17
彼氏
高校二年の夏、兄貴が経営してる飲食店でバイトをした事があった。
バイトって言っても、強制的に手伝わされたようなもんで、店が夜からの営業だった所為で、折角の夏休みを棒に振ったようなもんだと感じていた。
兄貴の店は飲み屋街にある所為か、そっち系の客が多い。
所謂ギャバ嬢とかホスト。
兄貴の知り合いも多く居て、バイト中は良く俺も声をかけられた。
その大半が、「うちの店で働かないか」ってゆう誘いだった。
兄貴の店でバイトを初めて二日目に、何故かシゲまで一緒にバイトを始めていて、シゲの方が愛想が良いからって理由で、俺はホールから外され、キッチンで兄貴の手伝いをする羽目になった。
午後七時から午前二時まで営業しているこの店で、俺達が高校生とか関係なく、がっつり閉店まで手伝わされた。
店を出るのは午前三時過ぎで…それでも兄貴だけはまだ残って仕事をしていた。
そんな生活だから、三十路になった今でも結婚しないでいる。
出来ないのか、しないのかは定かじゃない。
そんな兄貴の事を、シゲはどうも気に入っていて、今回のバイトも気づいたらシゲが一緒に働いていたから、きっと自ら兄貴に申し出たんだろう。
閉店時間の二時になると、店の外に置かれた灰皿を中に片付けるのは俺の役目みたいになっていて、いつもの様に客が皆帰ってから、灰皿を片付けに店の外へ出た。
その時に一服するのも習慣になっていて、蒸し暑い中、夜の街の輝きを見ながら煙草に火を点けた。
こうして通りへ目を向けるのもいつもの事で、胸がざわざわと音をたてる。
「ハルちゃん!」
聞こえた声に…とゆうより、その名前に、耳を澄まして目を凝らした。
店の外の照明は全部消えていて、通りを歩く人からは、こっちの姿は見えにくい。
それに反して、通りを歩く人達は、照らされたネオンのお陰で良く見える。
「ハルちゃん!そこ左だから!危ないって!」
「大丈夫だってば!」
「今からでもタクシー拾おうよ!」
「大丈夫だよ!水谷さんはタクシーに乗り過ぎなの!すぐそこなんだから歩くよ!」
深夜二時を過ぎた人通りの少ない道を、場違いな程大きな声で会話をしながら歩いて行く男女。
「ハルちゃんってば!」
その名前を呼ぶ男に、何度嫉妬したか分からない。
先を急ぐ女を追いかけるように、男も足早に通り過ぎ、角を左へ曲がった男女は見えなくなった。
ふーっと煙りを吐き出して、煙草を灰皿の上で揉み消すと、高まっていたモノが胸の奥で落ちて行く気がした。
店の扉を開け、円柱の形をした灰皿を両手で抱え持ち、店内の入り口に置いて、再び通りへと視線だけ向けた。
…――「ハルちゃん」と呼ばれていた女を、いつの間にか良く見かけるようになり、「ハル」と言う名前が聞こえる度に、いつの間にかその姿を探すようになった。
見た目や、連れている男、その話し方や、見かける時間帯で、俺の独断と偏見から、その女が水商売の仕事をしているんだろうなと分かった。
だけど、自分がどうしてその女を気にしているのか分からなかった。
ってゆうより、“気にしている”とゆう自覚すら無かったと思う――…
殺風景な通りから視線を逸らし、店の扉を閉めた。
“それ”に気づいたのは、八月十七日。
バイトを初めて一ヶ月が経とうとしていた。
「何でやねん!」
閉店した途端、声を上げるシゲを無視していつものように店の外へ向かう。
「何で誕生日プレゼント買うてへんねん!」
無視した結果、しつこく後を付いて来られた。
「ハル!」
引き止める様に名前を呼ばれ、入り口を開けながら振り返ると、想像通りの不機嫌な顔をしたシゲが睨んでくる。
「…別に良いだろ」
一言そう呟いて外へと出れば、今日は少しだけ風が吹いていた。
「店貸し切って誕生日会するし、プレゼント用意しといてなって言うたやろ!」
「…言ったな」
「ほな何で用意してへんねん!」
「忘れた」
「何やと!」
生温い風が肌に触れて心地良いのに、シゲの声が深夜の街に響いて顔をしかめた。
