29

ハルと春

藤本陽生の腕の中は心地良く、いつまでもこうしていられるなと思った。



制服の生地が頬に当たってむず痒い。


この心地良さの正体は何なんだろうかと、瞼を閉じてみる。



視覚を遮断した途端、嗅覚が冴えてきた。



腕を伸ばして首元にしがみつくと、それを合図に身体が持ち上げられ、慌てて瞼を開けたらソファに座り直した藤本陽生の膝の上に乗せられていた。



少し高くなった視界…



擦り寄ったところから好きな匂いがして、首元に鼻を擦り寄せる。


思いっきり深呼吸すると、体内の酸素が入れ替わった様な気がした。



藤本陽生の肩が微かに動く。


少し顔を離すと、見上げるように視線を向けられた。



怪訝そうにも見えるし、困惑しているようにも見える。



「…それ、おまえさ…」



溜め息混じりに吐いて出た言葉は、



「わざとだったら勘弁してくれ…」



抱き寄せられたと同時に、あたしの胸元でくぐもって聞こえた。



物音一つしない部屋の中———…時計の秒針がやけに耳につく。


だけど、どこに時計があるのかは分からない。



吐息が首元にかかる度、あたしの身体も小さく震えた。


背中に回されていた手に力が入り、グッと引き寄せられたかと思うと、あっという間に視界が反転する。



背中に跳ねるような衝撃が走り、無意識に瞑っていた瞼を開けると、藤本陽生があたしの上に影を落とす。


逆光で、その表情を鮮明に捉えるまでに何度か瞬きを繰り返した。



視界がクリアになっていくと同時に、あぁ…ソファの上に倒されたんだなと理解した。



倒されたと言っても、乱暴な扱いではなく、寝かせられたと言った方が良い。



首元から背中を支えてくれていたのか、腕がゆっくりと背後から引き抜かれ、上半身もゆっくりと起き上がる。



まるで見下ろされているような状況で、あたしの両足が藤本陽生の身体を挟むように両サイドへ投げ出されていた。



両足を閉じる為には、藤本陽生の身体を跨ぐように、片足を大きく上げて反対側に移動させるか、藤本陽生本人が、少し下がってくれる他ない。


足を高く上げると、当然スカートが捲れるわけで…下着が丸見えになる事は間違いない。



黙って動かない藤本陽生を薄っすらと見つめていた。



何をしようとしてこの体勢になったかは理解できる。


だけどこの沈黙の間が、どうゆう心境なのか…多分お互いに理解できていない。



藤本陽生の左腕に手を伸ばし、制服の袖を掴み引いてみる。



どうしたの…?と、心で呟いて。



藤本陽生の視線がゆっくりと動きだす。



袖を掴んでいたあたしの右手を掴み直すと、両手で包み込むように自分の顔にそっと近づけた。


その姿に、え…泣いてる…?と、錯覚してしまいそうになる。



左手の力だけで何とか起き上がろうと試みたら、ゴソゴソと動き出したあたしに気づいて、藤本陽生が咄嗟に両手を回し、身体を引き上げてくれた。



上体を起こした事により、思う様に動けるようになったあたしの両足は、やっと閉じることができた。


ソファの上でスカートが捲れないように座り直し、藤本陽生の表情を眺める。



その横顔から、あたしに視線をゆっくりと向けて来た。



「こうゆう事をしようと思って家に連れて来たんじゃない…」



淡々と話す口振りとは対照的に、表情はイラついている様だった。



…何と言う事だろうか。



そんな事を気にもしていなかったあたしにとって、いやいや寧ろ、押し倒されてキュンとした自分が急に恥ずかしい。



…何だろうこの、生真面目な男は。



その衝動と格闘していたのかと理解した途端、身体が妙に痺れた。



初めてここに泊まった日の、あの薄暗い部屋で薄っすらと感じた表情や声…肌の感触を思い出して、身体の痺れが止まらない。



触れたいとか、抱き締めたいとか、そんな細やかな思考ではなく…



無性に藤本陽生を感じたい。



触りたくてしょうがない。



そんな事を考えている自分と、それを抑えようとしている藤本陽生が対照的で、抑えなくていいのに…と、あたしの中で燻(くすぶ)っていた衝動が暴れ出すのを感じた。



不意に交わる視線——…



何ですか?と、無言で見つめる。


何してんだ?と、無言で見つめ返される。



ブレザーの上着を脱いで、セーターを脱ぎ捨てるまでに時間はかからなかった。


次はブラウスの裾を、スカートのウエスト部分から引っ張り出した。



「おい、」


藤本陽生の手があたしの手を掴む。



「おまえさ、」



なんですか?と視線を向ける。



「…挑発してんのか?」


その言葉とは対照的に、表情は困惑しているように見えた。



掴まれた手は、簡単に振り解ける。



ブラウスのボタンを、上から一つずつ外していく。


露になった胸元から、藤本陽生に視線を向けた。


ずっとあたしを見ていたのか、当たり前に重なる視線——…



正直言って、この先どうしようか、何をするのか考えていない。


ただ、暴れ出した衝動の止め方が分からない。



ブラウスを脱いだ瞬間、腕か身体か…一瞬で引き寄せられ、


「えっ、わ!えっ!」


あっと言う間にあたしの身体が宙に浮いた。



抱き上げられたなんて可愛いもんじゃない。


大きな荷物を背負うみたいに担がれ、



「ちょっ、待って!きゃっ!」


慌てるあたしをよそに、ソファから離れて動き出す。



周りに置いてある家具や物にぶつかりそうで身体が強ばった。


だけど何にぶつかる事も、掠る事すらなく、リビングを出て、藤本陽生の部屋に入って行く。



荒々しく担がれた割には、丁寧にベッドの上に降ろされた。


ヘナっと座り込むあたしは、拍子抜けして力が入らない。



あたしをベッドの上に降ろした藤本陽生は、部屋のドアを閉めに行くと、そのまま真っ直ぐクローゼットに向かい、クローゼットの扉を荒々しく開けた。



そして勢い良く服を引っ張り出し、クローゼットの扉を開けたまま、こちらに歩み寄って来た。



荒々しいその行動が、怒っているようにも受け取れて…


なに、なに?なに!?と、状況が呑み込めないあたしの頭上から、バサッと服を被せられる。



あれよあれよと言う間に袖に手を通され、着せられた服を見たら、白いTシャツだった。


サイズが大きいのか、半袖なのに肘が隠れそうだ。



頭の中も身体もプチパニックなあたしの前に、藤本陽生がベッド脇にしゃがみ込む。


ベッドの上にいるあたしは、身を乗り出すように藤本陽生の首に腕を回し顔を埋めた。



「…どうした?」


表情は怖かったのに、声が優しいからマジで紛らわしい。



「お、怒ってるのかと思った…」


心の声が言葉になって出てしまった事にも、自分の声がやけに震えていた事にも、相当ビビり上げていたんだと、自覚した。



「…怒ってない」


その言葉に、やっと安堵した。



途端に冷静さを取り戻し、この後どう取り繕えば良いか分からない。



…何か急に恥ずかしいし。


ちょっと待って、ちょっと待って…


何これ…急に恥ずかしい。



藤本陽生の首に回していた手を離し、慌てて両手で顔を塞いだ。



「春?」


「急に恥ずかしい…」


「は?」


「ちょっと待って…急に恥ずかしい…」



顔を両手で塞いだまま俯き答えた言葉は、自分でも籠って聞こえた。


藤本陽生の表情は当然伺えない。


でも、聴覚が藤本陽生の溜め息を捉え…座り直しているのか、少し動いた気配がした。



羞恥にかられるあたしに、追い討ちをかけるように、再び溜め息が聞こえる。



何やってんだ自分!と、何分か前の己を叱る気力すら無い。



「…ごめんなさい」


「何が」


「何か色々、ごめんなさい…」



未だ顔を上げられないでいると、藤本陽生の匂いがやけに鼻を掠め…そうか、今藤本陽生のTシャツを着ているからだと、変に癒された。



藤本陽生の匂いは、あたしの気持ちを落ち着かせる効果があるらしい。



いくらか平常心を取り戻し、さて…どう言い訳をしようかと考えを巡らせる。



ゆっくり顔を上げると、藤本陽生が意外と近くに居た。



「俺が、前言った事を覚えてるか?」



先に口を開いたのは、藤本陽生だった。


らしくない話し方をするから、言葉を選んでくれているのかなと…都合の良い解釈が浮かぶ。



「前…?」


申し訳ないけど、それだけの情報では、いつの事を言っているのか分からない。



表情を探るように見つめるあたしを、藤本陽生は怪訝そうな面持ちで見上げる。



「ここに、泊まりに来たろ」


睨んでいるようなその視線すら、今のあたしには愛しいと変換されてしまう。



あの日の情景が、脳裏に浮かぶ——



“俺がどんだけ好きか、知らねーだろ”



“見てるだけで好きだと思う”



“言葉を交わしたらもっと好きになる”



“おまえの仕草とか行動とか、歩き方まで全部好きだ”



“笑った顔も、怒った顔も、好きでたまらない”



“触れたら、また好きになる”




走馬灯のように記憶が駆け巡り、あの時の何とも言えない感情まで思い出して居た堪れない。



折角落ち着いたのに、また急に恥ずかしくなり、視線を落とした。



「…おまえの言動が、一々刺さる」



その言葉に視線を上げると、あたしを抱き抱えるようにベッドから降ろされた。



目線が同じ位置で重なる。



ゆっくりと伸びて来た手が頬に触れ、そのまま親指で唇をそっとなぞられた。



「一回止めたからな…」


そう言って、ゆっくりと顔を近づけてくる。



それに応えるように、あたしも瞼を閉じた。


触れ合う唇から、全身が痺れだす。



頬に添えられていた手が、あたしの身体を支えるように背中に周り、腰の辺りまで来ると、両腕でグッと持ち上げられ、藤本陽生の膝の上に乗せられた。



腰を引き寄せられ、藤本陽生の肩に腕を回すと、あたしの腰の辺りを支えていた両手が、そのまま撫で上げる様に両脇まで移動し、流れるように胸へと触れた。



唇の形をなぞる様に何度もキスを繰り返し、同時にTシャツの上から胸の膨らみを確かめるように揉みしだかれる。



藤本陽生の両手が、Tシャツの裾を持ち上げたのが分かった。


今度はブラの上から触れられ、全身がゾクゾクと音を立てる。ホックを外され、唇が離れたと同時にTシャツが首元まで捲られた。



膨らみを確認する様に掌で撫で上げられ、寄せたり上げたりと揉みしだかれる。直に触れる手の感触が温かくて気持ち良く、呼吸が乱れ、押し寄せる快楽から、声を抑えられない。



