正体見たり、灰の雪 了
「初島ぁ! いねぇのかてめぇこらっ!」
がらぁんとした部屋に怒号が響く。
田中企画の田中社長が鬼の形相で部屋という部屋のドアを乱暴に開けてまわっている。そこに雨納芦新聞の広告欄でよく見かけるデフォルメされた可愛らしい自画像の面影はまるでなく、子どもなら目にしただけで泡を噴いて卒倒してしまうほどの迫力だった。
結局あれから初島さんとは終ぞ連絡が取れず、痺れを切らした田中企画側がとうとう部屋に立ち入ることになったのだ。
担当ケースワーカーとして立ち会いを求められた私は——断ることもできたけど藁にもすがる思いで——井道さんと居間からその様子を固唾を飲んで見つめていた。
「初島さん、出てくるなら今しかないですよ。ね。これ以上は泣きつかれてももう待てませんから。ね。どこかで聞いているんでしょぉ?」
荒屋敷副社長が虚空に優しく語りかけながら、荒れた部屋をハイエナのようにギラついた目で嗅ぎ回っている。
部屋の中にはどう見ても誰もいない。
暖房は随分前から使用した形跡がなく、室内なのに吐く息は白い。
白煙を吸い込むキッチンの換気扇がチェーンの緩んだ自転車のようにからからと乾いた音を立てて寂しげに回っていた。
初島さんの部屋はあの日調査に訪れた時と全てが同じで、灰皿には吸いかけの煙草がゆらゆらと燻り、倒れたハンガーラックの下で色褪せたライダースジャケットが苦しげに呻いていた。まるであの日から時が止まったままのようだった。
荒屋敷副社長が部屋の真ん中に置かれた白い丸テーブルを強く蹴り上げると、部屋中に雪みたいに灰が降り注いだ。
「いた……い……」
誰もいないのに、さっきまで誰かがそこにいた気配を感じる。
「この野郎ぉ! 見つけたらタダじゃおかねぇからなぁぁぁ!」
荒ぶる田中社長を横目に、私の視線は散らばった灰に釘付けになる。
からからからからからから。
「……きゃよかった」
換気扇の異音に紛れて何かが聞こえる気がする。床に落ちた煙草の煙が風もないのに大きく揺らぎ、換気扇に吸い込まれて消えていく。
「……ぁぁあぁあぁ」
散らばった灰が私に何かを訴えかけている。
耳をそばだてようと屈んだ拍子に、ころん、と私の胸ポケットから小瓶が落ちて、緩んだ蓋から黄金色の砂粒が流れ出た。
慌てて溢れた砂を掬って戻すと、いつの間にか瓶の中に灰が詰まっていた。
——逃げたか死んでるか、だな。
さっきから井道さんの声が頭の中でこだましている。
「深く考えんなよ。同じだろ、どっちでも」
壁にべったりともたれかかりながら、井道さんがそう囁いた。
「同じじゃないですよ。絶対、同じなんかじゃ……」
生きてる方が幸せに決まってる——。
そう考えて私はハッとする。
不正受給と夜逃げを繰り返し、住所もなく病院にも行けずに闇に紛れて逃げ続けるだけの日陰の人生。
それは果たして本当に幸せなんだろうか。
いつだって心も体も休まらず、常に何かに怯えて神経をヤスリで削られながらゆっくりと心が削ぎ落とされていく。
——いや、もういいんだ。これでゆっくりできる。
あの満たされた顔。
小瓶を窓にかざすと中の灰がくくっ……とこそばゆそうに形を変える。
「こいつは夜逃げした、それだけのことだろ」
「初島ぁあぁぁぁ!」
私は小瓶の中で寄せては返す灰の波をいつまでも見つめていた。
*
初島さんが行方不明になってから一ヶ月が経ったある日。
山口県にあるS市役所から全国の福祉事務所に情報共有のFAXがあり、初島さんがそこでも初回の保護費を貰い逃げしていたことがわかった。
初島さんは今も通院先に姿を見せておらず、電話も繋がらないままだ。あの部屋にはもう別のケースが住んでいて、手紙を送ることもできなくなってしまった。
大家である田中企画は中央警察署の安山副社長にも協力を仰ぎながら、死に物狂いで初島さんを探しているそうだ。
「どんな情報でもこっちに共有してくださいよ。ね。担当ケースワーカーのあなたにも責任ありますからねぇ」
T市役所を真似てこちらも全国に情報を発信してみると、うちもやられたという市町村からの顛末報告がいくつもあった。
初島さんは初回の保護費をいつものように持ち逃げした。これはそれ以上でもそれ以下でもない話だ。
でも。
——いた……い……。
からからと耳に残るあの声。
初島さんは果たして、望んでいた安らぎを得られたんだろうか。
木月さんからもらった透明な小瓶は、今も私の寝室の窓際に置いてある。朝日が差し込むたびに灰に埋もれた金の砂粒がきらりと光り、起きがけに傾けては物思いに耽っていた。
さあぁぁぁぁぁ。
思い出すのはゆらゆらと幻想的に舞い落ちる灰雪の美しさと、初島さんの恍惚としたあの表情。人生何もかも脱ぎ捨てて飛び込んで行きたくなる、あの。
——あったかいんだよねぇ。
私がそれを羨ましいと思ったのは内緒だ。
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