28
あなたとあたし
四人兄弟の末っ子で、お兄ちゃんに可愛がられ、両親からも大切に育ててもらってきた藤本陽生。
一人っ子で、実の父親は失踪し、義理の母とその旦那さんに引き取られたあたし。
生活環境が全く違う。
恐れられているのに、いつも周りには人が集まり、友達を大切にする藤本陽生。
中学の頃は結構ないじめにあっていて、友人と呼べる人がおらず、家を出て一人で生活をする為に夜の水商売をしているあたし。
交友関係も全く違う。
こうして交わる筈の無かったあなたとあたし。
そんなあなたとあたしが出会えたことに、強く、強く感謝したい。
え、シゲさん?
そうだね。シゲさんにはとっても感謝。
でも、一番は―――…
交わる筈のなかったあたしを見つけてくれた、
…———あなたに。
放課後の教室内はやけに賑やかで、窓から覗く空は太陽が雲に覆われていた。
周りの喧騒が、今は凄く落ち着く。
こうして待っていると、自分だけが別世界にいるみたいで、この喧騒の中に居る間は、深く呼吸をする事が出来た。
静かな場所で待っていたら、自分の心臓の音が大きく響いてしまう気がするから…
「あ、陽生くん」
声の小ささとは反対に、大きく手を振るのは岡本。
同じクラスだから、居てもおかしくないんだけど…つい、何故居るんだろうと疑問を抱いてしまう。
岡本に気付いたのか、あたしに気付いていたのか…藤本陽生の視線はあたしに向けられていた。
同時に岡本の視線もこちらに向けられたのが分かった。
「津島さん、俺シゲさんの言ってる意味、分かったっす」
岡本は別に席が近い訳ではないのに、いつも何故か近くにいる。
「陽生くんって、マジ津島さんしか見てないっすね」
放課後の喧騒の中、岡本の言葉がリアルに耳に届いた。
「俺が手を振った意味…」
その言葉には思わず笑いが出そうになった。
「津島さんって、笑うと可愛いっすね」
その言葉には、自分でも分かるぐらい頬が引きつった。
岡本を無視して鞄を手に持ち、教室を出ようと立ち上がる。
どこを見て前に進めば良いか戸惑い、視線を少し落とした。
「津島さん、陽生くんに挨拶しても良いっすか?」
歩きながら、岡本が話しかけてくる。
「…好きにしたら?」
少し素っ気なかったかと、言ってから思った。
「っしゃ!」
岡本が小さくガッツポーズをし、あたしを追い越して駆け出す姿を見ていると、どっちが彼女か分からない。
「陽生くん!お疲れっす!」
ほんの少し後から追い着いたあたしにも、聞こえた岡本の弾む声。
「俺すぐ退散するんで、あとは楽しんでください」
何を楽しむんだ、何を!
藤本陽生を見れないあたしは、岡本に視線を向けたまま。
その頭上から、藤本陽生が小さく微笑んだのが分かった。
岡本に向かって微笑んでいるのも、その立ち位置で何となく分かった。
だって、空気が変わった。凄く温かいものが空気と混ざって流れた。
見てないけど。分からないけど。確かめたくて、思わず見上げてしまった。
「じゃあ津島さんも、また明日」
岡本の言葉は聞こえていたけど、藤本陽生から目を逸らすのが勿体なくて、「…うん」と言葉を返した。
岡本が立ち去るのを気配で感じ、藤本陽生の視線があたしにゆっくりと戻ってくるのを目で追った。
それはそれは自然に視線が重なった。
緊張する余裕もない程、自然と重なった視線から、目が逸らせない…
「何だ?」
ずっと見てりゃ、そう言われる。
やばい。やばい。もう一回言う、やばい。
あたしやばい。シゲさんどうしよ、あたしやばい。
目を細めた藤本陽生が、あたしを捉えて離さない。
シゲさんの言っていた事が、鮮明に蘇ってくる。
走馬燈の様に脳裏を駆け巡る———
「おい」
更に目を細めて、睨んで来た。
心臓がこれでもかと言わんばかりに鼓動を速める。
周辺を見渡し、またあたしへ視線を戻した藤本陽生は、
「行くぞ」
そう言って、あたしの肩へ手を回し、強制的に移動を試みた。
不意に接触された所為で、歩いているけど歩いている感じがしなくて…どこかフワフワとしていた。宙に浮いて移動している様な感覚だった。
触られてる肩の感触すらない。
まるで麻痺しているみたい。
そっと、左肩を盗み見た。
なんと…とっくに藤本陽生の手はあたしの肩から離れている。
そりゃ感触がなくて当たり前だ。
何かに引っ張られている様な感覚はなんだろう…自分の体なのに、自分の意思じゃないみたいで、変な感じだ。
隣を歩いている藤本陽生はどうなんだろうと、見上げてみる。
特に変わった様子はなく、普通に歩いていた。
見慣れた制服姿の筈なのに、初めて見た様な感動がある。
やばいやばいやばい、あたし本当にやばい。
シゲさんが変な事言うから、意識してしまう。
「何だ?」
「え!?」
「何ずっと見てんだ」
「え!?」
ずっと見てた!? あたしずっと見てた!?