舌が這うように吸い付いて、唾液が絡む音が響く。その刺激に触発され、藤本陽生の後頭部に両腕を回し、しがみ付いた。



迫り来る快楽に耐えられず、思わず藤本陽生の身体を力一杯引き離した。



ベッドに寄りかかるあたしに、藤本陽生が同じように息を荒らしながら、あたしの身体を引き寄せようと近づく。



「待って…」


ちょっと、今、動けない…


そう言葉にできなくて、項垂れるあたしの身体を軽々抱き寄せると、ベッドの上に勢い良く降ろされた。



寝かせようとした時にバランスを崩したのか、変な降ろし方になって腕を痛めたのか、その手を庇うようにゆっくりと上体を起こした。


さっきまで人のおっぱいに吸い付いてた人とは思えない程、表情が崩れない。



寝そべるあたしの両足の間に入り込んでくる。



「…手、大丈夫?」


「あぁ」


「捻った?」


「いや、」


「痛くない?」


「…あぁ」


「じゃあ、ギュッてして」



両腕を伸ばし、抱き締める行為を強請(ねだ)る。



「…そうゆうとこな…」


「え…?」


聞き返すあたしの言葉を無視して、背中に両腕を回して抱き締めてくれた。



「一々刺さるって言ったろ」



耳元で囁くようにかけられた言葉。


何故だか少し、不機嫌そうな声。



「…もういいか?」


「うん…」


あたしの返答を合図に、再び唇を重ねた。



絡みつく舌に必死で応えながら藤本陽生の上着を脱がしていく。


シャツのボタンに手をかけ、指先の感覚だけで外すそうと試みたが…もどかしい手の動きに、藤本陽生の唇が離れた。



上体を起こすと、自分でボタンを外し始め、最後まで外し終わらずに、バサッとシャツを脱ぎ捨てる。



上から見下ろされるその視線に、胸が高鳴った。



着ていたTシャツを脱がされ、再び露になった胸元にキスを落として行く——徐々に下へと降りて行き、お腹にチュッと音を立て吸い付ついた。



ゆっくり下がって行く藤本陽生を視線で追いかける。


スカートを通り過ぎ、太腿をなぞるように右足を持ち上げると、靴下を脱がされた。


されるがままの自分に、身体が熱く火照っているのが分かる。



左足の靴下も脱がされ、身に付けているのはスカートと下着だけ——



再び太腿に触れ、舌が吸い付くように這い上がって来る。


そのままスカートの中に顔を近づけ、太腿の付け根まで舌を這わせてきた。



次に何をされるのか想像するだけで、中が湿りを増す。



藤本陽生の両手があたしの太腿を持ち上げるように侵入し、ゆっくりと下着を脱がされた。


もう一度スカートの中に顔を埋めると、同じように舌を這わせてくる。



あたしの位置からは捲れたスカートのヒダが邪魔をして、藤本陽生の表情が見えない。



押し上げられるような快楽に、思わず腰が浮いてしまう——見えない箇所を出たり入ったりしているのが分かる。



「ッ…」


どんどん溢れてくる。



「待って…」


舌を這わせながら、指がゆっくりと侵入して来た。



「ッ…」


迫ってくる快楽から逃れようと、腰が何度も引けてしまいそうになるのを、ガッチリとホールドされてしまう。



「…ッ!」


脳天をぶち抜かれ、頭がチカチカと揺れる。


全身の力が抜けて行く中…藤本陽生があたしの上を這って上がって来た。



「春…」


頬を撫でられ、チュっと音を立ててキスをされた。



そしてゆっくり離れると、あたしの身体にバサッと布団をかけ、離れていく。



ゴムを取りに行ったんだなと、ニ回目ともなると容易に想像できた。



再びベッドの上に戻ってきた藤本陽生は、あたしにかけられた布団をまたバサっと捲り、太腿を撫でる。



スカートも脱がされ、もう纏っているものは何もない。



あたしだけ何も着ていないのに、藤本陽生は脱がないのかと、前がはだけた制服のズボンへと視線を送る。



いつの間にか靴下は履いておらず、あたしの上を這いながら、器用にズボンをズラし、下着を脱ぎ捨てた。



顔を寄せ、唇を重ねる。



「寒いのか?」


ピクっと震えた身体に気づいて、聞くが先か、するが先か、布団を被せてくれた。



布団に包まれたからか、藤本陽生の温もりからか…酷く安心する。



あたしの片足を担ぐように持ち上げると、藤本陽生のソレが、湿った箇所をゆっくりと撫で擦り当てた。



こうゆう時だけ、この人は表情が崩れる。


その顔を盗み見るのが、最高に快感だ…



ゆっくりと押し広げるような感覚に、奥まで全部入った瞬間、心地良さに全身が震えた。



それは藤本陽生にも伝わっていたのか、担いでいたあたしの片足を降ろし、小さく息を吐きながら顔を寄せて来る。



「春…」


「…ん」


「……」


「待って…」


吐息混じりに出た言葉。



「……」


「…急に動かないでね…」


「わかった」


「…待って」


「楽な体勢に変えようとしただけだ」



恥ずかしいとか、気持ちいいとか…



「動く時は言ってね…」


「わかった」



…そんな次元に居ない。



「春…」


「……」


「大丈夫か?」


「…うん」


「……」


「待って…待って、」



必死に腕を掴むあたしに、藤本陽生は一々顔を寄せて話を聞いてくれようとする。



「陽生先輩…」


「…どうした?」



目尻から涙が零れ落ちる。



「春…」


名前を呼ぶ声が、困惑と戸惑いに満ちている。



「痛いのか?」


「……」


首を横に振ると、涙がまた一筋零れ落ちた。



「…怖いのか?」


「……」



初めてじゃないのに…二回目なのに…


いや…二回目だから、こんなにも感情が昂るのかもしれない。



情緒不安定な原因は、藤本陽生に対する好きが溢れ出した結果だと思う…



好き過ぎて泣けてきた。


幸せ過ぎて怖くなった。


終わりたくない…


まだ始まらないで欲しい…



「春…」


「……」


いつまでも、このままずっと、繋がっていたい…



「…やめるか?」


その言葉と同時に、目尻に伝う涙を藤本陽生が手で拭い取る。



「やめない…」


絞り出した声は、酷く掠れていた。



「嫌じゃねぇの?」


「うん…」


「…春」


「嫌じゃない…」


「…わかった」



この想いを言葉にするには、相手に伝わる様に話せるだけの経験が…あたしには足りない。



「動いていいか…」


「…うん」


「……」


「陽生先輩…」


「ん」


「ゆっくり…」


「あぁ…」



藤本陽生の擦れた声が耳について、あたしは何度も「待って…」としつこく言い続けた。


言葉通り待ってくれた藤本陽生は、きっと思うように抱けていない。


それを分かっていながら、しつこく待ったをかけるあたしをその度にきつく抱き締めてくれるから、また涙が出そうになった。



気持ち良くて、満たされて…離れ難くて、終わりたくない——…



抱き締められていた腕がゆっくりと引き抜かれていく。


離れようとしている温もりが、寂しくてしょうがない。



「行かないで」


「ん?」


「待って…」


「……」



藤本陽生は、再びゆっくりと両手をあたしの背中に通してくれる。



「ーっ…」


物凄い溜め息を吐ながら、きつく抱き締めてくれた。



「…春、」


「……」


「…もう、いいか?」


「……」


「…そろそろゴムが」


「……」


「外れる」



じゃあ行ったら?と、無言で見つめてみる。


なに怒ってんだ?と、無言で見つめ返される。



「風呂、入るか?」


「……」


「このままじゃ帰れねぇだろ?」


「……」


「…春、」



困ったような、怪訝そうな藤本陽生の表情。



…え、あたしこんなに我儘だったかな?と、ちょっと冷静になってきた。



また来た、急に恥ずかしくなるこの感じ。


ちょっと待って、急に恥ずかしい…


何甘えてんのあたし!急に恥ずかしい!



