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嵐の前の静けさ

週の初めは、いつもより目覚めが良い。


前日の日曜日はバイトで行っているお店が休みだから、日曜日の夜は午後十時ぐらいには眠りにつく事ができている。


そのお陰か、なんとなく体調も良いから、それに比例して気分も良い。



そんなメンタルの影響か、起きた瞬間から高揚しているのが分かる。


髪を梳かすと言う行為を自分以外の人を思ってする事はなかった。


身支度を整える時に、自分以外の誰かを思いながらする事はなかった。


だけど慣れないその感情は、常に一定ではない。



不意に我に返った様な、現実に引き戻された様な…そんな感覚に落ち入る。


自分を可愛く見せようとして、誰が喜ぶのだろう…


客観視して、まるで浮かれている様なこの感情と、どう向き合っていけば良いのか分からず、湧き上がって来るものを、冷静に保とうと沈めたがる。


こんなのは自分じゃない、自分らしくない…そう言い聞かせて軸を元に戻そうとしている。こんな気持ちの波を感じたのは初めてで、一体いつから…思い返すのもわざとらしい。



素直になりたい自分と、素直になる事が恥ずかしいと思っている自分と。


どう向き合えば良いのか…自分の浅い経験では、答えが見出せない。



二人の時には感じないのに、一人になると現れるこの感情…



人はそれを依存と呼ぶ。



離れた瞬間から寂しくなるのも、長い時間を共有した事がない所為だと理解している。


長く一緒に居れば、それはそれで離れたくなるものかもしれない。


そうゆう感情が経験値として無いから、その時自分がどう行動するのか想像ができない。



このもどかしい感情が、依存とゆう妖に取り憑かれたものなら…



どんなに簡単な話しだったか。



…だけど、これは妖に取り憑かれた話しでもなければ、夢物語でもない。



分かっている。これは確かな日常で、目の前にあるのは現実で…



好きだからしょうがない。



と言う事。



電車を降りて改札を抜けると、同じ制服の学生が急に増えてくる。


駅から歩いて数分の場所に、その制服を着た生徒が通う学校があるから。


あたしもその内の一人。


登校する道のりを、こんなにも胸を高鳴らせて歩む日が来るとは想像もしていなかった。



何気ない日常の始まりに、視界を明るく照らしてくれる。


今日の一日を考えるだけで楽しくなる。


緩みそうになる表情を意識して、ポーカーフェイスを装った。



靴箱まで来ると、すれ違う生徒の数が更に増える。



周りを見ずに歩いてしまうのは癖で、誰が居ようと誰であろうと、自分とは関係がないと決めつけて来たから。



友達が居るかな?とか、部活の先輩かな?とか、中学の後輩かな?とか、見かける人の中に知り合いを探す様な、世間一般の人が当たり前にする事も、当たり前にして来なかった。



一々遭遇する人に関心がない。


だからいつも一人だった。



周りに興味がないから、自分にも無頓着で…まさか、自分を探して待っている人が居るなんて想像もしていない。



想像もしていないから、



「おい」


通り過ぎ様に聞こえた声も、他人事の様に見向きもしなかった。



「春、」


呼ばれた名前と同時に腕を掴まれた。



思考が追いつかないまま、掴まれた腕の所為で身体が反転する。



反転した勢いに驚いて、



「わっ」


声が漏れたと同時に何かに衝突した。



え!何?と、ようやく思考が追いついて、思わずぶつけた額を軽く撫でる。



近くで好きな匂いが鼻を掠めた。



相変わらず掴まれたままの腕の感触。その距離感…あたしの好きがいっぱい詰まったその人を認識して、ゆっくりと見上げる。



突如動悸に襲われた。



「前を向いて歩け」


藤本陽生の低い声が上から降ってくる。



額を摩っていた手はいつの間にかスカートのヒダを握り締め、掴まれていた腕の感触もいつの間にか無くなっていた。



「おはよう…ございます」


「あぁ」


「え、え?ここどこ…?」



思わず辺りを見渡した。



どう見ても、二年の校舎。



行き交う生徒の波を避けて端へと誘導される。



朝の登校時間に居る筈のない人が、居る筈のない場所…とゆうかあたしの前に、立っている…



「おまえいっつも前見ずに歩いてんのか?」


「…え?」


「そう言えば、映画館の前でも下ばっかり見てたな」


「え…?」



…ごめんなさい。話が全然入って来ない!



「おまえ探したの、これで二回目な」


「えぇ…?」



話しの内容よりも、色んな事が気になってしょうがない。



「…どうしたんですか?」



距離が凄く近い!



考えられない…藤本陽生からは考えられない距離感。衝突した衝撃が未だ残る距離感。



だからあたし、結構見上げている。近いからいつもより見上げる角度が高い。



「朝、おまえに会ってから行こうと思って」


「…え?」


どうしたんですか…本当に。



廊下の窓際に立つあたし達は、周りの喧騒を無視出来ない。


どこの学年も、どこのクラスも、朝の騒がしさは一緒だろう。


だけど少なからずあたしは、その喧騒がBGMに聞こえる程、目の前の藤本陽生がドラマチックに思えた。



ちょっと一回落ち着こう…



見上げていた視線を前に戻し、ふぅーっと静かに息を吐き出してみたら、動悸が治る様な気がした。


藤本陽生の首元から覗くワイシャツが、視界に映る。


沸々と自分の中の好きが上昇して来るのを感じた。


抱き寄せて欲しいし、抱き締めたいし…


良い匂いがする!


どうしよ!


思考が回らない!



