第三話
楽園 1
「俺は納得できません!」
夏真っ盛りの事務所内は樹液のようにどろりとした暑さに覆われていて、声を張り上げるだけで大粒の汗が滴り落ちた。
あの日——新規の訪問調査で訪れたアパートはまるで人類滅亡後の廃墟のような静謐さに包まれた場所だった。
破れた網戸の代わりに澄んだ空のように青いブルーシートと色褪せたベニヤ板で覆われた窓、窓、窓。名も知らぬ雑草が繁茂し、崩れた外壁やブロック塀の破片が散乱したアプローチ。
室内に目を向けても、黄ばんだ壁紙にはいくつもの穴が空いていて、キッチンのシンクやトイレの水受けには至る所にカビが浮き出ている。
「こんなことがまかり通っていいんですか!」
猪武は自身の人生の軌跡を辿りながら胸に秘めきれないマグマのごとく煮えたぎった怒りを噴火させた。蝉たちのじぃぃぃぃと命を削り取るような呻き声も、猪武の耳には届かない。
幼少期を振り返ってみても、友達の中にそうした貧困に喘ぐ者はいなかったと思う。あるいは自分の不確かな記憶がそう思いこませているだけで、誰とでもごちゃ混ぜで遊んでいた小学生の頃にボロ切れのような服を着て、いつも腹を空かせては涎を垂らし、地面を這う昆虫を眺めていた誰それ——不思議と顔も名前も思い出せない——が、もしかしたらそうだったのかもしれないが。
「……なんとか言ってくださいよ」
様々な理由から精神疾患を抱え、自傷他害にはしる者。詐欺、薬物依存、傷害、殺人といった罪を犯し、刑期を終えて出所してきた者たち。夫のD Vから避難してきた母子に、妊娠と出産を繰り返す多子世帯。素行の悪い元暴力団員やチンピラ……。代々公務員の家系に生まれ、厳格な父と教育熱心な母の一粒種として清く正しく育てられた猪武に取って、彼らとそれを取り巻く複雑怪奇な環境は眩暈のするほど極彩色の魔窟に感じられた。
新規採用で雨納芦市役所に採用され、そこから生活保護課保護第5係に配属された猪武は、普通に暮らしていれば一生交わることのない者たちの、汚泥のように凝った暗い世界と容赦ない現実の大海原にいきなり放り落とされたのだ。
「そうは言っても法は平等だよ猪武くん。今、目の前で困窮している人を見殺しにするのは民主主義のやる事じゃないと思う」
一年先輩である洞家日和がいつものように柔らかな微笑をたたえ、猪武に聖女のように優しく語りかける。
日和は大福のように白く弾力のある肌に子リスみたいな愛嬌のある顔を持ち、それでいてモデルのように長身でスラリとした長い手足をした不思議な魅力を放つ女性だった。
「だからと言って、お咎めなしはおかしいでしょう」
夫のD Vや死別など、小さい子を抱えながら突然ひとり親となった家庭。医療費が嵩み貯蓄もなく、年金だけでは食べていけない高齢世帯。パワハラや傷病で働きたくても働けない若者。そうした人生の再起を目指す者たちに取って、生活保護制度は最後のネットワークであり、希望の糸であると猪武も思う。
だが、この仕事に就いて凝った闇の奥にはどうしようもない屑が山ほど潜んでいることを知り、特にあの男——阿戸野末利は自業自得という言葉がぴったりの、網で攫う価値のない男だった。
「もちろん、これまでの経緯は良いことではないよ。だから申請が通ったら開始時の説明でしっかりと指導して、同じ過ちを繰り返させないように私たちが頑張らないとね」
そんなのは綺麗事だ——と猪武は思う。
三十三歳の阿戸野はいわゆる“チンピラ”と呼んで差し支えはないだろう。雨納芦市に隣接した山辺注町の出身で、両側に剃り込みを入れた髪を燃えるように赤く染め、獲物を狙うワニのように執拗で狡猾な眼をした大男だ。エラのはった菱形の輪郭にフジツボのように潰れた耳も相まって、目の前に立たれると巨大な岩山と見紛うほど。その威圧的な体躯でもって雨納芦市の繁華街に後輩を伴ってたむろし、因縁を吹っ掛けては金を巻き上げる恐喝行為を繰り返していたそうだ。
地元の豪商の跡取りとして何不自由ない幼少生活を送り、両親に随分と甘やかされたのだろう——中学を卒業しても進学も就職もせずに悠々自適の生活を送っていたらしい。
「働きもせず散々人の金で遊んでた奴が、金がなくなったから受給しますって、そんなことがまかり通っていいんですか!」
