院内感染 4
今更ですけど、俺が勤めている病院のことや彼女との出会いなんかについても話しておこうと思います。
昭和三年に貧困者医療機関として開設されたこの病院——当時は雨納芦診療所と呼ばれていましたが——は、昭和十年に現在の名前となり、強制疎開の影響で
統合と増築、増床を繰り返し、今では診療科目19科、病床数は395床を有する、北海道内の基幹病院へと変貌を遂げました。
二階にある外来棟は横に長く造られており、俺はいつも青いガラス張りの窓とその外観を見るにつけ、雨納芦空港のターミナルなんかを思い出しました。
一方、白さの目立つ入院棟は高さのある七階建てで、煙突から立ち上るもうもうとした厚い灰煙は、遠くから眺めるとまるで雪を被った灰振山と見紛うほどでした。
「分納相談お願いしまーす」
「はいよ」
俺がいたのは事務局の医事課という部署です。仕事内容を一言で括るなら雑務といったところでしょうか。医療職の完全な黒子となって、診療報酬の請求や収益の調定、各種検査や医療機器の賃貸借契約の締結、診断書の受付、患者に関する官公庁からの照会回答、医療費の支払い相談、未収金の督促、果ては患者からのクレーム対応までを幅広く担います。
新たな感染症が発生した場合の院内対応等、降って湧いてくる業務も多く、あの頃の職場には常に重苦しさが蔓延していたように思います。恐らくどの職員も必死だったのでしょう。ただひたすら書類に向かい、業務中に私語が発生することも滅多にありませんでした。
病院採用である医療職とは違い、事務方は本庁から異動してくる謂わゆる人事交流職員で占められているのですが、人事交流職員は数年でまた異動してしまうため、医師や看護婦からの評判はあまり良くないのが実情でした。
「こんにちは。今日はどうされましたか」
その中で俺は未収金対応を一手に引き受けていて、毎日朝から晩まで生活に困窮した患者やその家族と向き合っていたのですが、彼女と出会ったのもちょうどその時で。
「ごめんなさい、お金が用意できなくって……」
年季の入った事務机の前で同じようにくたびれた顔で産まれたての赤ん坊をあやしているその女性は、井道明子といいました。よくよくみると彫刻のように綺麗な顔立ちをしているのですが、まだ二十代でありながら化粧っ気もなく、髪も乱れて目は虚。まるで机が彼岸と此岸の境に思えました。
「何か事情があるのかい?」
「はい……」
彼女はヨレたTシャツの裾をきゅっと掴むと、絞り出すようにそう口にして、俯いたまま涙をこぼしました。手元に目をやると、彼女の色褪せたジーンズはかたかたと小刻みに震えていて。
きっと、近くに話し相手すらいなかったんだと思います。どうにか宥めつつ話を聞いてみると、周囲の反対を押し切り駆け落ち同然で同棲を始めたものの、子どもができた途端に彼氏が愛人を作って出ていった——大体そんなようなことを堰を切ったように早口でまくしたてました。
一人では到底堕すお金もなく、うちの病院で産んだはいいが出産費用数十万が払えない。両親からは勘当され、赤ん坊がいるから満足に働くこともできない。そう訴える彼女の涙で滲んだ目には、夜よりも暗く深い影が宿っていて、このまま会話を続けることを躊躇ったのを覚えています。
「同情はするけれど、こちらも慈善事業じゃあないからね」
「わかっています……」
「月々いくらなら払えそうだい?」
「今は難しくて……。今度必ず用立てて来ますから」
「それだと厳しいなあ」
「ああ! 私なんて、夜のお店にでもいくしかないんだわ」
少しキツめに言おうものなら、大袈裟に顔を覆って泣き出す始末で、彼女からは自暴自棄になって何をしでかすかわからない危うさも感じました。彼女の境遇と収入状況を考えれば、恐らく生活保護を受給するのがベストです。けれど、彼女はそれだけは勘弁して欲しいと、頑として首を縦に振らないのです。
「ふええええ」
「よしなよ。子どもが悲しむ」
「でも……」
「じゃあとりあえず千円だけでも払ってくれよ。残りはまた来月考えればいいからさ」
「あ……ありがとうございます!」
我ながら甘い対応だと思いましたが、彼女からは逆ギレしたり、悪意を持って払わない連中とは違う誠実さも感じられて、どこか放っておけなかったんですよね。
「さて。面談もひとまずこれで終了だ。来月の中頃にまた状況を聞かせてもらうとしよう。それまでくれぐれも倒れないでくれよ」
「これくらい私は平気よ。でも——」
「でも?」
「神様はそうじゃないの」
彼女はそう言うと悲しそうに笑いながら赤ん坊を優しい手つきで撫でました。彼女の生への諦めと執念の入り混じった複雑な表情を、あの時の俺は少しも理解できなくて、俺は確か返答に困って「へえ」とか「ふうん」とか曖昧な返事をしたと思います。そしたら赤ん坊が何に反応したのか狂ったように泣き出して。
「みいいいいいい」
「だから、それまでに何とかしなくっちゃ」
「けえええええ」
彼女は勢いよく立ち上がると、赤ん坊が泣いているのもお構いなしに奥の扉から出ていきました。すれ違った彼女は随分と甘い匂いをさせていて、化粧もしないのに香水だけつけるなんて変だなと思ったんですよね。
「たあああああ」
「やれやれ」
生活困窮者や社会的弱者が宗教に走るのはそう珍しいことでもなく、いつの世も弱みに漬け込もうとする人間は腐るほどいるものです。
それの全部が全部悪人じゃないのが、余計にタチが悪いですよね。無自覚にばらまいたり、本気で信じている奴から言い寄られたりすることほど面倒なことはないですから。
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