「春、」


「はい」


「毎朝会って…みたいなのはできねぇから」


「え?」


「とりあえず今日は、会おうと思って来たけど」


「はい」


「いっつもはできねぇから」


「はい」



藤本陽生がどうして自分の目の前に居るのか、今はその理由を思案する余裕がなかった。



「でも、おまえを探して待ってる時間は悪くなかった」



その言葉はあたしの耳の奥に優しく届き、見上げた視線の先にも、優しい瞳が揺れていた。



「じゃあ行くわ」


「え?」


心と身体が追いつかない。


引き止めようとして、思わず両手で右腕を掴んでいた。



「どこ行くの?」


言ってから馬鹿な事を質問したと気づいた。



学校に来ているんだから、自分の学年の校舎に向かうのは明白。



こうゆう事を、藤本陽生はして欲しくない人だ。


もうちょっと自分の好きの表現を自覚しないといけない。



馬鹿…自分本当に馬鹿…



両手で掴んでいた右腕を離そうと頭では思っているのに、両手が掴んだ右腕を離したくないと主張しながら、その腕をなぞる様にゆるゆると力なく滑り落ちるだけだった。


未練たらたらの両手が辿り着いた先は、手首の辺りで、藤本陽生の大きな手をあと少しで握れそうな距離にある。



視線も同様に下がり、馬鹿な自分が馬鹿馬鹿しい。



「春?」


頭上から藤本陽生の呼びかけが聞こえた。



早くこの手を離して解放するんだ…と、自分の両手を説得する。


溜め息を吐かれる前に、嫌気がさしてしまう前に。



「春」


その落ち着いた呼びかけに、思わず視線を上げた。


だって、握っていた筈の両手が、藤本陽生の右手で丸ごと握り返されたから。



まさに心身共に囚われの身…



「また会いに来る」


見上げた視線の高さを合わせる様に語りかけてくれる。



「おまえも会いたかったら来い」



握り締めた手にギュッと力を込めて、その手が離れた。



名残惜しさなんて微塵も感じない程、あっさりと背を向けて歩き出した。


あたしの心と身体はその場に取り残されたまま。



遠くなる背中に愛しさが込み上げてくる。


藤本陽生は一度も振り返らない。



その姿が見えなくなると、握り返された両手を水を掬うように見つめていた。



余韻を感じながら、段々と思考がクリアになっていく。



わざわざ会いに来てくれた?


朝の登校時間に?


また会いに来るって言ってくれた…


地球が百回周っても、こんな日は来ないと思っていた。



恥ずかしさと、愛しさと、嬉しさが同時に込み上げて落ち着かない。



見つめていた両手にギュッと力を込めて握り拳を作る。


いつまでも佇んでいる訳にはいかないから、踵を返した。



こんな事ってあるんだ…


こんな事ってあるんだ…



どうしようもう会いたい。


どうしよう、もう会いたい…



気持ちが漏れない様に、隠すように俯き加減で廊下を歩き進む。



今ならまだ間に合う?


ダッシュで行ったらHRまでに戻って来れる?



頭でシュミレーションしながら自分の教室に入った。



さっきは不意打ちで、消化不良の様に胸がざわざわしたままで。


もう一度会って、抱き締めて貰うぐらいしないと…


今日一日モヤモヤする。



自分の席に鞄を置いた。



どうしよう、今なら行って帰れる時間はある。


会いたくなったら来いって言ってくれた。


それ今でもいいかな?


もう今日一日藤本陽生と会うの我慢するから、今から行っていいかな?



「あ、津島さん」



こんな時に…岡本に見つかってしまう。



まぁ、同じクラスだから仕方ないんだけど…


今じゃないでしょ!



「いやぁ、さっき陽生くん見ましたよ!びっくりっすよね!津島さん会いました?こんな時間に…って!どこ行くんすか!」



よーいドン


頭の中でスタートの合図が響いた。



走るのはそんなに得意じゃない。


だけど、HRまでに教室に戻る自信はあった。



頭の中でシュミレーションを何度もした。



今日はコンディションもバッチリ。



とは言え、あたしはアスリートではない。



三年の校舎に辿り着く前に、階段の登りで息は切れ切れの状態。


頭にまで酸素が届いていない気がした。



そんな状態だけど、もはや肩で呼吸してるけど、頑張って走り続けた。  



三年生の教室がある階まで行くと、当然三年生の先輩がたくさんいる。


視線はめちゃくちゃ感じたけど、いつもの事だし走り切った。



三年二組の教室の近くまで来た時には、尋常じゃないくらい呼吸が乱れていた。もうここまで来たら一旦呼吸を整えようと立ち止まる。



どんだけ全速力で走ったんだって話し。



「あ、えっと…大丈夫?」


男の先輩が、声をかけてくれる。だけど顔を上げる事に抵抗があり、大丈夫ですの意味を込めて片手を上げて「はい」と返事した。



「絶対大丈夫じゃなくね?」


そのしつこい声に、いつも藤本陽生と居る先輩だと確信した。



今顔を上げるとちょっと不細工な気がして、深呼吸できるくらいまで呼吸整えてから顔を上げたかった。


自分がどんな表情をしているか自信がない。

こんな事を考えている時点で、やっぱり頭に酸素が回っていないんだなと納得した。



それなのに…まだ近くに居たしつこい先輩が、「え、春ちゃんだよね?」と、しつこくこの場を離れない。


あなたに用は無いと言ってやりたい。


だけど言えないから、


「ちょっと…走ったから…」


乱れた呼吸でそう伝えた。



「陽生呼んで来ようか?」


そんなにしんどそうに見えるんだろうか…いや、しんどいんだけど。



「…大丈夫、大丈夫なんで」


「でも陽生に用事あるだろ?」


そりゃそうだ。何のために三年生のフロアに立っていると思ってるんだ…



「落ち着いたら自分で会いに行くんで…」



話しかけてくるから返事をしないといけなくて、ちょっと黙っていて欲しいのが本音。



「オッケ、呼んで来るわ!」



…何故そうなる?



「陽生!」



ほんとに呼んでしまった…



…いや良いんだけど。タイミング?何の為に閉まっている扉の前に隠れて立ってたと思ってんだって話し。


全速力で呼吸を整える羽目になった。



横にいた先輩は、藤本陽生に呼びかけて教室の中へ入って行く。なかなかシュミレーション通りにはいかないものだと、一つ学んだ。



「あ、何か春ちゃんしんどそうでさ」


違う違う。体調不良みたいになってるじゃん!



