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何も言ってくれない

「春ちゃんって、おっぱいでかいよね」



こんな下品な話題を口にするのは、



「おい、てめぇの女黙らせろ」


「何でやねん…聞き耳立ててるって思われるやん」


「はぁ?実際聞こえてんだろうが」


「ほなハルが言うたらええやん」



藤本陽生とシゲさんの会話を横目に、



「どうやったらおっきくなるの?」


あたしの胸に興味津々なサナエちゃん。



「えっと…」


こんな事を体育館で聞かれるとは思わなかった。



今日は体育祭で、全員が体操服に着替えているのに、藤本陽生とシゲさん達数人の先輩は制服のまま。


しかも、自分達の種目以外は体育館に居るとゆう始末。



先程徒競走を終えたあたしは、サナエちゃんに連れられて体育館に来ていた。



走り切った後だったから上着を脱いでいたところ、冒頭の会話に戻る。



「ちょっと触ってもいい?」


「え?」


それはちょっと…



「シゲ」


「はい!」



割と威圧的に発せられた藤本陽生の言葉にすかさずシゲさんがサナエちゃんの隣に座った。


サナエちゃんとあたしの間を割るように藤本陽生が座り込む。



シゲさん、サナエちゃん、藤本陽生、あたしの順番に並んで座っている状態になった。



「サナエちゃん、胸はアカンわ…」


「え?なに?」


「人の彼女捕まえて胸の話はアカンやん」


「だって春ちゃん絶対でかいよ」


「いや、そうゆう事を…」


「だってシゲがおっぱいでかい子が好きって言ったじゃん」


「言うてへんよ!小さいのと大きいのだったら、そら大きい方が良いかなって答えてん」


「同じじゃん!あたしより絶対春ちゃんの方がおっきいじゃん」


「おまえマジで黙れ、こいつを巻き込むな」



シゲさんと言い合いをしているサナエちゃんに、藤本陽生が言葉で一喝する。



「おまえ誰の彼女をおまえ呼ばわりしとんねん!」


すかさずシゲさんが身を乗り出した。



「てめぇの女だったら、てめぇで躾けとけや」


「なんやと!サナエちゃんに謝れや」


「何なに…もう…面倒臭いんだけど」



間に挟まれたサナエちゃんが溜め息を吐いて、立ち上がるとあたしの隣に座り直した。



「サナエちゃんはスレンダーで、手足も長いし、スタイル良くて羨ましいです」



隣に来たサナエちゃんに言葉をかける。本音だった。胸の大小は知らないけど…サナエちゃんは陸上部で、走ってる姿は最高に美しい。



「春ちゃんって…ほんとに」


「え?」


「いや、大丈夫」


「え?」


「いや、こんな良い子がよくハル君と付き合ってるなって言おうとしたんだけど、ハル君が居るから言うのやめた」



歯に噛んで笑うサナエちゃんに、苦笑いしか返せない。



…い、居ますけどね、隣に。



「春ちゃん身長いくつ?」



何食わぬ顔して話し続けるサナエちゃん。この突拍子のない雰囲気が万人に愛されるんだろうなと、率直に感じた。



「…多分、162cmか163cm?」


「あ、以外とあるよね」


「そうなんです。何か小さく見られがちなんですけど…」


「そうだよね、そんな感じする。春ちゃんより背が低い人と並んでるの見ないからかな」



胸の話題から身長の話題へと移ったのが良かったのか、隣の二人が静かに座っていた。




「ハル君は身長いくつだっけ?」



その問いはあたしに向けられたものだけど、そう言えば知らなかったなと思い、隣に座る藤本陽生へ視線を向けた。



「182cm」


答えたのは何故かシゲさん。



「藤本家の血だね」


そのサナエちゃんの言葉に、藤本陽生の兄達を思い浮かべた。



「サナエちゃん、俺は?」


「知ってる。身体測定の時にわざわざ言いに来てたじゃん」



その情景が目に浮かぶようだった。



「シゲさんは身長いくつなの?」


良かれと思って問いかけたつもりが、隣からサナエちゃんの溜め息が聞こえる。



「ハルの身長より1cm高いねん」


ニコッと笑ったシゲさんに、



「普通に183cmって言え」


珍しく藤本陽生が口を開いた。



「シゲのその件(くだり)、もう聞き飽きてるから。この人、中学生の頃からこうやって1cmキープしてんの」


「なんでやねん!たまたまや!どうやって1cmキープすんねん!逆に知りたいわ」


「サナエちゃんは?」



隣に視線を戻すと「シカトかい!」と、端からシゲさんの声が聞こえた。



「あたしは165cm」


「あ、ですよね。スタイル良いですもん」


「え、やだ嬉しい。春ちゃん体重は?」


「え…」



いやいや、確かに話の流れとしては身長の次に体重かもしれないが…好きな人の前で体重を晒すのは恥ずかしくないか…



「体重…は、ぼちぼちあります」


「なんやねんその回答は!関西のおばちゃん舐めてんのか!」



いや、ツッコまれている意味がちょっとわからない…



「アハハハ!ちょっとやめて!まじで!面白いんだけど!」



隣でサナエちゃんは大爆笑している…



え、今の面白かったですか?と、隣の藤本陽生に視線を向けた。見つめ合った筈が、段々と眉間に皺を寄せていく。



「なんだよ…」


全然伝わってなかった…



「何でもないです…」


「こいつらバカだろ」


「え?」


遠からず近からず、話は噛み合っていそうだ。



「無理して合わせなくて良い」


「いや、全然。無理してないです」


「そうか」


不意に微笑まれると、心臓に悪い。



「春ちゃん春ちゃん、」



笑いがやっと落ち着いたのか、サナエちゃんが肩を叩いて振り向かせる。



「ハルくんの体重と、シゲの体重ってどっちが重いか知ってる?」


「知らないです…」



隣で藤本陽生が溜め息を吐いた。呆れているんだと思う。



これがどうでも良い人の話しだったら、あたしだって同様に呆れていただろう…ただ、話題が藤本陽生となったら聞き捨てならない。



「春ちゃんはどっちが重たいと思う?」


「え、どっちだろ…」



そんなの分かる訳ないと思いながら、シゲさんと藤本陽生を交互に見比べた。まぁ見た所で何も分からない…



体格差は殆どない様に思える。強いて言うなら、シゲさんはフットワークが軽い様に感じたから、シゲさんの体重の方が軽いのかなと感じた。



「くだらねぇ…」


藤本陽生が呟いた。



「正解は?」


サナエちゃんがシゲさんに視線を向ける。



いや、結果知らんのかい!



