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そんなあたしの現実
お昼が終わって教室に戻ると、次の授業が移動教室の為、急いで廊下へ駆け出した。
向かうは三年生のクラスがある階。
いくつかの教科書を抱え、一人でトボトボ歩く道のりは、とても憂鬱だった。
「あ、陽生の彼女」
こうやって、三年生に話しかけられるのも、その要因の一つ。
「陽生なら居ねぇよ?」
どうしてみんな、あたしが藤本陽生に会いに来たと思うんだろ…
明らかにこれから授業を受ける体制でいるのに。
「そうですか」
それに対して、あたしが肯定も否定もしないからなのかな。
目的の教室に辿り着くまでに、五人に話しかけられた。知ってるような知らないような、曖昧な人ばかり。
男だったり女だったり、何に興味があるのか分からない。
「津島さん…」
移動教室での授業が終わり、教室を出ようとしたら、同じクラスの女子生徒に呼ばれ、廊下に踏み出しかけた足を教室に戻した。
「何?」
その子に目を向けると、遠慮の塊みたいな表情を浮かべて、
「…あの、津島さんだけ、このプリント…まだ提出してなくて…もらえますか…?」
手に持っていた用紙を、やっぱり遠慮ぎみにちらつかせてた。
「あ、ごめん」
危うく持ち帰りそうになっていたプリントを女子生徒に差し出すと、
「いえ…」
その子は軽く頭を下げて、すぐに背を向けて行ってしまう。
クラスメートの態度は、地味にあたしを傷つける。
再び廊下へ足を向けると、どこのクラスも授業を終えたばかりで、廊下には三年生もたくさん居るから溜め息が出る。
「幸せが逃げんでぇー」
ほら、思ってる傍から現れる。
「シゲさん…」
教室からひょこっと顔を出して、
「春ちゃん溜め息なんか吐いてどないしたん?」
その爽やかな笑顔は、誰に対しても変わる事なく向けられている。
「ハル、おんで?」
つられて笑ったあたしに、シゲさんはまた…当たり前のように藤本陽生の名前を口にする。
「そうですか…」
藤本陽生が居たところで用なんてないし、会う気もなかったから視線を落とした。
なのに…
「ハル!」
シゲさんは大きな声を出し、その名前を叫ぶ。
その呼び声に、教室の奥に居た藤本陽生は、あたし達の方へと視線を動かした。
心底嫌そうに溜め息吐いて、マジ面倒くせぇって感じに立ち上がって、めちゃくちゃダルそうに歩きながら、どこにともなく睨み効かせて…
「何だ」
あたしの方なんて一切見ずに、シゲさんに向かって口を開いた。
「春ちゃん来てん」
そのシゲさんの言葉に、あーまた怒られる…と、予感した。
ゆっくりとあたしに視線を向けた藤本陽生は、眉間にグッと皺を作ると――…
「だからなんだ?」
すぐに視線は逸らされ、そうシゲさんに問う。
あたしの存在なんて、完全に無視…
胸の奥がドクンと音を立てる。シゲさんに向かって言った言葉だと分かっていても、直接投げかけられたみたいで胸が痛かった。
「えかったやん!今日は二回も会えて」
そんな風に笑うシゲさんが優しすぎて、涙が出そうになる。
「春ちゃんいつでも会いに来たってや!」
その言葉には笑って返せなかった。
“彼女”に、ここまで横柄な態度をとる“彼氏”ってどうなんだろ…
場面で付き合う形となってしまったあたし達に、スキンシップが無ければ、会話もない。
メールもしないし電話もしない。
外で会う事も無ければ、まず2人で居る事がない。
教室に行けば来るなと言われ、弁当を作れば友達にあげてしまう。
それに比べてシゲさんは優しい。
シゲさんからしてみれば、あたしが彼女ってゆう立場だから優しくしてくれるのかもしれないけど。
それでもあたしは、シゲさんに絶大な信頼を持っている。
だけどシゲさんとの関係は浅く、シゲさんの本名を知らないし、何故関西弁なのかも分からない。
色んな人から「シゲ」って呼ばれているから、それが名前なんだろうと勝手に思っている。
喋りだけ聞くとチャラそうだけど、実際はほんとに好青年だから男女問わず友達が多い。
そんなシゲさんと、藤本陽生がどうして仲が良いのか、疑問に思う…
「さっさと戻れ」
こんな事を言う人だけど、あたしはそこまで嫌じゃない。
藤本陽生が冷たいのも、あたしに興味がないのも、それはあたしを好きじゃないから…
そんなの分かってて付き合ってるんだから、それで良い。
あたしは気にしない。
藤本陽生の“彼女”でさえいれば、あたしはそれで良い。
「そんなはよ戻らんでもええやんなー?」
「え?」
「ちょっとぐらいサボったったらええねん」
悪気もなくニシシっと笑うシゲさんに、思わず同意してしまいそうになる。
「ダメだ」
ダメだけどね…
「さっさと戻れ」
言われなくても戻るしね。
「じゃあ、シゲさんまた…」
そう言って手を振ると、シゲさんはニコッと笑ってくれる。
