緒に働いてるんですか?」
「働いてる部署は違うと思う」
もっと箱入り娘で、もっとフリフリ系の、もっと世間知らずなお嬢様をイメージしていたから、働いている事自体が意外だった。
「ここにはよく来るんですか?」
「いや」
「今日来たのって偶然ですか?」
「は?店選んだのおまえじゃねぇか」
「…確かに」
何が食べたいか聞いたら「兄貴の飯」って言われたから、その回答は無視して、一番最初に目に付いたこのお店を選んだ。
「奥さんが居たのも偶然ですか?」
「そうだろ」
「奥さん綺麗な方ですね」
「さぁ」
さぁ…?
あの美人妻を見て、さぁって言った…
「俺はあまり話した事がない」
「そうですか…」
「ナツ兄は、春と良く似てるって言ってた」
「え…あたしあんな美人じゃ…」
「顔じゃねぇわ」
「あ、そうですか」
それはそれで…
「奥さんどんな人なんですか?」
「知らん」
「…今し方、あたしと似てるって言ったじゃないですか」
「言ったのはナツ兄な」
「そうだけど…」
これ以上この会話を続けるのは無謀だと感じた。
イタリアンのお店でパンではなく、ライスを選んだ藤本陽生は、気づいたら全て完食していた。
余程お腹が空いていたのかと思い、あたしのパンもあげといた。綺麗に食べるから見ていて気持ちが良い。
大きな子供が一人居る様な気分になり、微笑ましかった。
食後の飲み物が運ばれて来て、
「春じゃねぇの?」
グラスを持とうとしたら指摘された。
「え?あたしですか?」
着信音が僅かに聞こえる。
指摘されて鞄の中を確認すると、音が鮮明に聞こえて来た。
「あたしだ、え…?」
着信相手の名前を見て、藤本陽生へ視線を向けた。
「園村さんから電話が…」
「は?」
着信相手の名前が「ナツ兄」と表示されている。
「…どうしたら良いですか?」
ディスプレイに表示された名前を藤本陽生にも見せる。
「とりあえず出ろ」
「はい…」
言われて通話ボタンを押す。
「もしもし…」
「あ、春ちゃん?良かった。まだ店にいる?」
「え?」
「陽生が電話に出ないから、春ちゃんにかけたんだけど」
「あ、はい…電話を忘れて来たそうです。代わりましょうか?」
「いや、大丈夫。まだ店に居るのか聞きたかったから」
「店って…」
「奥さんから連絡が来て、春ちゃんに会ったって」
「あぁ…はい、はい。会いました。素敵な方でした」
「よく言われる。ありがとう」
「あ、はい」
思わず藤本陽生を見てしまった。特に意味のない視線を送ったあたしを凝視してくる。
「え?」
思わず出た言葉は藤本陽生に向けたもの。
「え?」
あたしの言葉に反応したのは、電話越しの園村さん。
「あ、いえ…」
園村さんに言葉を返しながら、凝視してくる藤本陽生に、声にはせず「ん?」と首を傾げて見せる。
「まだ店に居てくれて良かった。会計はこっちで精算しとくから、そのまま帰って良いからね」
「えっ?」
藤本陽生から視線を逸らし、電話の内容に集中した。
「どうゆう事ですか?」
「俺がご馳走するから」
「どうしてですか?」
「奥さんにそうしろって言われたから」
「え…?」
そうしろと言われたらそうするのか…とは、言葉にしなかった。
「あの、そうゆう事でしたら、ちょっと陽生先輩に代わります」
「了解」
藤本陽生に通話中のまま電話を差し出し、
「話聞いて貰えますか?」
そう言ったら、無言で受け取った。
あぁ、わかった、ありがとう。この三つの単語を使って会話が成立するのは藤本陽生だけだと思う。
「春に代われって」
再び戻って来た電話を耳にあてる。
「電話代わりました」
「あ、春ちゃん。ハルに話しといたから。他にも食べたいものあったら注文してあげてよ」
「いえ、もう十分頂きました…ありがとうございます。あの、奥さんに、よろしくお伝え下さい」
「ああ、うん。伝えとくね」
「ありがとうございます」
「春ちゃん、またゆっくり話そうよ」
「はい」
「奥さんが、春ちゃんとまた会いたいって言ってたよ」
「えっ?」
「奥さん可愛い人でしょ?」
「いや、めちゃくちゃ綺麗な人でした…なかなか居ないですよ」
「高校で見つけました」
「へぇ…」
「春ちゃんと気が合うと思うんだよね」
「えぇ?」
「自分が注目されてる事に気づいてない人達だから」
「はい?」
「じゃあそろそろ切るね」
「あ、電話代わらなくて大丈夫ですか?」
「え?あぁ陽生?大丈夫、ありがとう」
「はい、こちらこそありがとうございました」
「うん、じゃあね」
「はい、失礼します」
通話が終了した画面を閉じ、
「電話終わりました」
鞄の中に戻しながら、藤本陽生へ声をかけた。
「ご馳走になってしまって…え?」
藤本陽生に視線を向けると、どうゆう感情なのか分かりにくい表情をしている。
「なんか…怒ってます…?」
「いや」
「なんか…ありました…?」
「いや、ナツ兄と話してる時は饒舌になるんだなと思って」
「え?」
「何となく」
そんな気がする…語尾にそう呟いた。
「あたしの話し方が、園村さんに対してと他の人とで、違って見えるとしたら」
