2.タミヤ軒
『……九月十九日夜、天皇陛下がお住まいの吹上御所で、吐血されました。陛下は昨年の九月に慢性膵炎の疑いで手術を受けられており……』
狭いロビーの隅で、テレビの夕方のニュースが天皇陛下の体調について告げている。もし亡くなったら景気が悪くなりそうだと女将は言う。興味がなさそうな花は、テレビを見ている女将に背を向けて紫煙を立ち上らせている。
「想子ちゃん、今日お仕事は?」
「今日は、宴席が一つあるだけね」
「あたしも一緒?」
「一緒よ」
「その前にラーメン行ける?」
短くなったバージニアスリムをスモーキングスタンドに押し付けながら、花が問う。ラーメンのことは覚えていたようだ。食欲に直結していると忘れにくいのかもしれない。
「うん。花、お腹すいてるの?」
「すいてる」
「足は大丈夫?」
「足? ……あ、もう治ったよ」
「そう、なら行こうか」
パイプ椅子に座る花の左足を覗き込むと、元の白い肌に戻っていた。かゆみがなくなったから、忘れていたのだろう。
「うん」
うれしそうな笑顔の花が、長い髪をかき上げてひらりと椅子から立ち上がる。ふと、白い花びらのようだと思った。
置屋から徒歩五分のタミヤ軒に到着し、雨上がりのぬかるみで汚れたドアマットを踏みながら店に入ると、「いらっしゃい」と店主のおじさんが迎えてくれた。
「中華そばにするかい?」
「うん」
「私も」
「はいよ。最近お客さん多くて大変だろ?」
「大変だけど、今日はたぶん楽な方かな。宴席一つだけだし」
「そうか。ロング入るといいな」
「うん」
私は十八歳の時、男に騙されてこの島の元締めに売られた。「スタイルは良いけど顔がいまいちだから二百万」だったそうだ。上玉だともっと高く売れるらしい。花はスタイルも顔もきれいな子だから、きっと三百万くらいだっただろう。
「花、借金あといくら残ってる?」
「わかんない」
「確認しておかないと。あとで見てあげる」
「うん、ありがと」
売られてきた当初、私は泣き暮らしていた。アルバイトしていたピンサロで、羽振りがよくて顔がいい男に「かわいいね」と褒められたからといって、人身売買の組織員なんかにほいほい付いていった自分を呪った。島に到着し、勝手に割り当てられた置屋の女将に「新しい子には、ここに慣れるまでは仕事させないんだ、うちは。他の置屋に比べたらいい方だよ。ありがたく思いな。お金貯めて出ていった女の子も多いしね」と言われ、とにかくお金を貯めようと決意した。ただ、当然だが、そのように心が決まるまでには時間がかかった。
花は、泣く私によく話しかけてきた。「わあ、新しい子だ」「泣いてるの?」「笑ってよ。お話しよ?」「あなたのおうちも借金があるの?」「ここはいいところよ。あたし好き」などなど。あまりにも彼女が私の心情を無視して気軽に話しかけてくるものだから、しまいにはぐずぐず泣いている自分が馬鹿らしく思え、立ち直ることができた。
「想子ちゃん大好き」
厨房から漂ってくるおいしそうな匂いを背景に、花が笑った。
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