「何かあんのか?」
ないです!何もないです!
「いや…目で訴えられても分かんねぇ」
見る見る内に藤本陽生の表情が怪訝な面持ちへと変わって行く。
「…楽しいですか?」
やっと出た言葉は、聞きたかった正直な気持ちだった。
「はっ?」
一瞬眉間に皺を寄せたけど、すぐに口角が上がり、「それなりに」と発した。
藤本陽生の表情から、何と無くその感情が手に取る様に分かる。
もちろん全ては理解していないけど、的外れな思い込みかもしれないけど…以前に比べれば分かり易くなった。
見方を変えると、こんなにも気持ちが寄り添えるものなの?
その一瞬一瞬がとても貴重で、何を考えているのか…次は何て言うのかなって、その表情をいつまでも見ていたい衝動に駆られた。
最後にもう一度言っていい?
シゲさん、あたしやばい。
あたしの肩と、藤本陽生の腕が今にも触れてしまいそう。
「シゲが戻って来た時、言われた事がある」
あたしからじゃない会話に、一々胸が弾む。
「おまえとサトルの距離が近いって」
「え?」
…だれ?
階段を降りていると、踊り場で不意にこちらへ視線を向けられた。
「さっき一緒に居たろ」
「え?さっき誰か居ました?」
「居たろ…」
怪訝そうに眉間へ皺を寄せた。
…これはあれだ。
結構苛立ってるやつだ。
手に取る様に分かるから、思わず頬が緩んでしまう。
「仲良んじゃねぇのか?」
「え?」
「いっつも一緒に居るだろ」
「え?」
「…おまえ俺の話聞いてねぇだろ」
視線が逸らされたと同時に、足取りが速くなったから、慌ててその後ろ姿を追った。
「あの!聞いてます。誰だろ?サトル?さっき一緒に居たかな…?」
もはや、独り言。
「…おまえ、」
そう言って急に振り返って来るから、
「っとぁっ」
前を見てなかった所為で、ぶつかってしまった。
ふわっと香る…
良い匂い。
少し見上げると、制服の襟元が視界に映る。
「あ…ごめんなさい」
見上げれたのは、襟元まで。
その先で待ち構えている瞳には、視線を合わせられなかった。
だって…結構恥ずかしい。
良い匂いするし、ぶつかったのに抱き締められてる様な錯覚に陥ってるし。
どうゆうタイミングで離れたら良いのか…この短時間で超考えてしまった。
両肩にふわりと触れる感触。
掴まれたと同時に、ゆっくり体が後退した。
視界が急に明るくなり、制服の襟元からゆっくりと下がる視線。
「靴、履い来い」
言われて見れば、靴箱の前。
「外で待ってる」
何事もなかったかの様に、両肩を掴んでいた手が離れ、藤本陽生は歩き出した。
何事もなかったけど、ただぶつかっただけだけど。異様に緊張したのは、あたしだけだった様だ。
自分の靴箱の前、大きく溜息が出る。
緊張が一気に解けた。
ちょっと浮かれ過ぎた。
大きく息を吐くと、靴を履き替えて昇降口へと進む。
急に何を考えているのか分からなくなってきたその背中が、愛しさと切なさと…何かをあたしに抱かせた。
自分に余裕がある時は、相手の気持ちを汲んで対応できるらしい。
自分に余裕がなくなった途端、こんなにも動揺してしまう。
「…お待たせしました」
近くへ行って声をかけると、ゆっくりと振り返ったその背中が、急に近くなった気がした。
「それで、サトル?なんですけど…」
さっきまでの余裕はどこに行ったのか、緊張から吐いて出た言葉。
…あれがダメだった。
さっきぶつかったのがいけなかった…
その所為だ。
鳴り止まない心臓の音の言い訳を、一生懸命考える。
だって、あの良い匂いが…未だに鼻を掠めて消えない。
「サトルは、岡本だ、岡本悟」
「岡本?」
「同じクラスだろ」
「岡本?」
「いっつも一緒に居んだろ」
「岡本!?」
あいつ、サトルって名前なの?
