楽園 3

「では、訪問調査を始めます」

「ああ」

 伽藍堂の部屋にケースワーカーである猪武進の声がこだまする。

 カーテンレースすらない剥き出しの窓ガラスには雄大な灰振山の雪渓が皮肉げにくっきりと映し出されていた。八月の雨納芦市は湿気こそ少ないが茹だるように暑く、真冬との気温差は五十度以上にもなる。この部屋の中はまるで火山口を間近で覗きこんでいるかのようで、人が暮らすにはあまりにも暑すぎる。

 猪武はどれだけ拭っても滝のように落ちてくる汗に辟易しつつ、姿勢を正して半裸の阿戸野末利に向かい合った。体調が優れないからと目の前でだらしなく床に寝そべる半裸の阿戸野は、その巨躯のせいか狭い一室では見た目以上に圧迫感があった。

「随分暑いですね。本当にここに住んでるんですか?」

 家の外から覗いた電気メーターはほとんど動いていないようだった。少しの振動でそこかしこで埃が舞い上がり、部屋全体に空き家特有の死臭が重苦しく漂っている。

「あ? あんたらがエアコンをつけないせいだろ」

 阿戸野は悪びれもせずそう言い放つ。生活保護世帯の家具什器や資産の保有可否には、全国の低所得世帯の保有状況が勘案される。不満を述べるケースは多いがそれも当然で、保護を受ける者が必死に働く世帯よりも恵まれていては、誰も真面目に働かなくなるだろう。

 だから例え田舎で不便だろうと車は所持できないし、温暖化の影響で年々気温が上昇しているからといって、エアコンが備え付けられた物件に住むことも、エアコンを買う購入費用が免除されることもない。

 ——だが。

「必要ならきちんとお金を貯めて買ってください」

「ならもっと金増やせよ。なあ」

 支給額に文句を言う輩ほど、節約もせず遊び歩いて散財しているものだ。きちんとした保護世帯は子どもがいようが年金暮らしだろうが目的のために貯金できており、税金である保護費を無駄にする者に保護を受給する資格はない。

「無駄遣いを減らせばあなたにもできますよ」

「てめえ……舐めてんのかっ!」

 必要以上に身を乗り出して声高にこちらを恫喝する半裸の阿戸野の体には、鬼やら髑髏やら厳しい刺青が弛んだ肉の海に打ち捨てられていた。ただ図体が大きいだけの男の威嚇など、武道の心得もある猪武には子鹿の虚勢くらいにしか見えなかった。

「それより窓ぐらい開けたらどうですか? こんなところにいたら熱中症で倒れますよ」

「んなことしたらてめーの声が丸聞こえだろ。俺が生保だって周りにバレたら責任取れんのか、お前。弁護士に訴えてクビにしてやるから覚悟しとけよ」

 “俺に死ねと言うのか”や、“責任取れるのか”は面倒なケースの常套句だ。彼らは皆一様に自分のことは棚にあげ、制度と環境の不満ばかり述べる。何かにつけて弁護士や市議会議員の名を出して脅してくるが、弁護士に頼むのは金がかかるし、市議会議員だって一人一人に構っていられるほど暇ではない。

「ご自由に。では、健康状態はいかがですか?」

「ちっ。悪いに決まってんだろ、お前のせいで」

 目の前で大きな舌打ちが聞こえるが、猪武は意に介さずに次々と質問を重ねていく。

「きちんと通院していますか?」

「ああ」

「もう診断書の3ヶ月が経ちますが、稼働できそうですか」

「できねーよ。人がいるとこだと苦しくなんだよ。お前と話してるのも苦痛だからさっさと帰ってくんねーかな」

「きちんと働いて、真面目に生活保護からの脱却を目指していれば私の訪問も減りますよ」

「だから働けねーつってんだろ!」

 床に振り下ろされた拳が大きな音を立て、建物全体がわずかに揺れる。拍子に大粒の汗が大量に飛び散って、猪武のワイシャツに斑点模様の染みをつけた。

「殴ったら警察に通報しますよ」

「ああ? ならやってみろよ。その前に俺がやってやるからよ」

「それは脅しと捉えていいですか」

 わざとらしくスマートフォンを取り出すと、阿戸野は途端に大人しくなった。居住実態含め、通報されると色々と不都合なことがあるのだろう。

「糞が。さっさと出てけ」

「はい?」

「辛いから帰れよ」

「……ああ。では、体調が悪そうなので今日はこの辺で。調査にきますので」

「二度と来んなよ公僕が!」

 猪武の後ろでドアが弾けるように勢いよく閉じられ、蜘蛛の巣の残骸と溜まった砂埃が巻き上げられて雨のように降りかかった。

「舐めるなよ」

 猪武は公用車に乗り込むと、決意を新たに燃えるようなハンドルを握りしめた。

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