19

言葉にしないと伝わらない想いがある

「あたし…本当に陽生先輩が好きで、」


「分かった」


「シゲさんなんてこれっぽっちも、」


「そうか」


「本当に、陽生先輩が…」



ずっと今まで言えなかった言葉が、仕舞い込んでいた想いが、堰(せき)を切ったように溢れ出して止まらない。



「春」



藤本陽生が名前を呼ぶから、熱が冷めない。


胸が疼いて、苦しい…



俯き加減に視線を落とすと、



「春」


再び呼ばれる名前。



そっと視線を上げれば、左の頬に手が触れて、藤本陽生の温もりに包まれた。



その両手が顔を引き寄せ、何も考えられず、触れる部分がゾクゾクっと音を鳴らした。



「俺と付き合うか?」



「はい」って言おうとしたけど、言葉にならなかった。


思っている言葉が必ずしも、音を発する訳じゃないと知った。



大きく頷いたつもりだったけど、相手に伝わったか分からない。



全身に鳥肌が立って、体の中心がギュッと熱くなった。



藤本陽生に触れられているとゆう状況に、頭の中が真っ白になっていく。



「…ずっと、おまえの近くに行きたかった」



その囁きは、唇を重ねる為の引き金となった。



ゆっくりと重なり、触れ合う。初めてしたキスは、好きな人の匂いに混ざって、冷たい空気が鼻を掠めた。



少し肌寒い屋上に居て、あたしの体は火照る一方。



唇が離れると、藤本陽生の温もりまで離れそうになる。名残惜しいと感じる余裕は無く、もはやあたしの心臓は限界を迎えていて…



「色々誤解があるだろ」



そう呟いた藤本陽生の手が、スッと頬を撫でて離れたから、あたしの心臓は一命を取り留めた。



「まずはシゲだ。あいつ学校を休んでる」



何事も無かったかの様に正面へと向き直った藤本陽生に対して、無かった様には出来ないあたしは、視線を合わせられないまま、同様に正面へ向き直した。



「春が別れを切り出したのは俺の所為だって言われた」


「え…?」


「俺が、春に嫌われる事したんじゃねぇかって言われた」


「そんなっ!」



まさかそんなやり取りが生じていたなんて…自分勝手な言動に、今更ながらに嫌気が差した。



「あたしの所為で…」



最悪だ…


シゲさんが学校に来ていない原因は、あたしじゃないか…



「誰もおまえの所為だとは言ってない」


「…そうゆう問題じゃないです」


「少なからず、誤解は与えたかもしれない」


「…はい」


「だから、シゲに会う」


「…はい」


「おまえも行くか?」



そう言って立ち上がった藤本陽生は、



「…今からですか?」


「あぁ」



予想通りの返答をした。



あたしが頷いたのと同時に、立ち上がった藤本陽生は、あたしが出す答えを分かっていたのかもしれない。



「鞄取りに行くぞ」


「…はい」



追いかけるように立ち上がったあたしに、藤本陽生は目配せをすると、屋上の扉へと向かって歩き出した。



てっきり、お互いの教室へそれぞれが鞄を取りに行くんだと思っていたあたしは、三年生の教室がある階を通り過ぎて…



「鞄は…?」



階段を下りる藤本陽生に疑問を口にすると…



「無い」


当たり前のように、あたしの質問を理解してくれた。



そんなところに、一々「好き」が込み上げて来る。



些細な会話がこんなに嬉しいなんて、あたし達はどれだけ何も話して来なかったんだろう…



その背中を追いかけて、階段を下りた。



隣に並ばないのは、まだ少し気恥ずかしいから。



二年生の教室がある階に着くと、



「待ってる」



藤本陽生がそう一言呟いて、立ち止まった先に、あたしの教室が見える。



「はい」と頷いて背を向けたものの、授業中の教室に入るのはどうも気が引けて…


教室のドアの前で何気なく振り返れば、藤本陽生が廊下の壁に寄りかかって足下を見つめていた。



———予想通り、扉を開けた際に生じるガラガラっとゆう音の響きが、授業中の静かな教室に居る人達の意識を、こちらへ向ける羽目になった。



一目散に自分の机へと向かい、鞄を掴んだあたしに「帰るのか?」と先生が問う。


それに頷いて見せると、「早退届を忘れないように」と念を押されただけで、すんなりと了承された。



先生が視線を逸らしたから、あたしも視線を移せば、本当に授業を受けていた岡本と目が合った。



足早に教室を出ると、開けたままだったドアを気持ち静かに閉めた。



廊下を見渡すと、教室に入る前と変わらず壁に寄りかかっていた藤本陽生が、あたしに気づいて視線を向けてくる。



その視線があたしの右手へと移動し、さっきまでは無かった物を確認すると、


「行くか」


そう呟いて足を動かした。



やっぱり後を追うように歩くあたしは、藤本陽生と並びそうになると、速度を落として少し下がってしまう。



校舎を出て歩くと、駅までは十五分かかる。この十五分の道のりを、何も話さない藤本陽生の後ろを追うのは何だか心許ない気がして、「こんな所にラーメン屋さんがあるんですね」とか、「こんな所に本屋さんがあったんですね」とか、大して興味の無いお店を探して歩いた。