何となく心当たりがある。
「陽生先輩に似てるからかも…」
それしか考えられない。
「似てる?俺とナツが?」
藤本陽生は時々、園村さんの事をナツ兄ではなく、ナツと呼び捨てる事がある。
「言われた事ねぇけど」
「そうなんですか?」
「どっちかって言うと風雪に間違われる」
「そうでしたね…」
顔じゃないんだな…
「見た目は風雪さんの方が似てますよね。声も、話し方も、背丈とか、服装も?」
最後は曖昧になった。
「園村さんは、そうゆう所じゃないんですよ」
上手く説明できるか自信がない…
「感覚的な表現になっちゃうんですけど、見た目でゆうと、陽生先輩と兄弟って言われたら、確かに、あーはいはい。みたいな。言われたらまぁ何となくわかるかも、みたいな。わかります?」
「いや…」
「例えば明和さんだと、陽生先輩と兄弟って言われてもちょっと半信半疑で…年齢が離れてるからってゆうのもあると思いますけど…園村さんは、まだ何となく、似てる要素があると言うか…それで言うとやっぱり風雪さんが良く似てます。見た目は」
「……」
腑に落ちていないのが、その反応でわかる。
「なので、見た目がどうこうではなくて、中身?性格…?精神的な部分?」
感覚の話だから、自分でも上手く説明ができない。
「何となくですけど、陽生先輩も十年経ったら園村さんみたいな感じになるのかなって想像できるんですよね」
見た目の雰囲気じゃなくて、纏ってる空気ってゆうか、人との距離感とか、接し方ってゆうか…
「…似たような事を言われた事がある」
藤本陽生が徐ろに口を開いた。
「え?やっぱりそうですよね?」
「俺は、ナツ兄の高校時代を見てるみたいだって、言われた」
「じゃあその人は…」
きっと、園村さんの事が好きだったに違いない。他人に面影を探すのは、それだけ大切な人とゆう事だ。
「ナツ兄の奥さんに言われた」
「え?」
「俺がカズ兄の家に移った頃、ナツ兄も引越しがあって、あの時期は手伝いで何度かあの人に会う事があって、その時にそんな事を言われた」
想像していなかった人だったけど、その人だと分かれば想像できる。
「似てるかもな」
「はい?」
「同じものを見てる気がする」
だから園村さんは藤本陽生が可愛くてしょうがないのかなと腑に落ちる。
「俺とナツ兄じゃねぇぞ」
「はい?」
「おまえとあの人な」
「え?」
「春に何となく似てるって意味が、少しわかったかもしれない」
「そうですか…」
初めて会った人と似ていると言われても複雑な心境だけど、藤本陽生とその兄が声を揃えて言うならば、嫌な気はしなかった。
手を繋いで歩いたりはしない。
甘い言葉を囁いてはくれない。
歩幅を合わせて近づく距離が愛しい。
「春」
名前を呼ばれる事が、最大の愛情表現なんだと知った。
だからわざとゆっくり歩く。
「早く来い」
必ず振り返って名前を呼んでくれるから。
当てもなく歩くのは性に合わない。
それは藤本陽生も同じようで、お店を出る前にこの後どうするかと聞かれた。
何か見たいものや、行きたい所はあるかと…
何度でも言うが、他に用事も無ければ予定もない。
「じゃあうちに行くか」と聞かれた。
待ってましたと言わんばかりに頷いた。
今となっては、行きたい所も行けなかった場所も、あなたの隣だったと分かる。
食事をする為に電車に乗り、食事を終えてまた電車に乗る。
退屈だと感じていた移動手段も、隣を見ては浮かれてくる。
電車内で立って乗る時は、堂々と距離を縮める事ができるから、人が少なくても立って乗るのが苦ではなくなった。
だけどどれだけ見つめても、視線を合わそうとはしてくれない。気づいてない筈がないのに、視線は窓の向こう。
こっちを向け…こっちを向けー…
念を送り続けても、見上げる先の相手は微動だにしない。
電車が揺れて視線を逸らしたら、頭上から溜め息が聞こえた。
「長い…」
呟かれた言葉に、視線を上げる。
藤本陽生があたしを見ている。
ようやく重なった視線に、頬が勝手に緩んで行く。
「なげぇんだよ…」
「え?」
「見るな」
「見ないと見てくれない」
「んなことねぇわ…」
「んなことある」
「真似すんな」
「真似してない」
「チッ…」
舌打ちをされた。
不機嫌な雰囲気に、思わず腕を掴む。
「怒った?」
「怒ってない」
「ほんと?」
「ん」
視線の合わない短い返事が、心情を表しているように思えた。
「じゃあ良いんですけど」
「…怒ってねぇって」
「はい」
「なんで急に不機嫌なんだよ…」
「不機嫌?あたしが?」
感じ悪いのはそちらでしょう?吃驚する…
「春…」
「はい」
「…春」
「はい?」
「悪かった…こっち見てくれ」
そこまで言うなら仕方ない。
さっきの藤本陽生と同様に、視線を窓から移した。
「人が話しかけてる時に違うところ見るのって感じ悪くないですか?」
「そうだな、悪かった」
頭を撫でられたから許しても良いかなと思うあたしは、本気で不貞腐れてはいない。
「考え事してた」
「そうですか」
「おまえは意味もなく見過ぎな」
はい…?
