27
付き合うとゆうこと
月曜日、週の初め。
教室の前に着くと、そこに居る筈のない人が立っている。
どう声をかけたら良いかなんて、考える暇もなかった。
いつからあたしに気づいていたのか、いつからそこに立っていたのか、そんな事を頭の中で巡らせる。
数メートルの距離を保ったまま、こちらを真っ直ぐ見据えていた。
駆け寄って声をかけなきゃと思っても、足元が急に重く感じる所為で、踏み出した一歩がおぼつかない。
その姿を瞳に映してしまったから…
たかだか数メートルの距離を縮めるのに何時間も費やした気さえし、ようやく目の前に辿り着いた時には、心拍がとてつもない速さで動いていた。
目線を合わせる様にそっと見上げると、相変わらずな出で立ちで、藤本陽生があたしを見下ろす。
「おはようございます…」
とりあえず口を開けば、
「連絡先教えろ」
予想外な言葉が返ってきた。
何か言われるんだろうなとは思った。あたしの教室の前に立っている時点で、あたしに用があって来てるんだろうと思った。
だけど、これは予想外。
「…連絡先?」
「ケータイ持ってるだろ」
「…はい」
「知らないと不便だろ」
「不便…」
急にどうしたんだろうと思いながらも、言われるがままに、鞄に入れていたケータイを取り出した。
番号を告げたら良いのかなと思案するあたしに、藤本陽生は自分のケータイ番号を口にした。
いきなりの事で、え?え?と慌てるあたしに、
「今言った番号にかけろ」
すぐに催促の言葉を浴びせてきた。
もう一度番号を聞き返すと、物凄く睨まれた気がした。
それでももう一度聞き出し、藤本陽生が言った番号を復唱しながら自分のケータイへ番号を打ち込んだ。
発信ボタンを押すと、自分のものではない着信音が鳴り響く——…すぐに通話終了ボタンを押すと、藤本陽生が自分のケータイを確認した。
用済みとなったのか、制服のズボンのポケットに仕舞い込み、
「……」
再び無言でこちらを見据えた。
昨日の今日で、黙って帰ったのはやっぱり良くなかったかなと…さっきまで後悔していた事を、再び思い巡らせる。
———少しの沈黙と共に、行き交う生徒の視線がやけに気になりだした頃、
「俺はおまえの事が今一よく分からない」
とてつもなく怪訝そうな表情を向けられた。
突然投げかけられた言葉…その聞き捨てならない言葉の意味を理解するには、少し時間が必要だった。
「何かあるなら言ってくれ」
以前の藤本陽生からは考えられない言葉が耳に届き、胸がぎゅっと締め付けられる。
「何かって…」
「…知らねぇけど、何かあんじゃねぇの?」
「何かって言われても…」
「じゃあ俺にどうして欲しい」
「え?」
「どうして欲しい」
「え?」
聞き返したのが気に入らなかったのか、藤本陽生の表情が再び怪訝そうな面持ちに変わる。
「ごめんなさい…」
あたしの謝罪をどう感じたかは分からないけど———…
「嫌な事があるんなら言え」
「え?」
何を言いたいのか早々に理解が出来ず、「何もないです…」と言葉を返したら、「そうか」と、納得したような言葉とは裏腹に、下げられた視線がやけに暗かった。
「何なんすかあれ」
教室に入るなり、待ち構えていたかの様に言葉をかけられる。
「陽生くん、津島さんが来るのずっと待ってたんすよ」
言わずもがな、岡本。
朝からプライベートな問題に土足で踏み込んで来やがる。
「それなのに、津島さん素っ気なくないっすか?」
立ち止まっていた足を動かし、自分の席へと向かうあたしに、岡本は懲りず話しかけてくる。
「付き合ってんすから、もっとテンション上げていきましょうよ」
席に辿り着いてもまだ、岡本は離れようとしない。
「あれじゃあまるで、陽生くんの片想いっすね」
「…はっ?」
無視を決め込むつもりはなかったけど、岡本に言葉を返すのがなんとなく気怠く…結果的に無視を決め込む形になっていたあたしも、その言葉はさすがにスルーできない。
「あんた何言ってんの?」
「え?聞いてました?俺の話」
前から分かっていた事だけど、本当にいちいち、いちいちな奴だ…
「片想いって何?」
「片方だけが一方的に好きって意味っす」
「は?」
「知らないんすか?」
「知ってるわ!片想いの意味ぐらい!」
「なんすか…」
岡本は怪訝な眼差しを向けてくる。
「片想いの意味とか聞いてないから!」
どうしてあたしが頭悪いみたいな扱いをされてんだ。
岡本に…!
「じゃあなんすか…」
「勝手に片想いにしてんなって話!」
岡本と話てると、朝からどっと疲れる。
「だって、彼女の教室の前で彼女が来るのを待ってる姿見たら、健気じゃないっすか!それなのに、彼女ときたら対して嬉しそうでもなく。さっさと会話切り上げてるし」
こいつ一体どこからどこまで見てたんだろ…と睨みを効かせて気付いた。
「あんた一部始終見てた訳ね」
呆れて溜息すら出ない。
「陽生くんが健気に思えてならないっす」
あたしの話なんてどうでも良いって感じで話す岡本に、あたし達の何が分かるんだと、罵ってやりたくなった。
「いい加減にして」
だけどあたしは、そんな大人気ない事はしない。
「あたし達の事はあんたに関係ない。あんたがどう感じようが勝手だけど、一々詮索しないで」
言ってやった、冷静に。
返す言葉もないのか、岡本はポカンとした表情を浮かべている。
「分かったらあっち行って」
担任が来るまで読書をしていようと、鞄の中に入れてあった本を探すあたしに、
「津島さんってやっぱバカっすね」
以前も聞いた言葉を、再び浴びせらた。
これには、今度はあたしがポカンとした表情を浮かべる羽目になった。
「何でそんなバカなんすか?」
「はっ?」
「人と付き合った事あります?」
「はいっ?」
「あぁ、付き合った事ないんすね。てゆうか津島さんって、友達も居ないっすよね?だからっすよ。相手の気持ちが分からないんすね」
本を探していた事も忘れて、鞄を机の横へ掛け直した。怒りか悔しさか分からない感情がフツフツと湧き出て来るのを感じていた。
「そんなんだから、陽生くんの気持ちも分かんないんすね」
こいつ何言ってんだっ――て、
「普通なら会話で気づきますもんね」
何の話してんだっ――て、
「それが分からないって、津島さんやっぱバカっすね」
本気で殴ろうかなって思いが過ぎった。
「だって津島さん、」
「はいストップー」
岡本しか居ない筈の視界に、言葉と共に突如現れた手。
岡本とあたしの間を遮るかのように、
「春ちゃんをバカ呼ばわりするとはええ度胸してんな」
シゲさんがその手をあたしの肩に乗せ、目の前に立ちはだかる。
まるで、あたしの怒りを沈めるように、岡本の言葉からあたしを守るかのように。
「シゲさん…」
その言葉は、岡本の声だった。
それに対して何か言葉を返す訳でもなく、シゲさんはあたしへ視線を向け、ニコリと微笑む。
「キミ、好きな子いじめるタイプやろ?」
直後、茶化す様な口調で岡本に話かけた。
何も話さない岡本の心情は、その表情からは読み取れない。
「せやけど、春ちゃんはアカンわぁ」
シゲさんが岡本の顔を覗き込む様に距離を詰めた。
「ちょっかい出すな」
その威圧的な言葉に、あたしの怒りはどこへやら…シゲさんが岡本をぶっ飛ばすんじゃないかと思って、胸がハラハラと音を変える。
確かに岡本をぶっ飛ばしてやりたかったけど、第三者のシゲさんがぶっ飛ばすかもしれないとなると、話は変わってくる。
なんとも穏やかじゃない。
長く感じる沈黙の間、どうしようかと挙動不審に陥るあたしをよそに、
「誤解っすよ!津島さんも言ってくださいよ!シゲさんマジ怖いっすから!」
張り詰めた空気を打ち破るかの様に、岡本の声がやけに響いて聞こえた。
「ほんとに誤解っす!津島さんを励ましてたんすよ!」
何が誤解だ、このKYビビリが…!!