すぐ近くに居るのか、中からそんな話し声が聞こえる。



「そこ、外に立ってる。本人は大丈夫とか言ってた」


藤本陽生の声は聞こえない。でも、こっちに来ようとしているのが、しつこい先輩の言葉や気配で感じる。



だから顔を上げて姿勢を正して、大きく深呼吸した。



前髪を手櫛でさっと撫でる。



会いに来たのはこっちなのに、これから会って貰う様な緊張感が生まれた。



開いている方の扉へ何となく身体を傾ける。ドキドキと高鳴る鼓動は、走った所為なのか、緊張しているからなのか…こんな事なら走り切ったまま勢いで会っておけば良かったと思い始めていた。



「春ちゃん?」


藤本陽生ではなく、しつこい先輩が確認する様に廊下側へ顔を覗かせた。



「ほら、居るじゃん」


そう言って教室内に視線を向けた。


その言葉の直後、藤本陽生が音もなく姿を現す。



「は?」


本当に居たと思っているようだった。



「どうした?」


でも、その驚きはすぐ優しい声色に変わった。



アスリート気分で走ったからアドレナリンが出ているのか、全身が震えてくる。



「体調悪いのか?」


優しい空気が流れた。震え出す身体は、この人を求めているんだと気づく。足りなかったのは酸素じゃない。


全身に動けと指令を出し、ゆっくりとその胸元に擦り寄った。


両脇から背中に腕を回す。制服を握り締めた手に力が入らない。



求めていた温もりと、会いたくて動き出した欲望が一気に満たされていく。



「え?春ちゃん…大丈夫?」


しつこい先輩の戸惑う様な声が頭上から聞こえた。



「…ちょっとズレるわ」


代わりに答えたのは藤本陽生。背中に手を回され、閉まっている扉側にゆっくりと力強く押し戻された。



教室内からあたしが見えないようにしてくれたんだと思った。背中に回された手が、抱き締めた行為を肯定してくれているかのよう。



ゆっくり瞼を閉じて、全身で藤本陽生を感じた。藤本陽生から香る匂いが全身を巡る酸素を浄化してくれる。静かに深呼吸をしたら、少しだけ抱き締めた身体が動いた。



「大丈夫か…」


囁くような声が、不安そうに言葉を紡ぐ。



返事をするのを忘れていた。



「やっぱしんどいんじゃね?どっかで休ませた方が良くね?」



まだ居るんですけどこの人…


どんだけあたしを体調不良にしたいのか知らないけど、むしろ心身共に絶好調ですけど。



これ以上は時間もないし、藤本陽生を困らせるかもしれないし。身体を少し離し、視線を上げた。



「あ、大丈夫?」



藤本陽生の背後から声をかけられた。ほんとしつこいな…と悪態吐きたいけど時間ないから無視。



「どうした?」


その質問には答える。



「さっき、会いたくなったら来いって…」


「……」


「会いたくなったから来ました」


「……」



めちゃくちゃ眉間に皺寄ってる。いや、困惑してる?とりあえず何でも良いけど。



「ありがとうございました」


心も体も満足。



藤本陽生の背中に回していた手も身体もゆっくりと離れるように手放した。必然的に、あたしの背中に回されていた藤本陽生の片手も滑るように離れた。



「え?大丈夫なの?」


「はい」



しつこい先輩にも返事をする。



「え?陽生に会いに来ただけ?」


「はい」


「え?やばくね?」


「はい?」


「いや、鬼気迫る勢いだったよ?」


「はぁ」


何言ってんだこの人。



「じゃあ、戻ります」



藤本陽生へ視線を戻した。離れ難いけど時間がない。



「ちょっと待て」


引き止める言葉はあたしへ向けられた。



「春と話がある」


その言葉はしつこい先輩に伝えている。



「あぁ、わかった。じゃあまた、春ちゃん」



しつこかった先輩は簡単にその場を離れ、教室内へと戻って行く。



お互いに視線を合わせた。



「何かあったんじゃねぇの?」


先に口を開いたのは藤本陽生。



「大丈夫です」


小さく首を横に振る。



「そうか?」


「はい、大丈夫です」


ちょっと迷惑をかけてしまったかなと反省した。



「何も無いならいい」



藤本陽生にただ会いたくて来たと言う事が伝わらない。いや、きちんと思いを伝えないから伝わらないのか。




「あたし…」


「…わかった」


「え?」


「…いや、わかった」



見上げると、視線を横に逸らされた。


言葉を遮られたから、調子に乗り過ぎたかもしれないと、再び反省する。



「すみません」


とりあえず謝っておく。



「いや、謝る事じゃない。何が言いたいか分かったって意味で言った。別に気にしなくていい」



見上げたら、今度は視線が重なった。


逸らされないから食い入るように見つめると、折角離れたのに吸い寄せられそうになる。



「それ…」


「え?」


「俺も感染りそうだわ…」


「え?」



藤本陽生の手がゆっくりと動きだす。あたしの頬を両手で包み込み、顔が近づいてくるのをスローモーションの様に感じていた。



え?え?え?



思わず瞼を強く閉じた。



額と額が触れ合う。



…キ、キスされるのかと思った!