「見られ続ける方の身にもなれ」
何故か説教が始まる。
「ダメなんですか?」
「何開き直って…」
「見たらダメなんですか?」
「ダメとかダメじゃないとか…」
「え?」
「ダメじゃない…」
「良かった」
掴んでいたままの腕を離す理由がなく、電車の揺れに紛れてずっと腕に掴まっていた。
「大学生になったら、忙しいですか?」
「さぁ、始まってみないと分からない」
「一人暮らしで、ご飯とかどうしてるんですか?」
「作ってる」
「え?陽生先輩が?」
「あぁ」
ちょっと想像できない…
「うちは、割と小さい頃から料理は一通り教わる」
「え、凄い…」
「カズ兄は結果的に仕事にしたし、ナツ兄が作る飯も普通に美味い」
「そうなんですね…」
そんな舌の肥えた人に、あたしは毎日お弁当を食べさせようとしていたのか…
とんでもないな。
「食の好き嫌いは人の好き嫌いに比例するって…だから、昔から好き嫌いをするなって言われて来た」
「…それ」
って、素敵な事ですね。と言おうとしたら、車掌のアナウンスにより最後まで口に出来ず…
「降りるぞ」
もっと聞きたかった藤本陽生の話が中断となり、開くドアを理不尽に睨みつけた。
改札までの道のりはやけに人が多く、会話もままならない。
付いて歩くのに必死で、駅を出てようやく立ち止まる事が出来た。
藤本陽生が腕時計に目を向け「行くか」と言葉をかける。
電話は携帯しないのに、時計は忘れないんだなと感心した。
「明和さんはもうお店にいるんですか?」
「いると思う」
「じゃあ行きますか?」
「あぁ」
このままお店に向かう為、歩き出した。
凄く凄く楽しみだった。まだ藤本陽生と居れる事にも、シゲさんに会えるかもしれないという期待と、こうしてまた明和さんのお店へ向かって歩く道のりと、色んなワクワクが重なって、気持ちが込み上げて来る。
歩く速度にまで機嫌の良さが表れる。
「少しうちに寄っていいか?」
「はい」
遠くはない道のりに即答した。
「渡したいものがある」
「あたしにですか?」
聞き返すと、視線だけ向けてくる。
他に誰がいるんだ?って言いたいのか、単にこれ以上話題を広げる気がないのか、どちらかだと推察した。
家主が居ない時にお邪魔するのはあたしも同じで、明和さんの家の前で待とうとしたら「入れ」と促された。
玄関から廊下へ進む少しの間だけでも、何だかソワソワした。
実家なんて知らないけど、帰郷する人はこんな気分なのかなと想像してみる。
部屋のドアが開けられ、先に入れと言わんばかりに開けたドアの前で立ち止まる。
「お、邪魔します…」
先に通されると思ってなくて、心なしか言葉に詰まった。
少しも変化のない部屋の雰囲気に、この男、本当はずっとここに住んでいたんじゃないか…と思わせる。
藤本陽生の気配を後ろで感じ、同時にドアが閉まった。
「春」
呼ばれた名前に背筋が痺れる。
声で分かる。
低く擦れた声が、求めている…
今振り返ったら、その視線に囚われてしまう。
わかっている…
わかっていて振り返るんだから、どうしようもない…
見下ろしてくるその目が、まだかまだかと欲しがっている。
至極あたりまえのように抱き締められた。
体を持ち上げられそうになる程、きつく腕を回され、爪先立ちになる。
肩に頭を乗せられているから、首に吐息がかかって擽ったい。
「春…」
呼ばれた名前に返事が出来なかった。抱き締められている力が強すぎて上手く声が出せない。
「渡したいものがある」
そう言う割に、体を離してはくれない。
「陽生先輩…」
両腕を引き抜こうにも、凄い力なんですけどこの人…
溜め息が聞こえ、直後に腕の力が緩み、姿勢を正す様に見下ろされた。
何を言われるでもなく、思わずその肩に手を伸ばす。ゆっくりと屈まれた姿勢に合わせて、首に手を回すと、弾みをつけて持ち上げられた。
抱っこされるのは好きなんだけど、あたしは体格で言うと立派な大人で…毎回ほんとに良く持ち上げてくれるなと感心する。
藤本陽生の腰に脚を絡め、見上げて来る顔を包み混むように引き寄せると、口付けをし易いように顔を上へ向けてくれるから、主導権がこちらにあると錯覚してしまう。
二人きりの空間に、漏れる吐息と舌の絡み合う音が耳を掠める。何度も唇の感触を確かめ合い、それだけの事がこんなにも気持ち良い…
部屋の中を移動しているのが分かり、薄らと瞼を開いた。
抱っこされたまま、藤本陽生がベッドへ腰掛ける。
その拍子に唇が離れ、惜しむようにまた触れて来る。腰に回っていた手が背中を撫でる様に移動し、更に身体を密着させた。
何も考えられず、どうしてここに来たのか、もうどうでも良くなっていた。
何度も何度も舌と舌が絡み合う。口の中が気持ち良いのに、纏っている布が煩わしく、肌に触れたくてしょうがない。