よくもまぁ…そんな出まかせを言えたもんだ。
「そうなんや」
え!信じちゃうのシゲさん!?
「ほな、もうええやろ。春ちゃんと話あるし」
シゲさん、そんな言い方じゃKY岡本には伝わらないよ…
「とっとと失せろ」ぐらい言ってやらないと…
「はい。じゃあ俺、屋上にでも行ってます」
そんなバカな!と、目を見張るあたしをよそに、KY岡本がまさかの空気を読んでいる。
「ほな、春ちゃんちょっと座ろか」
立ち去る岡本の後ろ姿から目が逸らせないあたしを、シゲさんが穏やかな口調で諭した。
いつの間にか立ち上がっていたあたしは、ゆっくりと腰を下ろし、シゲさんは近くの空いてる席の椅子を持って来て、あたしと向き合う様に座った。
シゲさんが居るのはいつもの事だからか、教室内はあたし達に無関心と言わんばかり。各々が会話を楽しみ、ざわめき合っている。
そのざわめきの中、シゲさんが口を開く。
「春ちゃんはバカちゃうで」
岡本に言われた言葉を、シゲさんは慰めようとしてくれているらしい。
「春ちゃんは素直やし、賢い」
…別に気にしてなんかいないのに。
「春ちゃんは賢いから、分かるやろ?」
そう思った矢先、あたしにプレッシャーをかけてきた。
賢いから分かると言われても、分かってもいないのに「はい」と返事をする事はできない。
だけどシゲさんの言い方は、有無を言わせない感じで、そこは肯定した方が良いのかと――…
「はい…?」
…——悩んだ結果、曖昧な返事をした。
案の定と言わんばかりに、困った様に笑みを浮かべたシゲさんは、
「ええか?」
少しだけ表情を引き締め、あたしを見据える。
「付き合ったら、はい終わり。じゃ、アカンねん」
何を言われてるのかさっぱり分からないから、シゲさんが言う程賢くないあたしは、さっき曖昧に返事をしておいて正解だったと、深く胸を撫で下ろした。
「今の春ちゃんは、ゴールした気でおるやろ?それがちゃうねん。今スタート地点やで」
「…あたし?」
「そや。ハルとの間に色んな誤解があって、やっと分かり合えた思うて、ほんまに付き合う事になった。春ちゃんそれでゴールしたつもりなん?」
「ゴール…?」
「付き合ったからゴールちゃうで。付き合ってからがスタートや!」
ガッツポーズを決めたシゲさんは、いつにも増して声が張っている。
「ゴールとかスタートとか、そんな事思ってないけど…」
「思ってるよ」
「思ってないよ」
「意識してへんだけや」
「いやほんとに思ってないよ」
「見てたら分かんねん」
「そんな事言われても…」
岡本といい、シゲさんまで…どうして責める様な事を言うんだろうか。
目線を下げたあたしに、目敏いシゲさんが気づかない訳がない。
「春ちゃん」
名前を呼ばれて視線をシゲさんに合わせる。
「付き合うってゆうことは、どうゆうことやと思う?」
…分からない。
「相手に歩み寄らな」
そんな事分からない…
「ハルはな、春ちゃんの事いっぱい知りたいんちゃう?」
知られたくない事がある。
「言いたない事も、一緒に過ごした時間が口を開かせる事もあんで?」
「…え?」
「要するにやな、自分ら付き合って早々すれ違ってんねん」
「あたし達?」
「そや」
「あたしと陽生先輩?」
「そうや」
「すれ違ってんの?」
「そうや言うてるやん」
「知らないよ!」
声を張るあたしに、「何ギレやねん」と、シゲさんが笑った。
…こちとら全く笑えない。
「そもそもどこですれ違ってる?いつすれ違った?さっき会った時何ともなかったけど…」
「ほんまにそうなん?」
「え?」
「ハルが行かんやろ普通」
「え?」
「朝っぱらから早起きして、彼女の教室まで行って、待ち伏せなんかせぇへんやろ」
「あたしを、待ってたね…」
「社長出勤が当たり前の男やってん。それが最近朝から来てんねん。分かりますか?オネーサン」
「…あたしですか」
「ん?」
「あたしが、ゴールしちゃってたから」
呟いたあたしを見て、シゲさんがイタズラに微笑む。
「春ちゃんは賢いし、好きや」
どうやらあたしは、シゲさんが言うみたいに、付き合えた事をゴールだと思ってしまったんだと思う。
自分では全く自覚がなかった。
藤本陽生があたしに歩み寄ろうとしてくれてたのに、あたしは気づこうともせず…
「むしろ、陽生先輩どうしたんだろ?ぐらいに思ってました」
…呑気なものだ。
「春ちゃんらしいっちゃそれまでやけど」
シゲさんが笑った。
「…傷つけたかな」
「傷ついてへん」
「でも…陽生先輩からしたらあたしの態度って、感じ悪かったんじゃないかな…」
「そんなんで傷ついてへんよ」
「本当?」
「ほんまや」
「…そっか」
「でもな、」
胸を撫で下ろすあたしに、シゲさんは続ける。
「付き合うって色んな感情が入り混じんねん。ハルはあぁゆう奴やろ?ベラベラ喋らんやん。せやから、相手の事を知ってないと、誤解とかすんねん」
「うん」
「春ちゃんもそうやろ?ハルが何も言わんかったら誤解する事あるかもしらん」
「うん」
「付き合うってそうゆうことや」
シゲさんはニコリと笑って、かなり雑に締め括ってた。
結局のところ、自分達で悩みながら歩み寄って行くものなのかもしれない。
「…シゲさんに相談してもいいの?」
「相談?」
「恋愛相談とか…」
「恋愛相談?」
「あたし、今まで付き合った事ないし…この先また壁にぶち当たったら、シゲさんの知恵を借りても良いの…?」
「俺に…?」
「あ…シゲさんは陽生先輩の友達だから…そうゆうのは困るか…」
「春ちゃん」
「あ…いいのいいの。自分で考えないとダメだよね」
「春ちゃん」
「はい…」
「恋愛相談って何それ?」
「え…ごめんなさいっ…」
「アカン…めっちゃ可愛いーやつやん」
ポカンと口を開けたままのあたしとは違い、シゲさんは何だか嬉しそう。