ついでに藤本陽生へ視線を向けたら、既に背を向けて教室の奥へと戻って行った。
少し足早に自分のクラスへと戻ったあたしは、そそくさと自分の席に着いた。
すぐに行われたHRを聞き流し、鞄を持って席を立つ。
早く家に帰りたい訳じゃないけど、ずっとここに居たいとも思わない。
ダランと下ろした手にぶら下がった鞄が、足に当たって歩き辛い。
一人で歩く廊下はとても賑やかで、早く立ち去りたいと思うのに、誰も居ない帰り道は、後ろ髪引かれる思いだった。
「おかえり」
リビングに入ると、母があたしを見ずに声をかける。
「ただいま」
その背中を見つめ、あたしも声をかけた。
それ以上の会話はない。それ以下の思いもない。
ただの挨拶。
人として最低限の礼儀。
部屋に閉じこもったところで「ご飯だから降りてきなさい」って言われる事はない。
時間になれば自分で降り、用意されたものを口にする。
だから体調が悪くて食欲がなくても、それはあたしの事情。
母には関係ない。
この生活に息苦しさを感じないと言えば嘘になる。
初めはたくさん気を遣った。今も気を遣っての生活だけど、それも初めの頃に比べれば、気を遣う事も習慣になる。
生活の一部になるから、慣れって怖い。
この家に来た日、あたしはこの家を出ようと決めた。
高校を卒業するまではお世話になろうと、どこかで思ってたけど…そんなのはあたしのエゴ。
頑張れば、自分だけで生活できるはず。
だからやるしかない。
バイトをしている事は、母に言ってある。どうゆうバイトかは言ってない。
聞かれたら話そうと思って、聞かれないまま時だけが過ぎた。
お風呂に入って化粧して、私服に着替えて家を出た。
携帯を開いて時刻を確認する。
二十時丁度。
飲み屋街へと足を踏み入れた。
『CLUB 桜』
ネオンにひしめく通りに、その看板が見える。
「おはようございます」と、水商売特有の挨拶を交わし、短いスカートを履くのですら抵抗があったのに、肩や胸が露出するドレスを身にまとう自分が、おかしく思える。
「ハルちゃん!今日はお寿司持って来たから一緒に食べよ?」
「えー?ありがとう!」
お腹なんて空いてないのに、ニコッと笑えば今日のあたしの稼ぎに繋がる。
「ハルちゃん絶対喜ぶと思った」
「さすが水谷さん」
「そりゃ、ハルちゃんとは一年の付き合いだから」
ここで働き出した当時、初めてのお客さんが水谷さんだった。
38歳の会社役員で独身。どこに住んでて、趣味は何かって事ぐらいしか水谷さんの事を知らない。
まぁ年相応な感じで、小綺麗なサラリーマンってとこだろうか。
面倒臭くないし、付き合いやすいから彼は楽だ。
バイトに水商売を選んだ理由はお金だった。簡単に稼げると思ってた訳じゃない。何度も辞めようと思ったし、今でも思ってる。
だけどこの一年で、あたしの貯金は五百万を優に越えた。
だからやるしかない。
自分一人で生活する為に、やるしかない。
「ねぇハルちゃん、この後アフター行こうよ」
「おっ!行きます」
「ハルちゃんの好きそうなお店見つけたんだ」
水谷さんはあたしを喜ばそうと、いつもこうやって色んなとこに連れて行ってくれる。
昼間は専門学校に通う学生だと言ってあるから、昼間に会おうって言われる事はない。
だから夜だけの付き合い…
「ここ、ここ!」
お店を指差す水谷さんに連れて来られた場所は、お洒落なラーメン屋さんだった。
一見レストランかと思えるその外観は、店内に入っても、やっぱりラーメンとは結びつかない。
「ハルちゃんはこうゆうギャップ、好きでしょ?」
あたしの事なら、何でも知ってるって言いたげなその口調。
「ちなみにここね、若い子に凄い人気らしいよ」
少し酔っ払ってる水谷さんは、ニコニコと肩を寄せてくる。
誰が見たって、あたし達は飲み屋のねーちゃんとその客って思われるに違いない。
「ハルちゃんは本当にかわいいよね」
水谷さんはいつもあたしを「可愛い」と褒めちぎる。
「水谷さんの為に努力してます」
「よく言うよー」
言葉とは反対に、水谷さんは嬉しそうに頬を緩めた。
ラーメンは凄く美味しかった。
「また来たいです」って笑ったら、「いつでも連絡してよ」って、水谷さんは手を振ってタクシーに乗り込んだ。
それを見送って、ふと携帯の画面を見る―――…
時刻は深夜三時…
今日も寝ずに学校へ行くのかと思うと、不意に欠伸が出た。
家に帰ってシャワーを浴びると、起きて来た母とバッタリ遭遇。
どちらからともなく、「おはよう」と声を掛け合う。
学校へ行く支度をして、リビングで用意された朝食を食べる。
「ごちそうさまでした」と呟けば、母はあたしにお弁当を差し出す。
「ありがとう」とそれを受け取り、母が再び寝室へ戻ったのを確認して、キッチンへと小走りで向かう。
藤本陽生のお弁当を作る為に。
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