25
目覚めの後
「しっかしまぁ、あれだな。陽生が彼女を家に連れて来る日が来るとは思わなかった」
明和さんがキッチンから話しかけてくる。
「陽生は誤解されやすいところあるから、分かり難い事があったら、しっかり自分の思う事を伝えるんだよ?」
レトロなソファーに並んで座るあたし達の前に、明和さんはキッチンからマグカップをニつ持って戻って来ると、
「はい、コーヒー」
香り際立つ淹れたてのホットコーヒーをテーブルの上に置いて、あたし達の前に差し出した。
「陽生はどう?」
向かいのソファーに座る明和さんが、自分のマグカップを持って、あたしに問う。
「…どう…ですか…」
「春ちゃんに優しくしてる?」
朝方帰宅した明和さんは、寝てないとは思えない程の爽やかな笑顔をニコニコと向けてくる。
寝た筈のあたしには、その笑顔は眩し過ぎた。
隣に居る藤本陽生へ視線を向け、
「や、優しいです…」
すぐに明和さんへ視線を向けた。
本人を前にして、本人の感想を口にするのは何とも気が引ける。
「そっか」
とても優しい表情で頷いてくれた明和さんは、ソファーから立ち上がり、マグカップを持ってキッチンへと歩く。
「じゃあ俺は寝るから」
流しにマグカップを置いたと思われる明和さんは、手ぶらで戻ってくるなり、リビングのドアを開けた。
「おやすみなさい」
慌てて立ち上がったあたしに、「ゆっくりしてってね」と優しい笑顔を向けてくれた。
リビングのドアがパタンと閉まり、隣に座っている藤本陽生へ視線を向ける。
座っていると言うより、ソファーにグッタリ…と体を沈めて、静かに寝息を立てている。
眠いなら自分の部屋で寝てれば良いのに…
トイレを出てすぐ、明和さんと鉢合わせしたから挨拶をしていると、藤本陽生が部屋から出て来た為に、明和さんがあたし達の為に朝食を作ってくれた。
申し訳ないと思うあたしの横で、藤本陽生は折角明和さんが作ってくれた朝食も食べずに、ずっと寝ている。
いつもセットされている前髪が目に掛かって、いつもとは違う表情に見せている。
その無防備な横顔に、体の中心から熱が湧いてくる様な感覚が押し寄せた。
ソファーにもたれ掛かって寝ている藤本陽生の横に座り、身を寄せ、その肩に寄り添う。
頬に伝わる温もりが、自ずと気を緩ましてしまう。
「…好き…」
呟くような言葉は、寝ている藤本陽生には伝わらない。
伝わらないと分かっているから、口に出来る。
そっと目を閉じて、藤本陽生から伝わる熱に身を任せた。
その寝顔をずっと見つめていたい…と思う程、あたしに余裕なんてものは無く…
只でさえ、彼氏の家に居るとゆうのに、むしろ他人の家にお邪魔しているとゆう状況が慣れていない所為で、唯一の相手である藤本陽生が寝ているとゆうこの状況はどうも居た堪れず…無駄に辺りをキョロキョロとしてしまう。
こんな時、付き合っているニ人はどうやって時間を過ごすんだろ…
この家の住人である藤本陽生を差し置いて、明和さんが作ってくれた朝食に手を付けるのも気が引けるし、だからと言って人様の家でテレビを点けたり…なんて事もできない。
自分が今どうゆう行動を取ればいいのか分からず…「ゆっくりしてってね」と言ってくれた明和さんの言葉が、頭の中で何度もリピートしては溜め息が出た。
そもそも、彼氏と彼女と言われる関係が、休日どんな風にして過ごしているのか…
そんな事すら分からない自分が情けなく、溜め息を吐き過ぎてこれ以上は吐き出す息も無いと思い、あたしの脳裏に浮かんだ文字は、
「帰ろうかな…」
自分でも分かる程、情けない声色で言葉になった。
隣で静かに寝息を立ててる藤本陽生へ視線を向ける。
黙って帰ったら怒られるかな…とか、声をかけたら起こしたと怒られるかな…とか、あたしに与えられた選択肢はどちらも結局…
…怒られるんだ。
なら置き手紙でもしておこうと思い、メモができるものがあるか、辺りに視線を向けた。
…がしかし、そんな物がどこにあるかなんて分からない。
再び何度目かの溜め息が漏れた時、ふと店で使う名刺があったなと思い出した。
そっと立ち上がり、リビングのドアに手をかける。
音を立てないよう、ソファーに座って寝息を立てている藤本陽生に視線を向け、細心の注意を払いながらリビングを出た。
藤本陽生の部屋に行き、すかさずバッグの中身を取り出す。
水谷さんに買って貰った桜色の名刺入れが目に止まり、一枚取り出した。
裏は白紙になっているから、これならメモを残せる。
と思ったのも束の間、文字を書く物がない。
藤本陽生の部屋には、ペン立ての様な物は見当たらず、
「なんてことだ…」
また情けない程小さな声が、藤本陽生の部屋に木霊した。
もういっその事、怒られても良いから藤本陽生を起こそうかなと、選択肢ニがあたしの脳裏を過ぎる。
「はぁ…」
やるせない思いから、自分でもクドイと思う程、溜め息が漏れた。
名刺を仕舞う事も忘れ、手に持ったまま立ち上がり、リビングへ戻ろうと体を部屋の扉へ向けた。
「あ…」
思わず漏れた声は、息なのか、言葉なのか自分でも分からない。
「…何してんだ」
その先には、開いたままの扉の前に立つ、藤本陽生が居た。
咄嗟の事であたしの思考回路は笑えない程働かない。
「何してんだ」
二度目に発せられた言葉は、一度目よりも強く感じた。
あたしは間違っても怪しい事はしていない。
むしろ何もしていない。
しようとして、諦めたところだった。
だから、「何してんだ」と言われても、どう説明して良いか思いつかない。
「起きたんですか…」
「起きた」
「……」
「何してた」
それなのに、何故だかあたしは責められてる…気がする。
お互い向き合ったまま動かず、藤本陽生の視線がゆっくりとあたしの手元に移ったのが分かったから、咄嗟に持っていた名刺を握り締めた。
お互いに立ったまま、寄り添う事もしない。
藤本陽生の視線をヒシヒシと感じる。
だけどあたしは、目を合わす事が出来ない。
何も悪い事をしていないのに、こんなに後ろめたい気持ちになるのは、きっと藤本陽生の口調の所為だ。
「おい」
「…はい」
「何してた」
「…いや、何も…」
「帰んのか」
「え?」
視線を上げると、藤本陽生と目が合った。
「違うのか?」
「え?」
「違うのか?」
「えっと…」
確かにあたしは帰ろうかなと思った。だけどこうして当の本人が起きた今、帰るとゆう選択肢が正しいのか分からない。
「帰りましょうか…?」
だからその答えを藤本陽生に委ねた。
「帰りたいなら帰ればいい」
…—が、その判断は間違いだったのかもしれない。
「…なんか、」
怒ってますか…?