「ハル体重なんぼなん?」


どうやらシゲさんも知らないらしい。



「知らん」


本人ですら知らないと言う。



「俺は65kg」


「じゃあ俺もそんぐらいじゃねぇの」


「適当すんなや!サナエちゃんのクイズが成立せぇへんやろが!」


「知らねぇのに答えようがねぇだろうが」


「計って来い!今すぐ保健室行って計って来い!」


「くだらねぇ」


「なんやと!」


「くだらねぇつった」


「でも春ちゃん、ノリノリだったよ」


「いや、ノリノリって訳じゃ…」



藤本陽生の言葉に続いて、サナエちゃんが口を挟み、慌ててあたしも否定の言葉を発した。



ノリノリではない…単純に知りたいなとは思っている。



「65kgって、身長の割に軽くないですか?普通なんですか?」


「ほら、春ちゃんが聞いてんで?」


シゲさんが藤本陽生の腕を小突いた。



「体重なんてどうでも良くないか…?」


シゲさんを完全に無視して、あたしに言葉をかけてくる。



「どうでも良い…くはないかな…」


「ほら!はよ計って来いや!」


うるさいと言わんばかりに、シゲさんに背を向けたまま、藤本陽生がこちらに視線を向ける。



「何かさ、ハルくんって春ちゃんにだけ距離が近いよね」


「はぁ?」


「ほら、あたしと春ちゃんだと声のトーンから違う」


「そうなんですか?」


サナエちゃんに聞き返すと「春ちゃんこの違い気づいてないの?」と逆に聞き返された。



「おいハル、恥ずかしい展開になってんでこれ…」


「そう思うんならてめぇの女を黙らせろや」


「そら出来ひん、サナエちゃん言い出したら聞かへん。色んな意味で…」


「はぁ?」



隣に居るから会話は筒抜けなのに、コソコソ話してるつもりなのだろうか…



「ハルくんって物理的にも心理的にも春ちゃんにだけパーソナルスペースが狭くなるの分かる?」


「どうだろ…」


「え?今だってそうでしょ、普段絶対こんな近くに他人と座らないからね、この人」



そう言われて振り返ると、最初はサナエちゃんとの間に割って入ってくれたから、藤本陽生があたしの近くに座らざるを得なかった様にも思える。



「だいたいさ、雰囲気が違うよね」


「雰囲気…」


そんなミクロレベルの話をされても、普段聞き比べている訳ではない。



「そっかぁ、当の本人は気づかないものなのかなぁ」


「いや、春ちゃんが疎いだけやって」


サナエちゃんの呟きにシゲさんが口を挟んできた。



「あたし疎いんですか?」


「疎いやん。他人の事になると聡いのに、いざ自分の事になると疎なるやん」


「すみません…」


「いや、責めてんちゃうで?可愛いなって話しやん」


「そうだよ」


サナエちゃんも頷いて「こんなに可愛い」と、あたしの頬を両手で包んだ。



「チューしたい」


「でた!アカン!それアカン言うたやん!」


「はいはい…言われました」


そう言って、あたしの頬から手を離した。



「分かってんならすなや!こいつマジでキレんねん」


シゲさんが藤本陽生を飛び越える勢いでサナエちゃんに慌てて言葉をかけ、目配りする。



「はいはい…分かりました」


サナエちゃんが不貞腐れた様に返事をした。



「どいつもこいつも過保護だなぁ」


「サナエちゃん口悪くなってんで」


「だってさぁ、春ちゃんと普通に話したいのに外野がうるさいんだもん…」


「外野って言われてんで」


「てめぇの事だろうが…」



シゲさんが藤本陽生の腕を小突くと、藤本陽生が溜め息を吐いた。



「ねぇ春ちゃん」


「はい?」


「春ちゃんってハルくんが初めてなの?」


「はいっ?」


声が裏返りそうになる。



「何の話をしてんだてめぇは」


「おまえ誰の彼女をてめぇ呼ばわりしとんねん」


「もう!うるさい!」


サナエちゃんの怒り方は全然怖くない。



「春ちゃんってハルくん以外と付き合った事あるの?」


サナエちゃんの質問がそっちで安心した。



「ないです。初めてです」


「やだどうしよ、あたしがハルくんだったら校庭100周走り回って爆発しそう」


「え…?」


「だって全部独り占め出来るじゃん?」


「独り占め?」


「そう、卵から雛が孵って、初めて見たものを親だと感じるみたいに、何でも自分色に染められるでしょ」


「あたしって、陽生先輩の色に染まってるんですか?」


「うん」


「え?」


即答されて驚いた。



「え?」


もう一度聞き返すと「適当なこと言うな」と隣から野次が飛んでくる。



「だって陽生先輩って呼ばせてるじゃん」


サナエちゃんが藤本陽生に言い返している。



「はぁ?呼ばせてねぇわ」


「呼ばせてるじゃん、別にハルくんでも陽生でもハルでも良いのに、春ちゃんの好きなように呼ばせてるじゃん」


「は?」


「だって春ちゃんしか呼ばないもんね、陽生先輩って」


「は?」


「あたし分かるんだよね、ハルくんの気持ち」


「気持ち悪りぃ事言ってんじゃねぇよ」


「おいおまえ誰に向かって気持ち悪いとか言うてんねん!」


「もう…シゲちょっとうるさい」



あたしだけ置いてけぼりの会話に付いて行けない。



「ハルくんってさ、春ちゃんへの独占欲凄いじゃん」



サナエちゃんがコソッと耳打ちしてきた。



「そうなんですかね…」



本人にも言われた事があるが、どの辺りが独占欲なのか良く分かっていない。



「あたしもシゲに対して独占欲激しいから分かるんだよね」


「へぇ…」


サナエちゃんの独占欲は何となく怖そうだなと思った。



「これからも陽生先輩って呼んであげてね」


「え、それが独占欲とどう関係あるんですか?」


「他の誰も呼ばないじゃん。春ちゃんが唯一。だから優越感ってゆうか、万が一他の誰かが同じ様に陽生先輩って呼び出したら、ハルくんは嫌悪感でいっぱいになると思う。春ちゃんにしかそう呼ばれたくないんだよ」


「へぇ…」


「あたしもそうだから。シゲがね、サナエちゃんって呼んでくれるの凄く好きなんだよね。他の男にサナエちゃんって言われるとイラっとする」


「そっか…」



自分も独占欲の塊だと思っていたけど、藤本陽生にもそう言う一面があるんだなと感心した。



「陽生先輩って呼ばれる度にあの人キュンキュンしてると思うよ」


「え?これから言い辛くないですかそれ…」


「言ってあげてよ春ちゃん、独占欲の強い男はこうゆうとこで欲求満たしてんだから」



サナエちゃんがポンと肩に触れた。



「サナエちゃんの方が良く分かってるんですね…」



言った後で、嫌な言い方したなと気づいた。



「あ、変な意味じゃなくて…」


「大丈夫大丈夫、あたしハルくんの事何も理解してないから安心してね。マジであの人、あたしら同級生の女子に対して虫けらでも見る様な扱いだったから。ほんっとに、プリント一つ触らせてくれないからね」