首にしがみ付いていた手を腰の辺りまで下ろし、服の裾から手を忍ばせた。背中を弄るように肌の感触を確かめる。筋肉質な体付きが直に伝わり、舌を絡める度に気持ち良さが増した。
それに触発されたかのように、藤本陽生の手が胸元へ移動してくる。服の上から胸を揉まれ、吐息が熱く漏れた。
もっと触って欲しい…もっと触りたい…
溢れ出す欲と欲が、お互いの気持ち良い所を求め合う。
性的欲求が抑えられない…
藤本陽生の両足の間からベッド下に降り、しゃがみ込んでベルトに手をかけた。
脱がされると理解したのか、ズボンのファスナーを降ろす手を止められる事はなかった。
布越しに形を確かめ、下着の中に手を忍ばせると、硬く熱を帯びたものが露になる。
握る様に触れた瞬間、その手ごと両手で掴まれた。
その行動の意図は不明だが、興奮状態なのはお互い様。
掴まれたままの状態で、握っているものを上下へ動かすと、更に手の力が強まった。
手の動きを止めようとしているみたいで、藤本陽生へ視線を向けると、それに気づいて視線が重なる。
「…もういい…」
絞り出す様なその声に、意図せず握っている手に力が入ってしまう。
「…春、」
息遣いが乱れている。
「やめる…?」
しんどそうに見えるから、辛い事はしたくない。
「手ぇ離せ…」
言われるがまま手の力を抜いたら、あっさりと引き離された。
腕を引かれて立ち上がり、ベッドへ組み敷かれる。追い被さるように抱き締められ、その重さを愛しく思い、背中に手を回した。
身を任せ、次の行動を待つ。
呼吸音と心臓の音が心地良く伝わり、落ち着いて来たのが分かった。
このまま寄り添っているだけでも満たされる。
意識がふわふわとしてくるような感覚が押し寄せ、
「春…」
名前を呼ばれて瞼を開いた。
「眠いのか…?」
藤本陽生の顔が近く、低い声で囁く。
眠たい訳じゃなかったのに、何でこんなに気持ち良いのか…睡魔に襲われるような感覚に近い。
返事ができず、重い瞼で瞬きをした。
「…やめるか?」
その言葉に首を横に振って答えると、胸に顔を埋め、擦り寄ってくる…首筋に唇が触れ、裾を掴む様に服の中へ手が入り、ブラのホックを外された。
上の服と一緒に脱がされ、バンザイをした状態の腕を捕まれると、脇の下を舐めらながら乳房の膨らみを舌が這う。
ざらりとした舌の感触が、身体を捩らせた。
湧き上がって来る熱がじわじわと全身を廻り、ズボンを脱がされた時、太腿に硬くなったものがなぞるように触れて来て、足の先まで神経が研ぎ澄まされる。
裸で寄り添うまでは一瞬の事だった。
キスをしながら肌と肌を摺り寄せ、足を開いて相手の足に絡め合う。
抱き締め合いながら、舌を吸われ、湿っぽいものが内股に擦り当てられた。
絡めた足から腰付きの振動が加わり、
「挿れて良いか…」
唇を重ねながら言葉を発せられた。
滑りの良くなった箇所へそれを押し当て「…春?」と吐息混じりに囁かれる。
それに頷き返すと、深呼吸する息遣いが聞こえた。
「…痛いか?」
痛くないけど、いつもよりお腹の奥が締め付けられた。
「…痛くねぇか?」
また同じ事を聞いてくるから、頷き返し、腰に足を絡ませて動きを急かす。
押さえ込むあたしの足の力に逆らう様に、ベッドに両手を着いて、踏ん張るように藤本陽生の腰がビクとも動かない。
痛くないともう一度伝えても、藤本陽生の呼吸が乱れるだけだった。
「陽生先輩…」
「……」
「痛くないから…挿れてみて…」
「……」
返事の代わりに深呼吸をし、藤本陽生の手が胸を撫でる。挿れて欲しいのにしつこいぐらい弄られた。
その刺激に声が出そうになり、腰が揺れる。
「春…」
やっと言葉を発した藤本陽生は、胸を弄りながら善がるあたしを見下ろしている。
どんどん溢れてくるのが恥ずかしい程わかる。
それでもまだ入口が押し広げられる感覚がなく、焦ったい程進まない。
「陽生先輩…もぅ…」
体中が切ない。
「挿れて欲しい…」
「…じゃあ力抜け」
力んでなんてない。
「狭いと痛えだろ…」
あたしの腰を支え、自分のものを押し当てて来る。
「痛くない…」
「…ここがいつもより狭い」
「…っ」
入り口に当てがわられただけで、全身に電流が走った。
「春…」
足が痙攣して震える。
「…今のでイッたのか?」
驚いたのはあたしも同じで…まだ挿入もしてないのに、全身の痺れに抗えない。
「春…大丈夫か?」
全身に力の入らない無抵抗なあたしに、頬を擦り寄せキスをしてくる。
自分の身体なのに、何が起きてるのかわからない…
「続けて良いか…」
吐息がかかる距離で、藤本陽生が遠慮がちに言葉を発する。
「待って…」
「ん…」
「力が…入んない…」
「しょうがねぇよ…ヤるの久しぶりだろ」