最寄り駅の改札を通り、藤本陽生に付いて電車に乗ると、空いている車内で隣同士に座るしかない状況に再び心臓がドギマギと動き出す。



こんな状況で何も話さないのは気まずいから、



「シゲさんの家ってどこですか?」



とりあえず無難な質問をするあたしに…



「シゲん家には行かねぇ」



藤本陽生は予想外な事を口にする。



「え…?じゃあどこに?」



そう言ったあたしに目だけ向けると、


「えっ…?」


困惑して思わず声を漏らしてしまう程、顔をマジマジと見られた。



何かいけない事を言ってしまったんだろうかと…不安になるあたしに、



「良く喋るよな」



藤本陽生が呟いた。



余計な話ばかりしたかと思い、見上げていた視線を手元に向け、ジンジンと鳴る胸の痛みから必死に絶えた。



「…よっぽど気を遣わせてたんだな」



その呟き声が耳に届き、再び藤本陽生を見上げる。


電車が揺れる度に触れる部分が、温かい。



「他の奴らと居る時は、いつも笑ってた」


「え…?」


「良く喋って、良く笑って、たまに不機嫌になる」



どうやらあたしの事を言ってるらしい。



「そう、ですかね…」



自分の事は良く分からない。



「次だ」


「え?」


「降りるぞ」



不意に立ち上がった藤本陽生に、あたしの思考はすぐに切り替わる事が出来ず、扉の前に立った藤本陽生の後を追って、見えて来た駅のホームに、ここで降りるのかと納得した。



電車を降りて改札口へと向かう。



見えて来た景色に、見慣れた街並みがあった。



「どこに居るんですか?」



藤本陽生の後を追いながら駅前通りを横切り、飲み屋街周辺へと足を延ばす。



「多分、兄貴の店に居る」



振り返った藤本陽生はすぐに前へと向き直り、何となく気づいていたあたしの勘が確信に変わる。



ここへ来た時点で、シゲさんが居るとしたら明和さんのお店じゃないかと予想していた。



駅前にはゲームセンターやカラオケ、ファミレスなど学生で賑わうお店がたくさん立ち並んでいるけど、シゲさんが好んで行くとは思えない。


流石にここまで来たら、明和さんのお店に居るのかな?と想像出来る。



ついこの間来たように思う店構えは、何も変わっていなくて、また来れた事に嬉しさが込み上がってくる。



「おい…」



想いにふけていたあたしは、既に扉を開けて待ってくれていたらしい藤本陽生に呼ばれて、入り口まで急いだ。


少しの緊張を抱きながらも、藤本陽生とゆう存在の心強さに背中を押され、薄暗い店内へと足を延ばした。



ゴクンと生唾を飲み込むと、誰も居ないと思われる静かな店内に響いたかと思った。



「まだ早いか…」



カウンターの椅子に手を掛け、藤本陽生が腕時計に視線を落とす。



「おい!!」



そしていつかも見たように、大きな声で厨房へと呼びかけた。



そして―…



「…っるせぇな!!おまえ開店前だろうが!」



厨房がある方から怒鳴り声をあげて出て来たのは、



「って…あっ!」


「こんにちは…」


「春ちゃんか!」



挨拶をするあたしに、パッと表情を変えたのは、明和さん。



「久しぶりだね!いやーごめんごめん!てっきり陽生がまた飯食わせろって来たのかと思って」


「あ、いや…」


「元気だった?って、あれ?それもしかして学校の制服?」


「あ、はい」


「似合うね!良いな!やっぱ制服は女子高生が着てなんぼだな!」


「…ですかね?」



カウンター越しに身を乗り出してくる明和さんに圧倒されていると、



「シゲは?」



スッと前に立った藤本陽生が、明和さんを押し戻すように口を開いた。



「シゲなら今買い出し」


「へぇ」



気のない返事をする藤本陽生は、カウンターの椅子を引きながら、「座れ」とあたしにも椅子を引いてくれた。