気恥ずかしさを隠すように、布団で体の前を抑えながら、勢い良く起き上がる。



藤本陽生が驚いたように、ズボンのチャックを閉める手を止めた。


ズボンがずり落ちないように、ベルトを掴みながら歩き出し、あたしが着ていたTシャツを見つけて、持って来てくれた。


何も言ってないのに、上からバサっと服を被せてくれる。



あとは自分でやれと言わんばかりに、あたしを見下ろしながらやっとズボンのチャックを閉めた。



カチャカチャと音を鳴らし、ベルトを閉める。


その一部始終を目で追いかけてしまう…



袖に手を通してみると、やはりサイズが大きく、丈が長く感じた。


これなら見えないかなと思い、布団から出てベッドから足を降ろし、下着が落ちていないか見渡してみる。


すぐ視界に入ってきた下着に手を伸ばし、穿いて立ち上がった。



藤本陽生は部屋のドアを開け、パタンと閉めて出て行く。


すぐに物音がして、再びドアが開くと、あたしが脱ぎっぱなしにしていた制服のブラウスや上着を持って戻ってきてくれた。



立ち竦んでいたあたしに、「ん」と差し出された制服。



「ありがとうございます」と受け取る。


「ん」と再び差し出された手を見やる。



「飲んだ方が良い」と手渡されたのは500mlのペットボトルに入ったミネラルウォーターだった。



「ありがとうございます…」


「風呂は?」



ありがとうをスルーする藤本陽生を見上げる。


そんなところも好きなんですけど…と、胸が高鳴った。



何見てんだ?と、無言で睨まれる。


何で見ちゃダメなの?と無言で見つめ返す。



「…おまえさ、」


「え?」


「その顔やめろ」



顔をやめろとは聞き捨てならない。



「早く風呂入れ」


「……」


「春、」


「一緒に入る」


「…は?」


「一緒に入る」


「……」


「…ダメ?」



はぁっと溜め息を吐いた藤本陽生は、前髪をクシャッと掴み、すぐにあたしへ向き直ると、



「おまえさ、」


「ダメ?」


「…さっとしろ」



どうやら了承してくれたらしい。



背を向けて部屋を出て行こうとする藤本陽生を追いかけた。



脱衣所に入るのは三回目。


何も変わっておらず、きちんと整理されている。



「制服は?」


藤本陽生が問いかけてくる。



「あ…」


「…取ってくる」


「あ、」


ありがとうって声をかけようとする前に出て行ってしまった。



すぐにガチャっとドアが開き、あたしの制服と一緒に、洗濯機の上に置いた。



「タオルはこの中」


棚の扉を開けて見せてくれる。



「はい」


覚えてますとは言わなかった。



…急に静まり返る空間。



あれ、これどっちから脱ぐの?


あれ…あたし脱いで良いのかな?



急に隣が見れなくなる。なんとも言えない気恥ずかしさから、着ていたTシャツの袖を掴んで上を脱いだ。



脱衣所が明るくてやけに恥ずかしく、脱いだのにTシャツを思わず抱き締める。



隣で藤本陽生もズボンを脱いだのが分かった。


…けど見れない。



ちゃっちゃっと脱ぎ捨て、こっちには目もくれず…浴室のドアを開けるとガチャンと閉めた。



すぐにシャワーの水音が、勢い良く響いてくる。



抱き締めていたTシャツを洗濯カゴに入れ、下着を制服の下に隠すように納めた。



…意を決して、浴室のドアをコンコンと叩く。



返事がないから、ゆっくりと押し開けた。



生温かい空間は、湯気と湿気が充満している。



頭をガシガシ洗っていた藤本陽生がシャワーを浴びたままあたしへゆっくりと視線を向けた。



「ん」とシャワーを差し出される。



「あ…」


それを受け取ると、



「先に出る」


そう言って、浴室のドアを押し開け、ガチャンと閉めた。



え、え、え、早くない?


と言葉も出せずに…シャワー音だけが耳に響く。



…あの一瞬で洗ったの?



