楽園 了

 猪武進は闇の中を夢遊病者のごとく彷徨っていた。生活保護の不正受給——つまりは車の運転をしている阿戸野末利を追ってどこかのトンネルに入ったまでは良かったが、どういう訳かそこから一向に阿戸野の姿を見つけられないでいた。

 トンネル内は気圧が低いのか、押しつぶされそうな閉塞感ともがくような息苦しさを覚えた。耳が痛いほどの静寂に支配され、闇の中にかつての記憶が投射される。

 そこには髪をかき乱し、獣のように叫びながら身悶えする父がいて。焦燥と憎悪とその他複雑な感情が入り混じっているであろう不恰好な踊りは、少年時代の猪武の目に烙印のように焼き付けられていた。

 自分にも他人にも厳しい父がああも分かりやすく壊れたのは、端的に言えば母の浮気が原因だった。幼い猪武には気付きようもなかったのだが、恐らく父は最初から勘づいていたのだろう。

 なぜいつものように母を問いたださなかったのかは今になっては知りようもないが、見てみぬふりを許せない自分が見ないふりをするという矛盾がゆっくりと父を蝕んで、でもそんな事で母の愛が戻ることもなく。苦しんで苦しんで苦しみ抜いた末に迎える母の駆け落ちという結末は、極上の喜劇のように滑稽で。幼い猪武に残されたのは、今まで以上に——それこそ病的なまでにを許さない父との、地獄のような共同生活だけだった。

「消えてくれ」

 猪武はまとわりつく幻影をゆるゆると振り払うと、重い足取りで再び歩き出した。


 *


「……ようやく見つけた」

 あれからどこをどう歩いたのかわからないが、、闇の中から黒い軽自動車が姿を現した。手にした非常用の懐中電灯で薄暗い車内を照らすと、中には予想通り阿戸野がいて、寝むっているのか口を半開きにしたままの状態でシートにべったりと身体を預けていた。左胸のあたりにぽっかりと黒い穴が見えるのは気のせいだろうか。

「ふふふ。楽園に行けてよかったね」

 同僚である洞家日和が猪武に妖しく囁いて、その横顔は眩暈がするほど美しくて、だからこそ余計に薄寒くなった。そもそも、一人で外勤に行ったはずなのにいつから日和は隣にいたのだろうか。

「楽園?」

「みんないっしょだよ」

 日和が何を言ってるのかよくわからないが、「楽園」なんてものが全てまやかしであることは確かだった。

 こつ、こつ、こつ。

「阿戸野さん、猪武です。聞こえますか」

 眠っているのか、こちらからの呼びかけにも反応はない。

「ねえ知ってる? このトンネルのこと」

「いえ……。それより阿戸野、大丈夫ですかね」

「心臓をあげるんだ」

「は? 心臓?」

「見ないフリなんて笑えるよね」

 日和ははたしてこんな子どもっぽい声をしていただろうか。それに、猪武と同じくらいの長身だったはずなのに、今は随分と小さく感じる。

「あの……さっきから何の話ですか。ていうか阿戸野、これ、死んでないですよね。救急車とか」

「これでまた安心だねぇ」

 くつくつと笑いながら車内を覗き込む日和の姿があどけない少女のものと重なった。こちらに向き直った日和の目と口にぽっかりと空いた黒い穴が何故だかたまらなく怖くなって、猪武は思わずその場から逃げ出した。

「また目を逸らすのぉ」

 反響する日和の声がべったりと猪武にまとわりつき、手足はまるで鉄の枷がついたように重だるかった。死の間際の入院患者のように喘ぎ、海で溺れた幼児みたくもがいて、父のごとく手足をばたつかせ、ようやく見つけた微かな光の先に猪武は無我夢中で飛び込んだ。