薄く瞼を開いてみる。



鼻先が触れた瞬間、チャイム音が鳴り響いた。



自然と二人の顔が離れる。



「戻んなくていいのか?」


「…戻らないと」


「じゃあな」



頭をスッと撫でられて「はい」と返事をしたら藤本陽生が微笑んでくれた。



何あれ、


何あれ…



無我夢中で階段を駆け降りた。



もう藤本陽生の感触は残っていない。


分かっているけど、思わず額に触れてみる。


胸が締め付けられた。



校舎の階段を駆け降りる足取りはとても軽快で、気づいたら自分の教室に着いていた。



机の上に置いたままの鞄に手を伸ばす。



「はぁ…」



溢れた溜め息に嫌悪感はない。



席に着いても、授業が始まっても、さっきの事を反芻はんすうしては胸がいっぱいになった。



授業が終わり、殆ど書き写せなかったノートを閉じた。


こんな自分をどう扱えば良いか戸惑う。



慣れない事をすると、これで良いのかなって…これからどうしたら良いの…って、不安や戸惑いを感じる事は多々あった。



それは、恋愛でも同じ事なんだと、今朝目覚めた時から感じる高揚した自分を思い返して酷く納得した。



好きだ…好きだ…が、一方通行で怖い。


またすぐ会いたくなる感情が行き止まりで不安になる。


この先の道をどう進めば良いか分からない。


右を見ても左を見ても一旦停止。


ブレーキをかけてしまうのは、誰もが通って来た道なのかな…



恋愛の交通ルールを教えてくれる教官は、あたしにはいない。



「あれ、津島さんそれ」



後方から感じた気配と共に声をかけられた。



躊躇なく話しかけて来るのは、クラスメイトには一人しかいない。


振り返らなくても、岡本が話しかけて来たと分かる。



「それ」と言われたから思わず机の上を見渡したが、思い当たる「それ」が見つけられず、後方に感じていた気配が隣に移り、すぐ横側に立った岡本を見上げた。



見上げた視線にゆっくりと合わせてくる。



「それ、流行ってんすか」


逸らされた視線は、再び机の上へと向けられた。



「どれ?」


「それっす、それ」



指を差された「それ」の正体。



「最近ツレも持ってました」


「え、これ?」


岡本に見せるように持ち上げた「それ」は、



「普通にコンビニに売ってたよ」


真っ白なシャープペンシルと、真っ白なボールペン。



「コンビニでしか売ってないんすよ、それ」


「え、これ?」


手に持っていた二つを再び見やる。



「って、ツレが言ってました」


「へぇ」


「津島さんも流行りとか乗るんだなぁって感心してたんすけど、」


「流行り?」


「違うって分かりました」


「は?」


「何にも考えずに流行を取り入れるところ、流石っす」



こいつ、バカにしてんのか…



「津島さんって、意外と普通の高校生ですよね」



やっぱバカにしてんな。



「って、ツレも最近言ってましたよ」



誰だツレって。



「近寄り難さが常に全身から出てたじゃないっすか」



そう言う割に躊躇なく話しかけて来たなこいつ…



「でも最近、津島さんが普通の人だって気付き始めてますよ」



元々普通だわ。



「何かあれっすよね、損してますよね」


「…は?」


机の上を片付けていた手を止めて、思わず岡本を見た。



「損な性格ってゆうか、不器用を絵に描いたような人ってゆうか、接し難いんでもっと分かり易く過ごして欲しいんすけど」


「はぁ…」


言いたい事は山のようにある。



「なのに、そうやって不意に親近感持たせるような事しますよね。同級生が好むような物をバカにしそうな雰囲気出しといて」


「…さっきからさ、」


「そうゆう、ギャップに惹かれるんすかね」


「…はい?」


「あれ?やっぱ気づいてないんすね」


「はぁ?」


「津島さんって、一部のやっかみ女子には強烈に嫌われてますけど、男子は結構好きみたいですよ」


「はぁ?」


「ツレが言ってました」



こいつがツレって言う度に、何故か腹が立つ。



「あんたって友達いたんだ?」


バカにし返してやった。



「え、今更っすか?」



何をどうし返しても、人をバカにする天才だと諦めた。



「で、何…それだけ?」


「え?」


「いや…話」


「え?」


「だから、用事終わり?」


「え?」


「おまえバカにしてんのか」



シャープペンシルがコンビニでしか買えないとか、白いボールペンが流行りだとか、そんな事が気になって話しかけて来る岡本が理解できない。



「用事がないと、ダメっすか?」


理解できないあたしを理解できないと言わんばかりの口調だ。



「用事がないのに、このやり取りに何の意味がある?」


「…えー、」


人を憐れむような反応。



「じゃあ津島さんは、用事がないと陽生くんに声かけないんすか?」


「は?」


「用事がなかったら、話しかけないんすか?」



おまえと藤本陽生を一緒にすんな。



「やっぱズレてんすね」


「あのさ…」


「津島さんの事、気になってる奴たくさん居ますよ。どんな子なんだろって、話しかけてみたいなって、話題探して、共通点探して、話しかける機会伺って。別に男だけじゃない。女子だってそうじゃないっすか?津島さんって、何か目に付くんすよね。俺だって、用事なんかないっすけど、ツレと同じ物持ってる津島さんが見えて、何か嬉しくなって、つい声かけちゃう気持ち、わかりません? あ、わかんないって話っすね」



何か言い返したいけど、言葉が出ない。



「俺は陽生くんが大好きだし、大好きな人の彼女なんで気になるし、仲良くなりたいなって思いますけど。津島さんって、陽生くんだけが自分の世界みたいなとこ、ありますよね。それ以外の人は圏外っていうか、眼中にないみたいな」



時々岡本は、的を得た発言をする。それがあたしにとっては凄く厄介で、耳が痛い。



「陽生くんってマジで器でかいなって思うんすよ。見た目とか雰囲気はあんなっすけど、勇気出して声かけて良かったなって思わせてくれるとこあるし。周りの人を大事にしてくれるって分かる」



そんな事はあたしにだって分かっている。



「そうゆう意味で言うと、自分に害がある者を遠ざけようとしたり、全ての者を理由無くして受け付けないスタンスって、自分と関わろうとしてくれる人を時と場合関係なくして排除しようとしてるみたいで、それってただの嫌な奴っすよね」



あたしが岡本を遠ざけようとするのは、本能だとこの時感じた。どうしてか分からなかった。何か知らないけど、こいつとは関わりたくないと思っていた。だけどその感情は、本能的に自分を守るための手段だったと気づいた。



「人間的に、陽生くんと一緒に居て欲しくないっすね」



いつも自分が感じていた疎外感。


あたしは藤本陽生の傍に居て良い人間なのかって。


こんなにも醜いあたしを、いつか藤本陽生も嫌になるんじゃないかって。



「陽生くんと居る時は、人間味あるんすけどね。でも、自分達も同じかっていうと、津島さんって陽生くんだけなんすよね。それって、陽生くん居なくなったら、津島さんってどうなるんすかね」



