13

静かな時間

寝て起きても、やっぱり実感は持てなかった。


ただ、お弁当を作らなかったのは、やっぱり現実を受け入れている証拠なんだと思う。



「春」



ハッとして、呼ばれた先へ視線を向けると、



「箸が止まってるよ」



目の前に座っている母が、どうしたの?と言いたげな眼差しを向けていた。



「何かあった?」


「ううん」


「そう?」


「うん、大丈夫」



あたし達は最近、良く会話をする。



「春は大丈夫が口癖だね」


「そうかな?」



あたしが不思議そうにすると、母は曖昧に微笑んだ。



…昨晩、あたしは母にバイトの話をした。



どこで働いていて、どうゆう仕事をしているか。



何で今になって話そうと思ったのか自分でも分からないけど。



今だから言おうと思ったのかもしれない。



母は驚く様子も無く「そうだったの…」と小さく漏らした。



辞めろとは言われなかった。


ただ、学生は学業が本望だから、寝る時間も惜しんで働くようなバイトは、考えた方が良いと言われた。



どうしてもやりたい仕事なの?とも聞かれた。



それには答えなかったし、辞めるとも続けるとも言わなかった。



あたしは高校を卒業したらこの家を出る。



進学はせずに就職をする。



だから高校を卒業してすぐ自立できるように、お金を貯めれるだけ貯めておきたい。



母に言ったら怒られるかもしれないけど、これは前から決めてた事だから。



母達には自分達の生活を大切にしてもらいたい。



その夜は、バイトについて母からたくさんの想いを聞かされた。



「女の子は十六歳で結婚できるって知ってるよね?」



そんな言葉から始まって、


「あなたはまだ十七歳だけど、法律上は結婚が出来る年なの。だから赤ちゃんも産める体なのよ」



真面目な面持ちで続けた。



「女はいつでも受け身だから、傷つく事が多い。だから自分の体を大切にして、自分を傷つけないでね。男は今を見てるから、時に未来に目を向けてる女の気持ちを無視して行動する事もある。そんな時、あたしの目の届かない所では、あなたを守ってあげられないかもしれない」



