33

それは突然に

「ハルちゃん、帰る?」


「はい。今、丁度タクシー呼んでもらって…あ、一緒に乗りますか?」



控室を出ようとしたら、入って来ようとしたアヤさんと遭遇した。



「うん。じゃあすぐ支度する」


ごめんね。と一言付け加えて通り過ぎて行く。



店内のソファに座って、タクシーを待ちながらアヤさんを待つ。



「ハルさん、タクシー来ましたよ」


店の男性スタッフに声をかけられた。



「はい。行きます」


返事をして立ち上がり、アヤさんはまだかなと辺りを見渡した。



「アヤさん!タクシー来ました!」


見渡した先に、その姿を捉えて少し大きな声で呼びかけてみる。



「え!ごめん!お待たせ!」


「全然大丈夫です」



会話をしながら足早に店の外へと向かう。お疲れ様と声をかけられ、挨拶しながら店を出た。



タクシーに乗った瞬間から、アヤさんの電話が鳴る。メッセージの着信音だと分かったのは、画面を見つめたままだったから。


薄暗い車内で、液晶画面の光がやけに明るく感じた。窓の外へ顔を向け、夜の街を眺めながらシートへ身体を預ける。


着替えるのが面倒で、ドレスの上からコートを羽織っただけだったから、タイトなスカートが少し窮屈だった。



「ハルちゃん、」


不意に隣から声をかけられる。



「はい?」


慌てて視線を隣へ移した。



「この後用事ある?」


電話の液晶画面を光らせたまま、アヤさんが問いかける。



「いや、帰るだけです」


ご飯に行こうと言う誘いなら断ろうと思った。営業時間終了後の誘いは受けない。それはアヤさんも知っている。だから、質問の意図が分かり難かった。



「少し付き合って貰える?」


「え?どうしたんですか?」


「うん…ちょっと、」


そう言って、未だ明るいままの液晶画面を手に持っている。



「何かあったんですか?」


「ちょっと、もう少し行ったとこのファミレス寄っていい?」



アヤさんはあたしより七つも年上なのに、とても可愛らしい人で、気さくに話ができるキャストの一人だった。お互いのプライベートは全く把握しておらず、こんな風に誘われる事はもちろん初めてで、帰宅方向が同じだから、タイミングが合えば今日みたいにタクシーを相乗りするぐらいの仲の良さはある。



「着いたら話すから」



お腹が空いて、ご飯を食べたいから誘っている雰囲気ではない。



「…じゃあ少しなら」


「ありがとう!急にごめんねっ」


申し訳なさそうに顔の前で両手を合わせた。



ファミレスに着いてタクシーを降りる。夜風に当たりながら、着替えるのを面倒臭がった事に、少し後悔していた。



店内に入り、一応案内された方向にあるテーブルへ向かう。コートを着たままテーブル席へ座ると、やはり窮屈に感じた。



「とりあえず飲み物ぐらい頼みます?」


「そうだね。ごめんね」


「いや全然大丈夫です。アヤさん何にしますか?」



一応メニューを開いて見せる。



「あたしコーヒーにする。ハルちゃんは?」


「あたしもコーヒーにします」



ファミレスに来た意味を考えながら、二人でドリンクバーへと向かった。


ホットコーヒーを持ち帰り、再び席に着く。



アヤさんはパンツスタイルの私服に着替えているけど、上着のジャケットを脱ごうとはしない。



「ハルちゃん」


「はい」


「あのね…」


「はい…」


「あ、いや、そんな深刻にならないでね。怖い話とかじゃないの」


「あ…はい」


自覚は無かったけど、指摘されるぐらいには構えていた様だ。



「あたしの知り合いがね、てゆうか…あたし彼氏居るのね」


「あっ、そうだったんですね」



そんな事を知らない仲だ。



「彼氏、ホストしてるんだけど…」


「そうなんですね」



夜の店で働いている女の子には良くある話。



「さっき…お店出る前に、あたしがほら、着替えてて」


「あ、はい」


「あの時に連絡来てて…」


「はい」


「これからここに来るんだけど…」



え?



「ごめんね急に…」


「え?」


状況が全く読めない。



「ハルちゃん、あっ…」


アヤさんの視線の先に、なるほどホストの様な、いや…ホストが店内に入って来たのが見えた。



あれが彼氏か…と、すぐに視線をアヤさんへ戻す。



「あ、ハルちゃん…紹介するね。彼氏のマサキ」


アヤさんに導かれながら、全身スーツ姿のまさにホストって感じの、いやホストなんだけど…彼氏のマサキがテーブルまで辿り着いた。



「お疲れっす。ごめんね、急に」


そう言ってマサキはアヤさんが座っていた席に腰かける。何故かアヤさんはあたしの隣に移動して来た。



訳が分からず、とりあえずマサキに挨拶をする。



「あの、アヤさんにはいつもお世話になってます」


「あー、はい。こちらこそ」



マサキは座るや否や電話を取り出し、画面を操作している。どう見ても、アヤさんより年下に見えた。



「…あの、アヤさん?」


隣へ視線を向け、アヤさんの表情を見つめた。



「マサキから急に連絡来て、ファミレスで待ってて欲しいって…」


「何でですか?」


「んー…あたしも詳しくは…もう一人来るみたい」


「え?」



アヤさんの事は何となく信用している。あたしを事件に巻き込む様な人じゃないし、アヤさん自身も危ない事に首を突っ込む人には見えない。



ただ、このマサキについては分かり難い。初対面という事もあるけど。アヤさん…彼女を急に呼び出した辺り、苦手な人種だと悟った。



「あ、もしもし?あ、お疲れっす。あ、はい。はい、着いてます。あ、はい。はい、居ます。あ、りょーかいです。はいっりょーかいっす、はい」



音もせず、急に電話を耳に当てて話し出したマサキ。呆気にとられながら、アヤさんへ視線を向けると、申し訳なさそうな視線が返ってくる。



「ごめんねハルちゃん…」


「…アヤさん、あたしどうしたらいんですか?」


「そうだよね…マサキ、ハルちゃんに説明してあげないと」


「あ、もうすぐ来るんで。すんません、ハルちゃん」


「…はぁ」


思わず呆れてしまう。



「あ、来た来た!こっちこっち!」



マサキが身振り手振りで存在を主張しているのを横目に…アヤさんと二人、静かにその視線の先を目で追った。



それは突然の出来事だった。



「お疲れっす。こんな時間になってすみません」


マサキが席を立つ。



「いや、ありがとな」


「全然オッケーです。あ、座って下さい」


そう言って、席を譲る。



「じゃあ、俺ら退散って事で大丈夫です?」


「ああ、ありがとな」


「りょーかいっす」


マサキが不意にこちらへ視線を向ける。



「アヤちゃん帰ろ」


「え?あ、うん」



戸惑うアヤさんに「早く早く」と急かすものだから、アヤさんが慌てて立ち上がる。



「あ、ハルちゃん!ごめんね!今度埋め合わせするから!」



アヤさんは落ち着いて話しをする事も許されず、返事も聞かずにマサキに手を引かれて歩き出した。


そしてあたしもまた、アヤさんとの別れを惜しむ暇を与えて貰えない。



…視線を前に戻す。



「よう、久しぶり」



正面に座る人は、



「俺のこと覚えてる?」



顔も、声も、仕草までも…好きな人に良く似ている。



「…覚えてます」


藤本陽生の、三番目のお兄さん。



「風雪さん…?」


「はい、春ちゃん」



問いかけに、愛想良く返事をしてくれた。



「え…っと、」


「陽生が探してるよ」


「え?」



今、思い浮かべていた人の名前を聞かされる。



「頼まれてさ、」


「え?」


「とりあえず知り合い伝って行ったら、マサキと繋がって。こうして会えました」


「…ちょっと、意味が…」


「さっきのホスト、知り合いの弟」


「え?」


「マサキ」


「あぁ…アヤさんの、」


…彼氏。



「だれ?」


「あ、さっきここに居た…」



アヤさんが座っていた場所を伝える為、自分の隣を指差して見せた。



「あー、あの人は初めて見たな」


「あ、そうなんですか?」


その言葉には安堵した。



「ホストの知り合いは居るけど、夜の店で働いてる女の子は関わりねぇから」


「…そうなんですか?」


「意外?」


「え、いや…」


「顔に書いてある」



確かに意外だと思ったけど、それだけじゃない…自分の日常の一つに関わっていて欲しくなかった。いつかの園村さんの様に…詮索はごめんだ。



「世間って狭いよな。直接知らなくてもどっかで繋がってる」


「…どうゆう意味ですか」


「君を見つける事ができたって話」



風雪さんが話す度にドキドキしていた。少し上から目線な話し方とか、話す時に姿勢を変える仕草とか、


「話し戻していい?」


声のトーンが一定しているところとか。



「今から陽生の所に連れて行く」


全部、藤本陽生を連想させる。



「…どうゆうことですか?」


「そのままの意味だけど」


「え?」


「まぁ、会わないって言われても連れて行くけど」


「会わないとか、言わないです…」


「君は、随分と雰囲気が違うな」


「はい?」



何を不躾に…



「コンビニで見かけた事がある」


「え?」


「二回」


「え?」


「ホストにナンパされてたろ」



そう言われて思いつくのは、本当に先日のこと。驚いて言葉が出ない。



「あの時はホストがまるで眼中にない雰囲気だった。夜の店で働いてる風貌しといて」


何をどこまで見られたのか、不安と緊張に焦りが混ざる。



「陽生と一緒に居る時は、ちゃんと彼女に見えるもんな」


「え?」


「高校生の彼氏と彼女。恋愛してんなぁって」



何が言いたいのか、いまいち話が読めない。



「君さ、男に興味ないだろ」


「はい?」


「むしろ、男に対して嫌悪感抱いてない?」


「……」


「コンビニで見かけた時はそんな雰囲気だった。当たるな触るな、話しかけんな近づくな関わるな、みたいな。今も若干そんな雰囲気。そんなんで良く夜の店で働いてるな」


「何言ってるんですか?」


「あ、だから逆に目につくのか」


「はい?」


「なに、無自覚?タチ悪いな」


さらっと言われるから、聞き流してしまう。



「君のその雰囲気が好きなのか」



風雪さんのその話し方に惑わされる。藤本陽生を連想させる様な声を出さないで欲しい。



「男に興味が無くて、むしろ嫌悪感すら抱いてるのに、陽生の事は男として意識してるんだ?と言うか、陽生以外の男は無理って感じか」


「……」


「男からしたら堪んないな」


「やめてください」



藤本陽生がこの人を牽制する理由が少し分かる。



「あー、ごめんごめん。可愛い子ってつい、いじめたくなるんだよな」



似ている様で似ていない。



「どおりで陽生が俺に頼んで来る訳だ」



似ていない様で似ているから厄介。



「似た者同士って訳か」


「はい?」


「陽生も君と同じだろ。異性に対して苦手意識とゆうか、苦手じゃねぇな、あいつの場合。ガチで嫌いか。嫌悪感丸出しだな」


何が言いたいのか知らないけど、藤本陽生は優しい人だ。バカにしてるなら、この場の対応を改めないといけない。



「まぁ、俺が原因か」


何をどう答えて良いか戸惑った。



「とりあえず、カズ兄の店へ君を連れて行く」


「はい?」


「そこに陽生も来る事になってる」


「…あの、状況が分かり難くて、何があったのか知りたいです」


「さぁ、聞いてない」



おいおい。



「事情は知らねぇし、興味もない」



…何だか腑に落ちない。



「事情も分からないのに、あたしを探したんですか?」



あんた達、仲が悪いんじゃなかったのか…



「弟に頼まれたから」


「え…?」



当たり前の回答が、この人が言うと意外な返答に聞こえる。


こんな時間に、こんなとこまで出向いて…弟の別れた彼女にわざわざ会いに来るだろうか…



「あー、仲が悪いのに何でってこと?」


当たらずも遠からず。否定も肯定も出来ない。



「仲が悪いって先入観の押し付けだろ。俺はあいつと仲悪いって言った事ねぇし、思った事もねぇよ」



…驚いた。



「嫌われてるけど。俺は嫌いじゃねぇ」



…更に驚いた。



「じゃないとやらないだろ。こんなクソ面倒臭ぇこと」



この人…



「でも、君と話せたのは良かった」



似ているのは、顔だけじゃない。



「陽生の話しになると、ガードが緩んでる」


「……」


「君は陽生の傍に居た方が雰囲気がいい」


「…あたしも傍に居たいです」


「だよな。じゃあ行こう、送るよ」



風雪さんが立ち上がる。テーブルに置かれていた伝票を当たり前の様に掴み取った。



「あっ、あ!払います」


慌てて追いかける。



「払います」


追い付いた背中に声をかける。



「あのっ」


「…あのさ、こうゆう会話キリねぇからやめろ」



レジに着いて言われた言葉。


面倒臭そうに見下ろされた視線。その言い回し、声のトーンが…



「はい」


藤本陽生にそっくりで、思わず従ってしまう。



コーヒー二杯分の料金。すぐに会計が終わり、「行くぞ」と言われてその背中を追いかけた。「ありがとうございます」とお礼を口にすると、「はいはい」と適当な言葉が返って来る。