「…名前知らねぇのかよ」
向けられた視線に答えられない。
「サトルからも、良くおまえの話しを聞いてる」
それはちょっと聞き捨てならない。
「仲良いんだろうなと思ってた」
そんな優しく微笑まないでよ。
「シゲもそうだけど」
そう言って、チラッとこちらを見ると…
「サトルも、教室で誰かと一緒に居るって事がなかった」
関心する様な口振りで前を見据えた。
「え?岡本が…?」
シゲさんなら、何となく分かる。
…岡本は、KY過ぎて友達が居ないだけじゃなかろうか…
「シゲもサトルも、おまえの話しばっかりで、」
そこで言葉を止めた藤本陽生へ、視線を向けてみたけど続きを話す気はないらしく…
「で、距離が近いって何だ?」
すっかり忘れていた最初の質問を持ち出された。
いやマジで…あたしがシゲさんに聞きたい。
何の話よ…
「あたしにも、ちょっと意味が分からなくて…距離が近いってゆう意味が…」
それは、岡本がシゲさんとあたしに対して言った距離感についての話しなのかと…少し緊張した。
「岡本が、おまえの事好きなんじゃねぇかって言ってた」
…えぇ? それ、あたしに言う?
…ここであたしに聞く…?
こうゆうところ、本当に凄いなと…ある意味感心する…
あたしには絶対出来ない。
言えないし、聞けない…
誰かが藤本陽生を好きだとして、あの子、藤本陽生の事好きなんじゃない?って、本人にどの口が言えんだって話。
「どうなんだ」
いや…
あたしに聞いてどうする…
「サトルがおまえの事好きなんだったら、話が変わってくる」
え、何の話…?
どう変わるの…?
「…目で訴えられても分かんねぇ」
困った様な表情をして見せた藤本陽生に、あたしの心臓が再び大きく跳ねた。もはや心臓なのか、どこなのか分からないところまでドクドクと全身を駆け巡る。
「あの…シゲさんが言ってる内容の意味は分からないですけど…岡本は、あたしの事を好きじゃないです」
「そうなのか?」
「はい…」
そもそも岡本が溺愛しているのは、藤本陽生…あなたです。
「そうか」
その呟きが、宙に舞って消えた。
校舎の門を出ると、「こっちだ」と道しるべをしてくれる。
一度二人で通った道。
駅までの道のりは覚えている。
それでも…
「次はそこを曲がる」
まるで、あたしに覚えろと言わんばかりに、道順を口にした。
「シゲさんは…他に何か、言ってましたか?」
会話が少し途切れて、何を話そうかなと口を開いたあたしに、
「別に」
簡単に会話を終了させてくれるところが、流石藤本陽生。
意図的じゃないと、今なら分かる。
それでも、会話を続けたい乙女心を…少しは分かってほしい。
「陽生先輩って、シゲさんとあたしが仲良くするの、嫌ですか…?」
だからか…何となく悲観的な事を言ってしまった。
自分からこの話題を振る辺り、あたしも相当…強かな女かもしれない。
駅に着いて、電車のホームに向かう。
わずかな沈黙だったけど、あたしには長く感じた。
「何が」
「え?」
またしても急に振り返って来るから、質問したあたしが吃驚する。
「シゲと仲良くするって何だ」
「え?」
「いや、どうゆう意味だ」
「え?」
「いや、おまえが聞いてきたんだろ…」
そうだけど、あたしの質問の意味…分かってます?
「シゲと仲良くするって何だ?シゲと仲良くしたいって話か?」
「いや、」
「じゃあ何だ」
「いや…あたし、陽生先輩と付き合ってるのに、シゲさんと変わらず仲良いのは良くないのかなって…」
語尾が小さくなるあたしに、藤本陽生の表情が怪訝なものに変わる。
…え、これはどっちだ…?
怒ってる…?
…それとも、理解できないだけ?