やけに口調が優しく、頬を撫でてくれる手付きも優しいから甘えたくなる。
「でも、あんま待てねぇ…」
押し込まれる感覚が来た。
「最後までシぇんだけど…」
まだかまだかと、挿入許可を待っているみたい…
「…痛くねぇか?」
「うん…」
「…これは?」
「…い、たくない…」
一度イッた所為か、やけに気持ち良い。
する度に動く度に、藤本陽生は確認を迫って来た。あたしの体が、いつもと違う状態らしかった。
いつもより入り口が狭いらしい。力任せに挿れようとしたら、あたしが体を捩らせるから、痛いのかと…怖がってるんじゃないかと思ったらしい。
だからもう少し前戯に時間をかけようとしたらしい。そしたらあたしが挿入もせずにイッたから、藤本陽生の興奮を更に掻き立ててしまったようで。
やけに気持ち良い。
「全部入った…」
藤本陽生の腕にしがみ付くと、顔を寄せてキスをしてくれた。
「気持ち良い…」
「あぁ…」
「動かして良い?」
「…あ?」
覆い被さる藤本陽生が、不機嫌な声を出す。
「今は無理…」
「今は無理…?」
「今動いたらイク…」
ぎゅうっと体にしがみ付くから、胸がきゅんと疼く。
「好き…」
「……」
「大好き…」
「…わかった」
何だかんだ会話をしてくれる。
繋がったまま動こうとしないから、いつもは聞けない事を口に出してみる。
「あたしの事好き…?」
「好き」
即答されると嘘っぽく聞こえるのは何なんだろう…
「どこが好き?」
「全部」
「全部?」
「……」
「全部って?」
「…もういいか?」
「え?」
顔を上げると再びキスをされた。
挿入されたものがゆっくり出し入れされて行く。
「キツくない…?」
「だいぶ解れた…気持ち良いだろ?」
あたしはずっと気持ち良い。
「陽生先輩は…?」
「んっ…」
「気持ち良くなってる…?」
「あぁ…」
「陽生先輩…」
「なってる…」
「ん…」
「春…」
「んっ…」
「春…」
この後何度も名前を呼ばれた。
名前を呼ばれる度に、好きだと言われてる気がして…
何度も快楽が押し寄せた。
今までこんな風に時間を持て余す事がなかったから、気付いた時には夜になっていて、いつの間にか眠ってしまっていた。
目が覚めたら、マイナスイオンが隣で一緒に寝ていた。
癒される匂いに、体を擦り寄せる。
枕に顔を埋めているから、安否確認の為に体を揺らしてみた。
ビクともしない…
腕を持ち上げ、体を入り込ませる。
「…何やってんだ」
あ、起きた。
「息してるのか確認を…」
「は?」
寝起きからの「は?」はガチで怖い。
起き上がろうとしたら、体を引き寄せられた。
「今日泊まって行くか?」
「帰るって言っちゃいました…」
「…そうだった」
藤本陽生の抱き締める力が弱まった。
「…今から泊まるって言いましょうか?」
可哀想なくらい力が抜けていて、可愛い。
「ダメだ。一度言った事を覆したら信用問題になる」
「…え?」
取引先の会社とやり取りをしている様な言い方に、母の話ですよね?と確かめたくなった。
「今日は送って行く…」
本当に可哀想なんだけど可愛い…
「兄貴の店に行こう。もう開店してる時間だろ」
藤本陽生が起き上がり、あたしのマイナスイオンが離れて行く。
「待って、起こして」
手を差し出したら、再び近づいて抱き締めてくれた。
首にしがみ付いたら、勢いをつけて起き上がらせてくれる。
「良い匂いがする」
しがみ付いたまま離れ難い。
「あ…渡したいものがある」
腕を引き離され、体も離れた。
容易くベッドから降りて行く姿に寂しさが募る。
すぐに戻って来た手には、小さな紙袋が握られていた。
…どう見ても、それはプレゼントのようで。
ベッドへ腰掛け、あたしの前に紙袋を置いた。
「何ですか…?」
「それ渡したくてうちに寄ったのに、渡し忘れるとこだった」
質問に答えないのはいつもの事だけど、明らかにプレゼントみたいな包みが入っていてドキドキした。
「あたしが貰って良いんですか?」
「おまえにあげてんだろ」
今日誕生日だったかな…と考えてみる。
違う違う…
何の記念日だろうと考えてみる。
いやわからん…
えぇ…何これ…
「どうしたんですか…急に…」
「いいから早く開けろ」
「はい」
紙袋から包みを出すと、何だか見覚えのある銘柄が書かれていて。
なんだっけ…
「あ…!」
小さな箱から中身を取り出すと、
「マイナスイオン!」
「は?」
「あ、間違えた」
思わず口に出してしまった。
もちろんマイナスイオンとゆう商品ではない…
藤本陽生が愛用している香水だった。
「え、え?あたしこれ貰って良いんですか?」
実は同じ物が欲しかった。ネットで買おうか真剣に悩んでいた程。
だけど藤本陽生がお揃いとか嫌がりそうで、結局買うのを諦めていた。
買わなくて良かった!
