楽園 5
蓋をした井戸の底のように一片の光すら感じられないトンネルの中で、とっぷりとした闇に染み出すようにして一台の黒い軽自動車が立ち往生していた。
「あーめんどくせぇ」
阿戸野末利はシートにだらしなくもたれかかるとそう現状を嘆いた。本来出口であるはずの場所は、無造作に塗り固められた冷たいコンクリートに置き換わっている。バックミラーに映る車に気を取られている内に、いつの間にか使われていない廃トンネルへ入ってしまったようだ。
「糞が」
ハンドルを殴りつけると屁のように短くだらしないクラクションが漏れ出して、それが余計に阿戸野の怒りを増幅させた。
「糞が糞が糞がっ」
そもそもなんでこんなところへ来てしまったのか。
国道666号線を通って地元である山辺注町へ向かう途中、峠の緩やかなカーブでバックミラー越しに猪武とかいう生意気なケースワーカーが目に入り、咄嗟に脇道に逸れてしまったのだ。
そこからよくわからない獣道に入るわ、廃トンネルに迷い込むわ、車は故障するわで散々だった。
「アイツだ」
あの目。自分のことを獲物だと思っている、血走ってギラついた目。未だかつてそんな視線を向けられたことのなかった阿戸野に取って、自分が舐められていることが何よりも許せなかった。
「あの野郎……次会ったら覚えとけよ」
何度調節しても、カーラジオからは耳障りな雑音しか聞こえてこないが、ここら一帯は位置的に山辺注古潭で間違いないはずだ。かつて雨納芦市と若北市を結ぶ国鉄が走り、その間にある山辺注町も小高い山辺注山の中腹に駅舎があった。切り開かれた駅周辺には見晴らしの良い展望台があり、名物蕎麦屋があり、そして切り出した崖に掛けられた年代物の吊り橋なんかもある人気の観光スポットだった。中央広場には動かなくなった本物のSLが飾られていて、阿戸野も子どもの頃に両親にせがんで何度も連れて行ってもらった記憶があった。
だが、幼い頃からあの町で過ごしてきてあんな獣道一度も目にしたことがない。人口減少と施設の老朽化によって訪れるものが減ったらしいが、それでも根強い観光スポットとして山辺注古潭周辺の道は整備されている。封鎖された廃トンネルの噂は知っていたが、あくまで都市伝説の類だったはずだ。
何度かバックして戻ろうとするが、ぎしぎしと金属が擦れるような耳障りな音がするだけで、車は一向に動かない。
「くそっ、こんなオンボロに乗せやがって」
阿戸野は運転席を強く蹴飛ばしながら、何度も悪態をついた。叩いて電源が入る古びたブラウン管テレビと違い、何度蹴飛ばしても車は動かない。カーラジオは耳障りなノイズを発し、エアコンからは不快な溜息が漏れ出ているというのに、アクセルもブレーキも反応しなかった。
「ちっ。乗り捨てっか」
万が一運転してるところを目撃され、それを元に軽自動車協会へ照会をかけられた時の対策として、車の名義は全て同居人である四布維衣葉になっていた。
どうせ廃トンネルだ。ここに車を放置しても誰にも迷惑はかからないし、例え見つかっても自分に繋がる証拠もない。そう考えた阿戸野は車内から最低限必要なものだけをバックに詰めていった。
コツコツコツ。
しばらく経って、阿戸野が窓ガラスが叩かれる音で反射的に顔を上げると、そこにはあの生意気なケースワーカーの猪武がこちらを無表情に見下ろしていた。手には懐中電灯のようなものを持っていて、無遠慮にこちらに光を向けてくる。
「阿戸野さん、どうしますか?」
窓ガラスを隔て、くぐもってざらついた声がぞろりと耳を撫でる。
——やっぱり後をつけてやがった。
阿戸野は少しだけ窓を開けると、車から降りずに猪武を恫喝した。
「おい、眩しいんだよ。消せよそれ」
「山辺注古潭トンネル」
「あ?」
「このトンネルの名前です」
「舐めてんのか。いいから早く消せ!」
阿戸野のドスの効いた声がトンネル内に少しだけ反響し、すぐに静寂の中に溶けていった。猪武は相変わらず無表情で、光源のせいかやけに顔が青白い。
「知っていますか? このトンネルの名前の由来」
「は? 知るかよ」
「知る権利くらいはあると思うんですよ」
能面のように無表情なのに口角だけが不自然に釣り上げられた顔をこちらに向け、猪武はざらついた——それこそカーラジオから漏れ出す緊急放送みたいな声を出した。
「さっきから何言ってんだお前」
「聞かれたら嫌ですよね、だって」