自分でも考えていた。藤本陽生に依存しているかもしれない事。そんな自分をどう扱って良いか不安になる。いつかこんな風に、確信をつかれる時がくる。


自分でも、分かっていた。



だけどダメだ。あたしはやっぱりこいつが嫌いだし、藤本陽生を手放したくない。岡本にどう思われようと、あたしには関係ない。



「嫌いなら近づくな」



椅子から立ち上がり、岡本の目を見てそう伝えた。何も言わない岡本を避けるように、その場を立ち去った。



廊下に出た瞬間、海の底から水上に顔を出した様に息を吸い込んだ。


涙が溢れてくる…


何が悲しいのか、何が悔しいのか、何に怒っているのか…行く宛なんてないのに、兎に角人通りの少ない通路へ向かった。



涙が止まらないから手の甲で拭いとる…



あたしには、こんな時に愚痴を言える友人もいない。それを自分で選択してきたのだから後悔ではない。こんな感情を知ってしまったのが、只々厄介なだけ…


岡本如きに、心を乱される自分が嫌でしょうがない。



「津島さん!」



今一番顔を合わせたくない奴があたしを呼んでいる。



「津島さん!」



追いかけて来やがった。マジで神経疑う…



「津島さん!」



走って逃げる様な関係でもない。こいつの言動は本当に予測できない。思わず涙も引っ込んだ。



「津島さん、待ってよ…」



歩く足を止めないあたしに、岡本が小走りで横に並び歩く。


見上げるぐらいには自分より背の高い岡本が、こちらを伺う様に顔を覗き見てくる。



「俺、言い過ぎた?」



こうゆうところが空気を読めていない。



「俺、津島さんの事嫌いじゃないよ」



無視。



「怒ってる?」



付いて来るな。



「傷つけた?」



その先は行き止まりで、仕方なく手前を左に曲がり、階段を小走りに駆け上がる。



「もしかして、泣いた…?」



何度か上から降りてくる数人の生徒とすれ違った。



「津島さん、ごめん…」



それでも岡本はあたしの隣を譲らない。



「ごめん、津島さん」



何なのこいつ。


マジで神経疑う。意味が分からない。何がしたいか分からない。放っておいてよ。



階段を登り切ってしまった。これはまずい。



「津島さん?」



急に立ち止まったから、岡本が不思議そうに声をかけてくる。



廊下に足を踏み出せば、ここから先は三年生の教室がある。


ここに行こうとした訳ではなかった。岡本を振り切ろうと歩き続けたらここへ来ていた。



仕方ない…また階段を降りよう。



踵を返したら、下から階段を上がって来る人達の声が自分の場所まで響いてくる。



…嫌な予感がした。



何を言っているのかは正確に聞き取れない。


だけど、関西弁のような気がする…



まずいまずいまずいまずい。



上がって来ているのがシゲさん達だったら…



この状況、あたしと岡本を見たら、察しの良いシゲさんは何かあったと察する。


ましてやこの空気の読めない岡本が何を言い出すか分からない。



色々知られたくない状況である。再び踵を返し、三年生の教室がある廊下へと進む事にした。



「あ、津島さん」


方向転換したあたしに気づいて、岡本が声をかける。


下から階段を登ってくるシゲさん達であろう人に追いつかれない様に足取りを速めた。




「待って津島さん、どこ行くの?」



声量が大きくなる岡本に、「うるさい」と小声で返した。



廊下には当たり前に三年生が居て、俯き加減で歩く…



「津島さん…」


「…なに」


「どこ行くの…」


岡本が小声で話しかけてくる。



「とりあえず向こう側の階段から降りて教室に戻る」


あたしも小声で返事をする。



「わかった」



岡本が静かに頷いた瞬間、あたしのミッションは、岡本を振り切る事から、この場を気づかれず乗り切り、誰にも知られず自らの教室に戻る事へと変更になった。



そろそろ後方からシゲさん達であろう人が廊下を歩き出している頃。聞こえない筈の足音が、喧騒の中から聞こえてきそうだ。



前方には、藤本陽生の教室が見えて来た。



まずはここを通り過ぎなければいけない。すれ違う生徒に身を隠し、颯爽と歩き進んだ。



「あ、陽生くん!」



え…!?



