ナターシャ・ユリエヴナが見ている景色
奴郎
ターシャ――起床と朝食と登校
ある世界の、ある国の地方都市。平地が多いこの国では数少ない山間部に、その街は広がっていた。
街全体の半分以上が、レンガやコンクリートパネルで組み立てられた、良く言えば実用的で無駄がない、悪く言えば画一的で無機質な集合住宅で構成されていた。しかし、計画的に設置された公園、あるいは古くから存在した広場や、車道と分離された歩道のおかげで息苦しさを感じることは少なく、歴史を感じる厳かで温かみのある建造物が多く存置されていることもあり、ここ数十年の間で作られた街区と数百年も前から存在していた街区が絶妙に調和する、独特の街並みが広がっている。
初夏の夜明けは早く、今日も昇りはじめた新しい太陽が、山々の稜線をくっきりと映し出し、雲一つない夜明け青空は徐々に薄金色に輝き始める。
コンクリートパネルで建てられた5階建ての集合住宅の一室の、さらに狭い個室。まさに初夏の夜明けの空のような金色の髪を湛えた少女――ナターシャ・ユリエヴナが、ベッドの上で毛布にくるまり、静かに寝息を立てていた。
ベッドの上には、くまのぬいぐるみと、昨夜夢の世界に入る直前まで読み進んでいた小説。
「んん……いちご……」
少女は幸せそうに寝言をつぶやいているが、まもなく夢の世界から引きずり出されることになた。
ーーチリリリリリリ!!
枕元の目覚まし時計が、ナターシャに朝の訪れを伝える。一瞬不快そうに小柄な身を縮めたが、毛布の中からゆっくりと細い腕を出して目覚まし時計の在り処を探り出し、執拗に朝を伝え続けるベルを停止させる。
そのままベッドから立ち上がると、窓際に歩み寄りカーテンを開く。一気に日差しが差し込み、少女の色白な肌を暖め、窓を開け放つと初夏のさわやかな空気が室内に流れ込んだ。
「うーん!気持ちいい朝!なんか良いことありそう!」
大きく伸びをして朝の空気を吸い込んだ少女は、窓際に置かれたブラシを手に取り、さらさらの金髪を梳かしはじめた。朝の陽ざしに金髪が照らし出されきらきらと輝き、青い瞳は初夏のさわやかな青空を映し出してその色の深さを増す。窓際に置かれた鉢植えのサボテンを覗き込むなどしながら髪を梳かし終えたナターシャは、バスルームで洗面や歯磨きを済ませると、再び自室に戻る。
(もうすぐこの寝間着じゃ暑くなるな……)
先ほどまで身につけていた薄いピンク色の起毛の寝間着を脱いでベッドの上に放り投げると、クローゼットの引き出しから取り出した白いハイソックスを履きひざ下まで引っ張り上げる。続いて、壁に掛けられているこげ茶色のワンピースに黒いエプロンが組み合わされたエプロンドレス――この国では標準的な女子学生の制服を着こみ、これも一つの制服に含まれる赤いスカーフを決まった結び方で胸元で結ぶ。ワンピースの中に入ったままの金髪をふわりと外に出し、慣れた手つきで金髪を2本の三つ編みにしてゆく。最後にスリッパから黒いストラップシューズに履き替えると、姿見の前で全身前後を確認して、実に満足げな表情をつくる。
「うん!きょうもばっちり!」
「おはようお母さん」
「おはようターシャ。気持ちいい朝ね」
広くはないダイニングキッチンでテーブルに朝食を並べていた母に、ナターシャが声をかけて着席する。ふっくらとしたきつね色のパンに茹で上がったばかりのたまご、青々としたサラダ。熱いお茶に手作りのジャムといった、軽めの朝食をテーブルに並べ終えた母は、ターシャ――母や友人たちの、普段のナターシャの呼び名で挨拶を返すと、彼女の斜め向かいに着席する。
「「いただきます」」
