院内感染 8

「灰振山の噴火……ね」

 テーブルを挟んで向かい合った巫女装束姿の女性は、物憂げな瞳でそう漏らしました。

 庶民的な定食屋の店内に似つかわしくない神々しい雰囲気を纏った彼女の名は木月胎依きづきはらいといって、雨納芦市役所に同じタイミングで入職したいわゆる同期でした。切長の目にツンとした鼻筋、長い黒髪を後ろで束ねたその姿は、綺麗ですがどこか人を寄せ付けない雰囲気があるのですが、入職時に百名近くいた同期の中でも、彼女とはそれなりの間柄だったように思います。お互い社会人枠で採用されていますし、年が近いこともあって妙にウマが合うんですよね。俺は恐怖小説が好きですし、彼女はその家柄もあってそうした事象に詳しかったからだと思います。

 彼女とは当時行きつけだった定食屋「葛西」で、仕事終わりによく食事を共にしたものです。橙色のどんぶりに山のように盛られたカツ丼がとにかく美味い店で、丼から立ち昇ってくる思わず涎の溢れる甘じょっぱい湯気と、肉厚でジューシーなトンカツからドロリと流れ出す特性ソースと混ざり合った肉汁が堪らないんですよね。

 あの頃はちょうどお互い忙しくて会う機会も減っていましたけど、それでも会えばこの町の不思議について夜更けまで語り明かしたものです。

「まさかお前まで噴火は真実だ、なんて言わないでくれよ?」

「よしてよ。私は影響されないわ」

 でも、久々に会った彼女は中々ご飯に手をつけず、しきりに窓の外に目を向けていました。話していても心ここに在らずという感じで、常に何かに気を取られているようでした。以前から激務であることは聞いていましたので、仕事がよほど忙しいに違いないと、その時の俺はそう結論付けました。

「なあ、どこか具合でも悪いのかい? 随分とやつれてるじゃないか」

「ごめんなさい、この町はもう手遅れです」

 彼女は不意に俺に向き直ると、目の前にあるカツの山を前にしてそう呟きました。その拍子にカツが崩れ落ち、どろりとしたソースがどんぶりを伝ってゆっくりと机に染みをつくりました。入職当初の凛として力強い言動は既に鳴りをひそめ、ゆるゆると振った頭からか乾いた皮脂が雪のように舞い落ちてきて。

「もう……私にはもう。ごめんなさい」

「おい」

「ごめんなさいごめんなさい」

「おいって」

「……あら、ごめんなさい。少し気を取られてたみたい」

 彼女はそう言って力なく笑うと、すぐにまた無表情でじっと窓の外に広がる街並みを眺めます。 

 その様子はまるで町そのものに命が少しずつ吸い取られているかのようで。

「今もまだこの町の歪みとやらを調べてるのかい?  

 あんまり無理しないでくれよ。怪奇現象のことを話せる友人がいなくなるのは忍びない」

 彼女は町の至る所で発生する怪現象と、市役所職員の失踪率の関連性について独自に調査を進めていて、俺も最初は眉唾物だと真剣に取り合いませんでしたが、今は身をもってその怖さを体感しています。それでも、本来の業務を逸脱して調査に明け暮れた挙句、それが元で体を壊したら本末転倒じゃないですか。

「私は大丈夫だから。あなたにつきまとうその新聞、ひとまず噴火慰霊碑を見に行くと良いわ」

「噴火慰霊碑?」

 彼女が口にしたのは私の知らない何かでした。

「そう、ちょうどあなたの職場の近くじゃない」

「え、そうなのかい」

「病院の裏手にある噴水広場にあるのよ」

 彼女は俺なんかより余程——恐らく市民の誰よりもこの町の地理に詳しくて、その常軌を逸した情報量が余計に心配なるんですよね。

「ありがとう。近いうちに行ってみるよ」

「念のため急いだ方がいいと思うわ。あとこれ、良ければ持って行って」

「……鏡?」

 彼女が小物入れから取り出したのは木彫りの手鏡でした。裏面には美しい森と動物のような何かが丁寧に、しかし力強く彫られていて、俺は思わず見惚れてしまいました。

「もうすぐそこまできてる。これからは夜の残業は控えた方がいいかもね」

 それっきり、彼女との会話は途切れてしまいました。俺が胃の中に黙々とご飯を詰め込んでいる間、彼女がうわごとのように繰り返す言葉が今も頭から離れません。

「私がやるの。そう、私が。私しか……」

 なんで俺は彼女に手を差し伸べなかったんでしょうか。あの時はきっと、まだ届く距離にあったはずなんです。それなのに、どうして。

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