その言い回しも、一々ドキドキするからやめてほしい…



ファミレスを出ると、迷わず駐車場へと向かう。タクシーを呼ぶものだと思っていた為、その足取りに戸惑った。



かと言って、声をかけるのも躊躇してしまい、黙って後を追いかける。



駐車している車に近づくと、「前に乗って」と声をかけられ、助手席のドアを開けてくれた。



「閉めるよ」と言われ、「はい」と返事をすれば、ドアを閉めて運転席側へ移動し、車内へ乗り込むとすぐにエンジンをかけた。



「シートベルトした?」


「はい」


「カズ兄の店、車だとすぐだから」


「はい」


「あ、知ってるか」


「…はい」



車が出発する。


冷静になると、何をやってるんだと急に頭が冷えてくる。


好きな人のお兄さんとは言え、男性の車にホイホイ乗り込む始末。風雪さんにも彼女がいるかもしれないのに、ここに乗っていて良いものか今更焦りが生じる。



「なに、落ち着かない?」


運転席から視線を前に向けたまま、風雪さんが声をかけて来た。


この人はテレパシーでも使えるんじゃないかと、真面目に疑ってしまう。



「いえ、すみません」


「え?なにが?」


あたしの謝罪に、笑いを含んだ言葉を返してくる。



「いえ、何か、何とも思わずに車に乗せて貰って…」


「え?なにが?」


今度は困惑している様な声色。言っている意味が分からないと言わんばかり。



「タクシーを呼べば良かったなと思って…」


「え、なんで?俺が送るって言ったんだし」


「そうなんですけど、言われるがまま乗るもんじゃなかったなって思ったので…」


「はぁ。君は急に距離を作るよな。さっきまでは懐いてくれたみたいで可愛かったのに」



さっきっていつ…



「彼女いるんですよね?」


「あぁ…そうゆうこと?」


「はい」


「彼女に気を遣ってくれたんだ?」


「はい」


「大丈夫なのに」


「はい?」


「助手席に女の子乗せたぐらいで文句言う子と一緒に居ないから」


「はぁ…」


「考えられないって口振りだね」


「…はい」


正直に返事をしたら、「ははっ!」っと笑われた。


信じられない。あたしなら想像しただけで無理かも。



「愛されてるねぇ」


「はい?」


「君、」


「え?」


「そんな風に思えるのって、相手が君の事を大事にしてくれるからじゃねぇの?それを知ってるから、他の子に同じ様に接して欲しくない。自分が大事にされて、嬉しいとか愛しいって知ったから、他の子も同じ事を思うかも知れない。だから耐えられないんだろ」



いや、それは…



「単純に、彼女さんに悪いなと思っただけで…」


「ふーん。まぁいいけど、程々にしとけよ」


「え?」


「そのタチの悪さ」


「はい?」


「君と付き合う男は骨が折れるな」


「…っは?」


「あ、今俺に言われたくないって思ったろ」


「はい」


「ははっ!おもしれぇ」


「……」


「あんたらの事に興味なかったんだけど、少し興味が湧いたわ」



湧かんでいい…



「まぁ頑張ってよ」


「…何をですか?」


「え、これから。色々と」



適当なエールにとりあえず「はい」と返事をしておいた。



「…聞いてもいいですか?」


「なに?」


「彼女さんのこと」


「いいよ、なに?」


「付き合って長いんですか?」


「いや」


「え?」


「付き合ってる彼女はいない」


「…え、でも、」


「やってる子なら数人いる」


「…すみません」



聞く相手を間違えました。



「所謂、特定の子?作ってねぇから」


「でも、さっき彼女って言ってましたよね…」


「あぁ、一緒に居る時に誰って聞かれたら、面倒くせぇから彼女って言ってる」



…想像以上に手だれていらっしゃる。



「それって、幸せなんですか?」


「は?」


「あ、すみません…」


「幸せ求めてねぇから」


「え?」


「君は幸せになりたくて彼氏作ってんの?」



その言葉に藤本陽生が頭に浮かんだ。



「独占したいから」



何かに執着した事はない。初めて手放したくないと思った。



「やっぱり、君と付き合う男は骨が折れる」


「いやいや…」


「面倒くせぇ子は、面倒くせぇ奴がお似合いって事だ」


「あたしが面倒臭いって話しですか?」


「陽生じゃないとダメなんだろうなって話」



そんなの、あたしがどれだけ藤本陽生が良いと主張したところで…



「拗らせてんな」


「え?」


「はい、着いた」


言われて見ると、話している間に明和さんのお店の前。



「…ありがとうございました」


シートベルトを外している間に、風雪さんは運転席側から降りてしまう。

慌てて荷物を持ち直し、助手席側のドアに手をかけると、同時に外からドアが開かれた。



「降りて。閉めるから」


「あ、はい」


車から降りると、後ろ背にバタンとドアが閉められた。



「ありがとうございます」


「うん、行こう」


立ち居振る舞いがスマートで紳士。普段からやっているんだろうなと感じた。



モテる男の雰囲気を匂わせる。



お店の入り口にはclosedの文字が掛けられている。休みだったのかな…と、想いにふける暇もなく、風雪さんが先頭を切って扉を開けた。



「入って」


店内へ先に入るように誘導される。心臓がバクバク鳴り始めるのに容赦がない。



「あ、俺すぐ帰るから」


薄暗い店内は、誰も居ないように見える。



「えっ?」


ここに一人で取り残されるのかと、急に怖気付いた。



「帰るんですか?」


引き留めてまで聞き返す始末。



「他に用事ないし」


「え…」


「なに、心細い?」


「いや…」


「今更懐かれてもな。気が向いたらまた会おうよ、春ちゃん」


風雪さんはそう囁いて、店の中へと進んで行く。



「カズ兄呼んでくるわ」


そう言ってあたしを置きざりに、カウンターの裏へ進み歩く。


明和さんが居るんだとゆう情報に安堵しつつ、どうしたら良いか戸惑い立ち尽くしていると、微かに話し声が聞こえ、風雪さんが戻って来た。


同時に、明和さんの姿が視界に映る。



「あ、夜分にすみません…」


「いやいや、こっちこそ急に悪かったね」


突然現れたのに、相変わらずの優しい口調。



「俺はもう帰る」


風雪さんがカウンターから出て来た。



「あ、そうなん?」


明和さんはカウンター内に留まっている。



「一応、この子引き渡してから」



風雪さんの言うこの子は…あたしだ。



「春ちゃん、驚いたんじゃない?」


「え?」


「急に風雪が現れて」


「あ、はい…」


「そうだよね、状況把握できてる?大丈夫?」


「はい…」


出来てないけど頷くしかなかった。



「もうすぐハルも着くから」


誰も居ない店内…やっぱり店休日だったかなと思って、何だか申し訳なくなった。



「座って」


風雪さんがカウンターの椅子を引いてくれた。本当にすぐ帰るつもりの様で、自分は座ろうとしない。



直後、店の扉が音を立てて開かれる。自分達が入る時にこんな音がしたのか記憶にすらない。



「あ、来た」


そう言ったのは明和さんで、言葉を向けられた相手は、藤本陽生だった。



…いつもよりラフな格好をしている。


髪の毛もセットされていない。気怠そうな雰囲気も懐かしく感じ、愛しくもあった。



「シゲが自分も行くってうるせぇから振り切って来た」


面倒臭そうに話しながら歩いて来る。


その声も、歩き方も、やっぱり好きだ…



「え?あいつ家まで来たん?」


カウンターから身を乗り出す様に、明和さんが質問している。


「いや、電話」


「あー、電話?」


「シゲからの着信がしつけぇ」



近くまで来ると、その声が脳内を揺さぶる。心が震える…この人に会いたかったんだと、全身の細胞が訴えてくる。



「大丈夫か?」


隣に立つ風雪さんが、声をかけて来た。


あたしですか?と視線を送る。



「震えてない?」


え、震えてます?



「いや、目で訴えられても分かんねぇ」


「春、こっち来い」



風雪さんの言葉に続いて、藤本陽生が一歩前へ踏み出した。



「はい…」


ビビって声が裏返りそうになる。



「まぁいい、俺は帰る」


風雪さんが「じゃあ、俺はこれで」と、別れの言葉をくれた。



「…お世話になりました」


小さくお辞儀をすると「はいはい」と言って歩き出した。


明和さんが「またな」と声をかけるのを尻目に、藤本陽生の横を無言で通り過ぎて行く。



嫌いじゃないと言いながら、何も言葉を発しない雰囲気に謎が深まるばかり。



さっきまで隣に立っていた風雪さんの余韻を打ち消すかの様に、藤本陽生から香る匂いに心臓がバクバクと音を立て、血の巡りがドクドクと波打つ。



緊張しているのか、ビビりあげているのか、自分がよく分からない。兎に角アドレナリンが出ているのは間違いなかった。



藤本陽生は何も言わずに奥のテーブル席へ向かった。その後を当たり前の様に追いかける。



四人掛けの手前の椅子を引いたから、向き合う様に座るのかと思い、テーブルの反対側に周ろうとしたら「おまえここ座れ」と、引いた椅子へと誘導された。



言われるがまま椅子に座ろうとしたら、持っていた鞄を「貸せ」と言われ、返事をする間もなく手渡す。



鞄を反対側の椅子の上に置いて戻ると、あたしの隣の椅子を引き、こちらを向いて座った。



「春ちゃん、コーヒー飲んで」


明和さんがカップに入ったコーヒーを運んで来てくれた。



「え!…すみません…」


藤本陽生の分も、手前に置かれている。



「大丈夫。俺さ、裏に居るから何かあったら呼んで」


「…すみません、ありがとうございます」



頭を下げると、明和さんは再び微笑んで、この場を立ち去った。




「で、学校休んで何してた?」



コーヒーを口にする間も無く、唐突な質問が飛んでくる。聞かれるとは予想していたけど、実際に聞かれるとなると困惑した。



「連絡しなくてすみませんでした」



藤本陽生の方に身体を向き直した。



「別に責めてない。何してたかって聞いてる」



最初に言う事がそれですか?って話だけど、こうして話せる事に胸が熱くなった。


向き合っている膝が触れそうで触れない絶妙な距離感に足が震える。



「バイトしてました…」


質問に答える為、話を切り出した。



「バイト?」


めちゃくちゃ睨んで来るから話し辛いのに、その視線が嫌いじゃないから厄介だ。



「お店が周年のイベントをする事になって、その間は三時まで働いて欲しいって店側から相談されて…学校を休む事にしました。」


「それいつだ?」


「…十日くらい、前ですかね?」


「学校を休んだ理由はそれか?」


「はい…家からお店まで遠いから、お店のママの自宅に間借りさしてもらう事になって、そうなると学校に行くのが大変だから…」


「親は知ってんのか?」


「え?」


「春の親は、学校行ってねぇ事知ってんのか?」


「…はい。周年イベントの間だけ、ママの家に泊まらせて貰う事は伝えました」


「今はどうしてんだ?」


「…明日から家に帰る予定になってます」


「明日から…」


「連絡しなくてすみませんでした…」



「藤本陽生くんと言う子が訪ねて来た」と、母から連絡があったのは三日前の事。


驚いたのと同時に、状況が把握出来なくて戸惑った。



「あなたと連絡がとれなくなったって。心配して訪ねて来てくれたみたいよ。連絡をして欲しいって言われたから、春に伝えておくと言ってある」



母からそう言い渡された。



それなのに、電話をかけ直す勇気がなくて…時間だけが過ぎてしまった。 


あの時は、外部との連絡手段を全て断ち切りたくて電話の電源を落としていた。



「…ごめんなさい」



別れた事で落ち込んだなんて言うと、藤本陽生を悪者にするみたいで、どう説明していいか…



「春、」


「はいっ…」



突然の呼び名に、声が裏返りそうになる。



藤本陽生が何を考えているのか、いつも分かり難かった。



「単刀直入に話して良いか?」


「…はい」


「回りくどいのは苦手なんだ…」


「はい」


「俺ら、別れてねぇからな」


「…え?」



相変わらず、この人は淡々と話を進めてくる。

こっちの気持ちなんてお構いなしに…



「誤解するような事を言って、別れ話だと勘違いさせたなら…悪かった」



だけど、そんなところも好きになってしまったんだからしょうがない。



「連絡取れねぇから何かあったんじゃねぇかって、見当違いな事も考えたけど。連絡取れなくなった日の事を思い返したら、原因は俺だろうなって」


「…え?」


「あの日、サトルが春に対して言った事は、あいつが春に口出す事じゃねぇし、あいつに指摘される事じゃない。俺も腹が立って感情的になった」



はい…忘れもしません、岡本をぶっ飛ばした事。



「だけど、生きてりゃ不本意に傷つけられる事ってあるだろ。それは春だけじゃねぇけど、その度に傷つくんじゃなくて…サトルみてぇな考えの奴もいるんだなって、もっと楽に受け止められたら良いなって思った」