「適当な事言うな」



どこから話を聞いていたのか、藤本陽生が口を挟む。



「適当じゃないでしょ、だいたいハルくんの所為でね、あたしはシゲとろくに話も出来なかったんだからね?無闇に近づこうとしたら睨んで来るし、シゲに用事があるのにハルくんが何か怒ってて近寄れないし、あたし達が付き合うの遅れたのは絶対ハルくんにも原因があるから」


「そうや、サナエちゃんもっと言うたれ!」


「シゲは黙ってて」


「はい…」


「それなのに、突然春ちゃんだけオッケーってどうゆう事?みたいな。もうそりゃ女子一同びっくり仰天よ。え、あの子は近づいて良いの?みたいな。女子一同ってゆうか、男子もそう思ってたと思うよ。だからすぐ分かるよね、ハルくんの好きな子なんだなぁって」


「ベラベラ喋ってんじゃねぇよ、だからおまえらみたいな女は嫌いなんだよ」


「ほらね、これ。春ちゃん分かる?こんな事言われた事ある?ないよね、ないでしょうよ、あたしらにはこれ、こうゆう態度ばっかり」


「あたしも最初は鬼の様に怖かったです…」 


「え?」



聞き返したのはサナエちゃんだったけど、他の二人の空気も前のめりに感じた。



「いや、雰囲気が…怖いですよね」



クソ面倒くせぇって言われてた事は伏せておいた。



「最悪だなそんな男…」


「拗らせ過ぎやねんそいつ」



サナエちゃんとシゲさんが藤本陽生を見る。



「今は全然そんな事ないですけど…」


「春ちゃんと居る時ってハルくんどんな感じなの?」


「え…?」



言っても良いのかなと、藤本陽生を見やる。



「面倒臭せぇ事聞いてんなよ、クソ面倒臭せぇ女だな」


「ハルくんに聞いてないじゃん」


「そうやおまえさっきからサナエちゃんに言い方きついねん!その態度改めろや!」


「じゃあこの女を黙らせろ、こいつがいらん事吹き込むからこっから離れらんねぇんだよ」


「やだもう…ハルくんが必死過ぎて春ちゃんが可愛い」



ど、どうゆうこと…?



「春ちゃんだって、ハルくんとずっと一緒に居る訳じゃないでしょ?」


「え?」


「春ちゃんは残り一年、高校生活が続くけど、あたし達は卒業するし、ハルくんだって大学生になったら今みたいには会えないし」


「そうですよね…」


藤本陽生にも言われた事がある。



「早く子離れして下さい」


自分に言われていると思ったのに、どうやらサナエちゃんは藤本陽生に向けて話していた様だ。



「は?」


「子供が可愛くて手放せないって感じ」


「は?」


「春ちゃんにその気が無くても、悪い虫は寄って来るから」


「あたし、ですか?…気をつけます」



サナエちゃんが瞬きを繰り返した。綺麗な瞳に吸い込まれそうになる。



「…これは気が気じゃない」


「危なっかしいやろ、故に純粋やねん。ほんま生まれたての雛やで」


「どうしよう、春ちゃんが卒業するまで見守り続けたい…」


「え?」



話についていけない…



「春が混乱する」


藤本陽生がサナエちゃんに視線を向けた。



「あ、ごめんごめん…春ちゃん残して卒業するのが心配だねって話してたの」


「ああ…、ありがとうございます…でもあたしは大丈夫です。だいたいいつも一人なんで」



言った後で、最後の一言は余計だったかなと考えた。



「春ちゃんは、卒業したら将来の事考えてるの?」


サナエちゃんが話しを変えたから、気を遣わせたかなと申し訳なくなった。



「最初は就職しようと思ってたんですけど、進学してみようかなって」


「大学行きたいの?」


「はい」


「もう決めてるの?」


「いや、まだ悩んでます。でも、あたし家を出たいんで…この町は離れると思います」


「え?」


「え?」



サナエちゃんが聞き返して来たから、思わずあたしまで聞き返していた。



「一人暮らしするの?」


「したいです」


「…そうなんだ」


「サナエちゃんは地元の大学でしたよね」


「そう、シゲも離れるとか言うし…春ちゃんまで離れるとか寂しいな」


「え?」



こんな事を言われるとは思っていなかった。サナエちゃんだけでなく、所詮学生時代の人間関係なんて、大人になれば縁は切れるものだと…



「春ちゃんはハルくんの近くに行くの?」


「え?」


「え?だって…」



聞き返すあたしの反応を見て、サナエちゃんが少し驚いた表情に変わった。



あれ…



「陽生先輩、大学行くんですか?」



藤本陽生へ視線を向ける。



サナエちゃんが視線を追って来たのが気配で分かった。


藤本陽生が視線を合わせる。



「あぁ」


一言だけの相槌。



話して来なかった、将来の事…


関わりを断ちたくないと思っている相手との関係を、どう維持していくのか全く考えていなかった自分に驚いた。



あたしは平気でこの町を離れようとするのに、藤本陽生がどこかへ行ってしまう可能性は想像すらしていない。



え、嫌だ…


ドロドロした感情が巡って来る。



「春はまだ一年ある。しっかり考えればいい」


藤本陽生から掛けられた言葉に、精神的な距離を感じた。


今ここに居るのは、自分の将来を見据えて進みだそうとしている人達だ。



急に訪れる疎外感…



「春ちゃん寒くない?」


膝の上に抱えていた上着をギュッと握り締めていた所為か、サナエちゃんが声をかけてくる。



「寒くないです」


そう言葉を返した。



間も無く三年生が出る種目のアナウンスが流れてきた。



「あ、じゃあ行こうか?春ちゃんも行こ?」


サナエちゃんが立ち上がる。


藤本陽生とシゲさんも出るんだろうか…



「早く来てよ」


サナエちゃんに連れられて歩き出すと、二人にそう声をかけていた。



少し離れたところで「春ちゃんさ、」サナエちゃんが言葉を発する。



「ハルくんって、見るからに春ちゃんが好きだよ」


「え?」


「だから大丈夫、春ちゃんが聞きたい事とか、知りたい事、もっと自由に話していいと思うよ?」



サナエちゃんにはお見通しの様だ。



「面倒臭くないですか?色々聞かれるって…」


「春ちゃんは面倒臭い?ハルくんから聞かれるの」



言われてどうだろうな…と想像してみる。面倒臭い依然の前に、想像が出来なかった。コミュニケーションの取り方を重要視して来なかった自分が情けない。



「面倒臭いとは思わないと思う…でも、相手の気持ちを上手く汲み取れるか自信がないです」


「それは皆同じだよ?相手の気持ちに全て理解は示せない時がある。自分の気持ちを上手く話せない時だってある。だけど、あたし達には伝えられる手段がある。言葉を通じて伝える手段。にも関わらず話そうとしないのであれば、分かって貰いたいってゆうのは独り善がり。エゴだね」