「俺一人っ子やねん」
「…はい」
「なんや妹おったらこんな感じなん?」
「さ、さぁ…」
あたしも一人っ子だから分からない。
「妹から恋愛相談されるん?想像しただけでお兄ちゃん嬉しいわ」
「お、兄ちゃんって…」
「なんだい妹」
「いや呼んでないから」
あたしも分からないけど…多分、本当の兄と妹だったら、あたしは兄に恋愛相談はしない…かな…
「何でも言うてきや」
「…よろしくお願いします」
頭を下げるあたしに「律儀な子や」と、シゲさんは頭を撫でてくれた。
「でも、乗れへん相談もあるしな」
「うん、そうだよね」
「今、何かあったら言うてみ」
「何を?」
「悩みや、恋愛について」
「今?」
「せや、恋愛相談に乗ったんで」
んぅ…と唸るあたしに、
「無いんかい!」
シゲさんは、それはそれは楽しそうに笑ってた。
「…シゲさん」
「ん?」
「あたし、岡本に謝った方がいい…よね?」
「それ恋愛相談ちゃうやん」
「シゲさん… 一回恋愛相談から離れてよ」
思わず笑いそうになっていると、「ハハッ」とシゲさんが先に笑った。
「別にえんちゃう?」
「え?」
「謝らんでええやろ」
「そうかな…」
「春ちゃんが謝りたいんやったら好きにしたらええけど、あいつにはあれぐらいでえんちゃう?」
「そうかな?」
「いや知らんけど」
「もう!相談に乗ってくれてないじゃん」
「だってこれ恋愛相談ちゃうやん」
「はー?」
「何しに俺がKYの事で春ちゃんから相談受けなアカンねん!アホちゃう」
フイっと視線を逸らしたシゲさんに、KYって…と思いながら、そう思ってたのはシゲさんも同じだったんだなと、なんだか親近感が沸いた。
別に岡本が嫌いって訳じゃない。嫌いになるほど人間関係を築いてないし…
ただ、藤本陽生の事になると、岡本はやけに突っかかってくるから、あたしも一々反応してしまった。
「シゲさん、」
視線を逸らしたままだったシゲさんに声をかけると、シゲさんはこっちを見てくれる。
「シゲさんは、あたしの事…どう思う?」
「え…春ちゃん…」
困惑しているかの様な表情をしているシゲさんに、
「あ、違う違う。ごめんごめん、そうじゃない」
すぐさま否定する言葉を発した。
「まだ何も言ってないやん!」
「言わなくても分かったの!」
「えー?なにそれ、以心伝心やん」
流石にあたしも、藤本陽生じゃないけど…目の前にいるシゲさんを見て、ほんとにふざけた奴だと思った。
「あたしの事どう思う?って聞いたのは、シゲさんにとってあたしが恋愛対象かどうか聞いたんじゃないから」
「えー違うん?なんや春ちゃん、俺に気ぃあるんか思うたわ」
「そうゆう思考なんだろうなと思ったから否定しました」
真面目に言葉を返すあたしとは反対に、シゲさんは凄く楽しそう。
「あたしが聞きたかったのは、」
「あーはいはい、分かってます」
仕切り直そうとしている人の言葉を遮って、黙れと言わんばかりに掌をあたしの顔の前に向けてきたシゲさんは、絶対さっきの仕返しをして来たに違いない。
シゲさん、根に持つタイプだな…
だけど、あたしは一々そんな事を言わない。
「つまり春ちゃんが聞きたいのは、自分が他人から見て、どう見えてんのか知りたいんやろ?」
ほらね…いつだってそう。
確信をついてくるから、やっぱりシゲさんに甘えてしまう。
「前は考えたこともなかったけど、あたしって間違ってるのかな?とか、これであってるのかな?とか、すごく気になってしまう」
「それは、ハルに対してやろ?」
「…うん」
「自分の言動に自信が持てへんのは、恋してる証拠やで」
「そう…なのかな…」
「春ちゃんは、今まで他人からどう思われようと、気にせんタイプやったんちゃうん?それが、どう思われてるか、少なくともハルに対しては思う訳やん? ええやん。恋に悩みは付きもんやし。そんなんハルに聞けるんやったら苦労はない!よし、シゲさんが解決したろ!」
「え…」
いやいやちょっと待って!と、シゲさんに不服を申し出ようとしたが、「なんやねん」とあたしの頬を掴んで「その不服そうな顔は」と、引っ張りやがる。
「まずは素直になる事、これ大事」
人の頬をさんざん引っ張りやがった後、相変わらず雑に締め括るから、
「いや、思いの他痛かったですけど!」
引っ張られた頬に手を当てながら大きな声を出した。
「春ちゃんはほんま可愛いな」
そんな事を言うから、無意識に頬を擦っていた手がピクンと反応する。
「いや、動揺するからやめてよ」
「え、なんでやねん」
「いやいや、言われ慣れてないから」
シゲさんの方をまともに見れないあたしを、
「あー、照れてんねや?」
シゲさんが面白がってる事は分かった。
「ほんとにやめて」
「ふざけてへんよ、マジやから」
「だからそうゆうの、」
「そうゆうとこ、ハルに見せたらええねん」
「…どうゆうとこ?」
「春ちゃんはそういうとこ惜しいねんなぁ」
「だからどうゆうとこよ!」
シゲさん恋愛相談になってないじゃん!と言ったあたしに、「おいおい恋愛のエキスパートナメてんのか!」って言うから、
「エキスパート!?」
思わず声が大きくなった。
「あ、馬鹿にしてるやろ」
「エキスパートなの…」
「あ、絶対馬鹿にしてる感じやん」
「エキスパート…」
「完全に馬鹿にしてるな」
言うのが早いか、するのが早いか、頭に触れられた感触に気づいた時には、シゲさんの手は既にあたしの頭から離れていた。
「シゲさんさ、」
「ん?」
「いや、シゲさんのその優しさを、あたしも見習いたい」
それ、無意識?そう聞こうと思った言葉は呑み込んだ。
あたしが言う事ではない気がした。
…これじゃまるで、
「何を戯れ合ってんすか」
そう、まるで戯れ合ってるみたい…
…え?