「……」


「だから、俺らとばっかいねぇで、色んな価値観を知る為にも、クラスの奴らとか…もっと色んな人と過ごす時間が春には必要なのかもしれねぇなって考えた」



こうゆう気の回し方をされるのは好きじゃない。あたしにとって、藤本陽生失くして、他に関わりなんて要らない。



「だから、他の奴との付き合いを考えた方が良いって言った。でもあれは、俺じゃない男と交際してみろって意味の付き合いじゃなくて…他の奴とも、人間関係において付き合いを広めた方が良いって言う意味で言った」


「じゃあどうして、いつまでも傍にいないって言ったの…卒業したらどうすんだって、言ったの…」


「これから先、進学するにしても、社会に出たとしても、高校生活みたいに傍に居る事はできねぇっていう、物理的な距離感の話しで、別れ話しじゃない」


「…なんで」


「別れたいと思った事ないし、別れたとも思ってない」


「……」  


「本当に悪かった、ごめんな」



その謝罪に、思わず首を横に振ってしまった。


本当はもっと謝って欲しかった。一々分かり難いし、大きなお世話だなって思う内容もいっぱいあったし、人間関係とかどうでもいい。



あたしは…


本当は…



「俺は、おまえのもんだろ」



そう思わせて欲しかっただけ。



「おまえが別れたいって言わねぇのに、別れねぇだろ」


「あたしが別れたいって言っても、別れないでよ…」


「フラれたと思って別れた気になってんの誰だ」



あれ…?



「何も言わなかったら本当に別れてんじゃねぇか」



急に不機嫌…



「連絡取れなくなるしよ」


「…ごめんなさい」


「おまえどんだけ心配したか分かってねぇだろ」


「分かってる…」


「わかってねぇ」


「分かってるよ…」


「わかってねぇ。俺が別れようとしてるって思う時点で、おまえは何もわかってねぇ」



そんなのそっちの言い方にも問題あったじゃん…と、思った。思ったけど、



「簡単に別れようとすんな」



胸の内に秘めた。



「その度に、こうやっておまえの事探し出すからな」



言葉だけ聞くと、物騒な言い方にも聞こえる。

だけどあたしには、最高の愛情表現として伝わった。



「勘弁しろよまじで…」


藤本陽生がここに来て初めて項垂れる。



「おまえがいない俺なんて、自分が一番想像できねぇわ」


「…ごめんなさい」


理不尽だと思った。自分だって、言葉足らずで人を誤解させるくせに…



「こんなのニ度とごめんだ」


だけど、その姿がまるで泣いている様に見えて…



「っ、ごめんね…」


胸の苦しさを誤魔化す様に席を立ち、肩に手を伸ばしたら、顔を上げた藤本陽生に逆に引き寄せられ、力任せに膝へと座らされた。


背中に手を回され、顔を埋める様に抱き締められた。



寂しかった、会いたかった…


全身全霊でそう言われている気がして、胸が締め付けられた。



もうどこにも行かないからね、ずっと傍にいるからね…


口にはしなかったけど、何度も胸の内で唱えた。



お互いの温もりを、必死で感じようとしているみたいに。



再び顔を上げた藤本陽生は、両手であたしの顔を引き寄せる。



「キスしよう」


その言葉に全身が痺れた。



優しく、でも力強く口付けをした。



触れ合う唇が、こんなにも柔らかかった事を、互いをどれだけ求め合っていたかを…改めて感じた。



腰に手を添え、自分の身体へグッと引き寄せてくる。これ以上密着できないと分かっていながら、隙間を作る事を許さない。



こうゆう時の藤本陽生は、いつもの気怠そうな雰囲気から一変する。止まらない口付けが、欲しくて欲しくて堪らないと言われているみたいで…



これ以上はまずい。


ここは明和さんのお店で、裏には明和さんがいる…気づかれたら恥ずかしいどころの騒ぎじゃない。



「はっ…陽生先輩…っ」


話をしようとすると、すぐに唇を奪われる。



「待っ…てっ…」


藤本陽生の胸を両手で精一杯押し返した。



お互いの表情を見つめ合う。妖艶さが漂う藤本陽生の表情から色気が滲み出ている…あたしには出したくても出せない…



「ここ、明和さんのお店だから…」


小声で話しかけると、言わんとする事を理解したのか、舌打ちをされた。



「…帰ろう?待たせたら悪いよ」



藤本陽生の膝の上から降りようとしたら、腰を引き寄せられた。



「陽生先輩…」


駄々を捏ねている子供みたいで、まだ少し見ていたい気もするけど…そうゆう訳にもいかない。



「…帰ろう?」


「急に聞き分けが良くなるの何なんだ…」


「だって、」


「帰らないとダメか?」


「え…?」


「このままうちに来れねぇの?」


「でも…」


「ダメか?」



藤本陽生からの誘いを、あたしが断われる訳がない…



静かに頷いたら、さっきとは打って変わって、膝からすんなり降ろされた。


ここで座って待つように指示を出され、藤本陽生は明和さんの下へ向かった。


すぐに戻って来た藤本陽生と一緒に、明和さんが現れた。



「あ…、長時間ご迷惑おかけしました…」


立ち上がって頭を下げたら「全然気にしないで」と、明和さんが笑ってくれた。



「春ちゃん、もうこんな時間だし、今日は家に泊まりなよ」


「でも…」


「春ちゃんをこのまま帰す方が心配だし」



どう返事して良いか迷っていると、


「朝一番に業者来るから、俺はもう店に泊まるし、気にしないで陽生と帰りな」


明和さんが気を遣ってくれた。



「遅いからきちんと連れて帰れよ」


藤本陽生の肩を優しく叩いて、明和さんに見送られる。


申し訳ない思いでいっぱいなのに、一緒に居られる事への嬉しさに目を背ける事ができなかった。



外に出たら、冷えた空気が現実へと引き戻してくる。藤本陽生から離れないように、隣に立ち並んで腕を掴んだ。何も言われなかったから、そのまま自宅マンションまで歩いた。



エントランスに入ると、視界がやけに明るく…何となく腕を離してしまい、部屋に着くまで腕どころから指一本触れなかった。



明和さんの家の扉を開けると、先に入るように促される。


玄関のドアが閉まり、室内へと足を踏み入れた。



「お邪魔します…」


誰もいない事は知っている。



リビングではなく、すぐに藤本陽生の部屋へ通された。いつ来ても、チリ一つ無く、整理整頓された部屋。きっちりとした性格が見て取れる。



「着替えるか?風呂入るか?」


クローゼットのドアを開けて、藤本陽生が振り返る。



「着替えたいし、お風呂入りたい…」


そう言ったら「わかった」と頷き、衣類をゴソゴソと漁り出した。



「これでいい?」


差し出された服。


良いも悪いも無いから「ありがとう」と言って受けとった。



「風呂沸かしてくる」


そう言って藤本陽生が部屋を出る。


その場に座り込んで、お風呂場の方から聞こえてくる物音を静かに聞いていた。




「…春、春、」


身体を揺すられて、目を開く。



「寝るのか?」


藤本陽生がしゃがみ込んで問いかけてくる。


どうやら寝てしまったようで…



「寝るなら着替えた方が良い」


「……」


「春、」


うっすらと瞼を開いた。



「着替えてから寝ろ」


そう言われて上体を起こすと、藤本陽生に借りた服が下敷きになっていて…いつの間にか枕代わりにしていたらしい。


通りで眠たくなる訳だ。



「…お風呂入りたい」


「もうとっくに沸いてる」



コートを着たまま横になっていた所為か、身体が重く軋む。



「風呂入るんなら起きろ」


立ち上がれと言う意味だと思って、とりあえず動き難いから座り込んだままコートを脱ごうとした。


指先に力が入らず、ボタンを外せないあたしを見兼ねて、藤本陽生が手伝ってくれる。


脱いだコートをすぐに受け取り、クローゼットの中へ掛けてくれた。



「さむっ…」


急に身体が冷える。



そうだった…コートを脱いだらお店の衣装しか着ていない。肩も胸も脚も露出している。


藤本陽生が戻って来て、再びしゃがみ込む。


何故だか急激に恥ずかしさが襲ってきた。


咄嗟に下敷きになっていた藤本陽生の服を掴み、胸元を隠す様に服を抱えた。


衣装に関して何も言われず「立てるか?」と聞いてくる。



「はい…」


返事をして立ち上がろうとしたら、支えるように腕を持ち上げてくれた。



立ち上がった瞬間、ギュッと腕を握り締められた気がして、藤本陽生に視線を向けた。



「…おまえ、飯食ってるか?」


怪訝な面持ちで問われる。



「食べました」


「何食った?」


「え、何食った…?」


急に言われると考えてしまう。



「ちゃんと食え」


「食べましたって」


「…食ってねぇだろ」


「食べました」


掴んだ腕を持ち上げられ、もう一度握り締められる。



「前より細くなった」


「いやいや…」


たかだか数日で腕の細さなんて変わらない。



「…きゃっ!」


急に身体が宙に浮き、思わず悲鳴が出る。


「何っ…!?」


藤本陽生に身体を持ち上げられた。抱っこするみたいに。


すぐに下ろされて「やっぱり軽い」と言われた。


…知らんがな!



「早く風呂入ってこい」


自分が引き留めておいて、この言い草。



そうゆうところも好きだからしょうがない。



降ろされた弾みで体がよろけた所為か、余計に心配された。



「何か食うか?」



…この男、知ってはいたが結構面倒臭い。


言い出したら引かないと言うか、聞かないと言うか…


そうゆうところも好きだからしょうがない。



「寒い…」


震えた途端、早く風呂へ入って来いと促して来たから「はい」と返事をした。



先頭を歩いて脱衣場まで行く藤本陽生は「分かるか?」と、使い勝手を確認してくる。

何度も使わせて貰ってるのに、一々確認してくれるところが好きだ。



「それ、どうすんだ?」


着ている衣装を指差して「洗えんのか?」と聞かれた。



「持って帰って洗うから大丈夫」


「そうか」


「あっ…!」


「は?」



とんでも無い事に気づいた…どうしよ…



「どうした?」


「あたし…着替えがないんだった…」


「は?」



下着の替えがない!

何も考えずにここまで来てしまった!



「俺の服、」


「じゃなくて…下着が…」


「は?」



正直、今履いてる下着を履くしかないって話しだけど、そうじゃない。それもちょっと嫌だけどそうじゃない。


パット入りのドレスを着ているから、これを脱いだ後ブラジャーがない!流石に、人様の家でノーブラってどうなんだろ…そこは致し方ないか…



「どうしよ…」


「買ってくるわ。ついでに飯も買ってくる」


「あ、あたし行きます」



藤本陽生に下着を買わす訳には行かない!