「はい…」


「んー、春ちゃんさ、相手が何も言ってくれないって待つのと、答えが出るまで時間がかかるから待とうと決めて待つのは違うでしょ?」


「はい…」


「春ちゃんは、前者だね。ハルくんは後者だよ。話せば分かり合えるよ。ハルくんは応えてくれるよ」


「聞くの怖くないですか…」



卒業してからも続く関係なんて無いと思っていたから、終わらせたく無い時はどうしたら良いのか想像も出来ない。



「あの人、春ちゃんになら聞いて欲しいんじゃないかな?さっきもさ、まぁいつもそうだけど…春ちゃんが話してると、いつでも応対できる体勢って言うか、一語一句拾い落とさない様に全神経集中させてるじゃん?」


「え?」


「気づかないもんかな…春ちゃんって心開いてくれた途端に、凄く話ししてくれるのね?それが嬉しいのあたしは。ハルくんもそうだと思う。春ちゃんが話してる時、空気一つ変えない様にしてるよあの人」


「そんな…」


「将来の事もそうだけど、春ちゃんはまず、自分の事を話すところからスタートしてみたら?相手の想いを知るのはそれからだね。例えば付き合う時、相手が好きだから告白する?相手に自分の事を好きか聞いてから告白する?後者だと、自分の事好きじゃないって言われた時、想いを伝えるのを諦める可能性があるよね。春ちゃんはそんな気がするんだよね。だからまず、自分の気持ちを話す事から初めてください。さっきも言ったけど、ハルくんは聞いてくれるよ。さっきだって、ずっと傍に居てくれたじゃない?」