「そんなに喜ぶとは思わなかった…」
もっと早く渡せば良かったなと呟かれた。
「欲しがってる様に見えました?」
どうして急に香水をあげようと思ってくれたんだろ。
「いや、何となく」
何となくでも良い!
「毎日付けます」
「そうか」
「今付けて欲しい」
「じゃあ俺の使え、それはおまえがまた付けたい時に開ければいい」
藤本陽生は立ち上がり、香水を手に持って戻って来た。
「ここに置いてるんですか?」
「いや、持って帰って来た」
話しながら手を掴まれ、シュッと吹きかけられる。
自分の手首と擦り合わせて来た。
「俺と同じ匂いだな」
真顔で言うからスルーしそうになったけど、こんなロマンチックな事はない。
藤本陽生の手を掴み返し、手首の匂いを嗅いでみる。
「えぇ…良い匂いがする…」
やっぱりこれはマイナスイオンだ。
「嬉しい…」
「……」
「好き…」
香水の箱を握り締めたまま藤本陽生に抱き付いたら、背中に腕を回し、更に引き寄せてくれた。
「帰るのが遅くなる。兄貴の店に行こう」
背中を摩られ、促す様に言われた。
もはや帰りたくない。
でもそれは言葉にできない…
「行く前にもっかいチューしてくれる?」
「は…」
なんだその嫌そうな顔は…
「甘えんな…」
「さっきは可愛いって言った」
「過ぎた話を持ち出すな」
急にツンツンしてくるところも好きだからしょうがない…
「行くぞ」
「はい」
藤本陽生が先にベッドから降りて立ち上がり、その後を追う様に膝で歩きながらベッド傍まで向かうと、目の前に立ちはだかったまま退けてくれる様子がない。
「え?」
降りれないんですけど…?
見上げると手を差し出される。
掴まれと言う意味だと解釈し、迷わずその手を掴むと、体を引き寄せる様に反対の手が背中に回り、チュッと口付けをされた。
「えぇ…」
急に甘やかしてくる…
本当に一々好き…
明和さんのお店に着いたら、時刻は二十時を回っていた。
今日一日は藤本陽生で始まり、藤本陽生で終わるんだなと振り返ってみる。
「あ、春ちゃん!」
カウンター席に座っているシゲさんが手を振ってくれた。
「シゲさんだぁ…」
会えた喜びは会ってみると思ったより大きかった。
「ここ座り」
隣の椅子を引いてくれた。
「今日、人多いな…」
藤本陽生が後ろから言葉をかける。
「春休みやから?カズ兄さっきまで一個も出てけぇへんかってん」
「風雪は?」
「今オーダーが落ち着いたらしくて、裏で洗いもんしとくって」
シゲさんの説明を聞きながら、藤本陽生が立てったまま「何が食べたい?」と聞いて来た。
シゲさんに何を注文したのか聞いたら、スパゲッティと言われたから同じのにすると返事をした。
「裏行って直接言って来るわ」
藤本陽生が返事を聞かずに歩き出したから、「お願いします!」と慌てて声をかけた。
「てゆうか春ちゃん…」
シゲさんに声をかけられ、視線を戻す。
「何があってん?」
「え?」
何かあったかな…と心配になった。
シゲさんの表情が心なしか険しく感じる。
「どえらいマーキングされてるやん」
「はい?」
「アカン…めっちゃハルの匂いがする」
「え?え?」
「いや、何があったんか聞くんは野暮言うもんやけど」
「はい?」
「春ちゃん香水なんて付けてた事ないやろ?これハルがいっつも付けてるやつやん」
「あ、香水?」
マーキングなんて言うから、何があったのかと焦ってしまった。
「今日貰って…」
と、口走った後で、これ言っていい事なのか?と一瞬考える。
「陽生先輩に言わないでね…」
一応、釘を刺しておいた。
「言わへんよ、春ちゃんとの約束破らへん」
これだからシゲさんは安心感が違う。
「今日香水貰うたん?」
「そうなの。早速付けて貰った」
「春ちゃんが欲しい言うたん?」
「言ってないけど、欲しそうにしてたのが伝わったのかな?」
