院内感染 3

「最近起きた灰振山の噴火を知ってるかって? 藪から棒にどうしたの君」

 俺が気味の悪い新聞を拾ってから数日後くらいだったでしょうか。人事交流職員ながら病院に三十年以上在籍し、現在は退職して再任用で働いている生き字引の安山あんざん主査とその件について話す機会がありました。

「や、図書館で偶然そんな記事を目にしたもんで」

 俺は世間話のように努めて軽い感じでそう切り出しましたが、今思えばここからもうおかしかったのかもしれません。

 安山主査はいつも決まってクリーム色のセーターに鼠色のスラックスを履いていて、とても一度退職したとは思えない若々しく精悍な顔つきをした人でした。

「ふうん、噴火ねえ……。昭和十三年? ちょっと僕は聞いたことないなあ」

 恐らく彼そのものに問題があったんでしょうが、その時の俺には気付きようもありません。

「そうですよね」

「だって灰振山は百年も前に休眠状態じゃあないか」

「やっぱりイタズラですかね」

「それにしては随分な手の込みようだねえ」

「ですね」

 ぽつぽつと会話が続いていき、このまま何事もなかったように会話の波に攫われていく——。そんな気配が漂ってきたときのことでした。ふと。

「どうしました?」

 視線だけが左上を向いたまま、安山主査の動きが止まったのです。

「安山主査?」

「……あれは予兆でした。壁の絵がいつの間にか変わっていて、でも誰も、職員も患者も、それに気がつきませんでした」

 安山主査の口から聞こえてくるのはまるでドキュメンタリー番組のナレーションのようで。

「“そんなもんか”って誰もが思いました。諦めにも似た、わずかな希望すら失われた瞬間でした。だから、彼らはわからせたかったんだと思います」

 その流暢な語り口はどう考えても彼のものではなく、ウーパールーパーのように口をぱくぱくさせるだけの操り人形と化していました。

「読んでみてください」

 彼はごく自然な動作で自席にあった新聞をこちらに差し出しました。そこに書かれた見出しはやはり図書館で目にしたものと同じで、俺は夢でも見ているのかと頬っぺたをつねってみたのですが。

「いたた」

「その痛みを忘れないでください」

 彼はそれだけ言うとふらっと何処かへ行ってしまい、その場に俺だけが取り残されました。しいんとした静寂に春特有の重だるさが混ざり合って、俺の瞼はゆっくりと閉じていきました。

「おや、どーしたのぽかんとしちゃって。まったく……色男が台無しだねこりゃ」

 次に起こされた時にはもういつもの安山主査に戻っていて、俺は肩を叩きながら軽やかに去っていく彼の後ろ姿を黙って見送るほかありませんでした。


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