幕間3 こどく

 やあ。

 嬉しいよ、来てくれて。辛そうだね、随分と。

 ああ、みなまで言わなくていい。わかるんだ。

 ……おや、あれが気になるんだね。

 あれは……前の家主の置き土産ってところかな。趣味じゃないけどね、残念ながら。かちかちかちかち

 はは。

 ——それで、何しにここへ来たのかな、君は。

 声? 

 ああ、君もか。多いんだ、最近ね。

 彼らがどうなったかって? 

 ……ご想像にお任せするよ。

 おっと、そんな悲観的な顔しないでおくれ。未来なんて誰にもわからないだろう?

 わかったわかった。なら少し昔話をしようか。きっと気にいるはずさ、今の君も……。


 *


 冒涜的な外見をした半魚人の、滑りを帯びたウロコのような鈍色の雲が、空いっぱいに広がる肌寒い秋のことだ。

 大家である安山巌氏の依頼でとある部屋を片付けに、俺と二人の男女——仮にI、Mとしよう——が訪れた。

 みな福祉事務所の職員で、生活保護受給者である家主は大病を患って退去していた。

 どのみち壊すんだけどね——。

 大家はそう言って虫の死骸を弄ぶ幼子のように純粋で歪んだ笑みをこちらに向けていた。

 今思えば

 例えあの邪悪な笑みに気付いたのが俺一人だったとしても……。


 *


 どうしたんだい、話の途中で。

 水? それはやめた方がいい。

 

 君を見てると思いだすよ、畑に打ち捨てられた熟したトマトをね。

 おっと、怖がらなくていい。彼女たちを見なよ。右に……左に。左に……右に。かちかちぐらぐらゆうらゆら。どうだい、不思議と落ち着くだろう?

 さあ話そうか、続きを……。


 *


 部屋の外では名も知らぬ虫たちがりいりいと命の限り泣き散らかしていたのをはっきりと覚えている。

 部屋の中はそれはもう酷い有様でね。

 黄緑色に変色したかびだらけのカーテンで締め切られた四畳一間の狭い室内は、開けた瞬間にわん…と蠅ですら新鮮な空気を求めて飛び出してくるほどだった。

 重ねたマスク越しにも割り箸で鼻を貫かれたような臭いが襲ってきて、Iなんて思わずその場で嘔吐していたよ。

「腕がなるね」

 そう呟いて怖いもの知らずのMが嬉々として部屋に飛び込んで、すぐに俺、少し遅れてIと続いた。

 闇とゴミと何かが蠢く足の踏み場もない床板は歩くたびに芋虫を踏み潰したような嫌ぁな感触があって、潔癖症気味なIは何度も奇声をあげていたよ。

 まだ辛うじて電気は通っていて、暗い室内に薄ぼんやりとした蛍光灯がりぃぃーと外の羽虫に負けじと鳴いていた。

「前情報と違いすぎるだろぉ」

 Iは頭を抱えて嘆いていたよ。

 おそらくこれも大家の仕業だろう。そうでなければIがこんな魔窟に来るはずもないからね。


 *


 おいおい、そんなに動き回らないでくれよ。めちゃくちゃだ、部屋の中が。

 その血走って飛び出した目。その肉が剥き出しになるほどの掻き傷。その噛み締めて血が滴る歯茎……。

 一体どれほどの渇きを感じているんだろうね、今の君は。

 少しは彼らの気持ちがわかったかい?

 どうすればいいって?