「シゲさん俺には散々、近づくなとか、どうのこうの言っといて」
「なんやねんおまえ」
「シゲさんはちゃっかりしてんじゃないっすか」
シゲさんに指差して結構大きな声を出すのは岡本。
「なんでおまえがここにおんねん」
「ここ俺の教室っすから!シゲさんの方がここに居るの違和感っすから!」
いつの間にか教室に戻って来ていた岡本は、あたし達が座っている席の付近まで来ていて、
「何か知らんけど、人に指差すなや!」
シゲさんに人差し指をへし折られた。
「いやいや、なんすかこの感じ!津島さんも津島さんっすよ!あんたもっと警戒した方がいいっすよ!そうゆう事する相手、この人じゃないっすよ!」
「おい、指差すな言うてるやろが」
再びシゲさんに人差し指をへし折られた岡本は、
「シゲさんも、どうゆうつもりか知らないっすけど、そうゆうの、俺が陽生くんだったらいい気しないっすよ」
「おまえハルちゃうやん」
「例えばの話っす!」
「おまえの例えとか聞いてへん」
「…なっ!」
「なんやねん」
立っている岡本に対して、「だいたいおまえ頭が高いねん。俺を見下ろすな」と、座っているシゲさんがふんぞり返っている。
「っ…」
言い返す言葉がないのか、岡本は分かりやすく唇を噛み締めた。
岡本の視線が、このやり取りを黙って見ていたあたしに向けられた。
「津島さんのそうゆう行動が、陽生くんを不快にさせてるって思わないんすか?」
ふて腐れた様な言い方をする岡本に、言い返す言葉が見つからない。
現にあたしは、シゲさんに甘えている事を自覚している…
シゲさんとの距離感が心地良くて、シゲさんの優しさを手放す気がない。
「黙ってれば許されるんすか、甘やかされ過ぎっすよ」
黙っていれば許されるとは思っていない。だけど、シゲさんとの距離感については、自分でもどう対処すべきか考えられていない。だから、いつもみたいに岡本に言い返す言葉が見つからない。
あたしが藤本陽生の立場だったら、あたし以外の女の人との距離感について、絶対嫌だと思う。
付き合ってからそうゆう現場に遭遇した事もないし、想像したこともない。
でも、それは藤本陽生があたしにそうゆう想像をさせないぐらい、正直に接してくれた結果だったのかもしれない。普段から嘘のない言動が、今のあたしの安心感に繋がっているんだと…
「シゲさん…」
「ん?」
「あたしに足りないのは、思いやりかもしれない」
「ほぉ」
「いや、真剣に」
「いや、真剣に聞いてんで」
「そうなの?シゲさん分かりにくいよ」
あたしの言葉にシゲさんはフッと笑みを作って、
「それ、ハルにも言われたことあるわ」
と、呟いた。
小さく聞こえた言葉に、言ってはいけない事だったかなと不安になる。
「それで、春ちゃんはどないすんの」
「え?」
自分の発言を後悔していたあたしに、シゲさんはさっきとは打って変わって、いつもの口調。
「せやから、春ちゃんはどないしたいの。思いやり足りひんねやろ?それどないすんの」
「あたし、やっぱり思いやりが足りないのかな…」
「いや、春ちゃんが言うたんやん」
「いや、そうなんだけど…自問自答?みたいな」
「いや知らんがな」
「だって、分からないんだもん。何がいけなくて、何が正解か…他人から言われて、あーそうかもなって気づいて、でも実際、自分がその立場に立ちきれてないから、想像の範囲を超えなくて、実感がなくて、なんでダメなんだろ…て、頭ではダメなんだって分かってても、はっきりダメだって言われると、分からない」
シゲさんの事は好きだけど、シゲさんに対して恋愛感情はない。第三者から見れば、あたしの行動は誤解を招くかもしれないけど、あたし自身に、疾しい事はない。シゲさんとのこの距離感を、上手く言葉で表す事ができないのがもどかしい。
「だってシゲさんは…」
「春ちゃんは賢いから好きや」
あたしの言葉を遮るシゲさんは、何もかも分かっている様な素振りを見せる。
「春ちゃんは俺に甘えてんねん」
確信をついてくる。
「いや、ちょっと!」
「アカン、おまえ今しゃしゃんな」
「いやいや、ちょっと!」
「アカン言うてるやろ!おまえが今口挟んだらややこいねん」
KYな岡本は、止めるシゲさんの言う事を聞かず、
「その甘えが、陽生さんに対して失礼だって言ってんのが分かんないんすか?彼氏と彼女になったんすから、彼氏以外の男に甘えてんじゃねぇって話っすよ!それが男女が付き合うって事じゃないんすか!」
KYという期待を裏切らない。
「俺が陽生さんだったら、マジこんな彼女、こっちから願い下げっすけどね!」
「おまえな…」
「なんすか」
「今すぐ黙れ」
「何でっすか」
「今すぐ黙らな、清水の舞台から突き落としたるからな」
いやいやシゲさん、そんな子供じみた事で岡本が黙るわけない!