いそいそと浴室のドアに手をかけ、身体を隠すように、開いたドアの隙間から覗き見る。



「洗いました?」


思わず声をかけると、藤本陽生はもうズボンまで穿いていて、タオルで頭をガシガシ拭いていた。



頭に被っていたタオルを引っ張り降ろすと、


「おまえはゆっくり入れ」


そう言って、ドアをガチャンと閉められた。



全身を洗って、あたしも急いで浴室を出る。



藤本陽生の姿は既にない…



洗っている時に、脱衣所を出て行くのが気配で分かった。



とりあえず、兎に角、急いで制服に着替える。髪を乾かす前に、一旦脱衣所を飛び出した。



部屋のドアは半分開いていて、押し開けるように室内を覗き込む。



「あれ…?」



誰も居ない。



呆然としたのは一瞬で、リビングの方から藤本陽生が歩いてきた。


その視線は、怪訝な眼差しへと変わる。



「…頭乾かしてから来い」


「はい…」


「ドライヤーあったろ…」



腕を掴まれ、脱衣所へと連れ戻された。



「乾かしてから来い」


言いながら、パタンとドアを閉められる。



ドライヤーを取り出し、スイッチをONにすると、温風と共に風音が響く。



鏡に映った自分の顔が、ニヤついていた。



今度は部屋の中に居るんだろうなと確信して向かうと、やはりドアは少し開いていて…ベッドを背に、あぐらを描いて座っている姿が見えた。



「乾かしたのか」


あたしに気づいて声をかけられた。



「はい…」


返事をしながらその隣へ同じように座り込んだ。



この距離感を、受け入れてくれているんだと…纏う空気で感じれる。



二人の時じゃないと、許されない距離だと感じていた。



「…それ」


「え?」


向けられた視線の先を目で追う。



「それ、無意識でやってんのか?」



藤本陽生の手を絡め取り、自分の膝の上で何度もその感触を味わっていた。



ゴツゴツしているのに清らかで柔らかく、指と指の間を押したり揉んだり…



「え?」


無意識でやっているつもりはなかった。



「は?」


驚いたように藤本陽生があたしを見やる。



「…意識してやってんのか、それ」



意識してやっているつもりもなかった。



どう説明すれば良いか分からず、無言で見つめる。


すると、藤本陽生の表情が見る見る内に険しくなる。



これはどっちだ…



苛立ちか…困惑か。



嫌だったのかな…と、呑気なあたしの思考は絡める指先の動きを止めない。



「…それ」


「え?」


「…おまえのそうゆうとこ」


「すみません」


「いや…怒ってんじゃなくて」


「……」


「やめろそれ」



藤本陽生は言葉とは裏腹に、絡めた手を振り解こうとはしない。



「気持ち良くないですか…?触れてると…」


「……」


「手を繋ぎたくなる人の気持ちが分かるってゆうか…」


「…は?」


「こうやって触れてると、安心しませんか?」



繋いだ手を自分の額に擦り合わせた。



「なぁ…」


藤本陽生の呆れたような言葉。



「…それ、外ですんなよ」


「え?」



何故か、急に心細くなる。



そんなあたしに、こいつ何も分かってねぇなと言わんばかりの表情を向けてくる。



「俺が…おまえの好意、無視できねぇから」



藤本陽生の言いたい事の意味を汲み取れない。



「そうやって当たり前に好意を向けられると俺がもたねぇ。今日だって…」


そこまで言って、言葉を止める。



「嫌だろ…どこでもかしこでも欲情されたら」


「…あたしとシたくなるって事ですか?」



何言ってんだこいつ…って言いたげな顔をされたから、言葉の意味を履き違えたのかと戸惑った。



「…外で触らないでくれって意味ですか?」


とりあえず、当てはまりそうな解釈を言葉にしてみる。



「……」



違うのか…



「……」



違わないのか…



「……」



何も言ってくれない。



ちらっと隣を盗み見る。



重なった視線は、無視をしていた訳じゃないと分かるぐらい逸らされる事は無かった。



藤本陽生のあぐらを描いている足の間に、絡めていた手を忍ばせた。内股の方から温もりが伝わって来る。



「春…」


「はい」


「…おまえ、分かってねぇだろ」



その声に、その視線に、身体が痺れてくる。



藤本陽生の足の間に手を着き、寄り添うように体を近づけた。


その行為をすんなり受け入れてくれた事に、好きが沸々と溢れてくる。



「良いですか?」


その問いかけに、怪訝そうな瞳を向けられた。



足の間に座っても良いかと確認のつもりで聞いた言葉に、質問の意図が伝わっていない様で、藤本陽生の表情が怪訝な面持ちのまま変わらない。



その顔も好きだなと納得。吸い寄せられるように肩に手を付き、跨るように座り直した。


見上げてくる視線も、悪くないなと思う。



両手が腰に回され、グッと引き寄せられる。顔が近づき、その行為に足の爪先まで痺れが襲ってきた。



「…甘え方が尋常じゃねぇだろ」


「……」



呆れた様な口調に、返す言葉が見つからない。



跨って座るあたしを抱き寄せ、肩の上に頭をもたれ掛けた。



「…大丈夫ですか?」


あたしが少しでも動くと、ギュッと力任せに抑え込まれる。



「あの…」



動かない藤本陽生にもう一度声をかけると、肩の上で頭をもたれ掛けたまま、顔だけこちらに向けたのが分かった。