 気をしっかり保つほかないよ。そのために俺の話を聞くといい。何もしないよりはマシさ……。


 *


 いつの間にか日が暮れ始め、世界は燃えるような夕焼けにべったりと染め上げられていった。

 もうその頃には三人とも全身どろどろで、鼻も完全にバカになって臭いなんて感じなくなっていたよ。

 それでも片付けは思いのほか順調で、外に停めたトラックの荷台に面白いように廃棄物の袋が積み上がっていった。

 慣れってのは恐ろしいものでね、蠅に塗れて悪臭を放つ汚物も、崩れ落ちた祭壇に残された干涸びた人形も、大量に散らばった表皮のこびりついた爪や髪も、途中から何を見つけても平気になっていたよ。

 そうしてようやく撤収、という時にふとおかしなことに気づいた。

 ——やけに静かだ。

 あれだけうるさかった虫の音がいつの間にか消えていた。それどころか、自分の鼓動一つ聞こえてこないんだ。隣のMは気づいていないのか、黙々と後片付けをしていたよ。

 作業着の下のシャツが血糊のようにべっとりと背中に張り付いて、ひどく不快だった。全身から汗がとめどなく吹き出して、それなのに寒くて寒くて歯の根が合わないんだ。天井の蛍光灯が激しく明滅を繰り返し、床板が不自然に揺れていた。

 ——やばい。

 最初に飛び出したのはIだった。見たことのない——それこそこの世の終わりのような——絶望に絶望を塗り重ねた顔で。

 Iが玄関引戸を開けた瞬間、地の底から唸りを上げるような悍ましい断末魔の悲鳴が部屋にこだましたんだ。

 そう。音が消えてるのに、おかしいよね。でも聞こえたんだ。Iは勢いがつきすぎてつい外に出てしまったんだね。

 後を追ったMも、戸に近づいた瞬間すぐに顔面が燃え上がってね。

 俺は目を奪われたよ。

 ああ、地面をのたうち回るMも美しかったけど、そっちじゃない。

 咄嗟にね、窓を開けたんだ。

 そして見た。俺は見たんだ。

 情報量が多すぎてあれを何と形容していいのかわからない。でも真っ先に思ったよ、美しいって。

 部屋の中をMがなくなった顔を押さえて悶え苦しんでいて、玄関ポーチではIが蝉の抜け殻みたいに一滴の水分もなく干からびていた。

 でも俺にはもうそんなことはどうでもよくて、あの輝くような暗褐色の空に、山々に、大地に身を捧げたくて、命を賭けても添い遂げたくて、俺は、俺は、俺は、俺は!


 *


 ……ああ。

 あの光景が今も目に焼き付いて離れないんだ。寝ても覚めても何をするにもどうしようもないほど乾いて乾いて。

 ……だから自分で呼び寄せることにしたのさ、君たちを。

 どうしたの、そんなに振るえて。

 はは、安心しなよ。

 孤独の部屋なんかじゃない、ここはね。

 いつでも出られるから。

 ……それにしても随分見違えたね。人間膨らむもんだね、その気になれば。

 ごめんなさい?

 まあ、俺に謝られてもね。それにさ。

 ……しょうがないよね、破ったんだから。

 “好奇心は猫をも殺す”って言葉、知ってるかなぁ。

 だから、俺に泣きつかれたってさ。今からでも◼️◼️◼️◼️◼️に赦しを乞うたらどうだい?

 ……ああ、もう聞こえてないか。

 そんな状態でもまだ生きていられるなんて驚きだよ。

 おや。

 怖いのかい、そんなに震えて。 

 大丈夫。

 みんなすぐに一緒になるさ。

 ほら。

 見なよ、この歪んだ街並みを。

 もし百年分の怨嗟で満ちた壺が割れたら……どうなるかな。どうなっちゃうんだろうね。

 ああ、考えただけでもう……。


 ぱあぁぁぁぁぁん。


 おっと、流石に限界だったか。

 突き破り……噴き出し……染めあげて。

 壮観だね、相変わらず。

 でも足りない。足りないんだよ。

 渇いて渇いてしかたないんだ。

 ねえ。

 

 *


 やあ。

 来てくれて嬉しいよ。

 待っていたよ、君が来るのをね。

 その顔、助けが欲しいんだろう?

 なら始めようか、昔話を……。

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