サナエちゃんの言う通りだと思った。



「じゃあ、あたし出場種目なので行って来ます。応援よろしくね」



肩をポンと叩いて、男前に去って行く。



自分の組のテントに戻ったら、サナエちゃんがリレーの選手として出場していた。



男女対抗リレー。


藤本陽生とシゲさんの姿もあった。


制服だった筈なのに、体操服に着替えている。



体育をしている所すら見た事がなく、体操服姿が新鮮だった。ひいき目かもしれないが、同じ体操服とは思えないぐらい格好良く見える。



サナエちゃんからシゲさんにバトンを繋ぐようだ。



ぶっち切りに飛ばして行くサナエちゃんに周りから歓声が湧き上がる。あんなに綺麗な走り方は見た事がない。



シゲさんがリードしてバトンを受け取る。


いやめちゃくちゃ速い…このカップル足の速さ断トツじゃないのかと思える。



次にバトンを渡した女子が少し遅れをとった。とは言え、一位は目に見えている。藤本陽生のクラスの女子は最後尾。到底追いつきそうにない。



最後はアンカー。男子がタスキを掛けて準備をしている。


藤本陽生はアンカーの位置に居た。次々と女子からバトンを渡されてアンカーの男子が走り出して行く。



え、アンカーって…



藤本陽生のクラスの女子は最後尾。藤本陽生がリードの体勢に入った。バトンが手渡された瞬間、風が…変わった。



湧き上がる歓声と共に、気持ち良いぐらいの速さで男子を置い抜いて行く。


シゲさんのクラスのアンカーまで、手を伸ばせば掴める距離に居た。



ゴール目前で、捉えた勝利への確信。


ゴールテープを切ったのは藤本陽生だった。



歓声なのか黄色い声援なのか、それぐらい外野が湧き立つ程の凄い走りだった事に違いはない。



いつも気怠そうに歩いているのに、走るのがこんなに速いなんて…興奮し過ぎて身体中の細胞が暴れ出しそうだった。



リレーが終わって、体育祭も幕を閉じた。



三年生にとって、学校生活の行事がこうして一つ一つ終えて行くんだなと思うと、別れが目前に来ている事を実感させられる。



藤本陽生達の姿は早々に見えなくなり、あたしは他の生徒と同様に片付けをしていた。



テントを一緒に畳んでいるこのクラスメートも、卒業したらもう会う事すら無いかもしれない。


そんな風に考える自分に少し戸惑いを感じていた。



「あと俺らやっとくから」


「え?」


「テントは俺らで倉庫まで持って行くから。津島さんもう良いよ」



クラスメートの男子の一人が、畳み終えたテントを前にしてそう言った。



「あ、ありがとう…」



お礼を口にしたら、心が撫でられる様にスッと軽くなった。


他に片付けが残っていないか周りを見渡す。



「え?」



見渡した視線の先、グラウンドから少し高台の方に藤本陽生が立っていた。


いつからそこに居たのか、いつからあたしを見ていたのか…



制服に着替えていた藤本陽生は、一人涼しそうな顔をしていた。


少し前まで全速力で走っていた人とは思えない。



辺りを見渡すと、もうほとんど片付いているのが確認できた。呼ばれた訳でもないのに、藤本陽生の元へ足早に向かう。


近くまで行くと、抱きつきたい衝動に駆られた。



「終わったか?」



片付けの事を聞かれたんだと思い、言葉なく頷いた。



「どうしたんですか?」



もう少し近づきながら問いかけたところで、体操服姿の自分が、あまり綺麗では無いなと思い距離を一定に留めた。



「春を見に来た」


「え?」


藤本陽生が距離を詰めてくる。



「髪を結んでるの初めて見た」


そう言って、一つに束ねていた髪の先に触れた。



「あ、今日走る種目があったから」


「そうか」


「陽生先輩、走るの速いですね!凄い速かった」



あの時の興奮が甦り、早口になってしまったあたしを、藤本陽生が呆気に取られた様な表情で見つめてくる。



「凄い格好良かった」


顔の前で小さく拍手をしたら、その手を握り抑えられた。



「わかった、ありがと」


握られていた手を下ろされ、握り返される。



「着替えて来い、帰ろう」


スッと離された手。



「あ、でも…あたし最後にノートを返しに行かないと行けなくて」


「待ってる」


「じゃあ…はい」


「行こう」



校舎へ向かって歩き出すその背中を追った。


時々振り返って少し歩みを遅らせてくれる。



「春は心配されるの嫌か?」



歩きながら不意に声をかけられた。



「え?嫌ってゆうか…」


「俺は多分、ずっとおまえの事が気になってると思う」


「え?どうして…」


そんなに心配されるような行いはしていない。



「夜の仕事ですか…?」


「まぁそれはそれで心配してる」


「他に、あたし何かしました?」



心当たりがない…



「人の気持ちに敏感で、自分の気持ちに鈍感だろ。いつの間にかしんどくなってんじゃねぇかと思って」


「え…」



靴箱の手前で、思わず立ち止まった。



「俺に聞きたい事あるんじゃねぇの?」


「…いや、」



ある…



「何か気になってる事あんじゃねぇのかと思って」


「聞いても良いの…?」


「聞いてくれんの?」


不安なあたしとは反対に、藤本陽生が微笑む。



「聞きたい事は、多分いっぱいあるんですよ…」


「うん」


「あたしの話を聞いてくれますか?」



一番聞きたかった事だった。あたしの話なんて、あたしの気持ちなんて、他人に話して、聞いて貰うようなものじゃない。誰かに胸の内を語るなんて考えられなかった。



でも、藤本陽生には、今あたしがどう思っているのか知って欲しいと思えた。



あたしが自分の事を話しても良いんですか?って…



「おいで」


藤本陽生が手を差し伸べる。



その手を掴むと「着替えたら話を聞く」そう言って、引き寄せてくれた。



「あとで教室まで行く」



そう言われたから、急いで更衣室へと走った。



結んでいた髪をこのままにしとくか、髪を下すか迷って、やはり下ろす事にした。制汗剤を全身に振り撒いていると「髪はこれ使った方がいいよ…」と、クラスメートがヘアケアのミストを貸してくれたから驚いた。



「あ、ありがとう」


「汗拭きシートもあるよ、使う?」


「大丈夫、ありがとう…」



借りたミストを髪にシュッと吹きかけたら、とても良い匂いに包まれた。



最後に入ったあたしが一番最初に出るとゆう速さで更衣室を後にする。



教室に戻ったら、廊下に立つ藤本陽生の姿を見つけた。「待ってる」とは言われたけど、流石に待たせられない。



「ごめんなさい…お待たせ…しました」


「…いや」



一瞬の間を見逃さなかった。藤本陽生が何か言葉を飲み込んだのが分かった。



「え?」


「…いや、何か付けてんのか?」


「え?」


「良い匂いがした」


そう言って髪を撫でられた。



制汗剤は無香料だから、匂うとしたらさっき借りたミスト…



…まじか?まじで?藤本陽生はこうゆう匂いが好きなんだ…


さっきの子にどこの何てゆう商品か聞かなきゃ!