「…誕生日だからってプレゼントなんてしねぇだろ」
「アホか!普通はすんねん!もう明日やぞ!いや、日付変わってるからもう今日や!どないすんねん!」
「別にどうもしねぇよ。ナツだって別にそんなの欲しくねーだろ」
「アホや…おまえほんまもんのアホや…サプライズや言うたやろ!ナツ君に内緒ですんねん!プレゼントあったら、ビックリ嬉しいやん!」
「ビックリ嬉しいって何だよ」
「ええねん!そんなとこツッコまんでえーねん!」
シゲって奴は、自分で言った分には良いが、人に指摘されるのを嫌がるめんどくせぇとこがある。
シゲのこうゆうところは未だに理解出来ない。
ふと腕時計へ目をやると、二時はとっくに過ぎていて、短くなった煙草を灰皿へ押し当てた。
「おいハル聞いとんか!」
シゲの言葉に、「あぁ」と短く答え、目の前の通りに目を向けた。
毎日ここを通る訳じゃない。連続で通る時もあれば、二日姿を見せない時もある。
通る時間は決まって深夜二時を過ぎた頃。
いつもなら、煙草を吸っている間に声が聞こえて来る。
灰皿に落とした吸い殻を見つめ、今日はもう姿を見る事は出来ないのかもしれないと諦めた。
「…ハル、どないしてん?」
「何が」
「何がって…溜め息や!溜め息!さっきから溜め息ばぁ吐いてんで」
無意識だったせいか、シゲに言われるまで気づかなかった。
「もう中入るぞ」
灰皿を持ち上げ、入り口の前に立つシゲに「ドア開けてくれ」と言えば、シゲがすかさず扉へ体を向け、戸を引いた。
「何やハル、どないしてん?もしかしてプレゼントの事か?俺少し言い過ぎたか?せやけど…ナツ君の入籍祝いも兼ねてるしなぁ…ハルかて、兄ちゃんの誕生日やねんから、もうちょっと考えたってもえんちゃうかなって…」
「あぁ」
店内の入り口に灰皿を下ろし、開いた扉を手で押さえたままのシゲに振り返った。
「俺一人っ子やし、ハルみたいに兄ちゃんおって羨ましいねん」
「あぁ」
「せやから、祝い事はきちんとしたいねん」
「わかった」
「家族でもない俺が仕切んのもアレやけど…」
「ありがとな」
片手をシゲの肩に乗せると、シゲは腰に巻いた長いエプロンのポケットに手を突っ込み、
「ハルにお礼言われる筋合い無いわ…」
と、ふてくされたような物言いをした。
シゲって奴は、寂しがり屋な癖に人を突き放そうとする。
素直じゃねぇし、気に入らねぇ事があれば文句ばっか言って来やがる。
めんどくせぇけど、人一倍優しい奴だと思ってる。
「シゲも入れ。さっさと片付けて帰るぞ」
入り口の外に立つシゲにそう声をかけ、店内の片付けをしようと背を向けた。
「ハル!」
シゲの声に引き止められ、立ち止まって振り返ると、
「おまえ看板も一緒に下げとけや…」
呆れた声のシゲに「ついでやん…」と、溜め息を吐かれた。
「あー…」
「忘れんなや!それからこの花も!全部中に入れとけ言われてるやろ!」
どっかのうるせぇババアみたいな事言いやがるから、仕方なくもう一回入り口の外へと出た。
「おまえがちゃっちゃとせぇへんから、さっさと帰りとうても帰られへんねん!」
文句ばっかり言って来やがる割に、シゲって奴は何だかんだ手伝ってくれる。
看板を入れ終えて、今度こそ終わったと思った時――――
「……」
“声”が、聞こえた。
咄嗟に通りに視線を向け、目を細めて見ると、
「おいどないしてん?」
シゲが近づき、不思議そうに声をかけてきた。
「おいハル…」
―――聞こえた。
シゲの声に混じって、誰かが話しながら歩いて来ている。
その気配に、自ずと期待が膨らむ―――…
「やっぱり明日はショートのドレスにしようかな」
「お!ハルちゃん俺にサービスしてくれるの?」
「アハハッ!残念でしたー。ロングはこの時期熱いんだよね」
「なんだ違うのー?」
…―――その期待に、神はキッチリ応えてくれた。
「どないしてん?」
