3
妻の手は柔らかい。しかし、どれだけ握りしめても彼女の指が握り返してくることはなく。機械的に行われている呼吸と機械的に響き渡る彼女の心音モニタが静かな病室に響いている。
「もう本当に手立てはないんですか」
医者は難しい話をした。要するに、あの紙切れ、「同意書」を寄越した時と全く変わらない内容の話を繰り返しただけだった。
「僕は医学に疎いので先生の仰っている事がよく分かりません。はっきり言ってください。杏奈はもう目覚めないんですか」
「目覚める可能性は限りなくゼロに近く、このままだと身体に負荷を掛けるばかりです。ですから――」
「延命治療をやめろと?」
「はい」
僕の言葉が決然としていたように、彼もまた決然と答えた。
「……その方が、患者様の、奥様のためになります。奥様はもうずいぶん長いこと戦ってこられました」
僕は何も言えなくなってしまった。
「その同意書なんですが」と後ろから立花が言った。
「代わりに俺が書くことはできますか」
医者は手短に答えた。
「お兄さんでも書けますが、ここは配偶者である旦那さんのほうに権利があると見ています。旦那さんがいなければお兄さんが書くことになったでしょうが」
「そうですか」
立花は軽く言うと、きびすを返した。
「先に出ています。俺にできること、なさそうなので」
残された僕は、真っ白な署名欄をにらみつけた。
「悔しいなぁ」
缶コーヒーを片手に、立花はベンチに腰掛けてぼやいた。
「先輩の苦労を肩代わりしたかったけど」
「おまえ、自分の双子の妹をそんなに殺したいのか」
返答はなかった。そも、僕に対して安売りのように愛をささやく男が、妻の存在を疎んでもしょうがないことに、今更になって気づく。こいつは俺のことを好きなのだ。どういうわけか、どういう因果か――肉体関係をしいてくるほどには。
「……僕はお前のことを好きにならない。絶対に」
「好きになってくれなくてもいいから、」
立花はゆっくりと顔を上げた。
「――こっち見てよ、先輩」
『知ってますか、先輩』
『先輩って、海外では――』
思い出の中に足跡がつけられる。土足で踏み込まれる。
「先輩。俺、あんたのことどうしようもなく――」
「……もう二度と先輩って呼ぶな」
僕は立ち上がって、立花から距離を取った。
「気色悪い」
気まずい沈黙があった。僕はその沈黙に背を向けて、重たい「同意書」をひっさげた右手をだらりと垂らした。
「夜、もう来るなよ。来ても追い返すからな」
「せん、……門倉さん」
「これ以上話すことはない」
「門倉さん、待って」
臭いものに蓋をするように、僕はやつの声をシャットアウトした。脳裏には相変わらず、機械音で示される妻の、命の音が聞こえてくる。
ぴっ、ぴっ、ぴっ、ぴっ、ぴっ、ぴっ、ぴっ……
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