視線を合わせる様に顔を覗き込むと、こうゆう時しか見れない表情をするから、あたしの心臓が急に暴れ出す。



覗き込んだのは間違いなくあたしだけど、こんなにも視線が近くなるなら最初に言っておいて欲しい。



「…キスして欲しい」


「は…?」


「キス…」


「ぶっ飛ばす」



えぇぇ!?



「チューがしたい」


「ぶっ飛ばす」



二度も大真面目に言われたから、一周回って可笑しくなった。


申し訳ない程クスクスと笑いが溢れる。



「春…」


名前を呼ばれた途端に、ピタリと笑いが止まった。我ながら驚く程に。



笑い過ぎたかと、少し冷静になる。



肩に持たれていた頭を起こすと、藤本陽生はあたしと目線を合わせて来た。



「なぁ」


「はい…」


「……」



次の言葉が続かない。



腕を摩ってみると、藤本陽生の身体がピクっと反応した。ずっと跨っている所為で、足が痛いのかもしれないと気を利かせ、体勢を変えようと動いたら、逆に動きを封じようとしてくる。



「……」


「……」



交わった視線はお互いを探り合っているようで…どうしたら良いのか分からず、藤本陽生の背中を撫でると、腰に回されていた腕が脇の下を通り、きつく抱き締められた。



肩に伸し掛かる重みは幼子が甘えている様な仕草に似て、愛しさからあたしまで顔を埋めた。



首筋にかかる吐息が、途端に這う様な舌の動きに変わる。



「…っ」


耳を口に含まれた瞬間、小さく出た声と同時に全身に鳥肌が立った。



藤本陽生の吐息と、舌の這う感触が擽ったい。両手で押さえつけられた頬にキスをされ、そのまま唇が重なった。



…好きな人が、自分に欲情している。


それを目の当たりにして、あたしまで欲情してしまう。



これは、もう一度ヤるんだろうか…



「……」



触れる唇は温かく、絡めてくる舌がやけに熱い。



「なぁ」


唇が離れても、頬を包む両手が離れない。



「もう一回、して良いか」



藤本陽生の吐息がかかりそうで、心臓が暴れ過ぎてもはや全身が痛い。


言葉にならず…触れそうな唇を見つめ、一つ頷き返した。



頬を包み込んでいた両手が離れると、腕を引っ張られ、セーターの袖口が伸びる。



何をされているのか理解した時には、襟ぐりが頭をすり抜け、セーターを脱がされた時だった。



もう一回とは、キスの事じゃなかったようで…ブラウスのボタンに手をかけられたから、ようやく思考が追いついた。



ただ脱がされるのを待つってゆうのは恥ずかしく…藤本陽生に変わって自分でボタンを外した。



肌けたシャツから直に腰へと手が回り、背中を摩りながらギュッと抱き締められ、胸元に顔を埋めてくる。



このままで十分だった。温かさに触れながら、抱き締め合っているだけで十分だった。



そう思ったのはあたしだけで、藤本陽生にとってはその先に進む事が重要らしい。



「上がれるか?」


ベッドへ視線を向け、誘導しようとして来る。



「……」


その質問に、首を横に振った。



「春」


「……」



このままが良いから、返事をしたくない。



「一回退けろ」


今度は質問ではなかった事に、慌ててしがみついた。



「…抱っこして」


「は?」


「このまま抱っこして」


「……」


「このまま、」



もう一度言おうとしたら、



「物理的に無理」



冷静に返された。



「え…」


「春、」


「このまま抱っこが良かった」


「……」


「このまま…」



しがみついて駄々を捏ねると、「一回退けろ」と力任せに腕を解かれた。



「あ…」



意に反して離れた温もりに、哀しみが迫る。



意が通らず駄々を捏ねる子供の様にはいかないけれど、理不尽な憤りを感じ、座り込んだまま動けないあたしを置いて、藤本陽生は立ち上がろうとする。



離れたくないって言ってるのに、離れてしまった事がこのやるせない苛立ちの正体かもしれない。



「春」


返事をする気にもなれなくて…流石に無視も出来ないから、気力を振り絞って視線だけ向ける。



「来い」



その偉そうな物言いに、小さく溜め息を吐いて、片膝を立てて立ち上がろうとした。



その直後に、藤本陽生が腕を引っ張り上げ、屈むようにあたしを抱き寄せる。



「え?え?」


状況を理解する前に、勢い良く担がれた。



どう頑張っても、抱っこの体勢とは言い難いけど、藤本陽生にして見たら、担ぐのも抱き上げるのも手段として同じなのかもしれない。



ベッドの上に降ろされる時、あたしの身体を支える手に力が入っているのを感じて、ゆっくりと丁寧に扱ってくれたんだと分かった。



男の子だからなのか、藤本陽生だからなのか。体格差も相まって、自分がか弱い小さな女の子になったような気さえして来る。



だが現実、あたしはか弱くも無ければ、小さな女の子でも無い。身長もそこそこあって、体重も人並みにある。



「どうした?」


藤本陽生の言葉に、首を横に振って答える。



「春」


「……」



見つめ返すと、腕が背中に回されゆっくりとベッドに寝かせられた。



やっぱり見下ろされるのは好き。守られている様な心強さと、離さないでいてくれる様な安心感がある。



抱き締めるように両腕を伸ばすと、あたしの首筋に頭をもたれ掛けてくる。抱き締められてるのか、覆い被さっているのか…首元に回した腕で頭を撫でてあげると、藤本陽生の体重に力が加わった。