「あのな…おまえが俺に何をどう言って欲しいのか知らねぇけど、仲良くしようとして仲良くしてんならやめとけ。シゲはそうゆう奴があんま好きじゃねぇ」
怒ってる訳じゃなかった。
「こいつと居たら楽しいとか、気づいたら一緒に居たとか、シゲはそうゆう無意識の中で意識してる様な奴だ。ってゆうか…おまえら既に仲良いんじゃねぇのかよ…」
意味が分かんねぇって顔するから、あたしも曖昧に頷いてしまった。
「シゲがおまえと一緒に居る様になって、良く学校に来る。前は兄貴の店にばっかり居座って、あんまり来なかったけどな」
思い出した様に語るその口調が、とても優しく聞こえた。
「サトルもそうだった」
…話題にしなくてもいい名前まで出す。
「サトルも、教室に馴染めねぇわ、学校に行きたくねぇわって、そんな事ばっかり言ってた」
…それはKYだからじゃないの。
「でも、おまえと仲良くなってから楽しそうにしてる」
へー…と、全く興味が無いから空返事をした。
「おまえも楽しそうだから、シゲとサトルには感謝してる」
…え?え?
岡本の話しの直後だったから良く聞いてなかった。
「良く笑ってるのが聞こえる」
…あたし?
「シゲ達のお蔭だと思ってる。あいつらが居たから、俺は今おまえの隣に居れんじゃねぇの?」
藤本陽生の表情がふわっと笑みを作る。
電車が駅のホームに入って来るアナウンスが流れた。
風があたし達の前を駆け抜ける。
「誰と仲良くなろうとおまえの勝手だろ。それでおまえが楽しいならそれで良いんじゃねぇの」
電車の扉があたし達の前でゆっくりと開いた。
降りて来る人がまばらになる。
「乗るぞ」
振り返ったその人は、あたしの好きな人———
電車の中は、同じ様な学生で溢れていて、座る所なんて無いから、扉付近に立った。
以前一緒に乗った時は、ラッシュの時間帯じゃなかった所為か、あの時とは違う人の多さ。
いつもこんな満員電車に乗っているのかと思うと、朝の通勤ラッシュを想像して、社長出勤も頷けてくる。
電車内には、あたし達以外にも男子高校生と女子高校生が居て、彼氏と彼女なのかなって想像した。
あの子達はどんな会話をしてるのかな…付き合ってどれくらいなのかな…って。
不意に視線を藤本陽生へ移すと、その視線は窓の外に向けられていた。
どのアングルも絵になるな…と、感心してしまう。
まず、背が高いから既に雰囲気がかっこいい。
同じ制服を着ている筈なのにその立ち姿がかっこいい。
髪型が好みすぎて、当たり前にかっこいい。
窓の外を眺めてどこ見てんのか分からないけど、横顔もかっこいい。
当然の如く、顔がかっこいいから、只々かっこいい。
なんてったって、何だろこの香り…良い匂いが絶賛継続中。
クンクンと匂ってしまいたい衝動に駆られる。
こんなに近くに居るのに、触れられない事がもどかしい。
電車が揺れないかなって、藤本陽生を見つめながらそんな事ばかり考えていた。
…だからかな。
伸びてきた手が、あたしの頭に触れた…と思ったら、その手がゆっくりと目元に下がって…
「やめろ」
突如、その言葉と共にあたしの視界を遮る様に当てられた手。
「おまえ…電車降りるまで見てんだろ…」
えっ? 見てたのバレた?
「やめろ…」
「見てないです」
「……」
「もう見てないです」
目元に触れそうな手まで、良い匂いがしてくる。
今度はこの手を掴みたい衝動が生まれる。
「…それやめろ」
え、どれ?
あたしから藤本陽生の表情が丁度見えない。
「その、ジッと見てくる癖…」
「癖?」
「癖じゃねぇの?」
「さぁ…?初めて言われました…」
言ったと同時に、藤本陽生の手がゆっくりと離れ、視界にその姿を捉えた。
当然の如く、視線は交じり合う。
「見てんじゃねぇか…」
「え?」
あ、そうだった…と思い、咄嗟に視線を逸らした。
もう見てないって言ったのに、これじゃあまるであたし…
好きみたいじゃないか。
いや、好きなんだけど…
「シゲが、」
「え?」
「おまえが、」
「え?」
「……」
「え?」
「…俺の事、」
「え?」
「ずっと見てるって」
「え?」
え、え、え?