「え、自分ら何か記念日?」
「いや、何もないと思うんだけど…」
「あいつ浮気してんとちゃうか?」
「……」
「あ、ごめんなさい。笑えない冗談は僕も嫌いです」
睨みつけたらシゲさんが真顔で謝ってくる。
「ほんならやっぱしマーキングやん」
「なに?」
「犬や猫が俺の縄張りや!言うて匂い残していくねん。あれや」
「シゲさん…」
「いや、そのままやん。春ちゃんは俺のもんや!って言うマーキングやでこれ。この匂い、これ。絶対そうやんこれ」
「そうなの…?」
「だってハルが使ってる香水ってメンズのやん。女の子が使ってたらもろ男居てます!って匂いやん」
「いや、シゲさんの言い方…」
「えぇ…嫌や…春ちゃんからハルの匂いがする…何か複雑やねんけど…」
「やめてよ…変な言い方するの」
「春ちゃんに癒されたくて会いに来たのに、ハルの匂いに気が散んねん」
ぶつぶつぶつぶつ、本当しつこいなぁ…
「やぁ、春ちゃん!ごめんね顔も出さずに」
明和さんがカウンターの奥から姿を表した。
「お客さん来たら呼んでってシゲに店番して貰ってたんだ。今陽生がオーダーしに来てくれたから、もう少し待ってね」
「忙しいのにありがとうございます」
立ち上がってお礼を言うと、お水を二つ差し出してくれた。
カウンターの上の台へ手を伸ばし、グラスを受け取る。
「え…」
「え…?」
グラスを離してくれないから、思わず同じ言葉が出てしまった。
「春ちゃん…何かあった?」
「え?」
「え、ちょっと、もうちょっとこっち来て」
「え?」
近づく様にグラスを持つ手を引き寄せられる。
「何してんねんカズ兄…春ちゃん困ってるやん」
「いや、陽生の匂いが春ちゃんからする…」
そんなに?
「はいはい、マーキングされました」
「シゲさん…!」
「え、なに?これ陽生の使ってる香水だよね?」
何なのこの人達!
「ええから、はよう水頂戴」
横からシゲさんがグラスを取り上げてくれる。
自由になった手のお陰で、明和さんと少し距離を取ることができた。
「俺のスパゲッティまだ?」
「あ、そうだった。春ちゃんに声かけて来るから陽生に火の守り頼んだんだった」
明和さんが慌ててカウンターの奥へと下がって行く。
「シゲさん…」
椅子に座り直し、隣へ視線を向けた。
「好きな匂いだし、プレゼントして貰って凄くはしゃいでたのに…陽生先輩の関係者に会う時はちょっと付け難いんだけど…」
毎回マーキングと言われたら、たまったもんじゃない…
「アカンアカン」
「え?」
「春ちゃんは知らん顔して香水付けてなアカンで。好きな匂いやろ?」
「うん…」
「春ちゃんってな、もろ女の子!って匂いすんねん」
何か気持ち悪い事を言い出した。
「それに俺らは癒されんねんけど、ハルからしたら心配なんやろ。可愛い事するやんあいつ」
「いや、それシゲさんの憶測でしょ」
「春ちゃんまだそんな事言うてんの?まだまだやな君も」
急に偉そうな言い方になるの何…
「あ、戻って来たで。聞いてみたろか?」
「やめてよ…」
「大丈夫、春ちゃんに聞いたとは言わへんから」
不安しかない…
「ふうくんと喧嘩せぇへんかった?」
藤本陽生が隣に戻ったのと同時に、シゲさんが声をかける。
「してねぇわ。一々顔合わす度に喧嘩してらんねぇだろ」
え、してますよ…あなた。
「注文ありがとうございました」
小さくお辞儀をしたら、藤本陽生の手が頭を撫でる。
「アカン。ちょっともう我慢できひん」
「は?」
突然始まるシゲさんの寸劇。
「おまえ春ちゃんに香水吹きかけたやろ!」
「は?」
「春ちゃんからハルの匂いがすんねん!さっきからぷんぷん匂うねん!これおまえの香水ちゃうん?」
何だろ…この茶番劇は。
「そんなに匂うか?」
藤本陽生があたしの腕を取り、香水を吹きかけた手首の辺りを自分の鼻へ近づける。
ちょっとちょっと…!