母は、夜の仕事を心配している様子だった。



「あなたがどうしても仕事を続けたいなら、その事はしっかり胸に留めておいて」



あたしの思いなんて、お見通しなのかもしれない。



「お母さんもね、昔そうゆう店で働いてたの」



あたしの父と結婚する前の話だと言ってた。



「だからあなたにこうやって忠告してるの。色んな事を知ってるから、あなたには働いて欲しくない」



だけど、無理やり止めたとこであなたは辞めないわね――…


母は最後にそう言って、自分を大切にしてね。と、あたしにお願いしてるみたいだった。



母の言っている意味は、あたしなりに理解したつもりだった。



だから母に自ら提案を持ちかけた。



・アフターはしない。

・出勤日は報告。

・連絡は必須。

・仕事は深夜一時まで。



母が少しでも安心するようにと、あたしなりに考えての事だった。



母に心配をかけては、元も子もない。



だからあたしも、より一層警戒心を高めた。



あたしのお客さんに、体を求めてくる人なんて居ないけど、男と女である以上、警官心は常に持っておこうと心した。



だけど、あたしは一生処女なのかなって思うと、それはそれで少し複雑だった。



朝食を食べ終えて「今晩は同伴だから」と母に伝えた。



「そう、どこのお店に行くの?」


「まだ分からないから、聞いたら連絡するね」



これも、母に心配をかけないように、報告するようにしてる。



「お母さんも付いて行こうかしら」



さすがにそれは冗談だと思ってスルーした。



「美味しいお店だったら今度行こう?」



そんな話をして家を出ると、朝の温かい風が気持ち良かった。



学校に通うのは苦じゃない。


あたしの場合は、家に一日中居るより学校に行った方が気が紛れる。



どんなにいじめられても、友達が出来なくても、毎日学校に通ってた。



それはあたしが強いとか、根性があるって訳じゃない。



父も居ない、お金もないあたしに、失うものなんて無かった。



言い換えれば、恐いもの知らずで。

開き直ってたんだと思う。




だけど――…




校庭を歩きながらふと屋上を見上げ、やっぱり寂しいな…と思った。



何だか妙に溜め息が出る。



どこかですれ違ったらどうしよう…とか、見かけたら絶対逃げちゃうな…とか、学校に着いてもあたしの気持ちはまだフワフワしてた。



リアルさが足りなかった。



シゲさんの事だから、あたしを見かけて話しかけてくるかもしれない。



その時はハッキリと断ろう。



色んな事を想定しながら向かった教室は、特に何も変わった事はなかった。



一限目が終わって、二限目が過ぎて、三限目に入ると、やっと実感が湧いて来た。



時間が経つ度に妙な緊張感に襲われる。



次の四限は移動教室だから、三年生の教室がある階に行かないといけない。



平然を保とうと、三年生の教室がある階をどんな風に通るか、何度も頭の中でシュミレーションした。



その度に浮かんで来た姿に、何度も溜め息を吐いては別のシュミレーションを考えた。



だけどやっぱり浮かんでくる人物が、頭から離れない。



そんな風に考え事をしてた所為か、いつもより授業の終わりを早く感じた。



四限に備えてクラスの子達がゾロゾロと教室から出て行く中、あたしは一人、ギリギリまでここに居ようと決めた。



ポツリポツリと減って行く生徒達。



時計に目を向け、あと五分したら出ようと、席に着いたままボーっと窓の方を見つめていた。



どうしようかな…って、色々考えながら。



出来れば会わずに今日一日を過ごしたい。



あたしが注意して気を張っていれば、会わずに済むんじゃないかって気もしてくる。



黒板の上に飾られた時計へ、チラッと視線を向けると―…



「行かないんすか?」



不意に聞こえて来た声の方へ、咄嗟に視線を移した。



「次、移動っすよ?」



こっちに向かって親しげに距離を詰めて来る相手に、思わず眉間に皺が寄ってしまった。



「もう皆行きましたよ」



そう言われて再び時計へ視線を向けると、丁度五分経過。



「…今、行こうと思ってた」



視線も合わせず立ち上がり、半ば足早に横を通り抜けた。




――コイツは厄介だ…



何が厄介って、KYで有名なあたしのクラスメイトで。

藤本陽生やシゲさん達の後輩でもある。



昼休憩になると、しゃしゃって屋上へ行き、藤本陽生に付き纏ってる奴。



――マジ関わりたくない…



アイツ何て名前だったかな?


大森?


いや、



「大元かな?」



まぁいいや。



「岡本っす」


「え…?」



突如聞こえた声は、いつの間にか隣を歩いてた奴ので。



「俺、岡本っす」



何おまえ…何コイツ…


何話しかけて来てんだ?って思いが、あたしの眉間に皺を作らせた。



「津島さんと話すの、二回目っすね」



明らかに怪訝なオーラを出しまくってるあたしに、このKY岡本は淡々と話しかけて来る。



しかもあたし達、正確には話した事はない。



「いっつも話しかけるタイミングないんすよね」



悠々と話続ける岡本に、空気読めよ…って切に思った。



「何か津島さんって話しかけづらいんすよね」



コイツ、空気読めないフリして実は喧嘩売ってんのかな?