それから何度もキスをして、舌を絡ませて…そのまま飲み込まれるんじゃないかと思う程。



唇が首筋を伝って移動して行く。



鎖骨に触れ、肌けた胸元まで下がり、ブラジャーの上に手を添えて、両手でゆっくり弄られた。



「するの…?」


言葉にしていた事に自分が一番驚いた。



藤本陽生は腰パンならぬ膝パン状態だったから、ずるずるとズボンを引っ提げている。


かく言うあたしも、スカートやブラウスをかろうじて着用しているだけ。



「シたくねぇの…?」


驚いた様に言われてこっちが驚いた。



こんな状態にまで持ち込んでおいて、行為を継続するのか確認する馬鹿がどこに居るんだ馬鹿…



「ごめんなさい…」


「……」



もっと分かり易く説明すれば良いのに、あたしとゆう人間は自分でもわかる程言葉が足りない。



カチャカチャと音をさせながら、ベルトを閉めると、ベッドに寝転んでいるあたしの横に腰掛け、見下ろしてくる。



横になったまま見上げると、「起きれんのか?」と優しい口調が返ってきた。



「…起きれる」


ゆっくり起き上がると、何じゃこりゃと言いたくなるぐらい、ブラウスが肌けて皺クチャだった。



あーあ…と、ブラウスの皺を掌で伸ばしてみる。



それを見ていた藤本陽生が突然立ち上がり、ベッドから離れると、クローゼットのドアを開けた。


ハンガーから服を外し、「着るか?」と、手に持った服を差し出して振り返る。



見せられたのは制服のYシャツ。



え…!? 着る!!



と心の中で大絶叫。あたしの心臓がキャーキャー言っている。



うんうんと頷き返すと、シャツを持って再びベッドサイドへ腰掛けてきた。



「良いの?」


一応、遠慮気味に確認する。



「多分でかい」



質問をスルーするとこ、好き。



「大きいの大丈夫」



興奮し過ぎて自分でも何言ってんだと思った。



「着させてくれる?」


「便所行ってくる」



当たり前にスルーされた。


でも好き…


あたしの脳内が、藤本陽生が好きだと叫んで止まらない。



一人になった部屋で、時計の時刻を確認した。そろそろ帰宅しないといけない。



名残惜しい…


名残惜しい…


…もう一度言っていい?



名残惜しいの…



藤本陽生のシャツを羽織ると、何だか少しだけ気持ちを切り替える事ができた。



あたしの好きな匂い。


このシャツ貰えないかな?と真剣に考えた。



大きくてぶかぶかする袖を数回捲り上げ、スカートを履かずにこのまま待ってみようかなと思案してみる。



が、物凄くスルーされそうな気がして、考えを改めた。



スカートにシャツの裾をインしようか悩み、とりあえずどれだけサイズオーバーしているかぐらい見せようかなと思って、裾をスカートの外に出したまま待機していた。



部屋のドアがゆっくり開かれる。


扉を押し上けて入って来た藤本陽生も身支度を整え終えたようで、扉を閉めて向き合った。



見て見てと言えないから、見て見てと言わんばかりにいそいそと近寄る。



全身へ視線を向けられ、あたしから何か言った方が良いのかなと思った矢先、



「…でかいな」



そう呟きながら、両手があたしの腰の辺りへと伸びてくる。



え、え、え、と混乱したのは、情事寸前で終わった為、脳内が完全にお花畑だった所為か、抱き寄せてくれるのかと勘違いしたからだ。



咄嗟に両手を前へ差し出す様に広げてしまったあたしは、シャツの裾を掴みたかったんだと気づいて、掴みやすいように両手を上げたんだと思われるように、そのまま地味に手を横へ広げた。



藤本陽生はそんなあたしの心中なんて気にも留めてないように裾を掴んで持ち上げたから、胸を撫で下ろした。



「…何してるんですか?」


シャツの裾をスカートのウエストへ捩じ込もうとしてくる。



「中に入れた方が良い」


「あ…スカートの中に?」


「これ外せるか?」


「え?」


「入んねぇから。きつくて」



スカートのウエストに一生懸命ワイシャツの裾を捩じ込もうとしてくる。


言われるがままスカートのホックを外して、ずり落ちないようにウエストを持ち上げた。



入れ易くはなったけど、自分でした方が早くないか?と思った事は口にしなかった。



背中やお腹の辺りに時々触れるその手が、今にも抱き締められそうなこの距離感が、心地良かったから。



シャツの裾をスカートに入れ終わると、ホックを留め直し、少しウエストからシャツを引き上げた。パンツが見えそうな程スカート丈が短い訳ではないけど、スカートの丈からシャツの裾が見えたら不格好だなと思って。



「これなら大丈夫ですか?」


何を基準にOKが出されるのか定かではないけど、裾はインした方が良いと言う解釈だったので、そう問いかけた。



が——…



「じゃあ帰るか」



素晴らしくスルー。



「え、」


総スカン喰らった気分で、思わず声が出た。



今までの件(くだり)は一体何だったのかと、誰か藤本陽生に聴いてほしい。




脱いでいたセーターとブレザーを手渡され、「ありがとうございます」と言って受けとった。



一着ずつ着終えると、待ってくれていた藤本陽生が部屋を出ようとする。



名残惜しいのはあたしだけなのかと寂しくなってしまう。



だけど、そんな気持ちに心乱されたくないから、小さく深呼吸をして藤本陽生の後を追った。



ドアの前で立ち止まったから、あたしも立ち止まる。



…動かないし喋らない。



え、え?と急に挙動が不審になるのは仕方ない。


左右に揺れてみるが、表情は見えない。



「…何かありました?」


大きな背中の後ろで、挙動が不審になるあたしは、ついに声をかけた。



え、何?どうしたの?