「陽生くん!!」



声にならず、岡本を見やる。


まぁまぁでかい声で藤本陽生の名前を呼び、教室内に向かって手を振っている。



…こいつはバカで空気が読めないんだった…だけど、あたしの存在はまだ気づかれていない。


岡本を置いて無視して行こう。



「春ちゃん!!」



聞こえないふりをして歩いた。



「春ちゃん!!」



聞こえないふりが、この人には通用しない…


…振り返って、足を止めた。



「シゲさん…」


駆け寄ってくるシゲさんに、苦笑い。


あと少しだったあたしのミッション達成は、未遂に終わった。



「どないしてん? は? あいつと一緒に来たん?」


岡本に気づいて、少し口調が荒くなる。



そんな岡本が、少し離れた位置からあたしを指差して、視線を向けた先に藤本陽生が姿を表した。



あー、もうダメだ。終わった…


会いたかったけど、今は会いたくなかった人…



シゲさんがそんなあたしの表情を見逃さない。



「どないしてん」


「…どうしよう」



本音が言葉に出る。



岡本に誘導されるように、藤本陽生が近づいてくる。



「シゲ?何してんだ?」



シゲさんと、あたしと、岡本を順番に見る藤本陽生。



「あの、」


空気の読めない岡本が口を開く。



「俺が、津島さんに言い過ぎて…怒らせて、傷つけて、泣かせました…」



…神様、空気が読めない人間の取扱説明書を下さい。



「…は?」


意外にも、一番に反応したのは藤本陽生だった。



こちらへ視線を向けているのが分かる。今は目を合わせ辛いのに、視線を向けてしまった。


藤本陽生の強い眼差しが、心にまで届けようとしているみたいで…「どうした」そう、言われている気がした。



「え、春ちゃん?」


シゲさんが、シゲさんの声が不安そうに聞こえる。



自分の顔が涙で歪んで行くのが分かった。



「…ッ、…ッ、」


溢れてくるものが、自分で制御できない。手の甲で何度も涙を拭いとる。



「…ッ、…ッ」


声にならない声が、涙と一緒に漏れ出した。



こんな予定じゃなかった。こんな泣きじゃくる予定はなかった。



あたしを囲むように立ち尽くす男達が、どうして良いか分からないと言っているようで…泣きじゃくる自分が情けないと感じながらも、涙の止め方がわからなかった。



「春ちゃん…向こう行こ」


強制的に身体を動かされる。廊下の端にズルズルと移動し、階段の脇に隠れるように立った。



「ハル、ティッシュ持ってへん?俺ハンカチあんねんけど、さっき手ぇ拭いて使ってもうてん」


「ティッシュ?ハンカチしか持ってねぇ」


「なんやねん、ほなハンカチ貸せ。春ちゃん、これ使い、手で擦ったら痛いで」



藤本陽生が取り出したハンカチを、シゲさんが渡して持たせてくれる。


すぐに瞼に当てがうと、大好きな匂いがした。



「あの、俺、俺が…言い過ぎて…」


岡本の言葉を、シゲさんと藤本陽生が黙って聞いている。



「津島さん、ごめん…津島さん、本当にごめん」


「おまえが何か言うたんやろなってのは、分かってんけど。何言うたらこんな泣かす羽目になんの?おまえほんまに考えてもの喋れよ」



シゲさんが怒っているのが、その口調から聞き取れる。



「すみません…津島さんが泣きそうな顔して教室飛び出したんで…俺、言った後で、言い過ぎたかなって気づいて…すぐ追いかけたんすけど、すみません」


「おまえ何言うたん?」


「…色々、言いました。嫌な奴だとか、」


「はぁっ?」


「すみません」


「俺に謝るんとちゃうねん。何言うてんのおまえ?頭おかしいんちゃう?」


「すみません」


「どっちにしたっておまえしばき倒すからな」


「俺、他にも…」


「しょうもないこと言うてんなよ」


「人間的に、陽生くんと一緒にいて欲しくないって…言いました」


「…は?」


シゲさんが、さっきまでとは違う、間の抜けた声を出した。



「あ、アカン!」



直後、シゲさんの焦りを含んだ言葉に釣られて、瞼を押さえていたハンカチを下ろす。



「アカン!おまえ避けろや!」


隣にいた筈のシゲさんが、岡本を突き飛ばし…た?



「アカンアカン!ハル!ハル、待って、一回落ち着こ?な…?」



岡本に怒っていた筈のシゲさんが、床に突っ伏している岡本を庇う様に前に立ち、藤本陽生を説得している様に見える。



「待って、ハル待って、アカン。おいおまえ、このまま階段降りて逃げろ」


「え、でも…」


「止めれんぞ!ハルの喧嘩は俺一人じゃ止めれんぞ!」


「でも…」


「はよ行けや!」


「でも…」



藤本陽生が、岡本を突き飛ばした…?