「タクシー呼びます!」


「バカかおまえは…そんな事でタクシー使ってんじゃねぇよ」



あたしにとっては一大事だもん…



「そもそも、女性の下着分からないでしょ?」


「店員に聞く」


「店員に聞く!?」


「聞かねぇとわかんねぇじゃん」


「何って聞くの?」


「…何って聞くんだ?」



そりゃそうだ…分かるわけがない。



「あの、この辺でこの時間でも下着売ってるお店ってどこですか?」


「…俺が知ってる訳ねぇだろ」


「じゃあどこに行こうとしてたの?」


「…コンビニ」



コンビニかぁ…



「やっぱりあたし行きます」


「いや、おまえもう外に出るな」


「でも、必要な物…他にもあるし」


「買ってくる」


「でも…」


「何が要る?」


「…でも」


「しつけぇ」



一刀両断された為、もうあたしの主張は通らない。要るものをあれこれ整理してメッセージへ送信した。



藤本陽生はすぐに部屋を出た。



どれくらいで帰ってくるんだろうかと…何をして待っていれば良いか、落ち着かない。



とりあえず藤本陽生の部屋に座り込む。彼氏が居ない、彼氏の部屋…興味が無いわけじゃない。物色したいと言う好奇心も少なからずあったが、部屋が整理整頓されていて、そこに手を付けるのは気が引けた。



物色しない代わりに、部屋の中をマジマジと凝視する。


何もないのに、落ち着く部屋だと感じるのは、藤本陽生の余韻があるからかもしれない。借りていた衣類をギュッと抱き締める。



好きな匂いに包まれて、藤本陽生を傍に感じられた。



今日、一緒に居れる事が凄く嬉しい…


迷子になっても、探してくれる人が居るとゆう安心感を知った。



別れる筈がないと、思わせてくれた…それがとても愛しかった。自分も、こんな風に気持ちを返せる人になりたいと願わずにはいられない。



藤本陽生の好きなところを言い出したらキリがないけど…いつも一番に感じている事はある。



なんせあの人は、妥協する事を知らない。自分に出来る事はまだあるんじゃないか…どうしたらもっとより良くなるんだろうか…そんな風に相手と向き合っている。



こっちが諦めてしまう事も、諦める事を知らない。だからこそ、あたしは今ここに居るんだと思える。



こんなあたしを好きになってくれたところが、一番好きかもしれない。



こんなに面倒臭いのに、受け入れてくれる。受け入れてるよ…って、伝えようとしてくれる。



抱き締めた服まで愛しくなった。



誰かを好きで居る事は、こんなにも幸せなんだと…教えてくれた人。誰かの幸せを願うと心が豊かになると教えてくれた人…



生きている事が有難いと思わせてくれた人。



どうしてこんなにも感傷的になっているのか…それだけ、藤本陽生と言う存在があたしを生かしてくれていたと言える。



時々寂しくなる事もある…泣きたくなる事もある。それに変わるものを与えてくれる人。



あたしも、与える人になりたい。



「…っ…うっ…」



あぁ、何にしたって、泣かせるんだ…



「…っ…」



でも、あたしはもう知っている。



この感情の意味を…



それを、人は 幸せと呼ぶ———




玄関から近い藤本陽生の部屋。


開錠する音が部屋の外から聞こえた。



急いで立ち上がり、開いていた部屋のドアから廊下を覗き見ると靴を脱いでいる姿が見えた。


待ち望んでいた人の姿に、昂る気持ちを抱え、足音を立てない様、玄関先へと急ぐ。



藤本陽生が気づいて顔を上げた。


気づいたのが先か、飛びついたのが先か…



「…は?」


今まさに口にした言葉と同じ表情を浮かべ、バランスを崩した藤本陽生が、あたしの身体を落とすまいと支える様に踏ん張った。



「あっぶねぇ…」


「……」


「痛えわ」



あたしの両腕から、自分の腕を引き抜こうとしている。



それでもしがみついたまま離さないから、



「…何してんだ?」


「……」


「どうした?」



様子を伺う様に声をかけてくれた。



「…とりあえず離れねぇ?」



困った様に聞いてくるから、言う通りにしようと思い、しがみ付いていた腕を離した。



「部屋に行こう」



そう言ってあたしの横を通り抜ける。

咄嗟に服を掴み、寄り添うように付いて歩いた。



部屋の中に入ると、買い物袋を一つ手渡された。中を覗くと、頼んだ物が何個か入っているのが見える。



「…ありがとうございます」



お礼を言うと、もう一つ持っていた買い物袋を見せ「食うか?」と問われた。



要らない…と言う意思表示のつもりで、首を横に振って答える。藤本陽生は何も言わず、テーブルの上に買い物袋を置き、



「どうした?」



そう問い掛けながらあたしの手を握る。


握っていた買い物袋を再び手中に収めると、そのまま横へ置いた。



「…ぎゅってして欲しい」



両手を差し出すと、その手を引き寄せ、言葉通りギュッとしてくれた。



嗅覚が幸せを吸い込む。

好きな人の匂いだから好きなのか…好きな匂いだから好きになったのか…間違いなく前者に違いない。



「…春、」


名前を呼ぶ声が、少し困惑しているのが分かる。



「離れたくない…」


「なに?」


「このままが良い…」


「……」


「まだ離れたくない…」


「とりあえず風呂入って来い」


「……」


「何の為に買い出し行ったかわかんねぇだろうが」



…ちょっと怒っている。



「ゃっ…!」



お尻の方から持ち上げられ、ベッドの上に降ろされた。元々短めの丈のドレスが、ベッドに座り込んだ事により、太股を露わにする。



「…止められねぇんだって」



そう言いながら唇を近づけてくる。キスして欲しいなんて言ってない。でもキスして欲しかった。



ちゅっ…と音を立てて唇が離れる。一瞬目線を合わせたけど、すぐにまた唇が触れた。優しいけど押される様な力強さに、身体が背後に倒れる。



ベッドへ寝そべるあたしを、藤本陽生が覆い被さる様に見下ろす。



久しぶりの感覚に吐息が熱くなる。



背中に手を回され、上体を起こされると、そのまま向き合う形で藤本陽生の上に座る格好となった。


抱き締めるように、背中のファスナーを下ろされる。それと同時に胸元の締め付けが無くなり、肩からドレスの肩紐をズラされ、胸元が露わになると、妙にドキドキした。



藤本陽生の温かい手が下から乳房を持ち上げる様に揉みしだく…柔らかい感触を確かめるように、何度も優しく弄るから、息遣いが荒くなる。



舐めるように口に含まれ、途端に全身の敏感な部分が順番に反応し、刺激が循環する。



気持ち良い波がゆっくりと続く為、押し寄せる快楽が身体をよじらせる。その度に逃さまいと腰をグッと引き寄せられた。



舌で乳首を舐めまわされるから下半身が疼く。藤本陽生の頭部をぎゅっと抱き締めた。



「…っ…」


荒い息遣いと一緒に、胸元に顔を埋めてくる。その姿が愛しくて…もう一度頭部へ手を回し抱き締めると、すぐに顔を上げて再びあたしを寝かせた。



覆い被さった藤本陽生が、上に着ていた服を一着ずつ脱いでいく。



上半身に身に纏っているものが無くなると、ゆっくりと顔を近付けて来た。ちゅっ…と音を立てて唇を離すと、その口付けが首筋を這う様に伝う。



首筋から胸…胸下から臍の上へ口付けて行く。腰を舐められた時は、身体が大きくビクついた。藤本陽生の手が下着の中を撫でる。静かな空間に、次第に音が響いてくる。自分の中から発せられているとゆう恥ずかしさと、快楽が交差する。