痺れを切らして、表情を確認しようと前へ入り込もうとしたら、開いていたドアをパタンと閉められ、ドアと藤本陽生の間に挟まれた。


背中が行き止まりで、動けない。


扉に手を付いているのか、あたしを囲むように両腕が目線にある。



これは一体どうゆう状況だろうかと、トキメキよりも混乱で頭が一杯だ。



藤本陽生とあたしには、少女漫画に出てくるヒロインとヒーローの様な展開はない。



「…どうしたんですか」



だから物凄く混乱した。


あたし何か悪い事したかな…とか、


気分悪いのかな…とか、


何か怒らせるような事したかな…とか。



交わらなかった視線が、ゆっくりと重なる。



現実には何秒か視線を交わらせただけに過ぎないと思うけど、ふたりに流れる時間はかなり長く感じた。




「眉間に皺寄ってんぞ」


「…え?」


想像してなかった言葉に、呆気に取られる。



「おまえが何考えてんのか、わかんねぇって言ったろ」


「…え?」


「言ってくんねぇとわかんねぇから」


「…なんで?」


「何が?」


「どうしてそんな事言うの?」


「さぁ、何か言いたい事あんじゃねぇの?」


「何で?」


「…何が」


「どうしてそう思うの?」


「…おまえさ、気づいてねぇの?」


「…え?」


「ずっと、俺の事目で追ってんだろ」


「…え?」


「言ったろ、見過ぎだって…」



「うん」と返事をしたかったのに、言葉が出なかったから、慌ててコクンと頷いた。



「おまえの好きが隠せてない」



「はい」と同意をしたかったけど、言葉が出ないから、また頷き返した。



どうかしてたのは、どうしたんですか?と問いかけなきゃいけなかったのは、自分自身だったと気づいた。



「…何で、」


「何が?」


「やだ…」


「何が?」


「急に恥ずかしい」



降ろしていた両手で顔を塞いだ。



「どうしてそんな事言うの…」


「聞きたいか?」



躊躇うような返しに、思わず両手を口元まで下ろした。



「聞きたいか?」



その言い草も、重なった視線も、凄く好き。



「…聞かない」


この後も恥ずかしいのはあたしだけの様な気がした。



「…あたし、そんなに分かりやすいの…」


心の声が思わず出てしまった。



出ちゃったと気づいた時には、藤本陽生の表情が怪訝な面持ちに変わっていた。



え、どっちの感情…?



「いや、おまえが何考えてんのか全然わかんねぇから」



あ、苛立っている様です。



「急に甘えてくるなと思ったら、突然物分かり良い奴に変わって…何なんだおまえ」



…それはお互い様じゃないですかって言ったら、余計に怒らせそうだからやめた。



代わりにギュッと抱きついた。



「…好き」


「……」


「まだ帰りたくない。ここに居たい」



この事を口にしたら、本当に帰れなくなるから言わなかったのに。



「離れたくない…」



一度口にすると、想いが止まらない。



「って言ったら、陽生先輩、困るでしょ…」



顔を埋めたまま、そう問いかける。



返事を期待した訳じゃないけど、ここまであたしの気持ちを暴いておいて、結局は帰らすんだから。



藤本陽生とゆう人は、憎たらしいぐらい愛しい。



返事がないから、やっぱり困らせたかなと思い、抱きついていた身体を離そうと、ゆっくり全身の力を緩めた。



埋めていた顔を上げると、


「ぃっ!」


勢いよく抱き上げられた。



背にした扉にダン!っと押し当てられ、抱っこされているような状態。身体が宙に浮く。



組まれた両腕と、自分の足であたしのお尻を支え、扉にあたしの体重を預けているようだった。



状況を把握したから、体重がかからないように、首に回した手と、腰に回した足をしっかりと絡めてしがみついた。



「…春、」


「はい…」



絶対重いから、喋らない方が良いんじゃない?と心配になる。



「…帰るなって言っても、おまえは帰るだろ」


「え?」


「まだ一緒に居たいって言ったら、困るのはおまえだろ」


「……」


「俺がどんだけ好きか、知らねぇだろ」


「……」


「ふざけんなよてめぇ」



持ち上げられた所為で、嫌でも視線が同じになる。逸らすことが許されない…



だって、今指摘されて気づいた。



母の事とか、夜のバイトの事とか、少なからず考えていて…


一緒に居たいのも、離れたくないのも本当だし、ずっとこの温もりに包まれていたいのも本当。

 


だけど現実は、それぞれの家族が居て、生活があって…帰る場所、居るべき場所が決まっていると思っている。我儘を言って良い時と、困らせてはいけない時を自分で見極めていたのかもしれない。