咄嗟に藤本陽生を見やる。その後ろ姿は、いつかどこかで…見た…



まずいまずいまずい。


これはまずい。



以前、自宅マンションで三番目のお兄さんと鉢合わせになり、口論になった時と同じような怒りが背中から感じる。



「シゲさん!」


あたしどうしたら良い?と、シゲさんに視線を向ける。あたしの表情を見たシゲさんが、首を横に振ってくる。



…申し訳ないけど、どう言う心情か読み取れなかった。



どうしよう、とりあえず止めないと…


藤本陽生は兎に角怒っている。


多分、やばいぐらい怒っている。


あたしが泣いた所為だ。


あたしがもっと上手く生きれたら良かった…




とりあえず、藤本陽生の腕を掴み抱えた。



「ごめんなさい…もう許してください」



泣き泣き言うつもりはなかったけど、腕に顔を埋めたら涙声になってしまった。


掴んでいた腕が動く。


顔を上げると、掴んでいた腕ごと身体を抱き締められた。



文字通り身動きできない。



「あたしが泣いちゃったから…ごめんなさい」


潰されるんじゃないかってくらい、抱き締められる力が強くて、藤本陽生を傷つけてしまった…と、また涙が出そうになる。



「シゲ!」


「はいっ!?」


「春を保健室に連れて行く」


「そ、そやな!連れて行こう!」


「そいつは後で話する」


「そ、そやな!話し合いが一番や!」


「あの、俺…」


「おまえ今黙っとけ、クソボケ」



シゲさんが岡本に悪態をついている横を、藤本陽生に連れられて通り過ぎた。


この階段を降りたら、一階に保健室がある。



終始、藤本陽生はあたしの身体から手を離さなかった。



保健室に着いたら誰も居ない。この学校は、基本的に保健室に先生が常時いる訳ではない。まずは職員室に声をかける事になっている。そんな常識は、藤本陽生には通用しない。



ベッドまで誘導されて、座るよう促された。


ベッドの仕切りに使うカーテンを勢いよく閉めると、藤本陽生があたしの横に腰掛け、両手で顔を包み込む。


お互いの顔が近づいて、親指が涙の痕をゆっくりとなぞる様に動き出した。



視界いっぱいに映る藤本陽生の表情が見え難い。



瞼をなぞられていた親指が、包み込んだ頬を摩る。そのまま、両手で顔を引き寄せ、口づけをされた。



何度も繰り返し唇が触れ合う。


…藤本陽生がこんな風に感情を表すのは、初めてだった。



舌が口の中に侵入し、口内を吸い尽くす様に絡め取られる。どんどん激しくなる舌遣いに、鼻から抜ける様な吐息が、声にならず漏れ出た。



この人は、あたしをどうしたいんだろう…


ここで、セックスするんだろうかと…頭の中は酷く冷静だった。



キスが深くなるにつれて、ベッドの上へ組み敷かれた。両手は藤本陽生の首へ回り、離れない様にしがみ付いているのは自分だった。



息苦しさから顔を背けると、自然と唇も離れる。お互いの荒い息遣いが、この空間の湿度を上げている様で…


呼吸を整えて、再び正面を向くと、藤本陽生が真っ直ぐ見下ろしてくる。その表情からは何も読み取れない。



覆い被さる様に首筋へ顔を埋めたら、さっきよりも全身に体重が伸し掛かって来た。



その重さを愛しく感じた…



「大丈夫?」と尋ねると「…あぁ」と返ってきた言葉が首元でくぐもって聞こえた。



藤本陽生の両手が、あたしの両脇の下をくぐり、背中へと回され、ぎゅっときつく抱き締める。



首元にかかる吐息が心地良い。



「春、」


「はい…」


「悪かった」



謝られる事なんて何もないから、力を込めて首を大きく横に振った。


その振動が藤本陽生にも伝わったのか、埋めていた顔を少し覗かせて見せる。上に覆い被さっていた体勢も、ゆっくりと寝返りを打って横に移った。


お互いの表情が見える。



「謝るのはこっちで…泣いてしまって…」



ポツリポツリと、岡本との状況を説明した。


終始睨む様な目つきだったけど、口を挟まず、静かに聞いてくれていた。



話し終えると、藤本陽生が寝返りを打ち、仰向けへと寝そべった。あたしは藤本陽生の方向に体勢を向けたまま、腕をギュッと掴み、その横顔を見つめた。



「あいつに何言われようが、誰に何と言われようが、春が安心できるように俺が伝えきれてなかったな…」


天井に視線を向けたまま話す藤本陽生は、自分の腕を額に乗せていた。



「気持ち、伝わってねぇよな」


「え?」


「すげぇ好きなの、伝わってねぇだろ」


「いや、」


何て言って言葉を返したら良いか言葉に詰まる。



「俺も…どう伝えて良いか迷ってる」


「…うん」


静かに相槌を返した。



「好きな人…好きだなって思った人、初めてなんだよな」


「うん…」


「おまえの事な」


「…え?」


「おまえな」


「あたし?」


「初めて好きになった子」


そう言って、額に乗せた腕の隙間から、視線だけこちらに向けた。



「だから、どうゆう風に接して良いか戸惑った」


すぐに視線が逸らされた。



「不安にさせてんだろうなって感じる事もあったし、俺の事全然わかってねぇなって、呆れる事もあった。それでも、一緒に居れば気持ちは伝わると思った」


「……」


「伝わってねぇけどな…」


「そんなこと、」


「そんなに分かり難いか?」


「…わ、分かり難い」


勇気を出して肯定すると、藤本陽生が呆れた様に笑ったから凄くホッとした。



「一ミリも思ってねぇの?」


「え?」


「俺が春の事好きだって、一ミリも思ってねぇの?」


「いや、そんな事はなくて…」


「……」


「一ミリは思ってるんだけど、」


「は?」


「いや、嫌われてはないんだろうなって…」


「は?」


「え?ちょっと上手く説明できない…」



好いてくれてる事は分かってるし、だから彼氏と彼女として成立している。でもそうゆう事じゃなくて、気持ちの大きさを、計り知る事はできない。


あたしと藤本陽生の好きとゆう感情の表現が、そもそも噛み合っていない。


あたしが好きを十と例えたら、藤本陽生は一とか二の様な気がした。決してそれが悪いとか、嫌とかではない。


自分の出せる好きが大き過ぎて、相手から出される好きが物足りなく感じる。


だからいつも自分ばかりが好きでいるような気がするのかもしれない。


いつか藤本陽生はあたしに飽きてしまうんじゃないかと、考える事もあったりする。



岡本があんな事を言うのは、あたしの自己肯定感の低さが原因だと気付いた。



「朝、会いに来てくれたでしょ?陽生先輩。ああゆうの、してくれる人じゃないって、決めつけるぐらいには、愛情表現を期待してなかったかもしれない…」


「愛情表現?」


「毎日好きって言われても、どう反応して良いか困るんだけど…そうゆう表現として、こっちに伝わるものが無くても、自分は相手の事が好きだから、それで良いかなって…」


「キスして、セックスしてんのに?」


「いや、急にそうゆうワード出ると恥ずかしいんだけど…」



咄嗟に両手で顔を隠した。



「春、」


名前を呼ばれて、両方の手首を握られた。


表情があらわになる…


開けた視界に、藤本陽生の視線が混ざり合う。



近くで重なる視線に、ドキドキした…


握られたままの手首。


ゆっくりと顔が近づいて、唇が触れる…


心臓の音が煩くて、気が散ってしょうがない。


ついばむ様にキスをして唇が離れた。



「…無理だろ」


「え?」


「話しが続けられん」


「…え?」



捕まれていた手首が離された。


藤本陽生が隣に寝転ぶ。



「すぐ手が出る」


「……」


「好きだって気持ちを、どうやって言葉にしようか、考えて話そうとしてんだけどダメだな」


「……」


「すぐ触りたくなる」



聞いている方は凄く照れ臭いのに、話している本人の表情がポーカーフェイスが過ぎる。



「舌出して」


「えっ!?」


驚いて間抜けな声が出た。



「舌」


「何の話!?」


「じゃあ口の中に入れて」


そう言われた直後、藤本陽生が再び口付ける。


言われるがまま、口内に舌を伸ばし入れると、藤本陽生が唇を強く押し付け、舌を絡め取ろうと吸い付いてくる。



「っん…」


気持ち良さから、吐息混じりに声が漏れる…キスしてるだけなのに、まるでセックスしてるような気になる。


唇が離れると、藤本陽生はあたしの手に触れ、その手にチュッと口づけをした。



お、王子様がいる…



感動して手が震えていた…こんな風に求められると、胸が締めつけられる。苦しいんじゃなくて、愛しい。



愛しくて愛しくて堪らない。



藤本陽生がゆっくり起き上がる。


二人の間に突如生じた距離感…あたしも思わず上体を起こした。




「春は、俺に触りたいって思うか?」



…この場合、何て答えるのが適切なんだろう。



「思います」


「嘘つけ」



間髪入れず否定された。



「嘘じゃない…」


「じゃあ価値観の違いだな」



…本当に嘘じゃない。抱きついたり、手を握ったり、無性に触れていたくなる時がある。



「俺が言ってる触りたいって言うのは、イコールセックスに直結してるって分かってるか?キスしてぇなって言ったら、その後のヤる事しか考えてねぇからな」



…シゲさんが言いそうな事を、



「今だって、春に触りたくてしょうがない。でも、しねぇのは理性があるからじゃねぇの」



藤本陽生の口から聞くとは思わなかった…



「だから言葉って大事なんだよ。その前提に好きだ、愛だって気持ちが伝わんねぇと」


「うん…」


「だから、どうしたら伝わんのか…いつも考えてる。俺だけがヤりてぇって思っててもダメだろ、おまえがヤりたくなかったら。そう思えるのは好きだからだろ、好きだから大事にしたいだろ。それが一ミリも伝わってなかったからこうゆう事になってるって話しじゃねぇの」