母娘は揃って食前の挨拶を捧げ、質素だが貧しさは感じさせない朝食を摂り始めた。眠りから覚めた身体に、暖かい食事の熱が伝わり、活力が徐々に満ちてゆく。やがてそれぞれの器が空になり、ターシャが甘いジャムをなめながら食後のお茶を楽しんでいると、母がふと思い出して口を開いた。
「あ、そうそう。昨日お父さんから手紙来てたのよ」
「え〜っ!何で言ってくれなかったの!?ずるいよ!」
「ごめんごめん、嬉しくて独り占めしちゃったのよ」
父からの手紙を母に独り占めされたことにほんの少しだけ不機嫌そうになったターシャだが、遠く離れた土地へ出稼ぎに出て久しい父からの手紙の内容が気になり問いかける。
「何か書いてあった?」
「うん、夏には休暇取れて帰ってこられるかもって」
「ほんと!?お父さんもうすぐ帰ってこられるんだ」
「うん、今持ってくる?」
「ううん、学校から帰ってからの楽しみにしておく!」
「そっか、それじゃあそろそろ学校行ったほうがいいんじゃない?」
「わ、もうこんな時間だ!」
ターシャはカップに残った茶を飲み干すと、傍らに置いていた通学鞄を手に取り、母にいってきますと告げて玄関を出た。鉄製の重いドアが閉まる音と、ターシャが軽やかに階段を降りる足音がコンクリートに囲まれた階段室に響いた。
朝の道は、学校や職場に向かう人々――この国では、一般的に人民とよばれる人々が行き交っている。街はコンクリートパネルで建てられたアパートが多く立ち並んでいるが、十分に取られた建物の間隔や程よく植えられた街路樹が、灰色の多い鬱屈とした雰囲気を和らげていた。
足取りも軽く、広い公園を通り抜ける通学路をゆくターシャが、前方をゆく幼少の頃から見慣れた姿に駆け寄り声をかけた。彼は紺色のジャケットにズボンを組み合わせた、この国の男子学生の標準的な制服姿で、襟元からは赤いスカーフがわずかに覗いている。薄い栗色のふわふわとした髪をたくわえ、気だるそうにブラブラと通学路を歩いていた。
「イゴールおはよ!」
「うわっ!ターシャか、おはよう……」
「声がちいさいよ!」
「ターシャの身長よりはでかいよ!」
「朝から言ってくれたね!」
「ぐえっ!悪かった悪かった!」
背後から突然声をかけられた少年――イゴール・ステファノヴィッチは、少し驚きながらもターシャに挨拶と冗談を返した。冗談があまり気に入らなかったターシャは、手を尖らせてイゴールの脇腹を小突いた。
イゴールは小突かれながら笑って降参した。性差による体格の違いはあるが、同世代の平均的な身長のイゴールと、平均身長よりも小柄なターシャがじゃれながら登校する光景は、端から見ると仲の良い兄妹にも見えた。
(ほんとイゴールはいつもこうなんだから……でも今日も朝からたのしいな!)
程なくして、レンガで建てられた学校に二人は到着した。赤地に白抜きで描かれた“今日も昨日以上に知識を得よう!!”というプロパガンダが掲げられた玄関をくぐり、同世代や年下の少年少女たちがにぎやかな廊下を抜け、二人のクラスの教室へ向かう。
「おはよう!」「おはよー」
誰に言うでもなく朝の挨拶をしながら朝の教室に入る。教室内では、クラスメイトが概ね同性どうしで数名ずつ集まり、談笑したり深刻そうにひそひそと何かを話し合ったりして、課業がはじまる前のひと時を過ごしている。
「ターシャおはよう!ちょっとちょっと!」
「えっなになに~?」
「よぉイゴール、おまえあれどうなった?」
「あれってどれだよ?」
ターシャもイゴールも、仲の良い同性のグループに自然と合流してゆく。間もなく朝の教室に始業のベルが鳴り響き、ターシャもイゴールもいつもの自席につくと、担任教師が現れ、少年少女たちにとっては長く退屈な一日の課業が始まった。
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