そしてあたしは酷くズルイ。



藤本陽生の優しさに甘えて、遠慮している様に見せた…



何を言っても言い訳になる気がした。でも、何か言わないといけない気がした。



「…春、」


戸惑うあたしの名前を呼んでくれる。



「はい…」


「俺がどんだけ好きか、教えてやろうか」



吸い込まれそうになる。持ってかれそうになる。


心も、身体も。



心臓が痛いくらい暴れだして、反射的に首を横に大きく振ると、藤本陽生の口元が少し緩んだように感じた。



「帰るか」


「…ごめんなさい、大好き」


「…おまえな、」


「我儘言って良い…?」


「は…?」


「キスしてほしい」


「は?」


「キス…」



もう一度言おうとしたら、唇を塞がれた。


思わず身体の力が抜けてしまい、ずるっと体勢が崩れる。


抱えらるように降ろされ、足が床に着いた。


唇が離れてしまい、思わず見上げたらもう一度唇を塞がれた。



この身長差がもどかしい。


抱き寄せられ、目一杯背伸びをする。



触れては離れる度に、お互いの視線が薄っすらと絡み合う。



ゆっくりと唇が離れた。


ギュッと抱きついたら、抱き締め返してくれる。



また一つ、お互いを分かり合えた気がした。




「あの、ここで良いです」


「いや、家まで送る」


「え、でも…逆なので」


「気にしなくていい」


「でも、帰り遅くなるし…」


「…おまえ、何の心配してんだ」


「……」


「自分の心配してろ」



マンションを出てから、駅まで向かう道のりで一悶着。


あたし達、分かり合えた気がしてましたよね?さっきまで。



一歩前を歩いている藤本陽生の背中を見つめる。


二人しかいない空間の時と、そうじゃない時の距離感の違いが凄い。



さっきまで、好きだのなんだの言い合って絡み合ってた人とは思えない。


思い出すだけでしんどいのに。


なんだろうな…このギャップ。



外だから格好つけようとか、2人で居る時は甘えようとか、そうゆう事を意図してやってないんだろうな、この人。



なんだろうな…このギャップ。



トキメキがストライクすぎる。



時々腕と身体が少しぶつかるのも、あたしが一歩後ろを歩いているから、置いて行かないように歩く速度を調整してるのかなって思った。



シゲさんが以前言ってた、「ハルは優しいから…」あの言葉が、今は良く理解できる。



藤本陽生は、優しい。


乱暴で適当な言葉を使っていても、行動が優しい。だから説得力があって、信頼するし、好きになる。



これはモテる…今更だけど。



え、ちょっと待って。



これから学校でどんな風に接したら良いんだろ…


外で好きが隠せてなかったら…あまり近づかない方が良いのかな。


でもそうだよね、藤本陽生にはこれまでも、これからもあたし以外の人達との交友関係がある。



…いちいち考えなくて良いかなと、切り替える事にした。



駅までの道のりは、あまり会話をしなかった。今日の好きを噛み締めながら、胸がいっぱいで。もう言葉はいらない、そんな心境だった。



藤本陽生がどうゆう心境だったかはわからないけど、何となくあたしと同じじゃないかなと想像した。



流石に改札口でさよならかと思っていたら、当たり前に切符を買い出すからビビった。



彼女に対する甘やかし方が想像を超えてくる。



時刻は二十時前。駅のホームで待つ事なく、すぐに電車が入って来た。


降りる人と交代で、乗車して行く人達の列に続く。


藤本陽生はあたしの前を歩いていたから、当然先に乗るのかと油断していたら、自分達の番が近づくと身体を引っ張られ、前へ押しやられた。


驚く暇なく、前の人に連なって電車に乗り込む。あれよあれよと言う間に人が流れ込むから、後ろを気にする余裕がない。


電車のドアが閉まると、やっと周囲に気を配れた。藤本陽生があたしの背後にピタリと張り付いている。


気配と匂いで判断したけど、一応確認のため、振り向き、見上げた。



視線に気づいて、「なんだよ?」って顔をしてくるから、藤本陽生を真似て「そっちこそなんだよ…」って心で呟き見て、すぐに前へ向き直した。



すぐに次の駅に到着する。電車が停車すると、あたし達の間をすり抜けるように乗客が出入りして行く。


離れざる得なかった距離を、すかさず腕を掴んで引き寄せてくれた。



なんだろ、このスマートな男は。



「次?」と聞かれたから、はいと言おうとしたのに、


「つ、次です」


思わず言葉に詰まってしまった。



人がまばらになったところを見計らい、あたしの背中に手を回しながら一緒にドアの前まで移動する。


ゆっくりドアが閉まると、扉の窓ガラスに鏡の様に乗客が映っている。藤本陽生は変わらずあたしの背中にピタリと貼り付いていて、満員電車だからそうならざる得ない。


彼氏と彼女の関係だからできる距離感であって、他人だとこうはいかない。


窓ガラスに映る人と視線が合いそうで下ばかり見ていた。


「…どうした?」


不意に藤本陽生の声がして、視線を上げる。



あたしの背後に張り付いているからか、背が高いからか、あたしの目線からでは窓越しに表情が伺えない。



藤本陽生の方へ身体を方向転換しようとしたら、何がしたいのか気付いた様に、あたしが動き易いよう少し空間を作ってくれた。



…とは言え、車両内が詰まっている事に変わりはなく、すぐに身体が密着する。



見上げない限り視線は合わないが、ほとんどの乗客がドアに向かって立っている為、その他大勢とも顔を合わせている気になり、こっちに向いたら向いたで気まずいなと思った。


それでも向き合った途端、酷く安心できたのは、その身体で包み込むように立ってくれていた藤本陽生のお陰に違いない。



窮屈かつ、周囲があまり会話をしていないから、言葉を発するのが億劫になる。



ずっと見上げるのもしんどいから、時々視線を向けるようにしたら、必ずと言って良いほど、なんだよ?って顔をされた。



なんだよ?って思っているかは知らないけど。


そんな顔も一々好きですから…と思いに耽る。



次の停車駅に間も無く到着すると言うアナウンスが、車内に流れた。


まだ向き合っていたかったけど、ここで降りるから開く扉に注意して、ドアに向き直す。



ドアが開くと同時にすぐに飛び出したから、押し出される事はなかったけど、藤本陽生が後ろに居たからかなと、降りてから気づいた。



背後を守ってくれていたのかな…と。



振り返ったら、涼しい顔して立って居たから、気の所為かなと思ったりもして。



「どっちだ」と行く方向を聞かれたから、「こっちです」と、帰る方向の改札口へ誘導した。



流石に改札前でさよならかなと思っていたら、改札抜けて歩いて行くからビビる。



流石に「え、え?」と声が出た。



「どこまで行くんですか!?」



引き止めるように静止する。



「もう家そこなんで!」



甘やかすにも程がある。



「言ったろ、家まで送る」


「いやいや!」


「家どっちだ」


「いやいやいや!」


「早くしろや、時間の無駄だろうが」


間髪入れず怒られた。



だけど嫌な気はしない。



改札口から外へ出ると、住んでいる家までの道のりは、隣に並んで歩いた。



単純に道のりを知らないから先を歩けないだけだと思うが、夜道だからか、隣を歩いてくれると安心するんだなと思った。



駅からそんなに離れていないし、人もまばらに居るから、いつもは帰り道もなんて事はない。



夜のバイトはタクシーで移動するし、暗くてもあまり気にした事がなかった。



今日はいつもより遅い時間だから、藤本陽生の言う通り、送ってもらって良かったと今更ながらに感謝。



「あの、ありがとうございました」



歩きながらお礼を言う。



「遅くなる時は送る」


「…はい」



もう一度、隣へ視線を向ける。



「…あの、」



声をかけると、こっちを見てくれる。



「手…繋いで良いですか?」



あたしの質問に、前へ視線を戻すと、「…聞かなくても繋げば良いだろ」と、呆れた様に言葉を返してくれた。



だから「はい」と返事をしたら、思いの他嬉しそうな声色になってしまい、我ながら気恥ずかしい。



そんな気持ちを隠すように、藤本陽生の腕をとり、手を絡めた。



必然的にあたしが寄り添っているようになる。


こんなつもりじゃなかったけど、グッジョブ自分。



閑散とした通りを抜け、住んでいる家が視界に入る所まで来た。



この帰り道を、一人で帰らすのが忍びない。



「帰り、大丈夫ですか?」



家の前に着いた。



「おまえは大丈夫か?」



玄関へ視線を向けながら、あたしの質問には答えない。



家の心配をしてくれている。



「うちは大丈夫です」


そう伝えると、「じゃあな」と踵を返す。



あっさりとした態度に、寂しさが募る。



咄嗟にその背中にガバッと抱きついた。


ゆっくり腕を引き抜くと、何も言わず抱き締め直してくれる。



こうやってきちんと受け入れてくれるとこが好き。



「じゃあな」



二度目の「じゃあな」は、最初よりも優しく聞こえた。



藤本陽生も、離れ難いと思ってくれていたら嬉しい…


そう思いながら家の中に入った。

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