「津島さんっていっつも一人で居ますよね?何か近寄りがたいんすよね」



語尾にいちいち中途半端な敬語を使うところとか、何かイラッとするし。



「屋上に居る時はいっつもシゲさんと居るし、話すタイミングが無いってゆうか」


「……」


「陽生くんとあんま一緒に居ないですもんね」


「……」


「俺、最初の頃、津島さんはシゲさんと付き合ってんのかと思ってました」



フル無視するあたしに、懲りず話しかけてくる無神経さが信じられない。


それとも、これも空気が読めないって事になるんだろうか。



「それ陽生くんに言ったら否定しないし、半信半疑だったんすけどね」



あたし達が別れた事を、岡本はきっと知らないんだ。


まぁ、昨日の今日だし、知ってる方が恐いかもしれない。



「だから、津島さんと陽生くんが付き合ってるって噂流れた時、正直驚きました」


「……」


「二人が話してるとこ見るの、結構貴重なんすよ。ジンクスがあるくらいだし」


「…―ジンクス?」



無視を決め込んでたあたしは、思わず岡本に聞き返してしまい、しまった―…と思ったけど、時既に遅し。



「あ、知らないっすか?」



岡本の淡々と話す感じが、やけに気に入らない。



「陽生くんと津島さんが話してるとこを見たカップルは、結婚できるとか、そんな感じのジンクスでした」



だけど、あたしがどれだけ険悪なムードを作っても、岡本は気にしてないみたいで。



「…―にしても、あれですよね」



懲りず話かけてくるけど、



「…え?」


聞く気が無いから、たまに聞き逃してしまう。


そんなあたしの雑な対応に、眉一つ動かさない岡本は、



「陽生くんは津島さんのどこが良かったんすかね」



聞き返すまでもない事を、さも当たり前の疑問かのように口にしやがった。



「津島さんは陽生くんのどこが良かったんすか?」



もう別れたんだよ!ってこのKYに言ってやろうかと思ったけど、コイツにわざわざ教えてやる義理なんて無いし、何とか胸に留めておいた。



「津島さんってほんと無口っすね」


「……」


「でもシゲさんとは良く話してますよね」



だから何なんだコイツは。



「あ、もうすぐ陽生くん達の教室ですね」



岡本の言葉に、気づかないフリをしていた緊張が、フッと胸を刺激した。



気づいたら三年生の教室がある階に居た――…



…――なんて事は無い。



岡本の鬱陶しい話を聞きながら、あたしの意識は常にここへと集中してた。



もうすぐだ。もうすぐだ。って、心拍数と一緒に緊張も増してた。



「陽生くん居るのかな」



真っ直ぐ正面を見つめるあたしの左側―…岡本が教室を覗き込むように見ている。


あたしを挟んで右側に位置する教室は、いつも通りのざわつき。



「あ、居た居た」



左側から聞こえて来た岡本の声は無視して、あたしは一目散に教室を通り過ぎ、



「あれ?陽生くん居ましたよ!」



わざわざ教室の前に立ち止まって教室内を指差す岡本のKYぶりに、思いっきり睨みつけて先を急いだ。




藤本陽生に気づかれでもしたら、たまったもんじゃない…



あたしが教室に入って席に着いてから、先生が来るギリギリまで岡本は来なかった。



きっと、藤本陽生かシゲさんと話をしてたんだと思う。



KYな岡本の事だから、さっきまであたしと一緒に居た事を藤本陽生やシゲさんに話してるかもしれない。


だとしたら、二人はどんな反応をしたのか、あたしについて何か言ってたのか…気になるけど聞けない。



暫くして、離れた席に座った岡本の様子を伺うように視線を向けた。


と言っても、岡本を見てるだけじゃ様子は掴めない。



「ハァ…」


やるせない。


こんな事で気になるようじゃ、ケジメをつけた意味が無い。



授業に集中しようと、もう岡本を見るのも、藤本陽生の事を考えるのもやめた。



何を考える訳でも無く、ボーっとして過ぎた時間は、長かったのか短かったのか分からない。



今度は皆に紛れて教室を出ようと思ったあたしは、岡本に絡まれたくないって思いも少なからずあった。



授業が終わるのと同時に、席を立つ皆に遅れをとらないよう、急いで行動に移した。



皆に紛れて行けば、何も見ずに、何も聞かずに、自分の教室まで戻れる気がして。


お昼休憩に入ったから、がやがやと廊下にも人が溢れて来ている。



バクバクと鳴り響く心臓と戦いながら、三年二組の教室を通り過ぎ、何とか彼らには会わず自分の教室に到着する事ができた。



今日から一人きりのお昼…



教室内を見渡すと、何人かがパラパラと固まっていた。



母が作ってくれたお弁当を鞄から取り出して、一人、机に向かってお弁当を広げた。




周りは五月蝿い程賑やかなのに、あたしを取り巻く空間だけが、静かに時間が流れている気がした。



こんなに黙々と箸を進めるのは久しぶりで、シゲさんと昼食をとっていた時は、色んな話をしてたから時間が経つのも早かったんだと……


いつもより早く食べ終わった事を、寂しく思ってしまった。



余った昼休憩の時間は何をしようか考えて、結局本を読む事にした。



シゲさんと居るようになってから、机に入れっぱなしだった本を取り出した。



シゲさん達と一緒に過ごす前は、当たり前にしていた読書。



あたしにはこっちの方が性に合っている。なんて、調子の良い事を思った。



読書をして精神が落ち着いたのか、午後からの授業は余計な事を考えずに終わる事が出来た。


たまに岡本がこっちを見ている気がしたけど、あたしは一切目を向けていない。


絡みたくないし、絡まない方が良いとも思った。



こうして藤本陽生に会わず、シゲさんと話さない一日が終わり、意外にも「こんなもんか」って感じだった。



現実を受け入れたら、辛くて悲しくて、学校に行く事が苦痛になるぐらい、落ち込むかもしれないとゆう不安があった。



でも現実は少し違った。



藤本陽生やシゲさんの事を思い浮かべる時は確かにある。


だけどそれがずーっと続いてる訳じゃない。


現にあたしは、放課後になると、同伴に着ていく服の事を考えていた。



何にしようかなって、クローゼットの中にある服を頭の中で整理してた。



あたし自身「こんなもんか」と思った。

藤本陽生に対する想いは、その程度だったのかと。



だけど、帰宅してクローゼットを開けた時、それも考えようだなと思った。



頭の中でイメージした筈のコーディネートは、いざ見てみるとちょっと様子がおかしい。


記憶してたよりも丈が短かったり、合わせようと思ってた色とも少し違った。



さてどうしようかと、一から服を物色して、目に止まったのはあの日の服。


藤本陽生とデートした日に着た服…


そうやって、些細な日常の中で不意に思い出してしまう。



これが生きていくって事なんだと思う。



あたしは藤本陽生から離れると決めた。


だから考えないようにした。なのにふと思い出す時がある。


でもその度に胸を痛めていてはきりがない。


だから、無意識に自分の気持ちにセーブをかけていたんだと思う。


一々傷つかないように。

一々苦しまないように。



一々思い出さないように…

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る