4.赤い痕跡
宴席と夜の仕事を終えると、私たちは疲れ果てて泥のように眠る。
『……九月二十三日、政府筋より、天皇陛下の病状について情報が入りました。病変部はがんであることが判明し、依然、重体の……』
午後五時過ぎにやっと目を覚ました私は、ロビーのテレビの音を聞きながら、花の借金の残りを調べた。女将は花の頭が弱いことをよく知っているため、私が調べることに文句も言わず、そばで黙って見ていた。
「……あれ? もう返し終わってる……?」
「売れっ子だからね」
「本人に言わないんですか?」
「……本当は言わないといけないんだが、花には……」
「?」
「いや……、何でもないよ。さ、終わったなら風呂行っておいで」
いつもはっきり言葉を発する女将にしては珍しく、奥歯に物が挟まったような言い方だった。しかし私は気にしていなかった。今日は土曜日で宴席が二つあるから早くお風呂に行かなくちゃと考え、そちらに気を取られていた。
「あ、想子ちゃん」
脱衣所で裸になって風呂場の扉を開けると、花がいた。五人ほどなら余裕で入れる大きさの湯船に一人で浸かって機嫌良さそうにしている。いい塩梅に温まったその頬や肩はほんのり赤みを帯びており、美しい。
「花はいいなぁ、きれいで」
「ふふっ」
「あ、借金調べたらもう返し終わってたよ。あと、貯金が一千万ちょい。すごいね、花」
私もこの時は珍しく、湯を体にかけながら、素直に称賛の言葉を口にした。花は、目を輝かせて私を見る。
「本当? あたしすごい?」
「うん、すごいよ」
薄赤色の花弁をまとって、花はゆっくりと笑みを深めた。
ある日、私がロングの仕事を終えて置屋に戻ると、普段は静かな置屋の奥の和室が騒然としていた。女の子たちが固まって何かを凝視しているようだ。輪の外側から見てみると、花がその中心にいた。
新人の女の子たちが花の体を見て、口々に「痛そう……」「怖い……」などと言っている。そんな中でも花自身はあっけらかんと「そんなに痛くないよ、赤くなってるだけ」と言うのだが、なかなか椅子に座ろうとしない花に気付いた女将が、和室で花の服を脱がせたとのことだった。
私が近付いて見ると、花の尻の右側に一箇所、赤い
いくら金で買ったとはいえ、女の子たちに暴力を振るうことは許されない。『商品』は、いつもきれいな状態でないといけない。だからこそ、私たちは日々の体調から着る服、食べるもの――なぜかタミヤ軒だけは暗黙のうちに許されているのだが――まで、管理されているのだ。これはSMプレイを容認するところを除いた置屋共通の鉄則で、もちろん、花の体を見た女将は激昂した。
しかし、ホテルなどで行われる宴会に、置屋から客の出入り禁止を申し渡すことはできない。宿に迷惑をかけたわけではないからだ。置屋の女の子に多少暴力を振るったからといって、宿側としてはいちいち構ってなどいられないのだろう。
「SMはだめだって、毎回言うことになってるよね? ちゃんと言った?」
「言ったよ?」
「怖かったでしょう?」
「……
花が暴力を振るわれた件については私が聴取を任されたのだが、本人がこんな調子だったため、花を傷付けた人の名が「真井」ということ以外、今後の女の子たちの管理に役立ちそうな情報は得られなかった。女将も「花なら仕方ないね」と諦めきっていた。
そうして、このことは静かに忘れられていった。
「あのね、想子ちゃんもこういう色似合うと思うの」
もう十月も終わろうという晴れた日、いつものように煙草を買いに行く花に付き合って外に出ると、彼女は私の目の前でくるりと回ってみせた。清々しい日差しの中で、軽やかに、鮮やかに。
「ミニスカート?」
「うん。きれいな色でしょう?」
花のお気に入りのパステルグリーンが、私の目に映る。
「私はそんなに色白じゃないから、花みたいなのは似合わないよ」
「色白じゃなくても想子ちゃんはかわいいよ」
「……ありがと」
置屋に用意される中で私が選ぶものは大体いつも白と黒とグレーだ。花は、そんなモノトーンばかりでなく、自分のようにかわいらしい色も選ぶといいと言いたいのだろう。
「あと、髪にも何かつけようよ」
「髪飾り? 私はあまり……」
「あたしとおそろいのがいいな」
花の人懐こい笑顔が、とても愛らしい。
「ん、女将がいいって言ったら」
女将には、以前「想子は髪がきれいだからそのまま下ろしておきな」と言われたことがある。髪飾りが欲しいと申し出たところで、いらないと言われるのがオチだ。
「うん。ふふっ、楽しみ」
それでも、花の楽しそうな顔を曇らせたくなくて、私は「そうだね」と答えた。
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