「それは困るっす」
…こいつマジか…
黙り込んだ岡本に呆気にとられていると、シゲさんが「なぁ春ちゃん」と、あたしを現実の世界へ引き戻した。
「春ちゃんの気持ちは、よう分かんで」
シゲさんは落ち着いた口調で話を続けた。
「俺も同じやからな」
「え?」
「春ちゃんと一緒。甘えてんねん」
「シゲさんが?」
「そうや」
「誰に?」
「ハルに」
…ちょっと意味が分からない。
「ハルが俺の言動を許してるから、そんなハルに甘えて、こうやって春ちゃんと戯れ合うてんねん」
「…あたしが思ってたのとちょっと違う」
「いや、ほぼ合ってんで」
あたしはてっきり…
「シゲさんは、あたしの事好きじゃないでしょ」
そう、シゲさんは、あたしの事なんて好きじゃない。
そんな事は最初から分かりきっている事。
今更口にする事の方が、違和感があるぐらい。
だって、シゲさんは出会った頃からずっと言ってた。
「春ちゃんは賢いから好きや」
ほら…
シゲさんはいつだって、あたしや、その周りに居る人へ…こうやって示していた。
あたしの事は、賢いから好き。言い換えれば、賢くなければ好きじゃない。
そのままの意味…あたし自身の事なんて眼中にない。
シゲさんの許容範囲の中にたまたま居ただけで、たまたまあたしがシゲさんにとって都合良く立ち回れていただけ。
シゲさんにとってのあたしは、
「ペットみたいな感じ?」
口にすると、ちょっと違うかなと感じた。
「…それはちょっと、意味が変わってけぇへん?」
シゲさんも同じ解釈だった様で、「あたしも言ってみて、違うかなと思った」と笑うと、「俺めっちゃ悪趣味に聞こえるやん」と、シゲさんも笑った。
「え、結局どうゆう…」
「なんやおまえ、誰が喋って良い言うたん」
「いやいや、シゲさん達の言ってる意味がさっぱり分かんないっすもん」
「なんでおまえに分かってもらわなアカンねん」
やはり黙り続けれなかった岡本は、間髪入れずシゲさんに言葉を返された。
「…誤解してんのって、俺かなって思ってきて。え?違いますかね?いや、なんか分かんなくなってきて…俺てっきり、シゲさんと津島さんは無神経な人達だと思ってて…」
「なんやと」
「陽生くんの事を蔑ろにしてる気がして」
「やっぱりおまえ黙っとけ」
「すみません…マジであんたら意味が分かんねえっす…」
「何弁も言うてるけど、おまえに分かってもらおうとか思うてへんしな。今俺、春ちゃんの恋愛相談受けてんねん。ちょっと黙っててな」
シゲさんが岡本から視線をあたしに戻したのが分かったから、あたしもショゲてる岡本からシゲさんに視線を合わせた。
「ちょっと脱線してもうた」
ケタケタと笑うシゲさんに、心底安心感を覚える。
「シゲさんのそうゆう距離感に、あたしは甘えてるんだね…」
「そやな」
「だからこの距離感が無くなる時は、シゲさんに彼女が出来た時だと思ってる」
「ほぉ」
「いやシゲさん…」
「はいはい、分かってます。真剣なんやろ」
「シゲさんは、あたしに何も求めてないでしょ」
「そうか?」
「シゲさんは、あたしとどうこうしたい訳じゃない」
「したいって言ったらびっくりやない?」
「そうやってすぐはぐらかすのも、どうでも良いからでしょ」
「それはどうやろ」
「そうじゃん」
「どうでも良いってのとは違うで」
「そうなの?」
「春ちゃんの、何も言わんでも悟って気持ち組んでくれるとこ、心地良いねん」
「……」
「でもそれだけやな」
「いや、こっちもそれ以上を期待してないから!」
「そやろ」
「そやな」
「いや言い方!」
「え?」
「いや惚け方!関西弁ナメてるやろ」
あたし達は、どうも真剣に話ができない。
だって、真剣に話し合う関係ではない事を、あたしとシゲさんはお互いに分かっている。
これが、この距離感が…他人には理解できないって事かもしれない。
お互いに一人っ子だから。
こんな兄だったら…こんな妹だったら…そんな理想を押し付け合っているだけ。
ただ、本当の兄弟ではないから、理想を出し合い、心地良いところで留まる事ができる。
シゲさんの言う、「ハルに甘えてる」ってゆうのは、シゲさんのそんな思いを理解して好きにさせてくれてる事を言ってるんじゃないかと思った。
だって、シゲさんのあたしに対する言動は、藤本陽生の兄である、明和さんや、園村さんに対するものと同じだ。
その対象が、学校ではたまたまあたしだっただけ。
学校の外に出れば、藤本陽生の兄達が対象となる。
だからシゲさんは、あたしが好きだからって訳じゃない。
ただ、理想を形にしようとしてる…
だとしても——…
「思いやりが足りないよね」
シゲさんは彼女がいないし、男女の距離感とか気にしなくて良いからそれで良いんだろうけど、あたしはダメだ。
「不覚にも、岡本に言われて気づいた」
そう言って岡本を見上げると、視線を下げたまま、ショゲてて現状維持。
こうゆう時にしゃしゃって来いよ…と思う。
だからKYなんだよって話。
「そんなん、ハルかて分かってんで」
「いやぁ…」
「いやいや、分かってるって」
「いやいや、分かってたら今拗れてないでしょ」
「いやいや、別に拗れてへんやん」
「え?拗れてないの?」
「え?拗れてないやんな?」
シゲさんはそう言って、何故か岡本へ同意を求めた。
だけど当の本人は、
「俺に言われても分かんねぇっす」
ショゲてるから話にならない。
「拗れてるから、あたしはシゲさんに相談してたんじゃないの?」
もう何が何だか…自分で分からなくしているみたいだ。
「そうじゃないねんな」
「そうじゃないの?」
「ハルは別に、春ちゃんに何も求めてないんちゃうん」
「それはそれでどうよ…」
「いやいや、解釈間違えたらアカン。ハルは、春ちゃんにどっか直して欲しいとか、もっとこうしてくれたらええのに…とか、そうゆう事を求めてないのよ」
「え…?」
よく分からない。
「だからね、」
「何で標準語?」
「いや、そこ拾うとこちゃうねん!アカン!また話逸れてまう!」
自分で話を脱線しておいて、「アカン!アカン!」と一頻り騒いだシゲさんは、
「話戻すで?」
まるであたしが話を脱線させたかの様な口振りだ。
「ハルはな…多分、自分に腹立つねん。上手く立ち回れへん自分がもどかしいんちゃうん?」
「いやいや、どう見繕ってもあたしが…」
「いやいや、ちょ、聞いて。最後まで聞いて」
「はい…」
渋々返事をしたあたしに、シゲさんがゆっくりと顔を近づけてくる。
「ここだけの話な、」
誰に聞かれたくないのか知らないが、小声で続けた。
「ハルってムッツリやん」
「は!?」
いや、何の話!?