するりと猪武の手からライトが滑り落ちて、トンネル内にかあああんと鈍い音が反響する。少し遅れて光が消え、トンネル内は完全な闇に包まれた。
「どうするんですか、ねえ」
「だからしつけーんだよっ!」
顔をべったりと近づけて詰問してくる猪武の態度に我慢の限界を迎え、阿戸野は猪武の前に隔てられた窓ガラスを思い切り殴りつけた。握りしめた拳に真冬の顔そりのような暖かさと居心地の悪さがじわじわと広がっていく。
車内では青いシガレットライトが怪しく光っている。さっきまで光源を浴びていたせいで、闇の中に白い点がいつまでも浮かび上がって見えた。
「山辺注は、アイヌ語で“心臓を剥ぐ”という意味です」
「はあ?」
目の前にある猪武の顔は茫として表情は一切読み取れない。それなのに、声だけはくっきりとまるで耳元で話しかけられているかのように鮮明だった。
「山辺注古潭は心臓を剥ぐ場所なんです」
唐突に後部座席からも声がして反射的に振り返るが、そこには薄ぼんやりとした闇があるだけ。
ざあああああああ。
車内ではカーラジオから吐き出された不快な雨音が響き続けている。
「……気持ちわりぃな」
阿戸野は窓を閉めると猪武を無視して再び身支度を再開した。窓は押し付けている猪武の顔を押し上げて、ぎゅちぎゅちと肉が削げるような嫌ぁな音がした。焦げた匂いが車内に充満して、阿戸野は思わず咳き込んだ。
ドンドンッ。
猪武が何かを口にしながら窓ガラスを強く叩き、その度に車内が大きく揺れる。それでも阿戸野は一心不乱に手元のリュックに物を詰め続けた。阿戸野はこれまで焦りとも恐れとも無縁の人生を歩んでいたが、この時ばかりは顔を上げたら終わりな気がしていた。
……ふと。
「……らりはい……こ。……となったら……げましょか」
カーラジオから雨音に混じって微かに子どもの歌声が聞こえてきた。
——ガキの番組でも流れてんのか。
場違いな声に安堵して少しつまみを弄ると、途端に音割れしたような古臭い音色が車内をゆるゆると包み込んだ。
「ひゅーるりひゅーるりはいこんこん。ごほりとなったらだしましょか」
「ふーらりふーらりはいこんこ。ぽこんとなったらにげましょか」
流れてくる歌声は妙に懐かしさを誘い、どれもこれもが胸を熱くした。知らず知らずに涙がつう……と頬を伝い、手を止めて自然と聴き入っていた。
「はしらに、感謝いたしましょう。どっどぅ、どっどぅ
子どもの頃の、幸せだった思い出が走馬灯のように脳内を駆け巡る。雄大なSLの周りを嬌声をあげて走り回る幼い自分。展望デッキから身を乗り出し過ぎて落ちそうになる姿を笑いながら優しく諌める父と母。山道を散策している途中、見つけた獣道を冒険と称してずんずん登っていく。その奥の奥には使われていない廃トンネルがあって、そこには左胸にぽっかり穴の空いた女の子が笑いながらこちらを手招いて……。
——待て。誰だこいつは。知らねえ。こんなの知。
「ぶっ……ぐぶっ。ふ、ふ、ふかぁ……」
喉の奥から何かが競り上がってきて、それは吐き出されて言葉に、旋律に変わっていく。
「深い山間切り崩し、繰り返すこと阿鼻叫喚」
「泥に埋もれた手を取って、見送る仲間は数知れず」
「さあさそろそろ幕引きだ。代わりに、土砂に埋まりましょう」
——これは何だ。俺の口から勝手に吐き出されるこの言葉は何だ。あれは誰なんだ。俺は……。
「はしらに、感謝いたしましょう。あなたの心臓どこですか……」
気がつくとそこに猪武はいなくなっていて、窓の向こうには代わりに右手に赤黒いてらてらした何かを持った少女が立っていた。
「……それ」
阿戸野は“なに”と続けようとしたが、酸欠でもがく魚のように虚しく口をぱくぱくするだけに終わった。
「いただきます」
影はにたりと笑ってそうお礼を言うと、暗澹たる闇の中にずぶずぶと沈んでいった。
——あいつだれだ。じいわり、むねが、いのたけのやろう、らくえん、の、かみさまは。
頭の中を言葉の断片が浮かんでは消えていき、阿戸野はそのうち考えるのも億劫になってきて、シートにもたれ掛かるように倒れこむ。押し寄せる痺れにも似た微睡の奔流が胸のあたりからじわじわ全身に広がって、やがては包み込んで一つになって溶けていった。
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