シゲさんがそんな事言ったの?
何言ってんのシゲさん!
馬鹿なのシゲさん!
あたしめちゃくちゃ恥ずかしい奴じゃん!
「…そんなに見てますかね…」
気まずさを極力表に出さない様に平然を装った。
でも、見ていた事に違いはない…
まだ気持ちがはっきりしていなかった時、シゲさんと一緒に居ながら、遠くから藤本陽生を眺めていた。
あの笑顔をあたしに向けてくれないかなって…あの声をあたしに向けてくれないかなって…
「ごめんなさい…」
「…いや、謝れって話じゃ…」
あたしも人の事を言えた義理じゃない。
こんなにも、無意識に目を見やる程、その存在を意識しているのだから。
でもこれはしょうがないんじゃないかな…
そんな嫌そうな顔されても、好きだから見ちゃうし、好きだから近づきたい。
…あれ?
“ハルはあんな感じやから、表立ってせぇへんし、言わへんやん”
今、シゲさんのあの時の言葉が不意に脳裏に浮かんだ。
“つまりは、春ちゃんの賢さで察してやってほしいねん”
それって…
藤本陽生に視線を向けると、また窓の外を眺めていた。
あたしに見られるのが嫌とかじゃなくて、どうしたら良いか分からないんだ。
「察しました」
見つめたままそう言葉を発したあたしに、
「は?」
ゆっくりと視線を向けてくれた。
何言ってんだって顔してる。
もうやめてよ…
こっちが察して欲しいわ。
その顔…あたし本当に好きなんだけど…
手を繋ぎたいと初めて思った。
その手に触れたい。その腕に触れたい。その制服着たい。なんならその腕の中に入りたい。
煩悩を振り払う様に、降りる駅に到着するアナウンスが車内に流れる。
隣で溜め息を吐く藤本陽生を見ながら、同じ事を考えていたら面白いのに…なんて事を考えていた。
「降りるぞ」
「はい」
思わずにやけそうになる。
扉付近に立っていたから、すぐ降りる事が出来て、改札口へと向かって歩いた。
駅前で降りる人は多く…人、人、人で賑わっている。
「少し歩く」
「はい」
その背中を追いながら、見慣れた路地に入る。
少し前を歩いている藤本陽生を見て思った。
あたしは隣に並んで歩くより、少し後ろを歩く方が好きかもしれない。
その姿を、その背中を、ずっと見ていられる。
いつ振り向くのかなって、考えるだけで楽しくなる。
気怠そうに歩いているのに、猫背にはなっていなくて、堂々としたその姿勢から、真っ直ぐな性格が見て取れる。
最初は只の愛想のない奴だと思っていたけど。いい加減な事を言わないから、ヘラヘラしている奴よりよっぽど良い。
そんな奴と比べる事すら苦痛かもしれない。
好きになると、どんどんその人の良さが見えてくるから、恋は盲目とは良く言ったものだ。
この路地を抜けたら、見えて来るマンション。
そう言えば…
マンションを目の当たりにして、ふと気づいた。
どうして今日、家へ呼ばれたのか…
電話で話していた時は、シゲさんに邪魔をされてあまり深く考えれなかったけど…付き合っていれば、彼氏の家へ行くのは当たり前の事なのか…
考えても良くわからないから、とりあえず考えるのをやめた。
「ここ」
「はい」
だから覚えているのに…一々説明してくるから可笑しくてしょうがない。
…あたしが忘れていると思っているのか。
エレベーターに乗ると、
「七階ですよね?」
覚えてるって事を証明してやった。
「……」
「…あれ、違いました…?」
物凄く驚いた顔をされたから、間違えたのかと思って、ドヤ顔で言ったあたしも酷く驚いた。
「…いや、あってる」
「あ…良かった」
…なんだろ、このサバイバル。
常に緊張感。
自分の言動を絶対間違えられないこの感じ…
七階に着くと、藤本陽生はエレベーターのドアが開くボタンを押して、先に出ろと言わんばかり。
何この紳士…誰この人…
見えてきた部分が全部好きに変わっていく。
先に降りたものの、その姿を追う為、先に歩き出すのを待った。
エントランスを抜け、すぐに見えてきた自宅のドア。
どっちに行くのかなと一瞬考えたけど、明和さんの部屋だよなと、すぐ答えを導き出した。
案の定、明和さんの部屋の前で立ち止まると、鍵を取り出し、開錠する。
その拍子に、隣の部屋の扉が、ガチャっ…と音を立てた。
その音がする方へ視線を向けるのは無意識で…音がした方を見てしまうのは人の心理だと思う。
そこは、藤本陽生の実家。
開かれた扉を、まるでスローモーションでも見ている様な感覚で眺めていた。
そこから出てきた人は、扉をガチャンと閉め、あたし達の方へ視線を向ける。
…え、なに…?