「あいつムッツリ通りこして、もはや生きる伝説って言うんかなぁ。ちょっと思考回路が他人と違うねん」
いや、それあんたが言う!?
「最初片思いにも気づいてへんかってん」
「片思い?」
「春ちゃんの事好きやのに、自覚してへんかってん」
「いやいや、」
「いやいや、ちょ、最後まで聞いて」
「はい…」
「それ、好きになってるやん!って、俺が言うてから自覚してん。せやからな、春ちゃんに対してどうとかちゃうねん。あいつの中で、恋愛に対して基準にできるのが春ちゃんしかいいひんねん。分かる?分からんかなぁ?よし、勉強に例えたろか」
コソコソ話をしていたのも束の間、シゲさんがコソコソ話すことなんて出来る訳がなく、
「つまりな、勉強してて、分からん事あったら参考書開くやん。人に聞いたりするやん。調べようとするやん」
何か凄く良い話をしてるみたいな雰囲気を作って、どんどん口調が大きくなってる。
「知る為に知恵を付けようとすんのが普通やん。でもハルの場合、その参考書ってゆう価値観がないねん。分からん自分がアカン。知らん自分が情けない。よし、考えよう!ってなんねん。自分で閃かはんねん」
「ひらめく…?」
「そやねん。自分で閃き、その考えを自分で作った参考書に入れてまう。せやから、あいつの教科書は自分」
「……」
「つまり、君達は、すれ違う時はとことんすれ違うわ」
シゲさんはやっぱり、雑に締め括ってくれた。
「せやから、春ちゃんがまず理解しとかなアカンのは、素直でいること。これ大事。最初にも言うたけど、覚えてる?」
「覚えてる…」
「素直じゃないと、ハルが教科書間違えて作ってまうからな」
「うん…」
「間違えて作られた教書が、この先一生、ハルの知恵になってくねん」
「うん…」
「君達はね、兎に角言葉が足りないんだよ」
どっかで聞いた事のある言い回しだなと思ったら、あたしの担任が良くそんな口調で話しているなと思った。
「ハルの疑問に対して、春ちゃんが素直に返してあげたら、それがハルの基準になんねん。何も言わへんかった結果、君ら、えらい目に合うたやん」
少し前の事を思い出す。
確かにあたし達は、何も言わなかった事で、随分とすれ違った事をしてきた。
「せやかて、春ちゃんにばっかり気を遣わすんとちゃうで?」
「…うん」
「ハルはハルで、閃きはるからな」
「…もう、それネタでしょ…」
「シゲさんはいつになく真剣です」
自分で言ってる内は、この人ふざけてます。
「いやほんまな、ハルって特殊や思わへん?正々堂々ってゆうか、信じようと決めたらとことん信じるし。前にも言うたか知らんけど、人が好きなんやろな…相手が悪いんと違うて、相手を理解出来ひん自分がアカンってなんねん。これ嘘や思うやろ?ほんまやねん!」
「別に嘘だと思ってないよ…ただ、陽生先輩がそうだとしても、周りは…あたしの行動を理解出来ない事の方が多いから、また前みたいに…」
以前、良からぬ噂が流れた事を思い出して、シゲさんを無言で見つめた。
シゲさんはあたしの思考に気付いている。
「それかてな、何も言わへんかった結果やったやん」
…そうだ。あたしが肯定も否定もせず、ただ、藤本陽生にめんどくさいと思われたくなくて、どっちつかずな態度をとっていた事が招いた結果。
「春ちゃんを責めてんとちゃうで?」
こんな時、理想のお兄ちゃんはとても優しい。
「でも、招いた結果は事実やん」
正しい事を言ってくれるのは、シゲさんと言う人柄あってこそだと、つくづく思う。
「ありがとうお兄ちゃん」
「え…!やめてや急に!なんやねんその返し!ハマってまうやん!」
時々、理想とは掛け離れるけど…
それでも、理想通りじゃなくても、一緒に居たいと思う。
「結局、素直になる事が一番ちゃう?」
「うん」
「すれ違ったらすれ違ったでしょうがない。その時には、必ずハルが何かしら参考書広げてるから、それに対して春ちゃんは素直に返事してあげたら良いと思う」
「うん」
「それが君らの付き合うってゆう事ちゃう?」
シゲさんはあっさりと言い退けた。
「…結局あたしは、シゲさんに甘えてる事によって、シゲさんにまでとばっちり向けてしまって、陽生先輩は周りから無神経な彼女ってあたしの事を聞かされて、ろくな事してないなって思うんだけど」
「まぁ、第三者なんてそんなもんや。他人の言動が気になってしゃあないねん。羨ましいねん。せやけど、他人にどう思うわれようと気にせんとき。春ちゃん最初に言うてたやん」
「え?」
「ハルにどう想われてるかが気になるって」
「それはシゲさんが言ったんだけどね」
「でも当たってたやん」
「はい」
「春ちゃんの根底にあんのは、ハルにどう想われてるかって事やん。そこんとこ揺るがへん限り、大丈夫やろ。ハルが春ちゃんの中心におんねんから、中心がきちっとしてたら、何事もブレへんねん」
「そこ、どや顔じゃなかったら格好良いのにね」
「それ、言わへんかったら可愛いのにな」
シゲさんとは、いつも大体、ほとんどが、こんな風に笑い合う話しかしていない。最初の件の様な真剣な話とかは、滅多にしない。
どうでも良いって言ったらシゲさんに失礼かもしれないけど、正直どうでも良い話しかしてないんだからしょうがない。
それでも、あたしにはこのどうでも良い話が、この時間が…とても貴重で、大事なんだと…改めて思った。
「春ちゃん、なんか鳴ってへん?」
「…え?あたし?」
シゲさんに指摘される前から、電話が鳴っているのかなと、着信音に気づいていたけど、まさか自分のケータイの着信音だとは思いも寄らず…
「ほら、春ちゃんやん」
鞄の中から着信音が鳴り響く。
鞄を持ち上げながら、こんな時間に誰だろう…と、不信感が芽生えた。
普段連絡を取り合う相手なんていない。取り合うとしたら夜の仕事のお客さんくらい。だけど、お客さんと連絡を取り合う時はメールと決まっている。どうしても電話連絡が必要な時ですら、電話をしても良いかメールで確認している。
その他でケータイのメモリに入っている連絡先と言ったら家族ぐらいで、だけど、母達が学校の時間に連絡をしてきた事はない。
「なんだろう…」
「出ぇへんの?」
鞄の中からケータイを取り出すと、知らない番号からの着信。
「誰だろう…」
「出てみたらええやん」
「えー…」
「ほな、出たるし貸してみ」
手を差し出してくるシゲさんに、少し戸惑う。以前のあたしなら知らない番号からの着信なんて無視。だけど、今は以前のあたしではない。目の前にはシゲさんが居る。その安心感が、鳴り響くこの不信感を好奇心へと変えた。
「お願いします」
とケータイを掌に乗せた。
何の躊躇もなく、シゲさんは受け取ったケータイの画面を見つめ、通話ボタンを押す。
「ハイハイ」
と、電話に出た。
