院内感染 11

「さあ、こっちに」

 俺は未収者である井道明子とその赤ん坊と共に急いで面談室を出ましたが、すぐに院内の様子がおかしいことに気づきました。

 人がいないんです。外来は今日もそれなりに盛況で、すでに百人ほどの予約があったのですが、会計窓口にもその周辺にも誰もいないんです。

「もうみんな逃げたのか……?」

「かえったんですよ」

「なら俺たちも行かないと」

「ええ、一緒にかえりましょう」

 俺は穏やかに微笑む彼女の手を引いて正面玄関から外に出ようとしたのですが、自動扉はうんともすんともいわなくて、おまけに手で開けようにもびくともしません。

「くそ、壊れてるみたいだ。向こう側に回ろう」

 事務室の窓は高層ビルのように、ハンドルレバーを解除して下から押し開けるタイプのもので、赤ん坊を抱えた彼女が狭い隙間を乗り越えるのは厳しいように思いました。院内は視界も良好で熱くもなく、特に火の手が回っているようにも見えなかったので、俺は彼女を連れて奥にある夜間玄関から外に出ることにしたんです。

「早くかえりましょう」

「ふえ」

「佐和李、あなたもかえりたいのね」

「ぎゃああああああ」

 赤ん坊が目を覚まして狂ったように泣き喚き、非常時であることも合間って俺は少し焦っていました。だから冷静な判断力が失われていたんだと思います。その時に何としてでも外に出るべきだったんです。

 夜間玄関はあとりうむを左に折れ、長い廊下を渡った先にあります。一月前に俺が気味の悪い新聞を拾ったあの廊下です。

「さあ、こっちへ」

 でもその時は、よくない場所だとかは考えなかったんですよ。とにかく彼女と赤ん坊を無事に外に連れ出すことで精一杯で、周りが全然見えてなかったんですよね。

「うっ」

 それまでは火事かどうかも半信半疑だったのに、あとりうむに着くと急に焦げ臭い匂いが鼻をついて、俺は思わず顔を覆いました。

 そこにももちろん人っ子一人いなかったんですが、床には黒焦げになって小さく折り畳まれた肉の塊がいくつも転がっていて。

 慌てて顔を上げると、壁に飾られた巨大な絵画が目に入ったんですが、絵画はもう何もかもが変わってしまっていました。

 灰振山からは濛々と黒煙が立ち上り、山から流れ出た暗褐色の溶岩が、右上から左下へと横断する手振川をどっぷりと呑み込んでいて、ナナカマドも銀杏も橋もボートもそこに描かれた輝かしい未来は一つ残らず閉ざされていました。

「はは……嘘だろ」

「いよいよですね」「かえりましょう」「待ちきれませんよ」

 誰もいないはずなのに耳元でギャラリー達の妙に弾んだ声が聞こえてきて、慌てて彼女の手を引いてその場を離れました。


 でも、もう手遅れだったんです。廊下の先は残念ながら防火シャッターで塞がれていて、だから俺は仕方なくレントゲン室を通って裏からぐるっと迂回する道を選びました。いつの間にか絵画の中のように院内にも黒い煙が充満していて、俺も彼女も胸の違和感からしきりに咳をしていました。

 放射線管理区域を示すあの黄色くて毒々しい印が貼られた横開きの扉をいくつも通り過ぎたんですが、その度に「使用中」と書かれた文字が赤く点り、ぶうううううんと中の機器が唸り声を上げました。

 ——肺まで真っ白だ。

 中からは唖然とする男の声がして、俺の喉の奥からごぼうと詰まった排水溝にも似た音が鳴りました。

「はあ……はあ……」

 喉が異様に渇いて渇いて、でも水飲み場なんてあるはずもなくて、俺はくたびれた野犬のようにだらしなく舌を垂らしながら院内を彷徨い歩きました。一本道のはずなのに、どうしても夜間玄関にたどり着かないんです。步けども歩けどもレントゲン室が終わりません。きっと、あの絵を見た時点でもうこうなることは決まっていたんでしょうね。

 ——水を飲まないで!

 突然鬼気迫る声が後ろから聞こえ、手に持った——いつから持っていたんでしょうか——ペットボトルが灰になって崩れ落ちました。彼女はというと、相変わらず満ち足りた顔で黙って俺の後についてきます。反対に腕の中の赤ん坊は泣き止むどころか声帯がなくならんばかりに金切り声をあげていて、でも彼女はまったく意に介していないんです。

「熱い……」

 そもそも院内はこれほどまでに暑かったでしょうか。もはや暖かいを通り越してサウナのようで、スーツが全身にべっとりと張り付いて酷く不快でした。

 ——そこ通りますっ!

 がらがらと慌ただしく何が俺を追い越していき、気づいた時にはストレッチャーに仰向けに乗せられて一人でに運ばれていました。断末魔のような声でぐずる赤ん坊には目もくれずに恍惚の表情で俺を見送る逆さまの彼女の姿が徐々に遠ざかっていきます。伸ばそうとした手はまるで看護婦が暴れる急患を押さえつけるように見えない力でぴくりとも動きません。

「ごぼごぼ」

 声をあげようにも口からは灰と痰が混じり合った粘ついた黄色い液体が溢れ出るばかりで。

 ——気管挿管急いで!

 次の瞬間、喉の奥にぶずっ、と刺すような痛みを感じ、俺はそのまま意識を失ってしまいました。

 視界が暗転する直前、遠くで轟音とともに彼女たちがどこからか噴き出した炎に呑まれていくのが見えました。

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