どうすればいいの…これ…
咄嗟に、あたしは藤本陽生の方を見る。
開けようとして閉まったままのドアノブに手をかけたまま、藤本陽生も同じ人へと目を向けていた。
…いや、睨んでる…?
…え、怒ってる…?
「入るぞ」
「おい」
言ったが先か、言われたが先か、ほとんど同時に聞こえたその声は、どっちが発した言葉か分からない程、良く似ていた。
え?え?と交互に見やるあたしに、藤本陽生じゃない方の人が、「だれ」と、あたしを見た。
「あ…」
「てめぇに関係ねぇだろ」
あたしの言葉を遮って、藤本陽生が扉から離れてあたしの前に立つ。
「おまえに聞いてねぇわ」
同じ声が、同じような言葉を発した。
混乱したのも束の間、すぐに理解できた。
だって…凄く似てる。
藤本陽生は園村さんに似ているなって思ってたけど。
何が何が…
園村さんなんて比にならない。
藤本陽生と双子なんじゃないかと思う程、目の前のこの人の方がそっくりだ。
「お兄さん…?」
背後に隠される様にして立っていたあたしは、小さく呟いた。
「この時間はこいつが居るんだった…」
「え…?」
十中八九お兄さんであろうこの人は、自宅の扉に鍵をかけ、こちらへ向かって歩みを進めて来た。
立ちはだかる藤本陽生の体に力が入る。
「春、部屋に入ってろ」
「え?」
「入ってろ」
「いや、でも…」
それは逃げるみたいで感じ悪い気がした。
「なんだよ、彼女?紹介してくんねぇの?」
言ってる傍から、近づいて来たこの人が、藤本陽生の声と同じ声で喋る。
同じ様な口調、同じ様な背丈、同じ様な雰囲気。
…なんだろこれ。マジで双子?
「へぇ、可愛い」
…いや、何かが違う。
「なに。それ隠れてんの?あぁ、隠してんのか」
…なんか、
「あぁ。彼女が俺の事を好きになるのが嫌なんだ」
チャっラ!
なんかチャラいぞ!
見た目も雰囲気も口調も藤本陽生なのに、言ってる事がチャラい!
「てめぇぶっ飛ばす…」
「おぉ。やれるもんならやってみろや」
互いににじり寄るから、背後にピタッとくっついていたあたしまで、近づく羽目になった。
「おまえに群がる気色わりい女共と一緒にすんじゃねぇ」
「え?俺の可愛い彼女達が何?」
お…おちょくってる…
藤本陽生を…
キレる…これは絶対キレる…
「おまえ自分がモテねぇからってひがんでんじゃねぞ」
やめて…ダメ…やめて。あなたお兄さんでしょ!それ以上藤本陽生の神経を逆なでしないで!
「何で俺がてめぇをひがまなきゃなんねんだクソが」
ほらキレた…
これはキレた。
暴力反対!
「ちょ、ちょっと、ストップ!」
藤本陽生の背中を押しやる様に前へ出て、互いを制す様に両手で待ったをかけた。
「あ…あの、」
思いっきり睨まれた。
両方から…
やっぱり良く似ている。
「あの、初めまして…」
藤本陽生に似ているこの人に、軽く会釈をしたら、背後から「チッ」と舌打ちが聞こえた。
「君、陽生の彼女?」
さっきよりも柔らかい視線に、少し胸を撫で下ろす。
「…はい」
藤本陽生へ視線を向けると、まだまだ戦闘モードで。
「こちらこそ、初めまして」
笑った顔に、少しときめいてしまったのはしょうがない。
だって…めちゃくちゃ似てる!顔!声!色々!
