正体見たり、灰の雪 7

 私は休日に早速『雨納芦異聞録』を読みに神琉地区は鳴洞にある雨納芦市立図書館を訪れていた。

 郷土資料である『雨納芦——』は書店に売られておらず、図書館にしか存在していなかった。

 ここは北海道の左に巨大な蟹鋏がくっついたような形をしている本市にあって、その最南端に今から百年以上も前に建てられた由緒正しき図書館で、蔵書は四十四万冊、A V資料六百六十六タイトルに加えて、更に新聞や雑誌も複数揃えているという充実ぶりだ。

 図書館の裏手には美術館や博物館といった公共施設が立ち並び、図書館の少し右手を流れる手振川とそこに掛かる赤橙をした流線型の彼栄橋には、夏はお祭りや花火、冬は雪まつりが催され、シーズンを通して賑わいのある地区だった。

 ぴーん……ぽーん……。

 風除室を跨ぐと心地よいチャイムの音が頭上から響いてきて、私の心がふわふわ浮き足立つのを感じる。

 図書館内に足を踏み入れた瞬間、文字から染み出した南国の花のように甘く芳しい本たちのにおいが私を包み込み、鼻から大きく息を吸うだけで口の中に涎が溢れてくる。

「ただいまぁ」

 久々に実家に帰省した時の、こそばゆくも懐かしい感情が沸々と湧き上がり、私は思わずそう口にした。

「おかえりぃぃ」

 遠くの森の深い深い暗がりから頭の中に声が響く。

 図書館もまた、私を迎え入れてくれたような気がした。


 木を基調として広々とした館内には明かり取りの大きな天窓から柔らかな陽光が差し込んでいる。図書館の外には油断すればたちまち瞼が引っ付くほどの極寒世界が広がっているが、ここから眺める空は柔らかな色を伴った快晴で、青さの中にほんのりと暖かみが感じられた。館内は土曜日の昼間とあって子ども連れの家族で賑わっていて、そこかしこから楽しそうな声が聞こえていた。

 館内には午後一時から朗読会が開かれる旨のポスターが至る所に貼ってあり、それを目当てに来た者も多そうだった。

 入り口付近に置かれた琥珀色の検索端末を操作すると、件の本は郷土資料扱いになっており、貸出禁止で資料室での閲覧のみとなっていた。

「どんな話なんだろうなぁ」

 はやる気持ちを抑えつつ二階の資料室に向かっていると、この時期に不釣り合いな黒いライダースジャケットが資料室に消えていくのが見えた。

「あれ」

 確か初島さんも先日の訪問時にあんな格好ではなかったか。寂しげなハンガーラックが頭の中でカランと音を立てて揺れる。

 北海道は関東と比べてホームレスが少ないが、その一番の理由がなんと言ってもこの寒さだ。冬場の公園や屋外はもちろんのこと、例え駅の中だとしても凍え死んでしまう。

 その代わり、ケースが商業施設や公共施設で暖房費を節約する姿をよく見かけた。冬季は暖房費が一定額保護費に加算されるが、灯油代の高騰でまともに買っていれば追いつかないのが現状のようだ。

 初島さんも見たところ薄着しか所持していないようだったし、初回の支給までは図書館に避難する腹づもりなのかもしれない。

 途中、ガラス戸で締め切られた読書室を横切ったが、休日にも関わらずかなりの賑わいだった。 誰もが一心不乱に机に向かってしきりに何かを掻きむしっているその姿に私は思わず圧倒された。

 真冬だというのに隙間から人の熱気がごぼりと漏れ出ていて、私は足早に通り過ぎた。


「すみませーん」

 明かりはついているのに、資料室には誰もいなかった。

 職員や先に入った初島さんはどこへ行ったんだろう。他の利用者の対応中で出払っているのだろうか。

 ばんっ。

 手持ち無沙汰で資料室内をうろうろしていると、

 不意に後ろの扉が荒々しく閉じられ、二本の蛍光灯が激しく明滅し始めた。

 りっ。りいいいっ。

 ざああああああ。

 それに呼応するように天井のスピーカーが耳障りなノイズを吐き出して、すぐにぷつぷつとお経のように平坦で独特な抑揚の声が流れ出した。

 〈そレが……デありマス。……火ニよる……流ハ、全てヲ呑み込ム大煙とナリて……ヲ解放ス〉

 時計を見ると時間は丁度午後一時だったので、恐らくこれが朗読会というやつだろう。ここからでは上手く聞き取れないが、随分と古風な話を扱っているようだ。

 〈……こノ地へノ呪縛……カラ吹き出シタリ。……旨、身ヲ以て体現セシめたリ〉

 私は一体何を聞かされてゐるのだらう。

 スピーカーからでも話者の熱氣が伝はつてくる。

 私まで喉の奧がカッと熱くなつて、居ても立つても居られない。

 〈体現セヨ! 体現セヨ!〉

「体現せよ! 体現せよ!」

 どろりとした感情が頭の中を覆ひ盡くし、私は思はず立ち上がつて拳を天に突き上げ乍ら放送の復唱し始めていた。

 〈顕現セヨ! 顕現セヨ!〉

「顕現せよ! けんげ」

「あの、資料室は本日お休みですよ」

「わっ」

 不意に耳元で囁き声がして、私はふっと我に帰る。慌てて振り返ると、いつの間にか背後に綺麗な黒髪の女性が立っていた。名札には“司書•葛西沙真”と書かれている。

「何かお探しでしたか?」

「あ、ええと、『雨納芦異聞録』が見たいんですが……」

「雨納芦イブンロク?」

 きょとんとした顔の彼女に手元の紙を見せようとして、初めてそれが白紙だったと気づく。何度見返しても、そこにあるはずの文字が忽然と消えていた。

「あれっ。間違えたのかな……。あはは、出直してきます!」

 私は顔から火が出るほどの恥ずかしさに耐えかねて、慌ててその場を後にする。

「次はもう、戻れないかも知れませんね」

 彼女はそう告げると、砂のお城が風で壊れるようにぼろぼろと頭から崩れ落ちていった。

「ごほっ」

 不意に胸の奥に息苦しさを覚えて咳をすると、口の中から大量の灰が溢れ出して、私の羞恥心をすっかり埋めてくれた。

「がぼごぼ」

 最近は黄砂とかも増えてきてるみたいだし、外出時はマスクをつけないとね。

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