「春ちゃん何か飲む?」


「コーヒー」


「陽生に聞いてねぇよ」


「ホットで」


「だから、」


「あ…!あたしは大丈夫です!」



椅子に腰掛けながら、慌てて明和さんに断りを入れると、



「気を遣わなくて良いって。折角来てくれたんだから、サービスさしてよ。何が良い?」



逆に気を遣わせてしまった。



「じゃあ、コーヒーを…お願いします」


「コーヒー?」


「はい。あ、ホットで…」


「陽生に気を遣わなくて良いよ?」


「え?いや、コーヒーが好きなので」


「そうなの?」


「はい…」


驚くように聞き返して来た明和さんは、「へぇ」と、藤本陽生へ視線を向けた。



その視線に気づいてる筈の藤本陽生は、



「じゃあ春ちゃん待っててね」



厨房の方へ向かって奥に入って行く明和さんが見えなくなると、よく分からない溜め息を吐いていた。



「陽生先輩も、コーヒー好きですか?」


「好きでも嫌いでもない」


「あ、そうですか…」



てっきり好きなのかと思っていたあたしは、期待外れな返答に言葉を詰まらせた。



「おまえは…?」



すかさず藤本陽生が聞いてくる。



「好きです」


「そうか」


「はい」



隣に並んで座っている感じが、デートした日と違って心地良い。



あの日は緊張して、ドキドキと鳴る鼓動が苦しかったけど。



「何だ…?」



今はこのドキドキが心地良くて、



「じゃあどうして、コーヒー頼んだんですか?」



隣に座っている藤本陽生を、恥じる事なく見つめていられる。



「あれは、おまえの分」


「…え?」



藤本陽生が当たり前のような口調で言ってのけた。



ん?と顔をしかめるあたしに、藤本陽生まで眉間を寄せる。



睨まれる意味を考えて、睨まれる理由に心当たりが無いから、これは睨んでいるんじゃないかもしれないと思い——



「何だ…」



どうやらあたしまで、考え過ぎて睨むような視線を送ってしまっていた様だ。



カチャカチャと食器の重なる音が聞こえ、トレーの上に二つ並んだコーヒーカップが視界に映る。


それを持っている明和さんが、厨房の方から姿を表した。



「はい、お待たせ」



あたしの目の前に、煎れたてのコーヒーの香りが漂う。



お礼を告げて、カップを手に取り、真っ黒なコーヒーを見つめた。明和さんの視線を感じながら、コーヒーの香りを堪能する。



「コーヒー好きな高校生って、珍しいな」



コーヒーカップを口に付けたまま明和さんを見上げると、


「それ、ブラックだからね」


どうやらあたしの事を言っているらしい。



隣に座る藤本陽生へ視線を向けると、それに気づいた藤本陽生が小さく息を吐いた。



「…カズ兄、余計な事言うな」


「何が?」


「…まだ何も話してない」


「…え?」



驚いた様な声を出す明和さんと、少し不機嫌そうな声を出す藤本陽生。



両者の感情に全く付いていけないあたしは、ただ二人の表情を交互に見つめる事しか出来ず…藤本陽生はそんなあたしを見兼ねてか、



「…シゲが、ナツ兄におまえの事を話た」



諦めたように重い口を開いた。



「え?」


「二番目の兄貴な」


「二番?」


「ナツ兄が、シゲからおまえの事聞いて、ハルって名前の子知ってるぞって言い出して」


「え…? 二番目のお兄さんが…?」


「それがたまたま…知り合いだったらしい」


「え?え?え?」



藤本陽生の言っている言葉の意味が、全く分からない。



「おまえ…分かり難いだろそれ…」



明和さんの言葉に頷いたあたしは、結局明和さんから説明をして貰う事になった。



「陽生が言ってる“ナツ兄”ってのは、俺のすぐ下の弟の事で、捺彦って言うんだけど」