そう続けたかった言葉は、怖くて口に出来なかった。
だって、本当に怒ってたら洒落にならない。
「帰んのか?」
再び藤本陽生が決断を迫ってくる。
「……」
今となっては別に帰ろうと思ってなかったあたしは、どう決断したら良いか分からない。
「…なんだ?」
「え?」
「なんか変じゃないか?」
「変ですか?」
「おかしいだろ」
「おかしいかな…」
「起きたら居ねぇし」
「…ごめんなさい」
「何してんのか何も言わねぇし」
「それは…」
「別に何してたってどうでもいい」
「どうでもいい…」
じゃあ何で聞いてきたんだこの人…無駄にビビったじゃないか。
「ここに来たらおまえが居たから聞いただけで、別に意味はない」
「…はい」
「何も言わねぇとわかんねぇ」
藤本陽生の言葉の意図は、実に簡単なものだったらしい。
「ごめんなさい…どうしたら良いのか、よく分からなくて…」
「誰が」
「あたしが…」
そう呟いたあたしに、藤本陽生の体が少し動いた。
「…それは、」
「え?」
「俺だからか」
「いや、誰とかじゃなくて…」
どうしてこんな話題になっているんだと…何だか良くない雰囲気に、言葉が詰まった。
そんなつもりで言った訳じゃないけど、そうじゃないとは言い切れない。
藤本陽生の物言いが、どうもあたしの調子を狂わせる。
このままここに居ても、今の雰囲気じゃ同じ様な事態になりかねない。
いつまでも、こうして向き合っていても仕方ない。
帰ろうかな…
…今にも溜め息が漏れそう。
「とりあえず飯食うぞ」
「…え?」
「兄貴が作ってくれた」
知ってます…とは言葉にせず、
「…はい」
さっさと部屋を出て行く藤本陽生の後を追った。
リビングに戻って、カウンターに並べられていた食事に目を向ける。
カウンターの椅子に藤本陽生が座ったから、あたしも隣に腰掛けた。
一人分がワンプレートになっていて、藤本陽生がプレートをあたしの前へ差し出した。
なんてお洒落な朝食なんだ…と感心しながら、これを食べずに帰ろうとした自分に悪態を吐きたくなった。
「食えるか?」
藤本陽生が横から声をかけてくれて、あたしは「はい」と頷き、明和さんが作ってくれた絶対美味しいだろう朝食を頂いた。
終始無言で食事を進める。
特に気まずい雰囲気ではなく、食事を終えると藤本陽生が立ち上がり、食べ終えたプレートを片付けてくれた。
と言っても…流しに置いただけで、すぐに隣の換気扇の下に立ち、煙草を吸い出したから、洗う気は無いんだなと判断して、
「洗います」
立ち上がってキッチンへと入った。
「置いとけばいい」
藤本陽生はそんな風に言うけど、それはダメだろう…と心で呟く。
「洗います」
そう言いながら、流しに置いてあるスポンジと洗剤を手にとった。
さすが明和さんのキッチン。
男二人だけで生活しているとは思えない程、スッキリとしていた。
物はある。調味料とかキッチン雑貨とか。
だけどゴチャゴチャしていなくて、スッキリしているのは、明和さんが使い易いようにしてるんだろうなと感じた。
一通りキッチンを見渡し、素敵なお家だなぁ…と感心して、既にリビングで寛いでいる藤本陽生の元へ向かい、
「じゃあ、あたし帰ります」
もうする事もないだろうと思い、藤本陽生へ声をかけた。
なのに…
何なんだろこれは…
寛いでいると思っていた藤本陽生は、いや寛いでいる事に違いはないんだけど…
ソファーに座ったまま、眠り込んでいる。
良く寝る男だなとは、口が裂けても言えないから…とりあえず隣に腰掛け、
「あの、」
声をかけてみた。
「…帰りますよ?」
だけど返答はない。
再び訪れた、あたしに迫られる選択肢。
でも、さっきとは状況が違う。
朝食も一緒に食べたし、後片付けもしたから、このまま帰っても問題ない気がしないでもない。
「あの、」
もう一度声をかけたけど、やっぱり起きる気配はない。
「帰りますね…」
耳元で小さく囁き、あたしは藤本陽生の部屋…いや、明和さんの家を後にした。
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