5.はな・さない
「……えっ? 身請け?」
「うん。真井さんに」
十二月中旬、忘年会シーズンなのに客の入りが今ひとつという日が続いていたある時、花が突拍子もないことを言い出した。
「真井さんって……」
「ん?」
真井という男は、以前花の尻に赤く腫れた
「花はもう借金はないんだよ。身請けなんていらないの」
「そうなの? でも、真井さんが……」
「真井さんに借金返し終わったって言った?」
「言ったよ」
バージニアスリムの煙を吐き出しながらけろりと言う花を前に、胃のあたりが急速に冷たくなる。
「貯まったお金もあるって?」
「うん」
「なんでっ……、なんで言っちゃったの!? お金目当てに決まってるじゃない!」
「なんで? お金目当て?」と鸚鵡返しに問う花に、二の句が継げない。彼女の髪の真っ赤なハイビスカスが、そんな私を嘲笑っているように見える。
「真井さんお金持ちだよ。電話番号と住所、教えてもらったの。すぐにでも結婚したいって」
「結婚? 花のこと傷付けた人だよ、そんな人と結婚したいの!?」
「傷付けた? いつ?」
「お尻に赤い痕がついてたじゃない! 痛かったはずよ! 何でそんな人とっ……!」
私がいくらわめいても、花は小首を傾げて「想子ちゃん、怒ってるの?」と不思議そうに小声で言うだけだ。
「お……、女将には、もう言った?」
「うん、明後日ね、出発するって言ったの。真井さんが迎えに来てくれるから。ずっとね、いつも一緒にいてくれるんだって」
うふふと恥ずかしそうに笑う、耳まで真っ赤な、恋する乙女。
「……許して、もらえた?」
「残念だけど仕方ないねって言ってたよ」
女将は諦めてしまったのだろう。あの時歯切れの悪い返答をしたのは、「借金や貯金の有無を女の子たちに伝える義務はあるが、花には伝えない方がいい」と言いたかったのだろう。それを私は何も考えず、話してしまった。
「……そう……」
私も、諦めた。借金がないのなら、彼女の好きにさせるしかない。
「あのね、花……、痛いことされたらちゃんと嫌だって言うのよ」
「うん、わかった。ね、想子ちゃん、今日ラーメン食べに行こ?」
花の無邪気な笑顔は、私の心の一番弱い部分に届いてしまった。
「へぇ、花ちゃん、結婚かぁ。何て人と?」
「真井さん、っていうの」
タミヤ軒の重いドアを押して開けた時には数人の客がいたが、今は私と花だけが客として残っている。
「ふぅん。真井花……英語だと、はな・さない、だな」
「おじさん英語しゃべれるの? すごい」
「おう。花ちゃんも言ってみろよ、ワタシは、はな・さないです、って」
「あたしは、はな・さないです」
「よく言えたな。よーし、今日は花ちゃんの好きなメンマ大盛りにしてやるよ」
「ありがとう!」
目の前に座る花は、おじさんとの会話で気を良くしている。いつもなら「調子に乗らせないで」と嗜めるところだが、もうその必要はない。苗字と名前を逆に言っても「アイアム」を付けないと英語として成り立たないということも、言わなくていいだろう。
「想子ちゃん、あたしが島出ても、ラーメン一緒に食べに行こうね」
「そうね」
「向こうには、いっぱいおいしいものあるんだって」
「うん」
「想子ちゃんと一緒に食べに行きたいな」
「そう」
花と一緒の時間は、あと二日で終わるのだ。それなのに私は生返事しかできない。せめて貯金があることは花に言わなければよかったという後悔が押し寄せてきて、気が狂いそうだ。
『……天皇陛下の体調がすぐれないことから全国で自粛ムードが高まっており、個人旅行や社員旅行などのレジャーを取りやめる人々が……』
自分があまりしゃべらないからか、普段は気にしていなかった、店の奥に置かれているテレビの音がやたらと耳障りに思える。
タミヤ軒の重い扉の隙間から流れ込んで私と花のスカートの足を冷やす十二月の空気には、熱いラーメンを食べても勝てなかった。
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