「ナツ、ヒコさん…?」


「そう。ナツに、春ちゃんと陽生の事をシゲが話しちゃってさ」



申し訳ないと言わんばかりの困惑した表情を浮かべる明和さんに、何が言いたいのか察しがついた。



「俺も、春ちゃんの存在は話だけ聞いて知ってたんだ」



自分の知らない所で、知らない人達が自分を知っていたとゆう事実に、複雑な心境だった。



「陽生と春ちゃんが付き合う前から、“ハル”って子がこの店の前を通りかかるって聞いて、俺も見てみたいなーなんて思ってたんだけど、店があるしね…」



目尻に皺を寄せて微笑む明和さんに、優しい人なんだろうなと、話とは関係ない思いが浮かんだ。



「で、ハルって子…まぁ、春ちゃんの事なんだけど…その話をしてたら、ナツが知ってるかもって言い出して」


「えっ?」



藤本陽生の兄弟は明和さんしか知らないのに、どうして二番目のお兄さんが、あたしを知ってるなんて言うんだろうかと、不信感が芽生える。



どこと何が繋がってるのか…

どこで誰が繋がってるのか…



咄嗟に浮かんだのは、夜のバイト。


水商売をしている関係なのかと…


友達も居ない、知り合いも少ないあたしに、それ以外の接点が浮かばない。



「その…春ちゃんってさ…」



言葉を濁す明和さんに、あたしの考えはほぼ確信へと変わって行く。



だけど、まだ決定的に聞かれた訳じゃない。


素知らぬ顔をしながら、内心は聞かないで欲しいと願った。


水商売をしている事を恥じている訳じゃない。隠したい訳でもない。


ただ、この人達に…聞かれたくはない。



でもそれは無理。



正直に水商売してます。と認めて、そうなんだ。で終わる筈がない。


必ず理由を聞かれる。


どうしてあたしが水商売なんてしてるのかと疑問に思われる。


だから聞いてほしくない。



母を悪く言われたくないし、父親の事でそんなのが親なのかと思われたくもない。



「“夜”やってるよね…?」



だけど明和さんに、そんなあたしの願いは届かない。



右の頬が、ピクンと引きつったのが自分でも分かった。



素知らぬ顔でいようとしても、心情が表情に表れてしまう。



「だからって別に、どうこうゆう訳じゃないんだ」



ウンともスンとも同意してないのに、慌てて言葉を続けた明和さんは、やはり知っている。


いや、明和さんだけじゃない。


シゲさんも藤本陽生も、もしかしたら先輩達も……



「その、春ちゃんのお客さんから、ナツが良く話を聞いてたらしくて」



明和さんが話してるのに、どんどん下がっていく視線を止められなくて。



「かなり春ちゃんの事が好きみたいでね?ナツに春ちゃんの事を色々話してくるんだって」



あたしの頭の中は、一体どの客だろうかとゆう不信でいっぱいだった。



誰だろ…誰と二番目のお兄さんが繋がってんだろ…って。



「春ちゃんがコーヒー好きだとか、読書が趣味だとか、そうゆう事を良く言ってたらしんだ」



仕事だから、お客さんにはたくさん甘えたし、普段使わないような言葉遣いもしていた。



そうゆう知られたくない部分まで、言われているんじゃないかと…不安ばかりが募る。



「もういい」



突如放たれた言葉に、思考がプツンと途切れた。



「俺は何も知らない」



あたしの不安を遮ったのは、藤本陽生だった。



「俺は、シゲや兄貴から聞いただけで、本当のところは何も知らない」



その言葉に、心臓が震えた。



「知りたくねぇって言ったら嘘になるけど、言いたくない奴から根ほり葉ほり聞き出す趣味は無い」


「陽生…」



声をかける明和さんに目もくれず、その視線はあたしへと向けられたまま。



「悪かったな」



こんな風に言ってくれる人を、あたしは他に知らない。