指が一本、ゆっくりと挿入した。出し入れされる度に、濡れているのが自分でも分かる。藤本陽生に見られていると思うとゾクゾクした。



二本目の指が入った時は、思わず吐息が漏れた。あたしが気持ち良くなる瞬間を、藤本陽生は見逃さない。



身体を這うように乳房を弄り、それを頬張るように口へ含む。乳首を吸われる舌遣いに快感を得ながら、藤本陽生の頭下をギュッと抱き締めた。



おっぱいを舐めるのが好きなのか、あたしが舐められるのを好きだと思っているのか、どちらにしても気持ち良さの波が押し寄せて来た所為で、腰を動かしたい衝動に駆られる。



指が入っている所からジンジンとうねりが起き…



「春、」



藤本陽生が顔を上げた。



「イキそうだろ…」


「…っ」


「…春」


「…っ」


思わず藤本陽生の腕を掴んで、腰を動かしていた。



「…ッ…ァッ…」



絶頂を迎えてしまった。



指が抜かれて下着を脱がされた。藤本陽生もズボンを脱いで、下着を降ろしている。薄っすらと開けた視界でその様子を見つめた。



ゴムを着け終わると、上に跨り、外からなぞる様に押し当ててくる。



正直もう好きにしてくれって感じだった。全身に力が入らない…



再び覆い被さるように見下ろすと、ギュッと抱き締めてくれた。



「もう少し頑張れるか」



囁くような声に「ん…」と返事をする。



すぐにあたしの脚を開く様に持ち、自身のものを当てがった。入る場所を探す様に弄るから、擦れて気持ち良さが戻ってくる。



さっきとは違う快感が奥まで突いてくる…



「…ッ…ッ…」



腰が揺れる。



「…春っ、」


「…ッ…ッ…」



かけられる言葉と振動のリズムが重なり合い、一定のリズムで突かれるから、気持ちいい所がぎゅーっと締め付けられる。



声が漏れそうになったと同時に、藤本陽生が動きを止め、ギュッと抱き締めて来た。



「…っ…」



吐息が首筋にかかる。



「…どうしたの?」



一定の快感が遮断され、もどかしい。



「陽生先輩…」



動いて欲しい…



「…っちょっと待て…」


「え…?」



抱き締められる力が増した。



「……っ」



吐息がかかる度、首筋がくすぐられて気がおかしくなりそう。



「…動いて…」



腰をグッと押し付けようとしたら、見事に動きを封じられた。



「…春、」



そんな擦れた声を出されたら、余計に興奮してしまうのを分かっていない。



「…大丈夫?」


「……」


「いいよ…気持ち良くなって…」



首筋に手を回し、耳元で囁いた。理性なんて飛んでしまえと…わざとそうした。そのまま耳筋を口に含み、舌で舐め回すと、抱き締める力が更に強くなる。



止まっていたものが、中で大きく脈打っているのが分かった。



自分に興奮している藤本陽生が愛しくて堪らない。



舐め回した耳を口から離し、そのまま耳元で「動いて」と強請るように声をかけた。



「…それやめろ、おかしくなる…」


「お願い…」


あたしはもうとっくに快楽に溺れている。



見下ろしてくる藤本陽生の表情を、薄らと盗み見る。その表情に、あたしはまた快楽の波に流されて行く…



貪るようにキスをされ、溜め込んでいた欲情を爆発させたかの様に、腰の動きが今までと比にならない。



声も出せない程、打ち突けてくる。



何度もピストンしながら、



「…射るっ…」



最後に奥まで押し当てられ、果てた。


力尽きたように身体を預けて来る。



こんなに求められると思ってなくて、会えなかった分、興奮が増してる様に見えた。



力無く伸し掛かる重さが、これまた愛しい。



余韻に浸りたいあたしとは違って、藤本陽生は深く深呼吸をすると、勢い良く上体を起こした。


まだくっ付いていたいのに、下半身の事情がそれを拒む。



「…ゴムが外れる」


絡めた腕を離さないあたしに、やるせない言葉が降りて来る。



「外れてもいいじゃん…」


「ぶち撒けたら嫌だろ」


「嫌じゃないもん…」


「…俺は嫌なんだよ」



そりゃそうかもしれないけど…



「すぐ戻る?」


「すぐ戻る…」


「すぐ?」


「すぐ…」


「わかった」



腕を離すと、ガバッと起き上がり、薄暗い室内を躊躇なく移動する。



肌けた布団を手探りで掴み、体に引き寄せた。

ギュッと抱き締めると、マイナスイオンを感じられた。目を閉じると、意識を持っていかれそうになる。



「春…」



その呼び声に瞼を開ける。



「風呂入って来る」


「えぇ…」


「すぐ戻る」


「さっきもそう言った」


「…すぐ戻る」



少しトーンが下がった声に、渋々「はい」と返事をした。



すぐに藤本陽生が部屋を出て行く。



気配が無くなった室内は、やけに静まり返っている。



…あたしもお風呂に入りたい。



起き上がり、乱れ過ぎて訳の分からない着方になっているドレスを脱ぎ捨て、藤本陽生から借りた服を探した。



畳んで置かれていた服を広げたら、トレーナーだったという事に気づく。とりあえずズボンは置いたまま、上だけ着て部屋を出た。



風呂場のドアをノックしたけど返事がない。

ゆっくり扉を開けると、脱衣場の明かりに目が眩んだ。



その奥の浴室から、シャワー音が聞こえて来る。


中へと進み、浴室の扉をトントンと叩いて「陽生先輩」と声をかけた。



バン!っと、急に浴室の扉が開く。

返事が返って来ると思っていたから、先に扉が開いた事に驚いた。



浴室からシャワーの湯気が脱衣場へ流れ出て来る。



「どうした?」


「え?」



驚いて思わず聞き返していた。



「何かあったのか?」


「…あ、あたしも入る」



急に声をかけられて驚いたのは藤本陽生も同じだった様で、何かあったのかと心配してくれたんだと理解した。



「…わかった、閉める」



浴室のドアが閉められた。



トレーナーしか着ていなかったから、すぐに裸になり再び浴室の扉を開けた。今度はノックをしなかった。



湯気が立ち込む浴室内は、数分の間に冷えてしまった身体を優しく包み込んでくれる。



「洗えるか?」



この男、どうゆうつもりで聞いているのか…



「洗ってくれるの?」



そう聞き返した。



「いや、洗い方がわからん」


「…シャワー下さい」



手を差し伸べると、すぐに手渡された。



水も滴る良い男って、昔の人はどんな状況の男の人を見て言った言葉だったのか…



目の前の藤本陽生は、今まさにその言葉が当てはまる。



見てはいけないような、見ていたいような…



身体を洗い始めようとしたら、浴槽に浸かったのが分かった。



待たせたらのぼせるかな…とか、先に上がったら嫌だな…とか、考えている内に過去最高の速さでシャワーを浴びる。



お湯を止めて振り返ると、藤本陽生はこっちを見ていなかった。



いや、見られてても困るんだけど…



浴槽に入ろうとするのを察してか、少し体勢を変えてくれた。



湯船に浸かると、お湯がかさ増しされるから、まるで自分の重量を見られているみたいで居た堪れない。


おまけに向き合って座った為、どこに視線を向ければ良いか迷ってしまう。


前を見たら当たり前に藤本陽生がいる訳で…下ばかり見ていると、それはそれで気まずくなる。



「狭いか?」



先に口を開いたのは藤本陽生だった。



「…大丈夫です」



狭いとか広いとか以前の問題だ。



色気が凄くて藤本陽生の姿を直視する事に躊躇している…なんて、言えない。



恥ずかしくて湯船に顔を浸けてしまいたい程、濡れた姿が格好良かった。



前髪を掻き上げる度、雫が滴り落ちる…

湯船が波打つ感じとか、湿度の多さ…何とも言えない妖艶さが藤本陽生の色気を作り出す。



「春、こっち来るか?」



この男、どうゆうつもりで言っているんだろ…



「行ってもいいの?」



正直、直視するのは躊躇するけど、抱きつきたい衝動は抑えられない。素肌が触れ合う気持ち良さは、とっくに知ってしまっている。



質問には答えてくれないけど、来いって言われている気がした。


だから、湯船に浸かったまま浴槽の淵に手を置いた。



どう考えても、跨るしかない。

あたしが動こうとした為、藤本陽生はあぐらを描いていた足を伸ばした。



その上を跨ぐ様に座ろうとしたら、先に身体を引き寄せられ、濡れた肌と肌が張り付くように密着する。



上に跨った分、上半身が湯船から少し出てしまうのはしょうがない。



濡れて硬くなった髪が、肌を擽る。



「今日、風雪さんに言われた事があって…」



今発するワードじゃなかったかもしれないと悟ったのは、藤本陽生の肩が少し動いたから。



「何言われた?」



声のトーンが気持ち低い…



「幸せになりたくて付き合ってるのかって…」


「…は?」



想定内の反応に話を続けた。



「あたしはそうは思ってなくて、これは独占欲だと思ってて…」



話しているのはこっちなのに、藤本陽生が黙って見てくるから、あたしが視線を逸らす羽目になった。



「…結果、幸せだなと思って」



恐る恐る視線を向けると、意味が分からないと言わんばかりに、眉間に皺を寄せている。



「あれ、伝わってない…?」


「風雪の名前が出た時点で聞く気が失せた」


「えぇ…」


「この状況であいつの話しするか?」



…確かに。いや、仰る通りです。



ただ、今この瞬間がとても幸せだと感じたから…伝えたくなってしまった。風雪さんがどうこうでは無くて、あくまでも話の流れで風雪さんの名前を出したまでで。



「目で訴えられてもわかんねぇ」


「あ…はい…」


「…で?」



何だかんだ、話を最後まで聞いてくれようとするところが本当に好き。



「陽生先輩を独占する為には彼女ってゆう肩書きが必要でしょ…そうすれば、あなたはあたしので、あたしはあなたのでしょ…?」



問いかけたら、やっぱり睨まれた。


でも、これは愛情表現の一つなんじゃないかと…思うように…している。



「独占欲も結果としては、幸せだと感じてるあたり、風雪さん…の、質問に対する回答としては、幸せになりたくて付き合ってるって事になってるのかなって…」



二回目の風雪さんと言う名前を口に出す事に、少し躊躇してしまった。



「春がそう思うんならそれで良いだろ。あいつの言う事なんて一々考えなくていい」


「でも…」



好きな人の兄に違いはない。



「独占欲なら俺にもある」


「…え?」


「独り占めしたい欲求は、割と常にある」


「そうなの?」



嬉しかった。求めて貰っていると知らされるのは、こんなにも愛しいんだと感じた。



藤本陽生の両脇をくぐるように、背中に手を回し、首筋に頬を摺り寄せる。濡れた肌が吸い付いて密着して気持ち良かった。



同時に藤本陽生の両手が、腰からくびれをなぞるように背中に回り、吸い付く肌と肌が離れない様にギュッと引き寄せる。



抱える様に抱き締めてくれるから、その心地良い力加減があたしの細胞を活性化させた。



「俺の独占欲に気づいてないのはおまえぐらいだろ」



抱き締めたまま話しを続けて来る。



どう言葉を返して良いか戸惑った。独占欲なんて微塵も感じた事はない。むしろ独占欲が剥き出しなのはあたしの方だ。



「いつそんなこと思ってるの?」



好奇心の方が勝り、視線を合わせたくて体勢を変えようとした。折角密着していた肌を離すのは、後髪引かれる思いだった。



それでも、藤本陽生の両手はあたしの腰に回されたまま、がっちりホールドしてくる。その所為で、距離は近いまま。



「言ったろ、割と常に思ってる」


「いや、そんな素振り感じなかった…」


「思ってるだけで態度に出してねぇから」


「そうゆう事…」



分かり難っ…


もっと態度で示してよと言いたくなる。



「陽生先輩の独占欲はどんな感じなの?」


「は?」


「あたしのと違うのかなって…」



独占欲と言う意味を、この男は分かっているんだろうか…



「本当に気づいてねぇのな」



呆れたような声。


気づいてないんじゃなくて、伝わって来ないんだよと、言い返したかったけど言えない。



「俺のこと欲しいって言ってたろ」



保健室で話した時の事だと、すぐにピンと来た。



「…言った」


「あの時春は、俺に対して、ものみたいに言われるの好きじゃねぇかもって言ってたけど。俺もおまえの事は俺のものだと思ってる」



腰に回されていた左手が離れ、あたしの右頬に当てがう。水滴がポタポタと滴り、そのまま親指が右の瞼に触れる。



「この目も、」



次に唇をなぞり、



「これも」


「まっ、え…」



ちょっと待ってが言葉にならない。



「全部俺のものだと思ってる」



キスの距離で囁かれた。



…この人、そんな事を割と常に考えてるってこと?



唇をなぞっていた左手が、あたしの頬を滑り、右耳をなぞる。首筋に手を当てると顔を引き寄せ、鼻を擦り寄せながら吸い込むように呼吸した。



自分の匂いを嗅がれている様で、血が逆流してるんじゃないかってゆうぐらい、全身の血がたぎる。



「おまえの独占欲なんて目に見えて知ってる。俺の事好きなのも知ってる」



息がかかって、呼吸がし辛い…



「春の言う独占欲なんて非になんねぇんだよ。おまえ以外興味ねぇし、おまえじゃないとダメなのはどう考えても俺の方だろ」



当たり前のような口調で言ってのける。



「その声も…敬語とタメ口が混ざった話し方とか、俺が話してるとずっと目を逸らさない視線とか、抱きついて来る時の重さとか…全部可愛くて、全部俺のものだと思ってる」



身体がカーッと熱くなり、触れてる部分が熱を帯びた。



「可愛いって思わない時がないぐらい好きだ」



心臓が痛くなってきた…



「でも、伝わってる気がしねぇ」


「伝わってる…」



そう言ったら、またグッと抱き寄せられた。

重なる視線、変わらない距離感…



「キスしないの?」



唇が触れる距離にあって、触れないのがもどかしい…こんなに密着しているのに。



「そうゆうとこだろ…」


「え?」


「えげつねぇんだって」


「何が…?」


「可愛さがえげつねぇって言ってんだよ」

 


何故かキレぎみに言われた。


でも嫌な気はしない。本当に怒ってるんじゃないのはもう分かってる。



「キスして良いってこと?」


「は?」


「キスしないの?って質問の返事…」


「ダメだ」


「えっ?ダメ?」



まさかの返答にだいぶ驚いた。



「もう上がる」


「えっ?」



なになになに、どうして急にそうなるの…


本当に分かり難いんだけどこの人。



「降りろ」


「え?」



腰を持ち上げられそうになったから、咄嗟に藤本陽生の肩に手を置いたら、湯船から出ている肌の体温が熱く感じた。



ずっとあたしが跨っていた所為で、動けないから熱いのを我慢していたのかもしれない…



「え、のぼせた?」


「いや、」


「身体熱いよ」


「触るな」


「えっ」


「風呂でずっとこの体勢は危ない」


「えっ?」


「たつ」


「立つ?」


「勃つ」


「あ…」



思わず下を見てしまった。自分が跨っている場所。



「え、ここでする?」


「しねぇわ」



間髪入れず断られた。



「だ、大丈夫?」


「とりあえず降りろ。上がれ」



言われるがまま、されるがまま、一緒に浴槽から出る。



「先にシャワーしろ」



そう言ってお湯を出すとシャワーを手渡され、言われるがままお湯を浴びた。すぐに藤本陽生へ返す。



「水出すから出ろ」



やっぱり言われるがまま、浴室を出た。



一度シャワーの音が止まり、再び流水音が聞こえる。マジで水被ってんのかと思い、心配になった。



バスタオルを借りて、髪の毛の水分を先に拭き取る。着る物はトレーナーしか無いから、すぐに着替え終わった。



とりあえずドライヤーを借りる。髪を乾かし始めたら、浴室内のシャワー音が掻き消された。



バン!っと、浴室のドアが開かれる。驚いて一時停止してしまった。



すぐ我に返り、ドライヤーを置いて、ビショビショに濡れて出てきた藤本陽生に新しいバスタオルを手渡す。



「大丈夫?」



触ったら怒られるかなと思い、声をかけたら「早く髪乾かせ」と、逆に心配された。



再びドライヤーをかけ直す。藤本陽生があたしの背後を通り抜けるのが鏡越しに映る。



奥に置いてあった服を手にとっているのが気配で分かった。ドライヤーを早く代わった方が良いかなと思い乾かす手を急いだ。



終わって藤本陽生へ視線を向けると、あたしをずっと見ていたのか、視線が合う。



何ですか?と首を傾げたら、かなり溜めて溜め息を吐かれた。



「…何でズボン履いてねぇんだ」


「あ、下着も履いて来なくて…」


「は?」


「あ…部屋戻ったら履きます」


「取って来る…」


「え?」


「取って来るから待ってろ」



返事も聞かずに風呂場から出ていった。



他人様の家でノーパンは流石にまずかったな…と反省。



すぐに戻って来た藤本陽生に、買い物袋とズボンを手渡された。



「ごめんなさい…」


「いいから着替えろ」



立ち位置を入れ替わり、藤本陽生が髪を乾かしだしたから、その隙に下着を取り出した。幸いにも切り取らないといけないタグは付いておらず、すぐに着用出来た。次にズボンを履こうとしたら、ドライヤーの音が止まった。



髪乾くの早!



