正体見たり、灰の雪 2
私、
噴煙のようにぼってりとした黒い雲が空をまるごと呑み込んだその日、雨納芦市役所に新たな生活保護の申請が舞い降りた。
関東の四年生大学を卒業し、雨納芦市役所の生活保護課に配属されて間も無く一年が経とうとしている時だった。
「ほい、新規。これは曲者だぞー。もう手遅れかも知らんがなー。わははは」
申請係の名物係長、
円能実係長は卵の殻を剥いたようにつるりとしたスキンヘッドと、そんな頭に負けないくらい丸々とした出立ちで、いつも笑顔を絶やさない様が七福神の布袋尊に瓜二つだった。
「んー確かにこれは厄介だねぇ。次の新規担当は……洞家さんか。これは二人で後押ししないとねぇ」
額の大きく後退した白髪を丁寧に整え、白のワイシャツにベージュのベストと飴色に光るべっこう眼鏡を違和感なく着こなした鳥狛S Vが、書類に軽く目を通してそう呟いた。円能実係長に負けず劣らず微笑みの仮面を貼り付けた好々爺で、渡された書類に目を細めてはうんうんと意味ありげに頷いている。
保護の申請があるとまず保護課の申請係が現在の生活状況や生育歴、収入、手持ち金の有無等を確認し、申請に必要な書類を受領する。それは生育歴だったり、各種法に基づく調査への同意書だったりして、それからすぐに生活保護法第29条に基づく財産調査を各銀行にかけた後、私を含めた担当地区のケースワーカーに速やかに引き継がれるのだ。
「よーし、じゃあ今回は井道くんにも同行してもらおうかなぁ」
鳥狛SVの飴色の丸メガネからとろりと垂れた眼鏡チェーンが、椅子の背もたれにだらしなくもたれかかった
「ええ、俺すか。日和はもう一人でいいでしょ」
急な指名に井道さんの椅子の背もたれが悲鳴を上げる。よく見ると暗い地下室で揺れるマネキンのごとく端正な顔立ちをしているのに、気の抜けた風船のように緩み切った眉が、口が、頬がそう呼ばれることを全力で拒んでいた。
保護の申請は申請者が住む地区を担当している係ごとに持ち回りで行われ、前回の申請は井道さんが処理していた。
「まあまあ、手伝ってあげてよ~」
「いやいや、過保護ですよ」
井道さんは役所生活八年目で、定時退庁、有給休暇完全消化を公言し、その日の気分で急に帰ったりもするし、自席でも基本背もたれによしかかって怠そうな顔をする所しか見たことがない。それでも仕事は卒なくこなしているし、ケースと揉める姿もほとんど見たことがない凄い人だ。
「不安なので私からもお願いします!」
「はぁ……。こっちの身にもなれよ」
「そこをなんとか!」
「日和ならまだ大丈夫だろ」
これ見よがしのため息にもめげずに頼み込んでいると、同じ係の無貌主査が助け舟どころか強烈な勢いの助け戦艦を出してくれた。
「ぐだぐだ五月蝿いぞ井道ぃ! 見ただろ、こいつの来歴を」
「まあ、見ましたけど」
申請者は初島譲と言った。
五十四歳と比較的まだ若く、先々週に大阪からここ雨納芦市に転入してきたばかり。西成区で日銭を稼ぐ生活をし、住民票の異動もなければ健康保険の加入すらしていないという。どうやら、保険料の滞納や借金もあるようだ。
長年病院を受診しておらず、目の霞や腰の痛みといった自覚症状もあるらしい。
それに加えて今の家賃は生活保護法で定められた居宅基準外で、速やかに転居指導が必要だった。
特に出稼ぎに来たわけでもなく仕事もしていないので、保護を開始するには就労指導も必要だ。
「だったらわかるだろ。もうじき灰雪が降る。つべこべ言わずにさっさと行ってこい!」
「わかりました、わかりましたよ。ダルいけどそこまで言われたら行きますよ……」
無貌の一声、井道の溶けた鉄のように重い腰を上げる。
そんなフレーズが私の脳内に浮かび上がる。無貌主査は役所十五年目のベテランで、誰に対してもとにかく厳しいことで有名だった。
かくいう私も今だに無貌主査の顔をまともに見ることができないでいる。
どんな罵声や怒声も暖簾に腕押しな井道さんでも、流石に無貌主査の放つ圧はどうやっても受け流せないようだ。
「ありがとうございます!」
「良かった良かった。井道さんよろしくぅ。洞家さんもしっかり準備して挑むんだよ~」
「了解です!」
「……はぁ」
来るべき訪問日に備え、私は指導事項もりもりの資料に目を通した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます