正体見たり、灰の雪 8

 今日は二月一日、保護費の支給日だ。いつにも増してカウンターが混み合って、事務所内がお祭りのような喧騒に包まれている。

 私はといえば初島さんとカウンター越しに向かい合って、いつもより声を張り上げながら手元の資料を読み上げていた。

「はい、説明は以上になります。引っ越し先を出来るだけ早く決めてくださいね。再来週にもまた訪問しますから」

 通常、保護費は口座に振り込まれるが、初回の支給は保護のしおりを使った制度の読み合わせのために必ず窓口で支給する。説明後にその場で小切手を手渡して、一階の雨納芦信用金庫の出張所で換金するのだ。一月下旬の申請から月を跨いだ初島さんには、日割りを含む二ヶ月分を支給した。

「いやぁ、ありがとうね。これから世話になります」

 結局、各種調査の結果預貯金はなく、全ての扶養親族からも援助を拒否され——手紙には「そんな男、何処の誰とも知りません」と書かれていた——初島さんは問題なく保護開始となった。

「本当に良かったです! まずは暖かくして、しっかり食べてくださいね。まだまだ若いですから、自立に向けて一歩ずつ進んでいきましょう!」

 残った課題は基準内家賃への転居と、稼働の継続くらいだろうか。年齢的に、保護から完全に脱却できるかは本人の頑張り次第だろう。

「そうだね、よろしくね」

「あ。そういえば、この間図書館に行きましたか?」

「図書館……」

「ほら、二階の資料室に」

 初島さんは今日も冬に不釣り合いな黒のライダースジャケット姿だった。十分に暖まりきっていない事務所内ではやはり寒さが堪えるのか、時折小刻みに体を震わせている。

「ああ、いたかもねぇ」

「いい所ですよね」

「うん、あったかいんだよねぇ」

 受け答えから察するに、やはり寒さをしのぐ目的があったようだ。初島さんの視線が私をすり抜けて遥か遠くへ向けられる。

「保護費でまずは防寒着とか買いましょう」

「いや、もういいんだ。これでやっと、ゆっくりできる……」

 まるで徘徊老人のようにふらふらと去っていく初島さんは、どこか満たされた顔をしていた。



 初回支給から一週間経ったある日、初島さんの住むアパートのオーナー会社である田中企画の荒屋敷副社長から、突然私宛に電話が入った。

「あなたのとこの初島さん、初回の家賃振り込んでないんですよ。ね。保護費が出たら払うって言って。ね。だからわたし待ったんですよ。ウチは“弱者の味方”ですから。ね。あなた、なんとか連絡取れませんかねぇ」

 酒に焼けたようなざらりとした濁声でありながら、妙に優しくゆったりとした口調に、思わず借金取りを連想した。こちらの意見は受け付けない静かな圧が電話越しからも伝わってくる。

「わ、わかりました。こちらからも連絡を取ってみます」

「頼みますよぉ。ね。ウチも警察——安山巌副所長には連絡いれましたから。ね。あなたも管理しなきゃダメでしょ。ね。今週も連絡取れないようなら、うちも合鍵使って入るので、あなたも立ち会ってくださいよ。ねぇ」

 最後までこちらが言葉を挟む隙のないまま、一方的に電話は切れてしまった。

「どうしたのぉ、日和ちゃん」

 いつの間にか目の前に立っていた鳥狛S Vが、正面を向いたままチンアナゴのように体をくの字に折り曲げて私の顔を覗き込む。

「あ……いえ、たまたまだと思うんですけど、この間保護開始した初島さん、まだ家賃の振り込みがないって、大家の田中企画さんから」

「あー、やっぱりかぁ」

「だろうな」

 鳥狛SVと井道さんがさも当然と言った具合に頷いたが、私は二人の心得顔が理解できずに一人取り残されたような心持ちだった。

「え、どういうことですか」

「日和はあの部屋どう思った?」

「どうって、何もなさすぎて早く保護開始してあげなきゃって……」

 カーテンも布団もなく、暖房すらまともにつけられないなんて、およそ人間の暮らしとは思えない。お金がないのにわざわざ大阪からこんな北海道田舎くんだりまでやってきた理由はわからないが、あの時の初島さんの辛い心情は察するにあまりある。

「お人よし過ぎんだろ」

 ——あれ、待てよ?

 そう言えば、あの時の初島さんはどんな顔をしてたっけ。

 とろぉんとして、何だか随分満たされたような……。

「ふふ、あれはねぇ、いつ居なくなってもいいようにのさ」

「いずれ引越し予定だからですよね」

 どうせすぐ出ていくなら引っ越してから色々揃えたいと考えるのは普通のことだ。

「なら試しに電話してみろよ」

 妙に棘のある言い方の井道さんに促され、初島さんの携帯に電話をかけたのだが——。

「おかけになった電話は、お客様の都合によりお繋ぎできません。おかけになった電話は……」

 受話器の向こうではコール音すらならずに無機質な自動音声が繰り返し流れている。

「ほらな。逃げたんだよ」

「にげ……まさか」

 初島さんはこれまで調査に協力的だったし、稼働に向けた努力だってちゃんとしていた。それを、持ち逃げだなんて——。

 私は初島さんと連絡が取れそうな人を順番に当たっていったけど、無常にもそのどれもが空振りに終わってしまった。

 通院先の病院には予約日に姿を見せず、稼働先の派遣会社は連絡が取れなくなったためクビになっていた。

「もういないかもねぇ」

「そんな……」

「ま、田中企画だしいい気味だ」

 確かに田中企画はやれ貧困ビジネスで稼いでるだの、やれバックには暴力団がいるだの、黒い噂の絶えない会社だけど、それとこれとは話が別だ。

 鳥狛SVと相談の上、手紙を送付した上でひとまず保護を停止して様子を見ることになった。本当はお金を人質になんて取りたくないんだけど、今回ばかりは仕方がない。

「逃げたか死んでるか、だな」

 追い打ちをかけるように、井道さんの冷酷な一言が私の心にナイフのように突き刺さった。

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