「おかえりぃ~。今日の訪問調査は順調だったかい?」

「……え?」

 そこは猪武の職場である福祉事務所で、目の前にはいつもの光景が広がっていた。

「どうせ道草食ってんだろ」

「またそうやって井道くんは」

「ふふふ」

 普段は目にするだけで生理的嫌悪感を覚える鳥狛S Vが、今日は何故だか無性に愛おしい。

「おい猪武、なにぼーっと突っ立ってんだ。いい加減気ぃ引き締めろ!」

「あ……はい!」

「なにへらへらしてんだお前」

「いやぁ」

 いつも怖くてまともに顔も見れない無貌主査とも自然に会話ができていた。

「あ、もう時間だ。楽園に行ってきます」

「しっかりやれよ」

「はいはい気をつけてねぇ」

「ふふ」

「やめとけ、これ以上は戻れなくなるぞ」

「なに言ってるんですか井道さん。ようやく。ようやく俺は捧げられるんです。黙って俺の勇姿を見ててくださいよ」

 多幸感に包まれて意気揚々と事務所を出ると、そこはもう自宅のリビングだった。柔らかな陽光がフローリングの床に降りそそぎ、爽やかな風が純白のレースをふわりと巻き上げた。その光の中心に慈愛に満ちた顔をした両親が仲睦まじく寄り添っていて。

「進、父さんと母さんな、やり直すことにしたよ」

「今までごめんね、進」

 蕩けるように甘い言葉は両親に抱いていた負の感情たちを丸ごと覆い尽くしてどろりと溶かしていった。

「父さん、母さん、俺……」

 二人と抱き合ってそのまま身体を預けると、想像よりもずっとひんやりとして気持ちが良い。まるで街灯の下に眠る地下室の床みたいだ。どく、どどく、どく、と家族全員の鼓動が重なり合って、やがて一つのいのちになっていく。

「進、もっとこっちにおいで」

 母親に促されるまま体を寄せると、次第に胸の辺りがじんわりと暖かい熱を帯びていく。

——やめてくれよ、くすぐったいよ母さん……。

「ぎっ」

 不意に裁縫針で爪の間の肉を抉るような強烈な痛みが猪武を襲った。反射的にそこに目を向けると、母親が猪竹の左胸に手を突っ込んで、心臓を鷲掴みにしているところだった。

「ひいっ」

 喉にボールペンが突き刺さったように空気を漏らしながら、猪武は母親を押し除けて無我夢中で家を飛び出した。

「進ぅ。逃げるのか?」

「一緒になりましょう、進。みんな家族なのよ」

 まとわりつく両親の声を置き去りに脇目も振らず玄関ドアを開けたはずなのに、目の前には全てを飲み込む漆黒のトンネルがぽっかりと口を広げて猪武を待ち構えていた。壁の周囲は絶えず蠕動し、ぶよぶよとした赤黒い肉の塊が悪天候の大海原のように激しく波打っている。

「早く楽園においでよ」

 その隣には相変わらず日和がいて、猪武の耳元で蕩けるような声でそう囁いた。それに呼応するように壁の肉がぶるりと震え、天井から粘ついた汁がどろりと溢れ落ちる。

「やめろ!」

 脈動する何かが猪武にのしかかり、もがけばもがくほどずぶずぶと地面に沈んでいく。

「やめ……て……くれ……」

 ぱんっ。

 肉が挽かれ、骨が砕けるその直前、突如響いた柏手で我に帰ると、猪武はいつの間にか封鎖された廃トンネルの入り口に立っていた。さっきまでの静寂が嘘のように蝉たちがじいじいと泣き散らかしていて、忘れていた暑さが滝のような汗となって蘇った。

「あははははは」

 生い茂る木々の隙間を縫うように空から無邪気な笑い声が降ってきて、猪武は芯から身震いした。

「だから言ったろ」

 トンネルの奥から井道さんの声だけが聞こえてきて、足音がゆっくりと遠ざかっていった。

——適応するのか、抗うのか。

 井道さんが言っていたのは、ケースワーカーとしての身の振り方の話ではなかったのか。一人取り残された猪武は、呆然とその場に立ち尽くす。

「ねえ、いいからおいでよ」

 いなくなったはずの日和が猪武の耳元で蕩けるように囁いて、それは駅のホームで白線の外側に一歩踏み出すような抗いがたい魔力を帯びていて。

——心臓をあげるんだ。

「うわああああああ」

 心も、体も、その叫び声さえも、目の前のどこまでも深い闇に呑み込まれていった。

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