再び問いかけてくるシゲを無視して、歩いて来たその姿を捉えた。
「ハルちゃんはドレスなんて着なくて良いんだけどね」
「それ、良い意味ですか?」
笑いながら話す二人が、暗闇に隠れた俺達の前を通り過ぎて行く。
「知り合い?」
遠ざかって行く後ろ姿を見送りながら、シゲがしつこく問い質して来るから、すぐに視線を逸らし、
「ほら入るぞ」
そう言って店内へと向かった。
「おいハル!何やねん今の!」
店内に入った瞬間、気になってしょうがないらしいシゲの声が追いかけて来る。
「何やねんあれ?知り合いちゃうんか?」
店のドアが背中越しに閉まる音がした。
「何無視しとんねん!あー!おまえあれか!俺に隠し事すんねんな?はいはい分かりました。じゃあもう金輪際…」
「別に隠してねぇだろ」
返事する間を逃しただけで、キャンキャン騒ぐシゲにそう振り返った。
「ほな何やねん!」
丁度カウンター辺りで向き合うように立ち止まると、シゲも一歩空けて立ち止まった。
「何って程の事でもねぇだろ」
右肘をカウンターに置くと、シゲは仁王立ちになって見据えてくる。
「せやかて、何かめっちゃ意味深やん」
「何が」
「さっきの」
「さっきの?」
「さっきのあれや!」
「はぁ?」
どっちが意味深だ…と、シゲに言ってやりたかったけど、そんな事を言えばきりがないから口にはしなかった。
「何とぼけとんねん!さっきの二人は知り合いかて聞いとんねん!コソコソ陰から見張るみたいに…」
「見張ってたんじゃねぇ」
「じゃあ何や!」
「見てた」
「何やと」
「見てただけだ」
夏休みに入ってすぐこの店でバイトをするようになって、見かけるようになった女。
俺と同じ「ハル」と呼ばれる女。
「ハルって呼ばれてたから、気になっただけだ」
「ハル…?」
「さっきの女、ハルって呼ばれてた」
「あー、ハルと名前一緒なん?」
「一緒かどうかは知らねぇ。同じ呼び方だった」
「ふーん」
その説明に納得したのか、内容が興味をそそるものじゃなくて面白くないのか、シゲはどっちにも取れるような表情を見せた。
「…それであんな風に毎日見てるん?」
「毎日じゃねぇ。あそこを通りかかった時だけ」
「…あれどう見ても夜のネーチャンと客やろ?」
「そうだな」
「…向こうはハルの事知ってんの?」
「知らねーだろ」
「ほんなら用も無いのにただ通りかかるのを待ってんの?」
「別に待ってねーよ」
「ほんでもさっき見に行ってたやん」
「見に行ってねぇよ」
「でも気になるんは事実やろ?」
「…何だよ」
人の心を探るようなシゲの物言いに、また何か企んでるのかと嫌な予感がした。
シゲは背中を付けるようにカウンターへ寄りかかると、
「陽生さんそれって…」
嫌な口調のまま横目で俺を見た。
「好きなんちゃうん?」
シゲって奴は、知り合った時からふざけた野郎だった。
人の事をからかって笑ってるような奴だったけど、人を傷つける事はしない奴だった。
笑える冗談は大好きなのに、笑えねぇ冗談は心底嫌ってた。
だから――…
「それ何の冗談だ?」
全然笑えねぇから、シゲにそう問いかけた。
シゲの横顔に視線を送ると、
「おいマジか…」
視線を合わせて来たシゲの、溜め息にも取れる呟きが聞こえた。
「おまえガチやんけ」
次に口を開いたのもシゲだった。
「それ、好きやねんて」
こっちを向くように体勢を変えたシゲは、呆れた様子で、
「その“ハル”って呼ばれとる子が気になってしゃあないんやろ?」
首を傾けながら、また溜め息…
「まぁ、当たり前に気づいてへんやろけど、ハルがあの子を見とる姿、端から見たら誰だって分かんで」
シゲは組んでいた腕を解くと、そのまま歩き出し、
「好きなんやん」
通り過ぎ様に、そう言ってフッと笑った。
“それ”が恋だと知った十七歳の夏。
奇しくも、兄の誕生日だった。
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