院内感染 10
俺が噴火慰霊碑に自分の名前を見つけてから、一月が経ちました。
意外にもあれから怪奇現象の一つも起きていなくて、気味の悪い新聞記事のことも噴火慰霊碑に自分の名前が刻まれていたことも忘れかけていました。
「分納相談お願いしまーす」
「はいはい」
今日は電話も面談も盛況で、朝からひっきりなしに未収患者の対応にあたっていました。雨納芦市立病院は公立病院なので、生活に困窮しているにも関わらず、財布も持たずに何食わぬ顔で受診する者が後を立たないのです。
病院の前身が定額診療所であることからもわかるとおり、応召義務に違反しない限りはお金がないからといって診療を断ることはしませんし、民間病院と違い簡単に出入り禁止にしたりもできません。
彼らは決まって開き直り、分割での納付もごくごく少額しか払いません。こちらが強制的に取り立てる術がない事をわかっているんです。
確かに今後未収金残高がどれだけ膨らもうが、雨納芦市議会はどの会派も何も突っ込まないでしょうし、逆に激しく取り立てする方が多方面から非難を受けることでしょう。
「こんにちは……」
「やあ井道さん」
でも、みなさんにもぜひ考えてみてほしいですね。公立病院は誰にでも公平に医療を提供する病院であると同時に、運営は市民の税金で成り立っているということを。公平性を記すのであれば、きちんと支払っている大多数の患者のためにも未収者には厳しくいかないとダメだと思うんです。
「お金、用意できませんでした…」
それは、井道明子だって例外ではありません。
今日は彼女が子どもを出産した際に払えなかった医療費を工面してくる約束の日でした。
「まあ、一応言い訳を聞こうじゃないか」
「この子……佐和李のご飯とか、おしめとか、とにかく子育てにお金がかかるんです。知り合いから借りたりして何とかその日を凌いでいるくらいで、とてもじゃないけど医療費なんて……」
「それならもう、生活保護を受けないと」
「嫌よ! それだけは、いや……。この子の将来に傷をつけたくないの。ねえ、お願い、もう少しだけ待ってくれないかしら」
そう懇願する彼女は相変わらず同情するほど痩せこけていて、自分は満足に食べてすらいないのが一目でわかります。すやすやと腕の中で眠る赤ん坊の血色が悪くないのだけがせめてもの救いでしょうか。
心の中では彼女に同情しつつも、借金をして他人に迷惑をかけてまで行政の介入を避けるその考えがどれだけ甘いかを彼女に厳しく教えなければなりませんでした。
「確かに生活保護を受けると、周りから白い目で見られることもあるかもしれない。就職でだって不利に働くかもしれない。でも、今だってそうだろ? こうやってお金を払わないで周りからも借金を重ねて。その方がよっぽど恥ずかしいことじゃないか。誰がどう見たってまともな生活ができてないんだから、子どもが小さいうちはきちんと行政の世話になることだね。なに、生活が落ち着けばまたやり直せるはずさ」
俺が話している間、彼女はしばらくは無言で俯いていました。小刻みに震え、もしかしたら涙をこらえているかもしれないな、そんな風に思っていたのですが。
「きた」
「かさいさま、きた」
彼女は突然顔を上げてにんまりと笑うと、待ってましたとばかりに立ち上がって窓に駆け寄りました。あれだけ大事に、それこそ身を削ってまで愛情を注いでいたはずの我が子を放り出してですよ?
俺はその様子を呆然と見送るだけで。
「ここ、ここ、ここ」
彼女が窓の外に手を振ると、それに呼応するように大地が震えます。
ジリリリリリ!
激しい揺れがおさまったかと思うと、不意にけたたましい火災ベルの音が鳴り響き、院内放送が火災発生を告げました。
「おい、話は後だ! 避難しよう」
幸い面談室は正面玄関のすぐ側にあって、逃げ遅れる心配はありません。そう、ないはずだったんです。
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