阿戸野の両親は四年前に急逝し、阿戸野は贅沢しなければそれだけで数十年は暮らしていける遺産を相続していた。
それをあろうことかたったの四年で使い切り、挙句ギャンブルで数百万もの借金をこさえたのだから怒りを通り越して笑えてくる。
「うん、猪武くんの気持ちはよくわかる。だから早期に自立させられるように、訪問時に生活状況をきちんと聞き取って指導していくことが大事だよ」
日和の声は蕩けるように脳によく染み込んだ。耳当たりの良い言葉の数々も、彼女が話せば悪魔の囁きのようにそれが正しいとすら感じてくる。
「だから……それじゃ意味ないじゃないですか! 百歩譲って保護が開始されたとして、何のペナルティもないのがおかしいんですよ。保護費は誰のお金から支払われてると思ってるんです? 市民が必死で働いた税金でしょう!」
がらんとした事務所内に猪武の怒声が虚しく響いた。お盆の今時期は窓口に来庁するものもほとんどおらず、事務所への電話もまばらだった。
「まあまあ猪武クン、一旦落ち着こうよぉ。そんなんじゃ※※※※※に見つけてもらえないよ~」
「ふざけないで下さいっ」
前髪から頭頂部にかけて綺麗に禿げ上がった頭に、初老を迎え少し下がり気味の顔の肉。今どき珍しい蔓付きの銀縁眼鏡をずり下げた鳥狛礼司SV《スーパーバイザー》の場にそぐわないニヤけ顔は、いつも猪武を心の底から不快にさせた。いまだかつて他人にそんな感情を抱いたことのない猪武には、自分が鳥狛SVのどこに生理的嫌悪感を覚えているのか分からないでいた。
「彼だって別に極悪人って訳でもないんだからさ、そんな親の仇みたいに言わないであげてよ」
「使い逃げする奴が許せないだけです。そんなことが横行したら、誰も働かなくなりますよ」
両親が死んでからの阿戸野は正にやりたい放題で、仕事もせずに毎日開店と同時にパチンコ屋に入り浸り、夜は高級なキャバクラで豪遊三昧。そんな自堕落な生活を続けたらどうなるかなんて目に見えているというのに。
——だからぁ、俺、金に困ってんの。わかる? 助けてぇケースワーカーさぁん。
その生活歴を、阿戸野は悪びれもせず滔々と、こちらを煽るように下卑た笑みを浮かべながら語って見せた。その終始こちらを小馬鹿にした態度は、世の中を——人生そのものを舐め腐っているとしか思えなかった。
「うん、許せないよね。私もそう思う。でも、だからって強行手段にでちゃうとこっちも同じレベルになっちゃうよ」
日和のことは先輩として尊敬しているし、国の制度の問題であることもわかっている。わかってはいても、猪武にはどうしても納得できなかった。
「適応するのか、抗うのか。……どっちかだろ」
向かいの座席で溶岩のようにべったりと机に突っ伏した
保護課四年目で役所は通算九年目の中堅どころでありながら、見ての通りとんでもない不真面目な勤務態度の持ち主だ。派手な銀髪で言葉遣いも荒く、服装はよくわからない文字の書かれたTシャツばかり。はっきり言って民間企業なら即クビだろうが、役所では懲戒処分のハードルが異様に高く、この程度で辞めさせることなんてできやしない。
「抗うに決まってますよ。“仕方ない”で流されるのはごめんです」
「やりすぎて墓穴掘るなよ。後々面倒だからな」
「そんな甘い考えだからケースから舐められるんじゃないんですか?」
「……」
井道さんはすでに机に身を沈めてとけて皮肉をこめても暖簾に腕押しで、必要最低限しか話さない。この男の態度にケースからクレームが来ないことが不思議だった。
「でもねぇ、郷に入っては郷に従えって言うじゃない」
「鳥狛S V、それじゃあ筋が通りませんって」
猪武は洞家から引き継いだ足泊地区を担当している。これと言って問題になるケースはおらず、比較的新人が持ちやすい地区らしい。強いて言えば、地下に人が住んでるとか言って時折騒ぐケースがいるくらいだ。今のところいわゆる“不正受給”の影も見られない。
そんな楽園のような地区に紛れ込んだ異物を、周りにどれだけ言われようが猪武が黙って見逃すはずがなかった。
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