「あの、まだこれからノート出しに行くんで…」


「ああ、一緒に行こう」


「…すみません、すぐ準備します」



教室に入り急いで支度をしたら、さっきテントを片付けてくれた男子生徒が体操服のまま教室に入って来た。


教室内の生徒の数はまばらで、あたしに気づいて会釈をされた。見ていたあたしも思わず会釈をし返した。



「お待たせしました」


慌てて廊下に出ると、前髪がフワッと揺れる。



「急がなくていい。忘れものないか?」


「大丈夫です」



その言葉を受けて、藤本陽生が歩き出す。



職員室で良いのかと聞かれたから、はいそうですと答えた。


歩きながら大して話す事はない。そもそも横に並んで歩く事がないから。


だけど今日は、並んで手を繋ぎ歩きたいなと思った。



職員室に入っている間、廊下で待っていてくれた。担任が成績についてどうのこうの話し出したから、廊下で待つ藤本陽生が気になってしょうがない。


そんなあたしの心ここに在らずな状態を、文系の教師は気づいてくれないから難儀だ。



職員室のドアを開けたら藤本陽生は居ないかもしれない…居なかったらどうしよう…と、良からぬ事を思案しながらドアを開ける。



「あ…ごめんなさい、長くなって…」



最初と同じ場所に藤本陽生が居てくれた。



「何か言われたのか?」


「大丈夫です」


「そうか」



藤本陽生の顔を見たら安心感が半端ない。



「帰ろう」


言われて後ろを付いて歩く。



「あの、少し話せますか?」


声をかけると、藤本陽生が立ち止まって振り返った。



「ああ、時間大丈夫か?」


「大丈夫です」


「じゃあ、」


「うちに来ませんか?」


「うち?」


「あたしの家?厳密に言うとあたしのじゃないですけど」


「…行っても良いのか?」



藤本陽生が驚いた表情に変わる。そりゃそうだ。あたしも自分で言って驚いている。



「多分、大丈夫です」


「多分ならやめとけ、今日はうちに来い」


そう言って再び歩き出した。



うちに来て欲しかったのは他でもない、これから話す事についても無関係な場所ではないから。うちを知って欲しいと思っていた。



靴を履き替えて校舎を出る。体育祭の名残が何となく残っていて、体操服をまだ着ている生徒や、片付け忘れたのか、体育祭で使用した備品が一部。



「あ…」


更衣室でヘアケアミストを貸してくれた子を見つけて、思わず声が漏れた。



「どうした?」


「ちょっと、良いですか?声かけて来ても…」


「ああ」


「すみません…」



すぐに駆けよると、大層驚かれた。こちとら藤本陽生を待たせてるもんで、要件を簡潔に伝え、素早く商品名を聞き出した。



お礼を伝えると、まだ呆気に取られた様な表情を浮かべていたが、方やあたしは大収穫で、満足気に藤本陽生の元へ戻る。



「ごめんなさい…」


「いや、大丈夫か?」


「はい、用事は終わりました」


「そうか」



再び歩き出した藤本陽生に付いて歩く。



「春ちゃーん!」


「えっ?」



名前を呼ばれて辺りを見渡すと、藤本陽生も足を止めた。



「春が呼ばれてんのか?」


「どうなんですかね…」



藤本陽生を見上げると、怪訝そうに辺りを見渡した。



「こっちー!春ちゃーん!」


「あ、陽生先輩!」



あたしの名を呼ぶ人を見つけて、藤本陽生の腕を掴み「あそこ!陸上部!」と、グラウンドの方へ指を差した。



藤本陽生もその人物を視界に捉えると、チッと舌打ちをした。



グラウンドから陸上部が走り込みしてる傍で、サナエちゃんが大きく手を振ってくれている。



サナエちゃんみたいに大きな声を出すのは気が引けたから、大きく手を振り返した。



「えっ!凄いあんな遠くから!サナエちゃん良く気付きましたよね!」



手を振り終わって藤本陽生を見上げたら、困ったような表情で「そうだな」と返してくれた。



思った返答と違った為、はしゃぎ過ぎたかと焦り、自分を振り返ってみる。



「早く帰りてぇんだけど、春が楽しそうで困る」



見上げたまま何も言えずにいると「帰るぞ」と、一言呟いて、再び歩き出した。


その後ろを追いかける。



「陽生先輩、見て!サナエちゃんがまだ手を振ってる」


「は?放っとけ」



そう言われたけど、片手を大きく振って応えた。



藤本陽生はうちへ来いと言った。でも今日は違う場所で話がしたかった。



「陽生先輩、」


名前を呼ぶと、藤本陽生が振り返る。


校舎を出て、駅の方へ向かっている途中だった。



「あの、どっか違う所で話したいんですけど…」


「行きたいとこがあんのか?」


「いや、そうじゃないんですけど…話が出来る所ならその辺でも、お店でも…」


「わかった」


藤本陽生が再び駅に向かって歩き出す。



「春の家の近くにしよう」


「良いんですか?」


「あぁ」


藤本陽生は言いながら振り返ってくる。



あたしの意図を分かっているのか定かではないが、したい様にさせてくれるのは有難い。



藤本陽生の部屋が嫌とゆう訳じゃない…話をしたいと言ったのはあたしなのに、他人様のお宅にお邪魔するのは気が引けた。


自分のフィールドで話がしたかった。



「手を繋いでも良いですか?」


「あぁ」


外でこんなに近づかせてくれるのは珍しい。



「楽しそうだな」


「え?」


「いや、はしゃいでねぇか?今日」



手を繋いでもやっぱり少し後ろに居るのが好きで、手を繋いでいる腕に身体をピタリとくっつける。藤本陽生の腕が手前に来るから、見上げた表情は斜め上の横顔だった。



「楽しいです」


「そうか」


こっちを見ずに返事をするから、その横顔を見続けたら、視線に気づいた藤本陽生が、視線だけ向けて来る。



こんな日が、ずっと続けば良いなと思った。



自宅の最寄駅まで電車で向かった。細々とした駅前にある、とりあえず目についた茶店へ入った。


ここに茶店がある事は知っていたけど、人生で一度も入店する事はないと思っていた場所。そこに足を踏み入れる日が来ようとは…しかも藤本陽生と。



表向きは年季の入った店構えだったけど、店内はそこそこ広く席が設けられており、レトロな雰囲気で、思ったより綺麗だなと言う印象だった。



接客をしてくれたのは白色のワイシャツに黒色のスラックスを履いて、黒いエプロンを腰に巻いている年配の男性。他に店員らしき人の姿が見えない。



店内はジャズが流れている。ヒソヒソと話さなくても、日常会話ぐらいの声量で話しても良さそうな雰囲気だ。



入り口から少し歩いた所にある席を選んだ。とゆうか、藤本陽生の後ろを付いて歩いたらその席だった。



今日は体育祭だったから夜の仕事は休みを貰っていて、こんな時間に二人でお茶をするのは新鮮だった。



「コーヒー二つ」



注文は藤本陽生がしてくれた。店員のおじさんは簡潔に返事をして席を離れて行く。



「あの、」


「ん?」


向き合って座っているからか、一緒に歩いていた時より気恥ずかしいのは何なんだろう…



「すみません、こっちまで来て貰って…」


「あぁ気にしなくていい」


「ここ、初めて入ったんですけど、」


「へぇ…」


「普通にお客さん居ましたね…」


「ああ、だな」


「陽生先輩、」


「ん?」


「あたし、本当は…」



言いかけて、コーヒーが二つ運ばれて来た。コーヒーカップが丁寧に置かれて行く。


店員がその場を離れたと同時に、口を開いた。



「本当は、大学なんて検討もしてなかったんです」



コーヒーカップを手前に寄せながら藤本陽生を見ると、カップを手に取りコーヒーを口に含んで「うん」と相槌をしてくれた。



「高校も、本当は行く気がなくて…一人で生活をしたいと思ってはいたんですけど…中学卒業してすぐ働くなんて時給が知れてるし、兎に角早くあの家を出て自立する事を目標に、安易に夜の仕事を始めたんです」


「うん」


「でも、夜の仕事をしながらお金を稼ぐ事が、本当に自分のしたい事なのかな…って考えるようになって。自分で生計を立てる為に始めた事に過ぎなくて、進路相談で大学行きたいかって聞かれた時、行きたいなって思いました。自分に縁の無いものとしていた可能性を、探究したくなりました」



一気に喋り倒したから、コーヒーを飲むタイミングを逃してしまった。



「あたしなんて特に選択肢も視野も狭くて、今ある関係がどうなって行くのかまるで他人事で…変えたい未来がある様に、変わるかもしれない関係もあって。自分がこの場所を離れる事は想像出来たのに、陽生先輩と離れてしまうかもしれない現実は見えてなかった」


「そうか…」


「離れたくないです」


「うん」


「でもあたしは、高校を卒業したらこの町を出ようと思います」


「うん」


「そしたら、あたし達の関係って変わりますか?」



離れたくないけど出て行くなんて、矛盾した話しを聞かせられてどうしろって言うんだって、困惑させる事は分かっていた。



それでも今まで問題視して来なかった先の話を、自分の気持ちを聞いて欲しかった。あわよくば、肯定されたかった。



「俺の話、して良いか?」



藤本陽生が静かに口を開く。声が出なくて黙って頷き返した。



「俺はこんなだけど、一応将来の事は考えてる。てゆうか決まってる。兄貴は自分の店やってるし、ナツ兄は嫁の親の会社に勤めて、風雪は知らねぇけど。あいつは何か好きな事して飯食ってくんだと思う。俺は、そんな4人兄弟の末っ子で、昔から親の仕事を継ぐよう言われて来た。じいちゃんの代からやってる仕事を、親も引き継いでやってる。そのレールに乗っかって生きるのが俺の役割。だから、これまで好き勝手にさして貰ってきた」


「…そう、なんですね」


「行く大学も、学部も、何もかも決められてる。だけど別にそれが嫌だとは思ってない。むしろ有難い。くそ面倒くせぇ進路に悩まなくて済む。約束された将来がある。それをつまんねぇと思う時期もあった。先を知ってる事に変化を感じねぇから。でも、今は本当に感謝してる」