「ハイ?あー、は?知らんがな。は?何なん、いつから連絡取り合うようになってん?いや、俺聞いてへんし」
電話の相手が知り合いっぽい。
あたしのケータイにかかってきた電話なのに…
ハラハラするあたしとは対照的に、シゲさんはひょうひょうと会話を続けた。
「なんか癪やわぁ。俺の春ちゃんがどんどんハルのものになってくやん」
「えっ」
「俺と春ちゃんの間に知らん事が増えてくやん」
「ちょ、ちょっとシゲさん!電話の相手だれ!?」
「ん?ちょっと待ってな」
シゲさんがこちらを見て微笑んだ。
「いや、おまえに言うたんちゃうわ!」
あたしの質問に答えようと、電話の相手と揉めている。
「は?言われんでも代わるわ!だいたいおまえ電話鳴らしすぎやねん。なかなか出ぇへんかったら切れや!気色悪いねん。は?こっちかておまえとずっと電話したいんとちゃうからな!待っとけや!今代わったるし!待ってなってゆうてるやん!待てゆうたら待たんかい!」
すぐにケータイを耳から離すと、
「すまんすまん、春ちゃんはい」
持ち主であるあたしの元にケータイが戻ってきた。
「え、どうすればいいの?」
受け取ったケータイを手に持ち、困惑するあたしに、
「普通に出たらええねん」
シゲさんが可笑しそうに笑った。
「普通にってなに?」
「いや、普通にってゆうたら普通やん」
「え、どうやるの?」
「いやいや、あんた電話出た事ない人みたいやん!」
「だって、普通に出るって意味が…」
ますます困惑するあたしに、
「てゆうか春ちゃん、電話、通話中やで」
クスクスとシゲさんが笑う。
ケータイの画面を見ると、確かに通話中。
「あ、え、ど、どうしよ」
「大丈夫やから」
「……」
「普通に、もしもしって」
「はい、もしもし?」
言われるがままケータイを耳に当てた。
「俺だ」
通話の相手は、藤本陽生。
「あ、はい」
「おまえ、シゲに電話渡すな」
「あ…はい、ごめんなさい…」
謝りながらチラッとシゲさんを見やる。
イタズラな表情を浮かべていたから、最初からこの着信相手の番号を見て、藤本陽生だとわかって出たのかなと思った。
「すぐかかってくると思ってなくて…番号をまだ登録してなくて…知らない番号だと思って、シゲさんに出てもらって…」
言い訳がペラペラと出てくる。
さすがに怒らせてしまったかなと、不安が過ぎった。
「別にいい」
「ごめんなさい…」
「謝らなくていい」
「はい…」
電話越しの声を初めて聴いた。
表情が見えない分、声のトーンだけが頼りで、怒らせてしまったかなと、不安を拭きれない反面、いつもと違う声の距離感に、同じ校内に居るのに、すごく離れている人と話している様な気分になる。
しばらく会っていなかった人と、久しぶりに話した様な感覚。
朝、教室の前で会ったばかりなのに、随分と会っていない様に思えた。
「今どこに居る」
耳を掠める声が、優しく聞こえた。
「今?今…教室です」
本当の事を言っているのに、言葉に詰まってしまったせいで、嘘っぽくなってしまった。
「いやいや、めっちゃテンパってるやん!」
目の前で茶化してくるシゲさんに、シーッ!と人差し指を口の前に当て、喋るな!と思いを込めた。
「こっちに来れるか」
「あ…はい、どこですか?」
目の前でシゲさんが面白い顔してくるから、電話の相手の声に集中できない。
「家」
「あ…はい、家ですか」
「来れるか」
「あ…はい、行きます」
もうやめてよ!とジャスチャーでシゲさんに訴える。
どうやったらそんな面白い顔ができるのか知らないけど、電話中にするのはやめてほしい。
「じゃあ後で迎えに行く」
「あ…はい、後で。後で…後で?」
「は?」
「あ…え?あとで?迎えに行く?」
「教室だろ?」
「あ…はい」
「終わったらそっちに迎えに行く」
「…はい」
「じゃあ後で」
「…はい、お願いします」
通話終了ボタンを押す。
「もうシゲさん!やめてよほんとに!
」
電話中ずっど腹立つぐらい面白い顔をして来たシゲさんに、
「話に集中できなかったから!」
と、早速文句を言い放った。
「あ…!そうだ、番号登録しなきゃ…」
また同じ事を繰り返してしまう前に、着信履歴から藤本陽生という名前を新しく登録した。
「ハル、なんて?」
惚けた声を出すシゲさんに、深く溜息を吐いた。
「シゲさんのお蔭で、よくわかりませんでした」
「はぁ?なんやそれ」
「こっちが聞きたい」
「なんか、家がどうとか言ってませんでした?」
「そうなの、家がどう…って、あんた居たの…?」
シゲさんとの会話を割って入ってきたのは、
「居ましたよずっと」
あたしの斜め後ろの席から、体を前のめりにして声をかけて来た岡本。
「津島さん、陽生くんの家に行くんすか?」
おいおいちょっと、シゲさんの前でそうゆう事言わないで…
「家?誘われたん?」
「んー多分?」
「多分ってなんやねん」
「いや、よく聞こえなかった」
「アカンやん!人の話はちゃんと聞いとかな!」
あんたが言うな。
「ハルが誘ってくるとか、今日雨ちゃう?いや、嵐?いや、なに?」
窓の外に目を向けると、快晴。
「そんな、大袈裟な…」
「いやいや、これは参考書が開かれてる証拠やで」
「閃くの?」
クスッと笑うあたしに、
「あんた達、陽生くんの事馬鹿にしてんすか!」
って、KYが空気を読んでくれない。
「おまえはハルの崇拝者か何かか!」
シゲさんの発した言葉に、「確かに」と、思わず言葉にしそうになった。
「どこが馬鹿にしてんねん!めっちゃ敬愛を評してるやん」
な?とシゲさんがあたしに同意を求めた。
「うん」
シゲさんの言い方が楽しくって思わず笑みが零れる。
「なんか、津島さんって、陽生くんの事…本当に好きなんすね」
岡本に言われると、否定したくなるのは何故だろう。
だいたいあたしは、藤本陽生を嫌いだなんて言った事は一度もない。
「やっぱ、言ってくんないと分かんないっすよね?」
「あんたに何で言わなきゃなんないの」
「いやいや、俺だって知る権利ありますよ!」
「ないわ!」
と言った言葉は、シゲさんと重なった。
「春ちゃんさ、さっきも言うたけど、ハルはこの状況をなんとかせなアカンって、少なからず思ってんで?」
「うん」
「君らすれ違い出すと、とことんすれ違ってまうから」
「…はい」
「まぁ、そう言うたからって、気を張る必要はない思うねん」
「恐縮です…」
「ただ、」
「素直が大事ですよね…?」
「春ちゃんは賢いから好きや」
ニッと笑ったシゲさんが、ちょっとほんとに恋愛のエキスパートみたいに見えてきた。
「素直になるのは、言葉だけやないで?」
「はい」
ええか…?と、あたしの耳に手を添えて、小声になるシゲさんは、相変わらず誰に聞かれたくないのかよく分からない。
「ハルはムッツリやから…」
いやだから何の話!