「俺、これからバイトだから。また今度ゆっくり話そうよ」
「あ…はい」
「じゃ、」
にこっと笑ったその横顔を目で追う。
藤本陽生の前を横切る時、
「女の子の前でピリピリしてんなよ」
と、爆弾を落として行った。
「はぁぁあ?」
案の定です…
「おいこら戻って来いや!」と、マンションのエントランスで怒鳴り散らす藤本陽生を、必死で止めたあたしを誰か褒め称えてほしい。
明和さんの部屋の扉を開け、自分よりも大きい体格の男を無理矢理玄関内へ連れ込んだ。
いや、押し込んだ?
どっちかと言えば、押し倒した?
「わっ!」と声が出た時には、勢い余ってバタン!と音を立てて玄関のフロアに土足のまま倒れ込んでいた。
後ろでドアがガチャンと閉まった音がし、倒れたと思った時には、どこも痛くなくて…バッと上体を起こすと、藤本陽生が下敷きになっていた。
「だ、い、じょう…ぶ、ですか…?」
「…いてぇわ」
「ごめんなさい…」
いやちょっと待って、謝るのあたし?
「いや、俺が悪い…」
だよね!?
あたしを乗せたまま上体を起こした藤本陽生と、急に視線が近くなり、ようやく自分の体勢に気付く。
藤本陽生の上に跨った状態で…
「お、ります…」
急に恥ずかしくなり、いそいそと体から離れた。
「立てるか?」
先に立ち上がった藤本陽生が、あたしに手を差し伸べる。
その手を掴むと、力強く引き上げられた。
「悪かった」
幾分冷静さを取り戻したのか、藤本陽生はリビングに向かって歩き出したのと同時に、そう呟いた。
「お兄さんですよね…?」
絶対当たっていると思いながら、確信に迫る。
リビングに入り、キッチンに向かうその姿を目で追った。
返事をする気はないらしい。
キッチンからリビングに戻ってくると、ソファに座って、暖かい飲み物が入ったマグカップをあたしに差し出した。
座れと言われてる気がして、受け取ったコップを手に持ったまま腰を下ろす。
向き合ったあたしを確認して、飲み物を口につけた。
だからあたしも同じ様に頂いた。
温かいものが体に染み渡る。
それをテーブルに置き、小さく息を吐いた。
「三番目の兄貴だ」
不意に来た返答。
だろうな…
「ですよね。すぐ分かりました」
だって…あなた達、瓜二つですよ。とは言えなかった。
「でも、あんまり好きじゃねぇ」
だろうな!
「いつも、あんな感じですか?」
「いつも?」
「目が合った瞬間から、戦闘モードみたいな…」
さっきの二人を思い出していると、「いつもって訳じゃない」と意外な返答が返ってきた。
「…いつもじゃない?」
「あぁ」
「いつもじゃないんですか?」
「あぁ」
いやいや…あれはいつもやり合ってる感あったよ!
「普段はすれ違っても口聞かねぇし、誰かしら別の兄貴も居るし、二人になる事が殆どない」
なるほど…
「でも…さっきは、こいつ何か言ってくるなと思った」
「そうなんですか?」
「…おまえ気づいてねぇの?」
「え?あた?」
あたし?と、最後まで発する事が出来なかった。
あまりにも意外で。
だってあたし関係なくない?
「お前の方しか見てなかったろ」
誰が。
「俺の方なんかまるで眼中になかったろ」
え、誰が?
「クソが。まじナメてんなあいつ…」
え、
「また会う気でいるみたいな事言ってたろ」
え、お兄さん?