金銭的に裕福な家柄だとは思っていた。住んでいるマンションが規格外だし、育ちの良さが所作に現れている。



「社会人になった自分はまだ想像できねぇけど、社会人になった自分の経済力は保証されてる」


「…凄いですね」


「だから、おまえ一人養うくらい俺には容易い」


「そうなんですね…」


「結婚するか?」


「あ…結婚…」


「俺んとこ来るか?」


「けっ…え?」



聞き間違いかと思った。



「おまえのこと縛るみたいで、まだ言うつもりはなかったけど、言っとかねぇと、また勝手に離れて行きそうだろ…」


「え…?」


「春の好きにすれば良い。大学行って、家を出て、この町を離れたとして、結婚が決まってれば俺のとこに戻るしかない」



好きにすれば良いと言いながら、結婚と言うワードであたしを縛ろうとしている事に気づいてないのだろうか…



「あの、あたし陽生先輩と結婚できるんですか?」


「春が望めば」


「それって…」


「俺だけがしたくても出来ねぇだろ」


「はい…」


「それまでは、違う大学になっても、住む所が離れても、大した事じゃない。おまえは俺のものに変わりはない。だから卒業後の進路はしっかり考えれば良い。でも安心しろ、おまえの将来は俺が保証する」



藤本陽生はそう言うと「で、どうすんだ?」と、返事を急かしてくる。



「俺と結婚するか?」


「…する、絶対する」



噛み締める様に言葉を発したら、藤本陽生が「ハハっ」と、声に出して笑っていた。凄く嬉しそうに見えたのは、あたしが嬉しいからかもしれない。



これは所謂プロポーズなのだろうか…まさか初めて入った茶店でされるとは想像もしていない。



結婚とゆう単語がどこか仰々しく、現実味のないものだった。なのに、藤本陽生の言葉から聞くと、説得力と安心感のある言葉の様に思えた。



「あたしって、釣り合いますかね…」


「なに?」


「陽生先輩の家と…」


「それは俺の方だろ。春の親が許してくれるかどうかだろ」


「うちは、関わって貰うのは高校生までだと思ってます。実の親じゃないし…戸籍上も赤の他人だし。あたしが家を出たらそれまでじゃないかな」


「じゃあ春が高校生の内に、結婚の話をしに行くか」


「え?」


「何なら俺は、卒業してすぐにでも一緒に暮らしたい」


「えっ?」


「おまえと」


「あ…はい」


「大学行ってどうせ一人暮らしすんなら、一緒で良くねぇか?」


「え?陽生先輩も家を出るの?」


「俺は元々出てる様なもんだろ、兄貴と暮らしてる」


「あ、はい…」


「春が町を出たいならそれでも良い」


「…大学行く為にこの町を離れるって言った方が、母が気兼ねなく見送ってくれると思ったから。理由も無く出て行くって言ったら気にするかなと思って…」


「じゃあ俺と暮らすって言えばいい。春が町を離れようとするのが家を出る口実なら、俺と暮らす事を口実にすれば良い」


「え…本気であたしと暮らしたいんですか?」


「は?冗談言ってどうすんだ」



やっと気づいたかもしれない…



「陽生先輩って…案外、用意周到ですよね…」



突拍子のない提案をしている様で、実はかなり前から計画が練られていて、それをいつどこで実行に移すのか、タイミングを見計らっている。



「は?何言ってんだ」



そして、相手に自分で決めさせる様に仕向けるのが上手い。あくまでも、藤本陽生は提案をしただけ。決めるのはあたし。



だから、押し付けでも言わされた訳でもない…



選ぶのはあたし。



その選択肢が、選びたい様な内容を提示して来るからこれまた恐ろしい。



この人…分かってやっている。



「一緒に暮らしたいです」



あたしに選択肢なんてない事を…



「母に、今度話してみます。進路と陽生先輩との事…」


「俺も行っていいか?」


「はい、聞いてみます」



何だろう…悩んでいた事が無かった事の様に、話がとんとん拍子に進んで行く。



この男…とんでもない策士かもしれない。



昔から自分の将来は決められていると言った。こんな見た目をしていて、親の決めた人生を黙って歩む様な人には見えない。だけど淡々と受け入れている様子は、心底嫌そうにも見えず…むしろ、それですらチャンスだと考えているかのよう…



「そろそろ出るか?」


「あのっ…」


伝票を掴もうとしていた藤本陽生の腕を咄嗟に掴んだ。



決められたレールに乗せられているのは、あたしの方かも知れない…



「一緒に暮らすって言っても…あたしはまだ大学もどこに行けるか決まってないし、」


「それまで待ってる。何も問題ない」



掴んでいた手を逆に握り返された。



「いやでも…」


「俺の将来のゴールは、大学行って親の仕事を継ぐ事じゃない。どうやったら春と一緒に居られるか、それしか考えてない。大学も仕事も、その為の手段に過ぎない」



それじゃあこの人…



「あたしの為に大学に行くんですか…?」



まるでそう言ってるみたい…



「俺たちの為だろ」


「陽生先輩、やりたい事とかあるんじゃ…」



行きたかった大学、就きたかった仕事…もっと違う未来を選べたかもしれないのに。



「春、」


握られていた手の指先に藤本陽生の力が加わった。



「さっきも言ったけど、今はこの選択に感謝してるんだ。進学も勉強もやりたくてやってる。おまえがそれを気に止む必要はない」


「……」


「おまえが居るから何やっても人生が面白い。昔から裕福だの何だのって言われて来たけど、つまんねぇもんはつまんねぇんだよ。でもおまえとの為に使える人生なら面白い。おまえが居るか居ないかで、やる意味がこんなにも変わる」


「……」


「だから、卒業したら安心して俺んとこ来い」


「……」


「俺がおまえの居る場所になる」


「…っ」


「で、春が大学卒業したら結婚しよう」


「……」


「な?」



まるで子供をあやす親みたいに、優しい話し方をするから…



「はい」



頷かない理由がなかった。



会計は藤本陽生が支払ってくれた。隣に立っているだけなのが手持ち無沙汰で、横顔を見上げる。



どこかへ出かける度に、どこかで食事をする度に、この人はこうして支払いをしてくれる気がして、その度にあたしは、どうして良いか分からずこうして手持ち無沙汰に藤本陽生を見上げているのかもしれない。



