院内感染 6

 あとりうむの中央にあるエスカレーターを登ると、診療科が立ち並ぶ外来棟に至ります。  

 一方、突き当たりを左に折れるとその先は入院棟になっているんですが、そこまでの道のりは思った以上に長いんです。一本道の廊下を延々と進み、本当にこっちで合っているのかと不安に駆られるくらいで、ようやく入院棟専用のエレベーターの表示があって。廊下の右手側は中庭になっていて、大きなガラス窓の向こうではナナカマドやつつじの花なんかが季節に合わせた顔でこちらを覗いていました。

 安山主査と話してから一か月くらい後のことでしょうか。俺は入院中の未収者と面談するべくその廊下を歩いていて、少し先に新聞が開いた状態で落ちているのを見つけました。

 喫茶店ではよく新聞を広げながら朝食を嗜む利用者がいて、恐らくその誰かが落としたものだろう——。

 そう軽い気持ちで拾い上げて、俺は雷に打たれたような衝撃を受けました。


【昭和64年 灰振山で大規模な噴火 死者百人越えか】


 それは、あの日図書館で目にした奇妙な新聞の切り抜きと同じ題名でした。

「うそ……だろ……」

 まるで自分が物語の主人公にでもなったかのようで、思わず天井を見上げました。

 恐怖小説は好きですが、俺はあくまで物語として楽しんでいます。それまで俺に霊感なんてなかったし、その類は全て作り物だと信じていました。

 けれど、目の前で起きてる現象は明らかに偶然の範疇を超えていて。

 気がつくと新聞を握りしめた手が子犬のように震えていました。急速に身体から水分が失われ、張り付いた喉の痛みを唾で無理やり押し込むしかありませんでした。

 ふと横を見ると、中庭の木々が春なのに全て色鮮やかな橙色に染まっていたんです。ガラスに映る俺の顔は死人のように酷く青白くなっていて。最近流行っているあのビデオみたいな、“呪い”という言葉が俺の脳裏によぎりました。頭上にある吸気口の唸り声がひどく耳について、でも身体は指一本動かなくて、院内はこんなに暑かっただろうか、地面が揺れているのはきっと救急搬送された患者を乗せたストレッチャーのせいで、ああ喉が渇いた、次から次へと運ばれてくる音がする、窓の外は紅い、燃えるように紅い、遠くでぽこぉんと、熱い水が飲みたい、早く早く早く。

「君。……君! ぼーっとしてどうしたの」

「え」

 安山主査に肩を叩かれて俺ははっと我に帰りました。さっきまでのことは既に朧気で、中庭では青々とした葉が風に揺れています。

「……ああ、いえ」

 これが白昼夢というやつなんでしょうか。足元がふわふわして、あの時はここが現実なのかイマイチ確証が持てないでいました。

「何だいその気のない返事は。さては、女の子に現を抜かしてるなあ」

「違いますよ! この間話した例の新聞ですよ」

「おっと、冗談はよしこちゃんってかい? どれどれ……」

 こんな時ですから、安山主査の冗談に少しホッとしたんです。でも——。

「これのどこがおかしいんだい?」

「は? いや、おかしいでしょう。だって」

「あの時はまさに地獄絵図だったなあ。院内に次から次へと患者さんが運ばれてきてね」

「はは……ふざけないでくださいよ」

 それこそ冗談はよしこちゃんじゃないですか。だってこの間安山主査はすぐに否定したはずなのに。

「職員総出で対応してね。それでも全然追いつかなくて、熱い熱いって呻きながら、一人また一人と命の炎が消えていったよ。霊安室なんてもう大繁盛で、入りきらないご遺体がブルーシートを引いた床の上に何体も寝かせれてねえ」

「やめてください!」

 話している最中の安山主査は悲しくなるほど普段通りで、その異様さに俺は話を遮って逃げるように来た道を戻りました。

「おーい。すぐに君もそうなるゾォ! わははははは」

 この時ばかりはこの長い廊下を恨みましたよ。走っても走っても狂ったような笑い声がまとわりついてきて。一度だけ振り向いたその顔からはもうもうと黒煙が上がっていて、俺はまだ夢でも見ていたんでしょうか。

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