あんた前言撤回!
「そんな顔せんとってや」
眉間に皺を寄せるあたしに、ハハッと笑うシゲさん。
「ちゃうやん。別に普通の話やん」
「シゲさん…」
「せやかてそうやん。彼氏彼女にはこの手の話しは付きもんやん」
「何が…」
「ハルはあんな感じやから、表立ってせぇへんし、言わへんやん」
「いや何の話!?」
思わず言葉になった。
「好きって言わへんし、触ったりせぇへんやん」
「…あたし、こんなセクハラな兄は要りません」
「え、それは嫌や」
「だいたいシゲさんも特殊だからね!あたしに触り過ぎだし、言葉にし過ぎだし」
「そら春ちゃんやからやん」
「はぁ?」
人を触りやすい人間みたいに言いやがる。
「これな、好きな子やったら触れへん。流石にに俺も」
「え?」
…ちょっとやめてよ、シゲさんにときめいたじゃん。
「そんなかっこいいセリフいらない」
「なんでやねん!」
シゲさんの恋愛が成就する様にと、心から願った瞬間だった。
「好きな子には中々手が出せへんこの男心を、春ちゃんにしっかり受け止めてもらいたいねん」
「よく分かんないけど、手が出せないなら出さなくて良いじゃん」
「…アホや、この子ほんまもんのアホや…」
いやいや、いっつも賢いって褒めてんのあんだだから。
「出されへんけど、出したいねん!」
「ちょっとやめてよ!返してよ!あたしのときめき!」
「何言うてんねん!ええか?何弁も言うけどな、ハルはそんな男の中でも特殊やねん。あいつ、春ちゃんに恋してん事にも気づいてへんかった言うたやん?あれマジやからな。あいつ自分が春ちゃんに触りたいとか、言いたい事とか、分かってへんねん」
「ど、」
「ど、ってなんやねん」
「いや…あたしにどうしろって言うの…」
「そこや」
「え、どこ?」
「つまりは、春ちゃんの賢さで察してやってほしいねん」
「いやいやいやいや!」
「どんだけ否定すんねん」
「あたし察し良くないよ!」
やめてよ!そんなハイスペックな事求めないでよ!と、続けるあたしに、
「例えばな、」
シゲさんはなんて事ない様に話す。
「ハルがずっと見てくるなぁ…って思ったら、あいつが何か言いたい時や」
「はい?」
「ほんで、あいつが目を細めた時は、なんか腹立ってる時や。腹立ってるか、何か納得してへん時やな」
「いや、」
「あとは、これあいつ無意識やと思うんやけど。距離がやけに近いな思うたら、触りたいときちゃう?」
「っちょっと待ってよ!」
言葉を遮ったあたしに、シゲさんは「声でか」と呆れた様に言う。
「なんでシゲさんがちょっと元カノみたいな感じになってんの!」
「はぁ?なんやねんそれ…」
「陽生先輩にずっと見られた事があるみたいな…」
「はぁ?」
「陽生先輩に距離縮められた事があるみたいな…」
「誰がや!」
「シゲさんが!」
「なんでやねん!」
「いや、こっちのセリフ!」
意味わかんないから!と言葉を放つあたしに、
「それ全部、津島さんに対する陽生くんの態度じゃないっすか?」
言葉を返してきたのは、シゲさんではなく…岡本。
「はぁ?」
あんたいつまで人の色恋沙汰に関わってくんのよ!と言いたい。
「だって、今の全部陽生くんが津島さんに向けてる表情とかじゃないっすか?」
「ちょっとやめてよ…」
「いやでもシゲさん凄いっすね!俺も今言われてそうなんだって思いました。確かに陽生くん、津島さんに対してそういう感じっすよね!」
「おまえはまだまだハルと言う人間を理解してへんわ」
「いやー、勉強になります!」
おまえが勉強してどうする…
「兎に角な、ハルっていう人間は、春ちゃんが思ってるよりも行動が言葉に伴ってないねん」
「……」
もう喋る気にもならない。
「普通言うのが先やん。あいつ、言うより先に動いてんねん。てゆうか、思うよりも本能が先走る?みたいな」
「もうそれ動物じゃん…」
「それや!それ!あいつ雄やん!」
本人が居ないのを良い事に、言いたい放題のシゲさん。
「…あたし、この後陽生先輩に会って、どんな顔したらいいの…」
…人の気も知らないで。
「どんなもこんなも無いやん。普通にしてたら良いねん」
「普通が分からなくなった!」
「なに怒ってんねん…」
「変な声ばっか吹き込んでくるから、もうどうしたら良いか分かんない!」
「変な事一つも言うてへんやん!ただ、陽生が特殊だったって言う…」
「それが変な事なの!」
「そやかてしゃーないやん!それがあいつやねんから。あいつ男四人兄弟やん?兄ちゃん達からは可愛がられて育ってるし、女の子に対してちょっとズレてんちゃう?」
「知らないけど…」
「まぁそやな。全く環境の違うとこで育ってんから、何でも分かり合える訳ちゃうし」
何気なく言ったであろう、シゲさんの言葉に胸がチクンと痛んだ。
「あれこれ言い過ぎた感はあるから、もうやめとくわ」
察しが良いのはシゲさん、あなたの方だよね…
ちょっと困った様に笑ったシゲさんは、あたしの小さな変化…表情に、気付いていた。
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