ドライヤーを片付けて、歯ブラシを手に取り、歯を磨き出した。鏡に向き合っている藤本陽生が新鮮で、つい見惚れてしまう。



同じサイズであろうトレーナーを着ているのに、藤本陽生の腰の位置ぐらいの丈が、あたしが着るとお尻が隠れた。



歯を磨きながら不意にこっちを見る。

見すぎていたのがバレたのか、眉間に皺を寄せて何だよって顔をされた。



もうほんとやめてほしい…格好良いんだって…



歯磨きを終えると「おまえさ…」と、溜め息混じりに言葉を発する。



「何でまだズボン履いてねぇんだよ…」



見惚れてました…とは言えず。「履きます」と小さく宣言して、ズボンに足を通した。そのままウエストまで上げるが、思った通りでかい。何回かウエストを織り込んで、裾を折り曲げた。



色々買って来て貰ったけど、待たせるのは悪いなと思って、慌てて袋に戻した。



「急がなくていい。先に戻る」


また、返事も聞かずに出て行ってしまう。

 


やる事があるならしてから来いって言われたんだと解釈した。


買って来て貰った物を洗面台に広げ、身なりを確認する。



女の子は支度に時間がかかって困る…



服を借りた時には意識していなかったけど、お風呂上がりに着たら、トレーナーから藤本陽生の匂いがした。



好き過ぎて何でもかんでもマイナスイオンに感じる。



藤本陽生の部屋の扉はいつも少し開いていて、珍しくテレビの音が聞こえて来た。藤本陽生はベッドに腰掛けていて、部屋の扉を閉めると、整えられたシーツが視界に入る。



乱れていた筈のベッド周りが整頓されていて、片付けさせてしまった事を理解したのと同時に、片付けてからお風呂に行かなかった自分を悔いた。



「ごめんなさい、散らかしたままにして」



慌てて駆け寄り言葉をかける。



「気にしなくていい。着て来た服はどうする?」



向けられた視線の先を目で追うと、脱ぎ散らかしていたドレスが何となく畳まれていた。



「持って帰って洗います…」



言いながらドレスを拾い上げ、手に持っていた買い物袋に押し込んだ。


自分がポンコツ過ぎて情けない…



持って来ていた荷物の横にビニール袋を置いて振り返ると、藤本陽生が背後に立っている。



「これ」



そう言ってペットボトルの水を差し出された。



すっごく喉が渇いていて、「ありがとうございます」と受け取る。

 


ペットボトルの蓋を開けながら、思わず視線を上げた。



この場から離れる気配がない…



「え…?」



困惑から、今度は声が漏れた。



「ちょ、で…」



ちょっと近くないですか?と言葉にならない。



思わず後退りをしたら、足元に置いてあったビニール袋が足に触れた。



荷物を壁側に置いていたから、そこに立つあたしの背後は行き止まりで、目の前の藤本陽生に完全に包囲された様な状態。



目線を合わせる気がないのか、随分と気怠そうに見下ろしてくる。



右手に蓋、左手にペットボトルを持ったまま。身動きの出来ない状況に、これは何かのプレーなのかと聞きたくなった。



「飲まねぇのか」



やっと口を開いたと思ったら、早く飲めと言わんばかりの口調。



何だか知らないけど、やたらと緊張感漂う空気の中、ペットボトルの飲み口を口へ含む。



変な飲み方をしていないかなって…そっちに気が散って、正直喉が潤ったのか逆に渇いたのか判断し辛かった。



「飲んだか?」



ずっと見ていたのに確認をしてくる。



「…飲みました」


「貰うわ」



返事を待たずにあたしの手からペットボトルと蓋を取り上げた。



蓋を閉めながらテーブルの上に置きに行くと、そこに置いてあったリモコンを手に取り、テレビの電源を落とす。



リモコンを再びテーブルの上に戻し、またこちらへ戻って来た。



「歯磨きしたんですけど、明日の朝また使うから、洗面台に置かしてもらってます」


「あぁ」



至極どうでもいい事を口走ってしまったのは、目の前に立つ藤本陽生の異様な雰囲気を察していたからだと思う。



「いいか?」



何に対しての事を言われているのか分かり難く、見上げたまま返事が出来ないでいると、藤本陽生の両手が脇の下を潜り、背中に回された腕で抱き寄せられた。



身長のある藤本陽生にとって、肩に頭をもたれ掛けるこの体勢は窮屈な様に思えた。



回された腕が、肋骨の辺りをきつく締め付け、右の肩に重心がかかる。



首に腕を回したら、首筋に顔を擦り寄せてきた。



まるで、甘えられているみたい…



首筋に唇が触れ、吸い付いて擽ったいその感触に、思わず声が漏れた。



あたしが藤本陽生の首に腕を回している所為か、藤本陽生はあたしの腕の中に居る様な状態で、まるで自分が拘束しているような錯覚すら芽生える。



かかる吐息と、温かい舌触りに、身体に力が入らない…



体重をかけると身体をグッと持ち上げられ、咄嗟にしがみ付いたら、あっという間にベッドへ勢い良く降ろされた。



あたしの足元へ伸し掛かる様に藤本陽生もベッドへ上がって来る。



いつもとは違う、撫でる様な触れ方。身体を擦り寄せ抱き締めてくる。人と人の身体はこんなにも心地良く密着できるのかと感心する。



深呼吸を繰り返したら、マジでこの人からマイナスイオンが出ていると確信した。



じわじわと熱を帯びてくる身体が、その先を期待する。覆い被さる背中に手を添えたら、抱き締める力が更に強まった。



お互いの吐息と呼吸が混じり合う。



どうしたんだろう…物凄く甘えてくる。



体勢を変えたくて、藤本陽生の身体を押し退けようとしたけどビクともしない…



「は、陽生先輩…」



言葉にしたら、藤本陽生の身体が強張った。



「…どうしたの?」



野暮な事を聞いているなと言った後で思う。



藤本陽生がゆっくりと上体を起こし、覆い被さったまま顔を見合わせた。



近いし格好良いし、伸し掛かる重さが何だか知らないけどさっきよりドキドキする…



「ギュッてして」



両手を上に広げると、困惑に満ちた表情を向けてくる。



「ギュッてしてじゃねんだよ…それで終わらねんだって…」



さっきまで甘えてきた奴が何言ってんだって感じだ。



「終わらせなくて良いじゃん」


「あのな…」


「どうして終わらせなきゃいけないの」


「…なんで急に積極的なんだよ」


「手がダルくなるっ…早くして」



強請るあたしの手を掴み、万歳の様な状態で、両方の手を押さえ込まれた。藤本陽生に見下ろされるとドキドキする。



「はぁ…」



溜め息が降りてくると同時に、掴んでいた手を自分の肩へ回させると、あたしの背中に手を回してそのまま身体を引き起こされた。



慌てて藤本陽生の首元にしがみつく。



勢いをつけて起こされた弾みで、結局抱き締められた格好になった。



自然と身体が離れ、藤本陽生は胡座を描いて座り直すと、頭を抱え「はぁ…」と溜め息を吐いた。



「真面目な話し、して良いか」



顔を上げてこっちを見る。 



「ん、うん…」



その話し方に、何を言われるのか想像ができない。



「おまえが思ってる程、俺は理性的じゃない」


「え…?」


「ヤりたくてしょうがない」



直球過ぎて返答に困った。



「今日会ってからずっと、触りたい欲求が止まんねぇし、どうやって気を逸らそうか考えてみても、おまえの事そうゆう思考でしか見れてない」



何だか、そんな事を考えている自分を責めている様な言い草。



「そんなの…」



あたしの方が触りたくてしょうがなかった様に思える…寧ろ藤本陽生になら、いくらでも触れられたい。



「こっちが自制しようとしても、おまえがそんな感じだから」


「え?」


「さっきもそうだろ」


「え?」


「おまえ自覚ねぇの?」


「え?」


「俺に何されても良いって思ってんだろ」



え!?



まさか…と、否定の感情が湧き上がったのと同時に、あー…思ってるかもしれない…と、藤本陽生の顔を見つめた。



その容姿も、仕草も、話し方も、触れ方も、全部、不快な所が一つもない。何をしようと、何を言われようと、自分に向けられたものが嬉しいと感じているのは事実だ。



「あ…」


「あ…じゃねぇんだよ、ヤりたくてしょうがねぇ奴の前でガード緩めんな」



そんな事を言われても、藤本陽生を受け入れない選択肢があたしにはない。



ヤりたくてしょうがないと言いながら、あたしにはガードが緩いと指摘してくる。触りたくてしょうがないと言っておきながら、自制しようとしている。



シたくなる事の何がそんなにいけないのか。独占欲は語るくせに、性的欲求には後ろ向きで…必死で押さえ込もうとしているみたい。



それはある意味、常に欲求不満の様な状態なんじゃないか…



「どうして我慢しないといけないの…」


「欲求を満たす為にするセックスなんて嫌だろ」


「嫌なの?」


「は?」


「陽生先輩は嫌だなって思いながらするの?」


「そうじゃねぇよ、俺の話じゃねぇだろ」


「え、誰の話し?」


「おまえだろうが」


「あたし?」


「春が嫌だろ」


「え、あたし?」



藤本陽生の欲求を満たす為にする行為なら喜んでするぐらいの気持ちはある。



「全然大丈夫です」


「何が…」


「あたしは嫌じゃないです」


「…だからガードが緩いって言ってんだよ。俺がおまえに何もしねぇと思ってんのか?春が嫌だなって思う事を俺もするかもしれねぇだろ」



何の話をしてるの…



行為の最中に、不快だと感じる事はもちろんなかった。でも、藤本陽生は違ったのかもしれない。



あたしが何か不快に感じさせる事をしたんだろうか…



「本当はシたくないってこと?」



何となく、性に対して潔癖すぎる様な気がした。



「…好きじゃない」



そう言われて、自分も好きじゃないと言われた気になるのは、あたしのおごりだろうか…



「性欲だセックスだ何だってのは嫌いだ」


「じゃあどうしてあたしとシてるの…」


「好きだからじゃねぇの?」


「はい…?」



好きじゃないって言ったり、好きって言ったり意味が分からない。



「俺が好きなのは春で、セックスじゃない。セックスが好きだから春とシてるんじゃない。春が好きだからヤりてぇなって思うだけ」


「…え、」



この男、真顔でこんな事を言えるから恐ろしい。



「でもさっき、」



俺もって言った…



「何だ」


「嫌だなって思う事を俺もするかもしれないって…あれ、あたしが何か嫌な事をしたから対照的に俺もって言ったのかと思ったけど、あたしじゃないなら、誰か別の人に嫌だなって感じる事をされたんですか?」



