楽園 4

 ——やっと行ったか。

 阿戸野末利は覗き窓から白い覆面公用車——保護受給者への配慮らしいがくだらない が走り去るのを待って、アパートから悠々と外へ出ていった。既に先ほどまでの汗に塗れた小汚い雑巾のようなTシャツからハイブランドのカットソーに着替えており、その開放感から自然と足取りが軽くなる。担当ケースワーカーである猪武進の生意気な態度への苛立ちも、もう一緒に脱ぎ去っていた。

 歩くたびに両手につけられた金の腕時計が刺すような日差しを反射し、黄金の焼印を地面にわざとらしく刻みつけている。窓枠を覆うブルーシートが風に煽られて名残惜しそうに旗めいているので、阿戸野はアパートに向かって何度も唾を吐きつけた。

「二度とこねえよ」

 阿戸野があのアパートに出入りするのは訪問調査の時だけだ。居住実態はまるでなく、保護費を受け取るための偽装に過ぎない。部屋には備え付けられた家具以外何一つなく、鍵すらかけていなかった。

 近くの公園に着いた阿戸野は周囲を見回して誰にもつけられていないことを確認すると、傍に停めてあった黒の軽自動車に滑り込んだ。どこにでもある古い型式のもので、さっきのアパートによく似合った。もちろん自分のものではなく、所有者は四布伊維葉になっていた。

「あっつ」

 全てを呑み込むような黒の車体が日光を根こそぎ奪い取り、車内をサウナ地獄へと変えていた。  

 エアコンを最大にすると、生ぬるい風が阿戸野の顔を撫で、服にじわじわと染みが広がっていく。

「めんどくせぇ」

 生活保護法で車は資産であり、運転はもちろん所持すること自体が禁止されているため、車に乗るにはこうして面倒な手間をかける必要があった。

「バレたってどうせな」

 阿戸野は制度を恐れている訳ではない。ただ、手続きを踏むのが面倒なだけだ。

 違反を繰り返せば最悪保護が廃止になることもあるが、そうなったとしてもまた申請すればいいだけだ。

 廃止になって資産が増えるわけでもない。結局金もないから、車を処分するだけで再び保護の恩恵にあやかれるのだ。そんな緩い罰則しかないのに律儀にバスを利用するのは正直ものがなんとやらというやつだ。

 ちなみに、高級車を乗り回さずあえて古い片式の車を選んでいるのは、妬みからくる密告を避けてのことだ。仲間意識は強いくせに、常に誰かの不幸を喜ぶような屑の塊。それが阿戸野を取り巻く保護受給者達のリアルだった。

「糞が」

 頼りないエンジン音と雑音だらけのカーラジオに辟易しつつ、阿戸野はせめてもの抵抗に目一杯アクセルをふかせながら住宅街を走り抜けていった。


 *


 冒険者を呑み込む大迷宮さながらに入り組んだ国道を、唸りを上げながら黒い軽自動車が駆け抜けていく。そのエンジン音に反して速度が出ていないのは型式が古いからだろうか。

 その車から一台挟んで後方に、制限速度を遵守した白い軽自動車が走っていた。運転する男——ケースワーカーの猪武進はその目に狂気の炎を宿し、血が滲むほどハンドルを強く握り締めながら黒い車だけを視界に捉えていた。

「絶対に捕まえてやる」

 担当ケースである阿戸野末利には、とある筋からの情報提供により、不正受給——禁止された自動車の運転及び居住実態偽装の疑いがあった。

 そのため、訪問調査のあとに帰るふりをして道の端からアパートを見張っていると、しばらくして周囲を警戒しながら軽自動車に乗り込む阿戸野を発見、すぐさま後を追って現在に至る。

 生活保護における悪質な不正受給は後を立たず、その中でも自動車の所持及び運転は相当な件数が発生していた。運転現場を押さえなければ指導すらできず、苦労して捕まえても大抵は他人名義だから持ち主に返して終わり。極め付けは違反を繰り返してもいくらでも再申請が可能ときたものだ。罰則が事務処理に見合っていないことから、ケースワーカーですら目を瞑る者もいる。