人前で匂いを嗅がれるとは思ってもいない。
「あたしに聞かれても…」
恥ずかしくて口篭ってしまった。
「微かに香る程度じゃね?」
「何しにハルの匂いを春ちゃんに微かに香らせなアカンねん!返せや俺の癒しを!」
「別に俺の匂いじゃねぇだろ。香水の匂いだろうが」
「昔からそればっかり使てるやん!もうお前の匂いやねん」
「知らねぇわ、これ使ってるの俺だけじゃねぇだろうが」
「お前が使ってるって知ってるから俺らの周りはこれ使う奴いいひんねん!結局お前の匂いやん!」
あたしを間に挟んで会話するのやめて欲しい…
「で、何なんだ?春が使っちゃいけねぇのか?」
「かまへん。自由や、好きにしたらええやん。俺が言いたいんはな、お前がどうゆうつもりで使わせてるんか言うことや」
「は?」
「せやから、」
「春が好きそうだっからだろ。な?」
え、突然あたしに来るの?ここで?
「あ、はい…好きです。はい」
シゲさんに視線を向け、結局あたしへの単なる贈り物じゃないかと睨みつけた。
「…無意識が過ぎるわ」
「はい?」
「いや春ちゃんじゃなくて」
そう言われてシゲさんと同時に藤本陽生へ視線を向けた。
「は?」
あたしとシゲさんが無言で見つめるから、そりゃそうゆう反応になる。
「意識の中でやってへんねん。一番分かりにくいタイプやわ…」
「つまり?」
「お手上げやな」
小さな声でモゴモゴ話すシゲさんは、表情を変えずに「まぁ…えらい男に気に入られたな」と、これまた小さな声で囁いた。
「春、そろそろ帰ろう」
言われて時間を確認すると、二十二時前になっている。門限はないけど、藤本陽生はこの時間を目安にいつも送ってくれようとする。
「シゲさん、じゃあまた」
「春ちゃん、気にせんといつでも連絡してきや」
「うん、ありがとう」
温かい人の周りには温かい人が集まる。優しい人の周りには優しい人が集まる。
この温もりと優しさを、与えれる人になりたい。
「明和さんと風雪さんは…」
「あぁ、言うとくから大丈夫やで。結局ふぅくんずっと皿洗ってるやん」
スパゲッティを運んで持って来てくれた風雪さんは、いつも通りの軟派な雰囲気で…軽く挨拶をしただけで、次から次へとオーダーが入った事もあり、料理の提供に忙しく動いていた。
やる気なさそうなのに、愛想が良いってゆうか、フットワークが軽いってゆうか、一人でも卒なく対応していて普通にかっこ良かった。
「大変ですよね、二人で」
「せやから俺が時々店番してんねん」
「なるほど…」
入り浸ってるんだな…
「ハル、お前電話持ってへんから寄り道せずにはよ戻れよ」
「行こう」
シゲさんを無視してあたしに声をかけるから、
「お前わざとやろ!絶対聞こえてるやん!」
他のお客さんの迷惑になる…
「シゲさんまたね…」
せめてもの償いで、藤本陽生の代わりに小さく手を振り返した。
自宅までの道のりは、暗闇に紛れて藤本陽生の腕を握り締めた。
それに気づいた藤本陽生も、気持ちばかり寄り添ってくれている気がする。
「春、」
「はい」
「いつでも良い。連絡して来いよ」
「え、電話ないのに?」
「今の話じゃねぇわ…」
「あぁ…はい」
「俺が会えなくても、シゲや兄貴でも良いから頼って欲しい」
「ごめんなさい…」
「お前はここで一人じゃねぇだろ」
「うん…」
…だけど、あたしが一番に会いたいのは藤本陽生だけ。
「不安を全部取り除く事はできねぇけど、春が俺の世界で、おまえは俺の中心に居る。何があってもそこがブレる事はない。だから毎日声を聞いて、変わりないか確認する」
「うん」
藤本陽生は立ち止まると、あたしの頬を両手で包んだ。
「春の声を聞いて一日が始まって、1日の終わりにまた春の声を聞いて、すげぇ幸せだなって思ってる」
「うん」
「お前は俺の世界だ」
そう言って唇が触れた。
涙が出そうになって、触れた唇が震えそうになる。
ゆっくり離れると、見上げた藤本陽生の後ろで綺麗な星空が目に映る。
それがまた胸を締めつけた。
帰宅して、すぐにお風呂へ入らせて貰った。
帰り側に、藤本陽生が「兄貴の電話借りてまた連絡する」と言ったから。
部屋に戻り、明和さんの電話番号を登録してなかった事を思い出した。
登録している余裕がなかったなと、思い出した自分を全力で褒め千切る。
着信履歴を開き、明和さんの電話番号を見つけ、その上に表示されたナツ兄とゆう名前。
あたしの着信履歴は藤本陽生で始まり、藤本陽生の兄弟で埋まっていた。
消えて欲しくないな…と着信履歴を見つめる。
不意に画面が切り替わり、登録する前に明和さんの電話番号から着信がかかって来た。
「はい」
弾む声で電話を耳にあてる。
「変わりないか?」
変わらない愛しい声が耳に届いた——
変わりゆく季節を憂鬱な時だと決めつけ、
予定なんて何もない…
そんな風に諦めて、
どう過ごしたら良いかも分からず。
溜め息ばかり吐いていた寝起きの自分に言ってやりたい。
一年の中で一番好きな季節、
春が来たよって。
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