さっきから話していると、性に対する嫌悪感が言葉の節々に滲み出ている。何か性的なトラウマでもあったんじゃないかと思わせる。



「あたしは陽生先輩としかシた事ないから、」



それをわざわざ口にしなくても、藤本陽生は知っている。



「経験が無いから想像できない…」



以前、シゲさんが藤本陽生は童貞だと言っていた。でも、当の本人に確認をした事は勿論ない。


あたし以外の女性と、性行為をした経験があったんだろうか…



「俺もおまえとしかシた事ねぇよ」



藤本陽生が性行為に対する経験を口にした事に驚いた。



そもそも、人を見た目で判断してはいけないと分かっているが、その容姿で、その性格で、経験がない事が不思議だと思う。



嬉しい反面、モテない筈がないのに、初めての相手があたしだとしたら、自分が一番不思議で仕方ない。



「誰とも付き合った事ないんですか…?」



好奇心で聞いたんじゃないけど、じゃあ何だと聞かれても困るが知りたかった。



「はぁ?」



物凄く睨まれた。



「何言ってんだ」


「え…」


「春しかいねぇだろ」


「…そうなの?」


「は?そうだろうが」



いや、出会う前の事は知らないし…



「じゃあ何の話をしてるんですか…?」



声が低くなってしまった自覚はあった。



藤本陽生は大きく溜め息を吐いて、



「これは俺の経験として、過ぎた事だから言う必要はないと思って言わなかった」



と、気怠るそうに言葉を吐き出した。



少し考える様に黙り込むと「どこまで知ってる?」と問いかけて来た。



「え?何がですか?」



唐突な質問に当然の反応をした。



「風雪と、俺のこと」



その名前すら話題に出すのが嫌なんだろうなと、その声と表情で分かる。



どこまで知っていると言って良いのだろう…



「仲が悪いとか、そんな感じですかね…」



風雪さんの名前を出すと言う事は…風雪さんの様になりたくないと言う思いが、ここまで性的欲求を否定するんだろうか…



「風雪に会って、どう思った?」


「どうって…」



藤本陽生に似ていると伝えるのは違う気がした。



「話し易い?感じの人でした」



言った後で、回答を誤ったかと冷や汗が出る。藤本陽生が視線を逸らしたから。



「あいつの初めての彼女は一人だった」


「え?」


「でも、別れた」


「あ、はい…」



彼女って普通一人だよな…と、ツッコミたい衝動を抑えた。



「次に付き合った女はどれがどれやら把握しきれてねぇけど、風雪も高校生になったら親が居ねぇのを良いことに、度々女を部屋へ連れ込むようになった」



聞いた事のある話だ…



「あいつが連れてる女はろくでもねぇ奴ばっかだったと俺は認識してる。中でも大学生の女と一緒に居るのを何度か見かけた事があった。こいつがヤる事しか考えてねぇ」



…どうしたら男子校生と女子大生が体の関係になるんでしょうか…



「俺はまだ中学生で、付き合うって事がどうゆう事かもわかってねぇ時期で。あの日、初めて…」



そこまで言うと、藤本陽生が溜め息を吐く。



「こんな話し、聞きたくねぇよな」


「え?」


「俺は話す事に抵抗ねぇけど、春が嫌じゃね?こんな話し聞かされるの」


「あたしは大丈夫」


「ほんとかよ…」


「え?全然大丈夫。本当に」


「嫌になんねぇ?」


「ならないよ、ならない」



まだ内容も聞いてないのに、そう返事をしていた。



「…その大学生の女と、風雪がヤってる最中に俺が帰宅したもんだから最悪で、」


「最悪…それは最悪」


「風雪の部屋から女の喘ぎ声が聞こえて来て」


「え、最悪…」


「こっからまじで最悪しかねぇけど大丈夫か?」



最悪を言い過ぎて話の腰を折ってしまった。



「大丈夫、ごめんなさい…」


「いや、そうじゃなくて…まじて誰も得しねぇ話なんだよ」


「…でも、聞きます」



そう言ったら、藤本陽生が再び溜め息を吐いた。



「初めてそうゆう場に遭遇して、最初部屋から聞こえてくる声も、ヤってる最中だってすぐ気づかなかったぐらいで、」


「うん…」


「自分の部屋に入ってからも、隣でヤってると思うと落ち着かねぇし、ヘッドホン耳に当てて音楽流して気を紛らわそうとした」


「うん…」


「隣の物音や会話が遮断されただけでも、だいぶ気分が違って、どの位時間が経ったのかもわかんねぇ…その所為で、部屋に入って来た女に気づかなかった」


「えっ?」


「ベッドに転がってたら急に現れて、」


「何そのホラー…」


「俺も流石にビビって、は?って」



いやいや、は?じゃないでしょ!怖過ぎるよその女!



「何で俺の部屋に居るのかも理解できねぇし、風雪は何してんだ?とか、混乱したのは一瞬で、すぐに女が部屋を間違えて入って来たんじゃないって言うのは分かった」


「え…?」


「女が羽織ってたシャツが、多分風雪の制服のシャツで…前も止めずに、下着も身につけてなかった」


「はぁ?」


「裸の上からシャツ羽織った状態で、ヤった後かなんか知らねぇけど妙に湿っぽくて、今思い出しても気色悪い…」



その女、頭おかしんじゃないの!



「風雪さん何してたの…?」


「風呂」


「えー…」


「セックスした事あるかとか、ヤりたくねぇかとか言われて。とりあえず、てめぇ人の部屋勝手に入んなって怒鳴った」



中学生の藤本陽生が藤本陽生だった事に安心した。



「…でも出て行かねぇから連れ出そうとしたら、抱きついて乳押し付けられて、ヤりたいんだろって、下半身触られた」


「はっ?」


「初めて女の裸見たからか、他人に触られたからか、勃起してた」


「えっ…?」


「その後は俺がブチ切れるわ暴れるわで、風雪が戻って来て早々に女を連れて出て行った」



藤本陽生が淡々と話すから、何も言えなくなってしまう。



「それ以来、性的欲求を向けられる事が気持ち悪い。でも生理現象は起きるし…高校生になったら付き合うとかヤるとか、そうゆう話題が周りで増えるだろ…好きだって言われても、自分の事を性的対象として見られてんのかと思うと嫌悪する。正直AV見せられても喘ぐ女が気持ち悪いっつうか、こんなん見て興奮する奴も同類だなと思ってる」



ここまで性欲に潔癖で、嫌悪感を抱き、自分の欲求に罪悪感を感じるのは、こう言った背景があったんだと…分かったところで一つも嬉しくない。



「大丈夫か?」



それはこっちのセリフだと言いたくなる。



「あたしは大丈夫。陽生先輩に嫌悪感抱いた事ないし、欲求を満たす為にシてるなんて感じた事ない」


「…おまえさ、俺の言う事なんでも肯定し過ぎなんだよ」


「そうかな」


「嫌でも嫌って言わねぇだろ」


「嫌な時は嫌って言ってる」


「いつ」


「嫌だって思う事があったら」


「だからそれがいつだよ…」



呆れたような声、あたしの好きな気怠い話し方。



「あたしで欲求満たして良いからね」


「…おまえがそんなだから、俺のタカが外れる…気持ち悪いって思って来た事を俺が春にしてんじゃねぇかって…悩むぐらいには考えてる」



この人…



「大丈夫、あたしは大丈夫」



あたしの事、めちゃくちゃ好きなんじゃない?



「逆にあたしはどうしたら良いの…あたしはどこまで大丈夫なの?」


くっつきたい衝動に駆られるが、こんな話を聞いておいて、オチオチ触れてもいられない。



「初めて春を見かけた時、声が気になって、話し方が耳についた」



質問に対する答えなのか判断し辛く、黙って耳を傾けた。



「そのあと春を認識して、嫌悪感を抱かない自分に驚いた。嫌な気が一つもしない。周りの背景が一瞬で真っ白になる感覚、分かるか?歩き方、歩幅、身丈、髪の長さ、荷物を持つ角度まで、見入ってた」



本当にあたしの事が好きなんだなって…



「本当に好きなんですね…」


考えていた事を思わず口にしていた。



「だからずっとそう言ってんだろうが」


何を今更と言いたげな口調。



「あたしのどこがそんなに良かったんですかね…」


他人事の様に聞き返していた。



「春は俺以外に興味ねぇだろ?」


「え?」


いや、面と向かって言われると答えるのが恥ずかしい…



「てゆうより、男に興味がない。例えば俺とシゲ、例えば俺と兄貴、同じ男ってゆう対象でも、春は他の男と俺とじゃ目に見て雰囲気が変わる。言ってみれば、興味がないってゆうシャッターを急に下されるみたいな。俺だけ唯一、シャッターの中に入れて貰えてる」



凄い例えだなと感心した。感覚としては当たっているから。



「兄貴から、春のバイトの事、心配じゃねぇのかって聞かれた事がある。接客相手がほとんど男だろ」



明和さんらしい質問だと思った。



「でも、そこに関して兄貴が考えるような心配はしてない。危険に晒されてないかとか…そっちの心配はしてる」



初めて聞く想いだった。



「おまえが俺以外に興味ねぇのがすげぇ安心するし、そう思わせてくれる春がすげぇ好きだし、大事だし、」


「うん…」


「俺の基準はおまえで、俺がどうこうじゃねぇんだよ。春がどう思うかしか考えてない。おまえが好きな事は知りてぇし、おまえが嫌な事はしたくねぇし、どうやったら機嫌とれるか考えるぐらいには嫌われたくねぇなって思ってる」



そんな大層な人間ではないと自覚している。それでも、こんな風に想って貰えると、自分が尊い存在かの様に思えた。



藤本陽生に手を伸ばすと、引き寄せてくれた。足の上に跨って座ると抱き寄せてくれる。もどかしかった距離感がやっと縮められた。



更にきつく抱き寄せられる…その体勢が窮屈な様に感じる程、あたしの胸元に顔を埋めていた。抱き締められた筈なのに、こっちが抱き締めている様な感覚になる。



何となく分かるのは、甘える時は上からじゃなくて下から腕を回して抱きついてくる事。その仕草が幼子の様に見える。



背中をそっと撫でると、肋をへし折られそうなぐらい締められた。


いかに言っても苦しいから、肩に手を置いて引き離そうかと試みるが、やはりビクともしない…



「春、」


名前を呼ばれ、正直な程あたしの身体は静止した。



「はい…」


「もう勝手に居なくなるな」



顔を埋めたまま、低い声が発せられる。



「ごめんなさい…」


「頼むから、何かあるなら言ってくれ」


「はい…」


「何も言ってくれねぇと、すげぇ不安になる」


「はい…」



あたしはよく分かっていなかった。疑問を相手に投げかける必要性を感じた事がなく、全部呑み込んでしまう癖がある。それが不自由だと感じて来なかったから。


裏を返せば、それがまかり通るぐらいの人間関係だったと言う事…


それを同様に大切な人に向けるものでは無いんだと、ようやく分かって来た。



「あたしが聞いても良いんですか?」


思ったよりも、小さな声が出た。



藤本陽生が深呼吸をして、顔を少し上げた。



「何でも聞いていい」


「あたしにイライラする事ってありますか…」


「俺が?」


「はい…」



聞いておいて聞かなきゃ良かったと思った。いつもこれの繰り返しだ。



「あたしは、人をよく苛立たせるみたいで…」



他人から嫌われている自覚はある。



「それは、おまえがそうさせてんだろ」


「え?」


「誰からも好かれたくねぇし、嫌われても良いって思ってんだろ。だから相手も同じ様に受け止めんじゃねぇの」



藤本陽生が溜め息を吐く。



「さっきも言ったけど、春が俺だけに向ける好意に安心してる。俺が苛立ってるとしたら、おまえにじゃない。多分、上手くできない自分に苛立ってる」



質問の答えになっているのか分かり難かった。だけど、腑に落ちた様にも思えた。



出来るなら、この人にはずっと好かれていたい。そんな風に思う自分を、まだ曝け出す勇気はない。



「何にしても、おまえ俺の想像を越えて来るから、一つずつ理解できる事が嬉しいなとは思ってる」



あたしを肯定し続けてくれるのは、藤本陽生の方だと思った。



「嫌な事って言うか…」



話してみようかと思う。藤本陽生なら否定せずに受け止めてくれる気がする。



「嫌な事って言うか…」



だけど自分が気にしている部分を曝け出すのはやはり躊躇してしまい、二回も同じ言葉を呟いていた。



「何だ?」


「嫌かどうかはっきり分かってないんですけど…」



藤本陽生の瞳が揺れている。



「俺の事?」



こんな時こそ睨みつけて欲しいのに、優しい目で見つめて来るから悪い事をしている気になる。



「陽生先輩ってゆうか、あたしの気持ちの問題ってゆうか…」


「うん」


「え、言っても良いですか…?」


「あぁ」


「サナエちゃんの事、サナエって呼ぶじゃないですか…」


「…は?」


「サナエちゃん…」



何言ってんだ?って顔をしている。さっきまでの優しい目線が困惑から歪んでいる。



「サナエちゃん分かりますか?」


「シゲの?」


「あ、はい…シゲさんの彼女の、サナエちゃん」


「それがどうした?」


益々分からないとゆう表情をしている。



「え…やっぱ良いです…何か、めちゃくちゃ面倒臭い事を言うかも」



咄嗟に両手で顔を覆った。急に恥ずかしい…



「春、」


名前を呼ばれると、藤本陽生の言いなりになるこの身体を何とかして欲しい…



覆っていた両手をゆっくり下げると、



「サナエが何だ?」


今しようとしていた話を急かされる。



「…サナエちゃんの事、サナエって呼び捨てにするの、嫌かもしれない…」


「……」



沈黙されてしまった。



「サナエちゃんが、じゃなくて…陽生先輩が女の人を呼び捨てにするの、あたし以外の人を呼び捨ててるの、気になる…」



言ってしまった後で、言わなきゃ良かったを繰り返す。



「そうゆうの、あたし嫌かもしれない…って、思ったんですけど…じゃあどうしろって言うんだって言われると、どうしようもないんで、そのままでお願いします」



勢いで言ったけど、そこそこ本心でもあった。相手の呼び方なんて自由だし、強制して直して欲しいとか、微塵も思ってない。ただ、自分が春とゆう名前を呼ばれる事にときめく所為か、相手の子が同じように呼ばれているのを聞くと胸が騒つく。



