ダイコウの本分 3

 私が配属になった契約課は市の契約に関わる全てを担っている。

 そもそも契約は保険屋さんが家にきて、胡散臭い笑顔で商品の説明をしてから納得させられてハンコを押して……みたいなイメージがあったけど、役所の契約事務はちょっと違う。

 契約事務に精通している石浦主査に契約の何たるかを聞いてみると、

「一定の法律効果の発生を目的とする二以上の相対立する当事者の意思の合致によって成立する法律行為をいうのであって、私法上の効果の発生を目的とするものだよ」

 と何処かの参考書に載ってるような言葉を授けてくれた。正直字面では全く意味がわからない。この手のモノはあえて難しく書かなきゃいけない縛りでもあるのか。あるんだろう、そこに高尚な魂が。

 契約課は制度担当係、入札名簿係、そして契約代行係の三つの係に分かれており、市の契約事務を司る契約課は、原則自分で契約事務をしない。が、原課の契約起案の合議に審査番として君臨し、厳しく鬱陶しいチェックで全職員から恐れられていた。地獄の番犬、鬼の門番、又は穢れた魂の洗濯場。

 ——文字には魂が宿るんだ。だから、本気で向き合わないと穢れてしまう。

 これも石浦主査の言葉。ふとした拍子に私の記憶の沼から浮かび上がる魂魄が。たまゆらの死と束の間の生を楽しみなさいと唆す。

 回ってきた起案に魂が見えたことはただの一度もないんだけど。

「それで、どう思いますか」

 美濃係長が去った後、私は石浦主査に光の速さで助けを求めた。美濃係長は行動力こそあれ、知識面では石浦主査の足元にも及ばない。信頼できるのは所詮自分だけだ。

 灰色の紙が擦れ、そこに赤茶けた文字がごりごりと規則正しく走っていく。

「どんな契約なの?」

 契約代行係は職員三人のこぢんまりとした係だった。狭い室内にエアコンもないので夏は窓の開閉と扇風機で凌いでいる。窓口もないので首に冷たいリングもつける。蝉が雄叫び、扇風機が唸り、美濃係長の声が結局全てを凌駕する。暑苦しいこと灰振山の火山流の如し。

「溶解処分がどうのって書いてますけど」

「それかあ」

「うわ、絶対面倒なやつじゃないですか」

 石浦主査の前で猫は被らない。ちゃんと言葉に私の魂をのせる。ある意味では自己対話。しかしその距離感が私には丁度良い。

「まあ別紙を見てごらん」


【溶解処分の残渣に係る収集運搬業務 代行依頼書】


1 依頼元

 生活保護課保護第四係


2 代行理由

 元保護第四係主査の汚染による。


3 汚染元区域 足泊通地下


4 代行契約の詳細

(1)契約業務名 

 溶解処分後に発生する残渣の処分業務

(2)業務内容 別紙仕様書のとおり

(3)契約履行期間

 令和6年8月1日 午後12時から午前3時

(4)契約の態様

 ア 契約方法

  随意契約(単価契約)

 イ 根拠法令

  地方自治法施行令第167条第1項第2号

  雨納芦市契約規定第17条

  ……


「何ですかこれ」

 何度内容を見てもさっぱりわからない。溶解処分、汚染、残渣。やはり言葉は難しい。カーテンの締め切られた暗所でうず高く積み上がった塵芥に塗れ、蝿が歓喜し蛆が惚気る黒い畳のシミが頭に浮かんですぐ消えた。最近はよく、文字から不穏なイメージが浮かんでくるようになった。これも石浦主査の影響かも。何も起きていないのにね。

「難しいよね。まあ、ここからが我ら契約課契約代行係ダイコウの仕事だよ」

 ドラマ好きな石浦主査はいつも係名に警視庁特別捜査班みたいな名前をつけたがるから恥ずかしい。でも、時々かっこよく思える時もある。ああ、これも言葉の魔法かも。吊り橋言葉ってやつ。

「ようやくですか」

 そもそも、ダイコウの本分は契約起案の合議ではなく、に代行するという所だ。すぐ近くにいるわけで、原課の他の係員が引き継げばいいと思うのだが、そうはいかない決まりらしい。

 契約課の制度担当係で策定した「契約事務の手引き」p.46にもこう書かれている。


 “全ての契約事務は、原課で責任を持って行うこと。

 ただし、原課の契約担当者が契約事務を行える状態にない場合、汚染防止の観点から、その契約は契約課契約代行係が引き継ぐ”


 配属初日に説明されたっきり目にすることはなかった言葉だ。これまで契約の相談や他課の合議は数あれど、契約を代行するのはこれが初めてだった。よく考えたら、これってヒーローみたいだね?これぞまさに“ダイコウ”だ。

「ようやくだね。これが終われば一人前だ」

「やった」

「俺からも卒業だね」

「寂しくなります」

「ちょっと、引き留めてよ」

「ふっ」

 流れるように刻まれる軽快な文字のやり取りに思わず笑みが溢れてしまい、斜め向かいの美濃係長が頭から蜘蛛の巣を被ったような諦めとも怒りともつかない表情でこちらを一瞥した。

「おーい、遊んでないでちゃっちゃと進めちゃってよ、なごみちゃーん」

 私が石浦主査に契約に関する相談をしてることは内緒だ。係長は知識面では物足りないけど、かと言って係長の目の前で石浦主査に教えを乞うと多分嫌がられる。ガサツなようで心の奥は案外繊細。鉛筆の背骨から引きずり出された芯のようにポッキリと脆いのだ。おじさんって中々難しいんだよねぇ。「あ、すいませぇん」

 私は一オクターブ高い声色に渇いた愛想笑いを貼り付けながら暗いノートパソコンの画面に目を向ける。そこに映るのは大きくてゴツゴツした暗褐色の石を硬く握りしめて今にも殺人事件を起こしそうな無表情の私です。

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