「…伝わってる」


「伝わってねぇ」


「…伝わった」


「伝わってねぇって」


「…伝わったの!今!」



本当に。本当に言いたい事は分かっていた。藤本陽生があたしを好きでいてくれてる事も、あたしの好きが届いている事も。


だけど、気持ちと身体の話を一色単にされても自分に置き換えて考える事は難しい。


今こうしている間も、ヤりたいって思ってるのかな?って、極端な発想しかできない…でも、藤本陽生が言ってる事は多分そうじゃない。



説明しようとすると難しいし、感覚的にこうゆう事かな?って受け止めているだけ。



「…春は、俺以外とも付き合いをした方が良い」



え、なに…?



「…やだ」


首を大きく横に振った。



「周りにもっと目を向けて、色んな情報や刺激を貰って、」


「要らない」


「いや、必要だろ。色んな人に会って、色んな考えを知って、」


「店で色んな人に会ってる。社会に出た時の事とか、教えてもらってる!」


「そうじゃなくて、夜の世界は特殊過ぎるし、同世代の人間と、もっと身近にいる奴と、」


「陽生先輩がいるじゃん…」


「俺だけになってどうすんだよ」



やだ、何この流れ…



「ずっとおまえの傍にいねぇよ?」



何の話しになってんのこれ…



「俺が卒業したらおまえどうすんだよ」



あたし、フラれるの…?



「もっと色んな人と関わって、色んな奴と付き合いをした方が良い」



思わず藤本陽生の腕を掴んだら、少し驚いた様に捕まれている腕に視線を落とした。



「春、」


「…あたしは、何も要らないし、何も求めてない。生きていく為に、周りの人に迷惑をかけないように生きたい。自分の事は自分で出来る様になりたい。それ以上でもそれ以下でもない」



やばい、泣きそうだ。


何かにしがみ付こうとするのは、こんなにも…心身共にしんどくなるなんて。



「でも、陽生先輩は欲しい。物じゃないって分かってる。こうゆう言い方されるの嫌なのも分かってる。でも他にどう伝えたら良いか分からない」



お願いだから、分かったって言ってほしい…


お願いだから…



「春、」


「…やだ」


「まだ何も言ってねぇわ」



その呆れた口調が、今は心底安心する。



「もっと簡単に考えろ、この世の終わりじゃねぇんだから」


「…この世の終わりじゃん」


「は?」


「終わるじゃん」


「春、」


「…やだ」


「は?」



あたしがぶつぶつ小さな声で話すからか、藤本陽生が聞こえ辛そうに怪訝そうな声を出す。



面倒臭いって思われてるかもしれない。


どうしよ…


あたし面倒臭い事してる…


これ以上は、もう…ダメか。



少し体勢を変えようと動くだけで、一々ベッドが軋む音を出す。


向き直して、掴んでいた腕から手を離した。


藤本陽生の視線が追いかけてくる。



朝は、まさかこんな展開になるなんて思ってもみなかった…心地良い目覚めと、穏やかな一日の始まりだった。



藤本陽生が会いに来てくれて、嬉しくて高揚して…


それが、たかだか数時間で状況は一変。まるで嵐の前の静けさだったかの様…



岡本とのやり取りはキッカケに過ぎなくて、遅かれ早かれ、こうなる運命だったのかな…



好きなのに、別れなくちゃいけないなんて…さっきまでキスしてたのに…触りたいとかヤりたいとか言ってたのに…



自分がこんな事を思う事にも驚く…いや、それすらも、どこか客観視している。



「…言う通りにする」


声を絞り出した。



「言う通りって?」


「…今、話してた、ようにする」


「春、」


「岡本…は、どうするの?」



藤本陽生と別れた後も、あたしは岡本と顔を合わせる様になる。同じクラスにいる以上、避けては通れない。



「岡本と、話しするんでしょ…」


「ああ、話しする。正論だからって相手を傷つけて良い訳じゃない」



正論…


やっぱり、藤本陽生も岡本の言った事が理解できるんだ。あたしだけが置き去りで…皆、正しく生きてる。



…噛み合わない筈だ。



別に、前の生活に戻るだけ。藤本陽生と出会う前に戻るだけ。



「春、」


そんな風に、優しく呼ばないでほしい。



「どうした…?」


「分からない」


「何が…」


「分からない」


「泣いてんじゃねぇか…」



あたしにだって、分からない。どうして今、涙が出るのか…泣いたって、藤本陽生と別れる事は変わらないのに。



「何か、疲れたんだと思う…」



こんな事が言いたいんじゃないのに…



「少し寝とくか?」



藤本陽生は変わらず優しい。



「寝てて良いのかな…」


「ああ」


「じゃあ寝てようかな…」


「俺は戻るけど」


「大丈夫、あたしも少し休んで戻るので」


「わかった」



やだな…


これで最後なんて。


…呆気ない。



藤本陽生がベッドから降りる。



「じゃあな」


「はい」



カーテンを開けずに、その隙間から器用に出て行く。



保健室のドアが開く音がして、閉まる音が聞こえた。




…———ああ、終わった。



こんなにも呆気なく終わってしまった。



少しくらい振り返ってくれてもいいのに。



抱き締めてくれてもいいのに…



そうしないのが、優しさなのか…



後ろ背にベッドへ倒れ込む。



視界に入る天井の白さが、霞んで見えた。

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