想像出来る未来がある事に、想像して驚いている。



思わず藤本陽生の制服の裾を掴むと、釣銭を受けとりながら視線だけ向けられたが、その視線はすぐに戻された。



愛想が無さそうに見えた喫茶店の店員が「ありがとうございました」とかけてくれた言葉は優しく、その表情には柔らかい笑みが浮かんでいる。



外に出ると、すぐに「どうした?」と言葉をかけられた。



制服の裾を掴んだままでいる所為だと分かる。

立ち尽くしてばかりもいられず、名残惜しく掴んだままの制服を離した。



名残惜しい。名残惜しくて仕方がない。



「ありがとうございました」


「なに?」


「コーヒーと、話を聞いてくれた事と…」


「あぁ、気にしなくて良い」


「でも、ありがとうございます」



「行こう」と声をかけられたのと同時に、歩き出すからその後を追い、隣に並び歩く。

横顔を見上げると、視線に気づいて見下ろされた。



あたしが視線を前に戻すと、藤本陽生も視線を前に戻したのが分かる。



この人と、将来結婚するんだろうか…そんな話をされた訳だけど、結婚するとゆう実感は無い。


だけど、これから一緒に居てくれるんだとゆう安心感は確かに芽生えていた。



これからどうなって行くのか、どうしたら良いのか。自分の進路をどうするのか、同棲っていつから始めるのか、何だか話さないといけない事はもっともっとたくさんありそうだ。



あたし達は、いやあたしは…何も話してこなかった。何も言ってくれないからと言い訳して…それはあまりにも無関心で、不誠実な事だと今になって思う。



あぁ、こんなにも名残惜しい。



もっと話がしたい。もっと話を聴きたい。もっと知りたい。もっと教えて欲しい。何を考えてるの?何を思ってるの?あたしはね、あたしは…



「春、」



呼ばれた名前に視線を上げると、藤本陽生が立ち止まっている。自宅に着いたのかと思ったが、まだ少し手前だった。



「どうしたの?」


「…それはおまえだろ」


「え?」


「もう着くけど、大丈夫か?」


「え?」


「気分悪いのか?」


「いや、」


「じゃあどうした?」



顔色を伺うように、表情をまじまじと見つめられる。



「何でもないです」



言った後で、こうゆうところだ…と悟った。



相手の負担になるからと説明を端折り、纏まらない考えを上手く伝えられないからだと言い訳にし、何でもないと使い易い言葉を吐く。



あたしのこう言うところが、この人をどれだけ突き放して来たか分からない。



何も言ってくれないんじゃない。何も言わせて来なかったんだ…



「何もないならいい」


そう言って足を進めようとする藤本陽生の腕を掴んだ。



「ごめんなさい、考え事してて…」


「大丈夫か?顔色悪くねぇか?」



慣れない事をしようとすると、人は体調を崩すみたいだ。



「さっき話してくれた事、凄く嬉しくて。でも、本当はもっと色んな事を考えてて、あたし達は、もっとたくさん話す事があって…あたし、陽生先輩の話を聞いて来なかった…ですよね…」


「……」


「あたしに言いたいこと、聴いてほしい事、本当はもっとたくさんありますよね…」


「……」


「陽生先輩…」


「俺の邪な考えなんて、聴かせるようなものじゃない」


「…どうして?」



そんな言い方をするの…



「春は純粋で、素直で。疑う事をしない」


「いや、」



そんな人柄じゃない。



「警戒心は強いけどな」



その口調は柔らかく、微笑んだように見えた。



「俺の事だって、疑いもしてないだろ?」


「え…?」



見上げた先、藤本陽生の表情が曇る。



「何…?」



何か疑われるような事をしているような口ぶりだ。



「俺は、おまえの幸せを願ってない」


「…え?」



言葉を発するつもりはなかった。むしろ、声になった事に自分で驚いた。



あたしは何か、思い違いをしているんだろうか…



「おまえが俺を信じて疑わないのを良い事に、その純粋さにつけ込んだ」


「なに…?言ってる意味が…」


「最初からおまえの幸せなんて願ってない。自分が良ければそれで良い…そうゆう奴だ」


「え?」



それは余りにも唐突な話で…さっきまで将来を語り合っていた者同士の会話とは思えない。



「陽生先輩…」


「俺の考えてる事なんて…聴けば聞くほど薄情に過ぎない」


「どうしたの…」



両腕を掴み、藤本陽生の顔を覗き込んだ。



人の幸せを願えない人は、そもそもこんな話をしながら胸を痛めたりはしない。



「あたしは、幸せを願って欲しいなんて思ってないよ」


「……」


「だから、そんな事言われても薄情だとは思わない」


「根拠もなく信用し過ぎだろ…」


「根拠ならある」


「……」


「結果的に、幸せなので」


「は…?」


「幸せを願って欲しい訳じゃないから、幸せを願ってくれなくて結構だし。そんな話をしてくれた事が嬉しいし、何も問題はないですよね…っ」



言葉を紡ぎ終わる前に抱き締められた。



掴んでいた筈の両腕が、今はあたしの背中に回っている。



「…陽生先輩?」



閑静な住宅街とは言え、いつ人が通るかも知れない場所で、藤本陽生がこんな風に接触してくるのは初めてだった。



背中を摩るように両手を周したら、またキツく抱き締められた。



ゆっくりと腕が解かれていく。



視線が交わる程度にお互いの表情が見える。さっきよりも、少し柔らかい表情に戻っていて安心した。



「初めて春を見つけた時から、どうやったら春を手に入れる事が出来るか…どうやってでも、おまえを俺の傍に置いておきたかった。何があっても手放したくない。その為にどうしたらおまえが離れて行かないか、ずっと一緒に居れるのか…最初から最後までそんな事しか考えてない」


「……」


「おまえの為じゃない」


「……」


「おまえの気持ち全部無視して、俺がしたい事を優先して、おまえの為だと思わせるような事を言ったかもしれない」


「陽生先輩…」


「おまえが俺の話を聴いて来なかったんじゃない。俺がおまえに聴かせて来なかった。何も言わずに、シレッとやり過ごして来たのは俺自身の選択だ」


「陽生先輩、」


「どうしても俺は春が良い…」


「どうしてそんな…」


あたしに拘るのかわからない。藤本陽生に好かれる様な事をした記憶は無い。だけど…



「あたしも陽生先輩が良い」


「……」


「一緒ですね」


手を掴んだら、藤本陽生の指先がピクっと反応した。



「その言葉、信じるのでいつまでも傍に置いて下さいね」


掴んだ手を胸の中で握り締めると、藤本陽生も握り返してくれた。



「春…」


呼ばれて顔を上げると、握られていない反対の手で頬を撫でられる。



「ありがとう」


藤本陽生から優しい言葉が紡がれた。



「俺、しつこいからな」


「え?」


「もっとこっち来い」



撫でられていた頬から手が離れ、脇道から隠すように引き寄せられる。


藤本陽生の手を握り締めたまま、その腕の中へ収まった。



「顔、もう少し傾けて」


言われるがまま傾けると、藤本陽生の顔が近づいてくる。



「好きだ」


そう言って唇を重ねた。

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