「いや、あたしの方こそ眼中にない感じでしたよ!」
慌てて否定した。
だって、お兄さんは藤本陽生とばかり話をしていた。
「おまえどこ見てんだ」
「どこって…」
顔ばっかり見てましたとは言えない。
「…似てるって言われませんか?」
「言われる」
「…ですよね」
「あいつの女に、あいつと間違えられた事もある」
うわぁまじか…
「しかも一回やニ回じゃない」
お兄さん…
「そうゆうのもあって、あんま好きじゃねぇ。似てるってだけで巻き込まれる」
「仲、悪いんですか…?」
「良くはねぇわな」
「そうですか…」
あたしは一人っ子だから、そうゆうのはよく分からない。
不機嫌丸出しで話す藤本陽生には悪いけど、兄弟が居る環境を羨ましく思っていた。
あたしには、喧嘩ができる相手すらいない。
「悪かった」
黙り込んでしまっていたから、聞こえた謝罪の言葉に思わず顔を上げた。
「え…そんな…気にしてません」
我ながら、何を?と言いたくなる。
「こんな話をする為に連れて来たんじゃねんだけど…」
「…はい」
「おまえに話あって」
「…はい」
今度は藤本陽生が少しだけ視線を伏せた。
何だろう…と、その姿を見つめた。
暫くして視線を上げたその表情は、何かを決意した様に真っ直ぐとあたしを捉えた。
そんな瞳で見られたら、逸らす事ができない…嫌でも向き合わされてしまう。
「春、」
こんな時に、あたしの名前を呼ぶから…動く事すらできない。
「…誤解せずに聞いて欲しい」
そんな前置きをして、藤本陽生は言う。
「俺は、おまえが今一よく分からねぇ」
「え?」
何を聞かれるのかとビクビクしていた。
何を言われるのかと、ほんとにビビった。
「いや、そうじゃなくて…」
何も言ってないのに、あたしの返答を待たずに言葉を続けた。
「俺がお前の事をよく分かってねぇから、おまえの事がよく分かんなくて当たり前なんだけど、」
「……」
「おまえがどうしたいのか、されたら嫌な事とか、そうゆうのが少しでも分かれば、おまえの事、理解できんのかなと思って」
「…何が、分からないんですか…?」
自分の声が、酷く低く聞こえた。
「俺が見るとすぐ目を逸らすのに、こっちが見てないと思ったら、おまえ、俺の事ずっと見てんだろ」
…え?
「嫌なのかと思って離れたら、平気そうに近づいて来るし」
「……」
「俺はダメで、おまえは良くて、その基準がわかんねぇ」
「あたし、嫌がってました…?」
「さぁ…分かんねぇから聞いてる」
「嫌がってる様に見えてました…?」
「…そうかもなって、思う時はあった」
「……」
すれ違い過ぎて、涙が出そうになってきた。
「こうゆうの聞くのもどうかと思ったけど、やっぱ聞かねぇと分かんねぇなって…」
「……」
「昨日もすぐ帰ったろ」
「……」
「何が嫌で、何ならセーフか、おまえの基準があるなら教えてほしい」
「基準なんて…」
そんな優しい声を出さないでよ。
「基準なんて…ないです」
そんなもの、あったらもっと上手くやれている。
「不意に思うっていうか…こんな表情するんだとか、こんな事言ってくれるんだ…とか」
それに一喜一憂しているだけ。
「…今も思ってます」
「……」
「…そんな事、思ってくれてたんだって…」
「……」
「…そうゆうとこ、好きだなって…」
「……」
「あたし…自分では結構、分かり易い人間だと思ってました」
黙って聞いてくれている事も、聞いてくれているってゆうのが、凄く伝わってくる。
「難しくしちゃって…ごめんなさい…」
「いや、」
「昨日帰ったのも…陽生先輩寝てたから、あたしも帰って寝ようかなって…そんな単純な話で、嫌で帰ったとか、そんなんじゃないんです…ごめんなさい」
「いや、」
「見られるのは慣れてなくて、見ちゃうのは無意識で…さっきも言われて気づいたってゆうか…ごめんなさい」
「いや、別に」
「あたし、人との距離感…分かってなくて…岡本にも、注意されたばかりで…どうしたらいいか、あたしにもよく分からなくて…」
「春、」
「自分の事しか考えてないから…陽生先輩の事まで、気が回ってなかったかもしれません…」
「もういい」
「あたし…傷っ、傷つけちゃいましたか…」
「傷ついてない」
いつの間にか視線は下へ下へと向いていて、その温もりを近くに感じた時には…もう腕の中だった。
「傷ついてないし、おまえに謝ってもらう事でもない」
「ごめんなさい…」
涙が出るかと思ったけど、ぐっと抑える事ができた。
「俺の理解が足りなかった」
「そんな事ないです…」
「そんな事あるだろ、現におまえが傷ついてる」
…え?
あたし傷ついてる?
「俺が傷ついたと思って、おまえが傷ついてる」
「そんな事ないです…」
「ないなら良い」
やっぱり…藤本陽生からは良い匂いがする。
「俺は傷ついたりしない。でもおまえを傷つけるかもしれない…それが分かんねぇから、こうやって確認してるだけだ」
「……」
「誰も悪くない」
抱き締められた腕が、更に強まった。
「何も無いならそれで良い」
と、小さく笑ったこの人は、この時あたしが何を思ったかを知らない。
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