だけど嫌な事を言ってしまった…友達の呼び方をあたしが指摘するなんて烏滸おこがましい。藤本陽生を束縛したい訳じゃない。



「あの…」


言葉をかけたら、さっきとは違い、押さえ込まれるようにギュッと抱き締め直される。



呼吸が荒くなっている。



「え、大丈夫…?」


背中を摩ったら、ビクッと反応した。



「おまえ自分だけ呼び捨てにして欲しいのかよ」


「…あ、いや」


「何だその可愛いの」


「いや…」


「ヤりたくてしょうがねぇの我慢してんのに」


「…ごめんなさい」


「はぁ…」



盛大な溜め息を吐かれた。



「してもいいか…」



何を?なんて、野暮な事は聞かない。代わりに静かに頷き返した。



「いつシたいって思うの?」


「割とずっと思ってる」


「そうなんだ…」


「嫌じゃねぇの?」


「嫌じゃない」


「いいか?」


「うん」



そう言って藤本陽生の首筋に両手を添え、顔を近づける。



「陽生先輩はどこが気持ちいいの?どこが好き?」


「春が触るとこ全部」


「じゃあ全部触らなきゃ」


「ちょっと待て、」


「今どこ触って欲しい?」


「それやめろ、興奮する」


「興奮して欲しいから言ってるの。もっと普通に気持ち良くなって欲しい」


「そんなのおまえに触れてる時が一番気持ちいい」


「そうなの?」


「脱がしていいか」



質問に答えず、返事も聞かずにトレーナーの裾から直接肌に触れてくる。



「こうやって触ってるだけで、時々頭が真っ白になる。」



藤本陽生の手の感触にあたしの方が刺激される。



「春はいつも良い匂いがする」



そう言って胸を弄り、バンザイをさせられて乳房の膨らみを舐められた。



「待って、今…」


「気持ちいいか?」


「ん…」


「……」


「なんで…そんな舐めるのっ…」


「気持ちいいだろ」


「も…だめ…」



藤本陽生が顔を上げると、キスを迫られた。口付けを交わしながら、両胸を揉みしだく手は止まらない。



「んっ…」


何度も鼻から息が抜けるように呼吸を繰り返す。キスが気持ち良くて、胸を触る藤本陽生の手も気持ち良くて、頭がおかしくなりそうだった。



腰を揺らされて、布越しでも藤本陽生のものが硬くなっているのが分かる。一度唇を離して、はぁ…と呼吸をした。



藤本陽生が上着を脱ぐ。熱った体を抱き寄せると、凄く気持ち良かった。



「脱がしていいか」



そう言ってあたしの体を離すと、ズボンを下ろされた。ウエストが大きかった所為で、いとも簡単にズレ落ちる。



再び上に跨ろうとしたら、藤本陽生も履いていたズボンを脱ぎ始めた。座ったまま脱ごうとしていたから、思わずズボンを脱がす手を抑え、上に跨ったままズボンの中に手を入れた。



下着の上から勃ち上がったものを撫でると、ピクピクと脈打っているのが分かる。



「何やってんだ…」


「触ってみたかった」



そう言ったら、手の中で少し動いた。



「あ、」


「おまえな…」


「え?」


「触るな、余計興奮する」


「興奮して欲しいからやってるんだもん」


「もう興奮してる」


「じゃあ直接触っても良い?」


「じゃあって何だよ…」



何だかんだダメって言わないから、ズボンを少しズラしたら、下着から出たそうに反り上がっている。


ズボンとパンツを下へ少しズラそうとすると、腰を浮かしてくれた。



ここまで来ると、あたしのすること成すこと、本当に嫌がらないんだなと感心した。



「どこ触ったら気持ち良い?」


「…ここ」


「こう?」


「握って」


「え、こう?」


「もう少し強く」


「え、強く?」


「そのまま動かして」


「はい」


「もっとこっち来い」


ギリギリまで引き寄せられる。



「足開いて」



跨り座った足を開くと、藤本陽生の手が股の中に滑り込んでくる。お互いの気持ち良いところを触れ合っている状態。



握っているものがどんどん硬くなって、あたしの中はどんどん柔らかく解されていく…



「指、入った」


「…んっ…」


「痛くないか?」


「ん…」


「二本入った」



藤本陽生の言葉に手に力が入らなくなり、ユルユルと握っているものの先端から、ヌルヌルとした感触が伝う。



「何か、濡れてきた…」


思わず言葉に出したら、藤本陽生が指を抜いて、握り締めていたあたしの手を引き剥がした。



驚いて固まるあたしに、



「それ以上やったら射る…」


藤本陽生が呼吸を整えながら言葉にした。



「え?」


「挿れて良いか…」


「あ、うん…」


「ゴム取って来る」


「…うん」



藤本陽生の上から降りると、ベッドに寝かせられ、布団を掛けられた。



藤本陽生はゴムを取りに立ち上がる。



掌に残っている感触…あたしの手で気持ち良くなったんだと思ったら、体がカァーっと…熱くなった。


ベッドが軋み、藤本陽生の体重が伸し掛かる。布団を捲られ「寒いか?」と聞かれたから「大丈夫」と返した。



上に覆い被さり、脚を広げられ、ゆっくりと中へ中へと押し込まれる。



藤本陽生の表情が崩れるこの瞬間が、快楽をより引き立たせる。



「気持ちいい…?」


気持ち良さそうに見えたから聞いた。



「ん…」


擦れた声が返ってくる。



「まだ動かないでね…」


「…ん」


短く返事をした藤本陽生は、きつく体を抱き締めて暫く動かないで居てくれた。



「春…」



苦しそうに名前を呼ばれる。



「もういいか…?」



中で脈打つ感覚がして、自分でも分かるぐらい下半身がもどかしい。



「春…」



ぎゅっと抱き締められ、もう一度名前を呼ばれた。



「…動きたい」



そんな苦しそうに言われたら…



「ゆっくり動いてくれる…?」



気持ち良くさせてあげたくなる。



「…善処する」



擦れた声が胸を締め付ける。首に腕を回し、キスをする。藤本陽生がそのキスに応えるように舌を絡める。



お互いの首を締め付ける様に抱き締め合い、唇が何度も啄ばんでくる。



「春…」


吐息に混ざり、名前を呼ばれた。



「大丈夫か…」


ゆるゆると動かす振動に、あたしの身体も揺れ動く。



「待って…」


「……」


「ゆっくりして…」


「…っしてんだろうが」



キレ気味に言われた。だけど嫌な気持ちにはならなかった。苦しそうに発せられた言葉が、愛しくてしょうがない。



この気持ち良さが続いて欲しくて、この行為を終わらせて欲しくない。



快楽に逆らう事が出来ず、下半身を擦り寄せたら、お尻を支える様に持ち上げられた。



「あっ…っ…」


グリグリと擦り付けられ、声が勝手に漏れる。



「もっと強くして良いか…」


藤本陽生の息遣いが、腰の動きに直結している。



「春…」


「まだ、待って…」


「…待ったろ」


「まだっ…」


「…ふざけんなもう無理だ…」



乱暴な言葉に反して、動くスピードは変わらない。抱き締めてくれる重さが愛しく、触れる手付きは優しい。



「春…」



あたしが良いって言うまで、名前を呼び続ける気かもしれない。



「春…」


その言葉に中がきつく締まるのが自分で分かった。



あっ…くる…


そう感じた途端、



「良いって言ってくれ…」



藤本陽生の声が耳元近くで聞こえ、全身が熱くなったと同時に「良いよ」と小さく出た言葉。



繋がったまま抑え込まれるように、藤本陽生の動きが加速し、息吐く暇もなく…多分同時に果てた。



果てた瞬間の、一時の静まりも好きな時間かもしれない。


あたしには嫌悪感を抱かないところも、無条件に別格だと言い切ってくれるところも、凄く安心できて、藤本陽生が言った言葉の数々の意味を反芻はんすうしていた。



「春…」


「……」


「大丈夫か?」


「…大丈夫じゃない」


「起きれるか?」


「起きれない…」



身体から全てのエネルギーが放出された気分だった。



「起こすか?」


「やだ…」


「何でだよ」



何故って理由なんかない。駄々を捏ねたくなっただけ。



「風呂入んねぇと…」


そう言って少し起き上がった藤本陽生の体と、自分の体が、汗と何かでベトベトだった。



「お風呂入る…」


「起きれるか?」


「起きれない」


「ちょっと待て」



起き上がるのを止める元気もなく、藤本陽生が離れて行く。



「これだけ着ろ」



服に着替えて戻って来た藤本陽生が、さっきと同じトレーナーを着せようとする。



寝転がったまま何とか着直すと、身体の下に手を滑らせ、抱える様に起き上がらせた。



どこまでも甘やかしてくる…



「一緒に入んのか?」


「入る…」


「風呂まで歩けるか?」


「歩く…」


頷いたら、ベットから降りるまで介助をしてくれた。



お風呂場まで行くと、先に服を脱ぎ出し、浴室のドアを開けた。


先にシャワーを出してくれる様で、あたしも力無く服を脱いで浴室に入る。ドアは藤本陽生が閉めてくれた。



「熱い?」


「熱くない…」


「先洗うか?」


「面倒臭い…」



ピタっと張り付く様に抱きついたら、



「いや、洗えねぇから」


呆れた様な声が降ってくる。



「このまま頭洗って」


「顔にかかる」


「大丈夫、ギュッてしとくから」


そう言って、抱きついたまま目を強く瞑った。



文句一つ言わず、優しく髪を洗ってくれた。時々溜め息が聞こえたから、だいぶ洗い難かったんだと思う…



「体は自分でやれ」



顔に滴るシャワーの湯を両手で拭う為に、藤本陽生の体から手を離した。



瞬きを繰り返し、藤本陽生を見上げた。



「洗ってくれる?」


もう一度抱きつこうとしたら「自分でやれ」と言われた。



「触ったらまたヤりたくなる」



別に良いじゃん…と思ったけど、流石に夜も更けており、眠気と体力が限界だった。



あたしが体を洗っている間に、藤本陽生も隣で頭を洗い、ダラダラしているあたしの横ですぐに洗い終えてしまった。



「寒くないか?」


「寒くない」



浴室を出てからもタオルで頭を拭いてくれた。


あとは自分でやれと言われ、モタモタと体を拭いていくあたしの横で、やっぱり藤本陽生が先に拭き終えていた。



着替えも若干手伝って貰いながら、頭を乾かすのも手伝ってくれた。



手伝わないと、いつまでもあたしがダラダラするからだと思われたのかもしれない。



藤本陽生が頭を乾かしている間、再び抱きついて終わるのを待った。


そんなに時間は掛からなかったのに、一々溜め息を吐いていた。



「歩けるか?」


風呂場から出るように促される。



「抱っこして」


「は?」


「抱っこして欲しい」



背伸びをして抱きつこうとしたら、脇の下から抱えられて本当に抱っこをしてくれた。



重たいのにごめんなさいと思いながら、シャンプーの匂いが残る髪の香りに癒されて、思い切りしがみついた。



慎重に歩いてくれてるのが分かり、動かずにジッとしていた。



ベッドに降ろされると「水飲むか?」と聞かれ、「はい」と返事をしたらベッドまでお水が入ったペットボトルを持って来てくれた。



あたしが飲み終わるのを待って、ペットボトルを再びテーブルに戻しに行くと、自分もその場でお水を飲み出した。



飲み干す仕草まで格好良く、見惚れてしまっていた。



藤本陽生がベッドまで戻って来ると、布団を掛けてくれる。自分もその隣に入り込み、あたしの体を引き寄せて包む様に目を閉じた。



「明日、家まで送る」



静かな吐息に瞼が重くなり、返事をしたのかしなかったのか覚えていない。

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