 だが、猪武は絶対に見過ごさない。例えそれでどれだけ身を滅ぼすことになろうとも、絶対に。

 ——いいか進ぅ。正しく生きられない人間に価値はない。けどな、見て見ぬふりをするやつらも同罪だぞ。

 悪事から目を逸らせば、猪武の脳裏には必ず父の姿がよぎる。自分を見下ろすその眼差しは死にかけの羽虫を見るように冷たく、その言葉は幼い猪武の骨の髄にまで刻み込まれていった。

 阿戸野の運転する車はアパートのある足泊地区から山辺注町へと至る国道666号線沿いをひたすら道なりに進んでいく。ついさっきまで住宅街の間を縫うように走っていたはずなのに、いつの間にか辺りの景色は鬱蒼とした森に様変わりしていた。頭上を覆うように生い茂る木々のせいか、電波状況が悪いらしい——カーラジオは砂嵐のような雑音が混じって全く聞き取れない。

 高校生の頃に父親の転勤で雨納芦市に越してきて、すぐに道外の大学に進学して転出した猪武にとって、馴染みのない山道での孤独な追跡劇は、世界から取り残されたような裏寂しい気分であった。

 〈進ぅ。諦めるなよ〉

 いつの間にか側道に父が立っていて、大声でこちらに語りかけてくる。今にも車道に飛び出してきそうなその姿に、猪武のハンドルを握る手に一層力がこもる。

「うぶっ」

 みるみるうちに息が荒くなって、熱く迫り上がってくる何かで思わず呻き声が漏れた。車窓に映る木々がありえない方向に禍々しく歪んでいく。

 〈進ぅ〉

 ふと横目で見ると、助手席に置いていたはずの鞄が父になり変わっていた。慌てて車内のエアコンを全開にするとごぼごぼとフィルターから不快な水音が漏れ出して、それすらも父の声に変わっていく。何度スイッチを押してもため息ほどの風すら起きず、掠れた低い声だけがいつまでも耳元で囁かれる。

〈進ぅ。目を逸らすな〉

「やめろ……」

〈進ぅ。耳を澄ませろ〉

「やめてくれ……」

〈進ぅ。早く言ってやれ〉

「頼む……」

 足元が雲の上を歩くようにふわふわと頼りなく、自分が今踏んでるのがアクセルなのかブレーキなのかさえわからない。目の前がじいわりと白んでいき、きつく結んだ口の端からたまらず涎が滴り落ちた。

〈進ぅ。お前も見逃すのか?〉

「違う! 俺は……」

 その時、ごおうと黴びついた冒涜的な風が一斉に暗がりから這い出して、猪武にまとわりついた父の幻影をあまねく連れ去っていった。我に帰った時にはいつの間にか車は国道を外れ、ハンドルにべったりと待たれかかったままどこかの山道をゆるゆると惰性で登っていた。

「俺は、父さんとは違う」

 曲がりくねる道の少し先に、黒い軽自動車の影がみえる。事故を起こさなかったことよりも、阿戸野を見失わなかったことに心底安堵する。

 もっと正しく、もっと迅速に——それこそ父の姿が見えないほどに——行動しなかればならない。

 猪武はぼろぼろになった指先でハンドルを握り直すと、アクセルを強く踏み締めた。道幅は少しの油断で転落しそうなほど狭く、せり出した背の高い草が車体を勢いよく叩いている。夜でもないのに森には闇が渦巻いていて、両脇の藪から今にも何かが飛び出してきそうでハンドルを握る手に自然と力が入った。

 もう前方を走る阿戸野の姿は視認できないが、地面にははっきりとタイヤの跡が残っていた。

 この暗がりの先に何があるのかはわからない。阿戸野はてっきり阿戸野の地元である山辺注町の市街地に行くものと思っていたのだが、どうやら違ったようだ。だが、使命感に身を焦がした猪武に取って、行き先などどうでも良かった。

「どこだろうが逃がさない。どこだろうが……」

 取り憑かれたようにそう呟きながら、猪武は闇に向かって一段とアクセルを踏み込んだ。

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