「シゲや兄貴達は、俺を面白がってただけで、おまえの事を面白がって話したり聞いたりしたんじゃねぇから」


「あ…!そうだよ春ちゃん!ごめんね、俺そうゆう意味で言ったんじゃなくて!」


「さっきの兄貴の言い方じゃ、そうゆう風に聞こえた」


「え!いや、春ちゃんごめん!違うんだ!陽生に好きな子が出来るなんて前代未聞で」


「…おい」


「陽生が好きになった子は、どんな子なのかなって」


「おい…」


「見てみたいなってゆう話をしてたら、たまたまナツが、知り合いから“ハル”って子の話を聞いてて、だから…ごめんね春ちゃん…」



申し訳ないって言う想いを、身振り手振りで思いっきり伝えてくる明和さんに、あたしはブルブルと首を横に振った。



何となく明和さん達の想いが分かるから。



それだけ藤本陽生が、皆から可愛がられているんだって事。



それに、



「陽生が全然春ちゃんの話をしねぇから、シゲに聞くしかなくてさ…」



あたしの事も、藤本陽生と同様…とまでは行かなくても、好印象を持ってくれてたんだって感じたから。



藤本陽生へ視線を向けると、眉間に皺を寄せられた。



以前なら睨まれたと感じていたその表情も、今は愛しくてしょうがない。



隠しきれない想いが、表情に自然と笑みを作らせるから思わず微笑み返すと、藤本陽生の眉間に寄っていた皺が無くなり、真顔で見られたから照れてしまった。



「あのさ、」



どこに視線を向けようかと焦るあたしに、助け舟とも思える明和さんの声が届き、



「春ちゃんが初めて来てくれた時、」



話しかけてくれたから、そちらに視線を向ける事ができた。



「絶対この子だって思った」


「え?」



焦る心情を落ち着かせていたあたしは、にこりと笑う明和さんの目尻に浮かんだ皺を見つめていた。



「陽生の好きな“ハル”ちゃんは、この子だって思った」


「…どうしてですか?」


「だって、陽生が優しかった」



にこりと笑う明和さんに、「え?」と疑問に思うあたしと同時に、「おい」と低い声が届く。



「だってそうだろ、初めて来た時も春ちゃんの好きな肉頼んでたじゃねぇか」


「え…?」



その時の事を考え巡らせるあたしに、



「生姜焼き」



明和さんが言う。



「春ちゃんの好物だろ?」



咄嗟に藤本陽生へ視線を向けた。



だけどコーヒーカップを掴んだ藤本陽生は、視線を合わせてくれない。



「好きな食べ物まで、知ってるんですか…?」



仕方なく明和さんへ問いかけたあたしに、明和さんはバツの悪そうな表情を浮かべる。



さっきの事があるから、マズイ事を言ってしまったと思ってるに違いない。



中々言葉をくれない明和さんに、痺れを切らしかけた時、



「知った気に言った」



変わりに藤本陽生が答えた。



「嫌いだったか?生姜焼き」



藤本陽生が言うと、本音なのか、誤魔化されたのか良く分からない。



そんな、考え込むあたしの表情が余程気になったのか…



「肉が好きだって聞いたから、適当に生姜焼き注文しただけだ」



説明するかのように話し出した藤本陽生の声に、微かに不安の色が伺えた。



「嫌いか?」


「いや、好きです。大好物です」


「そうか」



藤本陽生って人は、誤魔化しや嘘が吐ける程、器用な人間じゃない。



あたしの知らない所であたしの情報が出回っていた。と言ったら大袈裟だけど…その事に関して良い気はしない。



でも、



「俺も、生姜焼きは好きだ」



藤本陽生は、お兄さんから聞いた水商売をしている“ハル”じゃなく、シゲさんから聞いた高校生の“春ちゃん”でもない、“あたし”を知ろうとしてくれている。

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